首相内相の訓示を読む    『中央公論』一九一七年三月

      (一)

 先月央(なか)ば開かれたる地方長官会議に於ける首相及び内相の訓示は、其の著しく挑戦的なる事に於て大に世人を驚かした。或者は所思を赤裸々に吐露し、従来の型式を破つたことを褒める。又或者は其極度にあらはれたる反憲政会的気分より推して、来るべき総選挙に猛烈なる干渉を試むるにあらずやと疑ふ。褒むるものにも一理あり、疑ふ者にも亦相応の根拠ないではない。
 寺内首相は「本大臣は君国に忠実なる同胞七千万の公衆が、現内閣の赤誠以て国事に尽瘁するの微衷を諒とし、猥(みだ)りに虚構の説に惑はず、讒誣の言に動かず、一意国家の為めに適当なる選良を簡出して、以て鴻基を千載に固くし、国光を中外に宣揚せん事」を疑はずと言ひ、又「言論は決して絶対無限に自由たるべきものにあらず、要は法律の範囲内に於てすべく、固より放肆妄慢を許すべきに非ず。苟くも言議にして虚構讒誣に渉り、或は軽佻詭激に流」るゝに於ては、秋毫も仮借する所なしと云ふて居る。全文の調子が専ら憲政会を以て虚構讒誣の言議を弄するものとなすものゝ如きを以て、秋毫仮借する所なきの鉄腕が、自ら主として憲政会の頭上に落下せざるべきやを懸念せしむるものがある。首相は果して「其監督を厳正にして法規を励行し、国民の自由意思を尊重して選良の目的を貫徹せしめ」て以て我々国民を満足せしむるや否や。選挙取締の直接の責任者たる後藤内相は「本大臣はこゝに各位の努力に倚頼し、今回の選挙取締を以て永く後日の範たらしめん事を期す」と宣明し、又「固より取締の峻厳なるを期するは尚為し易し。然れども至公至正一点の私曲を挟む事なきを一般に認識せしむる事最も難し。各位は宜しく厳に其部下を戒飭し、其態度を公明にし、苟も疑惑を挟むの余地なからしめん事を期せられん事を望む」と念を押して居るから、其声言の全体に於て極めて挑戦的なるに似ず其選挙取締の実行に於ては案外公平な所置をなすかも知れぬ。我々は刮目して現内閣の近き将来に於て執る所の措置如何を見よう。
 首相内相の訓示が、共に憲政会に対する不満を赤裸々に表白した事は、一部人士の云ふが如く褒むべき事なりや否やは暫く之を措き、政敵に痛激な批難を加へた事夫れ自身は必ずしも尤(とが)むべき事ではなからう。けれども其為めに執つたところの議論の進め方並びに之を用ひた文字の使ひ方に至つては、決して宰相大臣の言論として堂々たる風格を備ふるものではないやうである。地方長官会議の訓示として彼が如き形式に於て彼の如き批難を為すの適当なりや否やについても多少の異見を有するが、少くとも其内容について吾人は次の三つの点に於て大なる不満を感ずるものである。第一は多少事実を曲げて政敵攻撃の具に供した事である。例へば大隈侯が寺内伯を朝鮮より招致せる事件の顛末の如き、三党首と寺内首相との会見に対する加藤子爵の揚言なるものゝ次第の如き、又衆議院に於ける秘密会要求の顛末の如き、吾人公平なる第三者の立場より之を見るに、何れも皆多少事実を附会する所なきやの疑がある。意見の相違を以て堂々と争ふは妨げない。事実を曲げて論争に勝たんとするは到底卑劣なる行為たるを免れない。第二は寺内首相後藤内相共に動ともすれば君主の大権を論争の具に供する事である。君主の大権を論ずるは之を憲法の形式論に於てすべく、政治論は専ら国務大臣補弼の責任の範囲内の問題たるべきである。若し「大権」を振り翳す事によつて敵を傷け得べしとすれば、同じく「大権」によつて現内閣も亦同様の傷を負はねばならぬ事を知らねばならぬ。去年七月大隈前首相が寺内伯を朝鮮より招き、後継内閣の組織を慫慂せる時、寺内伯は「元来国務大臣の任免は一に至尊の大権に属し、叨(みだ)りに私議すべきものにあらざる事を思ひ」、其提議を拒絶したといふけれども、伝ふるところによれば、寺内伯をして後継内閣を組織せしむべきの議は、已に山県公と大隈侯との間に意見の交換を見、寺内伯亦先づ山県公と大体の意見を交換して後転じて大隈侯と折衝せるの事実ありといふ。果して然らば伯亦至尊の大権に属する事を私議せるの責を免れない。固より予輩は之を以て何等大権を干犯する事柄とは認めないけれども、只寺内首相にして余りに大権論を振り廻せば、結局自縄自縛の窮地に陥らねばならぬ事を指摘せなければならぬ。第三は憲政会を難ずるが為めに余りに大人気ない批難を加ふる点である。此事は特に内相の訓示に著しい。例へば「元来憲政会の行動は、議院の内外を問はず、単に多数を恃んで現内閣を排擠せんとするの外、復た一片国家の前途を憂ふるの誠意なきが如し」と言ひ、甚だしきは「憲政会は斯くの如くにして故桂公爵の創設に係れる同志会の宣言綱領を無視するの奇観を呈し、(中略)政友会は今尚故伊藤公爵の創設当初に於ける精神を恪守して、一に節制を重んじ…是を是とし非を非とし、寧ろ着実公平なる態度に出で、以て其主張を一貫す」といふ。言も先に至つては寧ろ滑稽を極むる。「前内閣成立以来、言論機関が其穏健中正を失ふに至れる事甚だしく」、有識の君土中大隈内閣の新聞操縦策を目し、「我国憲政史上に於て拭ふべからざるの汚点を加へしめたると指摘」するもの少からずといふに至つては、最も其大人気なき態度を暴露して居る。「今や内外多事の秋に当り、徒らに党争を事とし、蝸牛角上の闘をなすの非なる事は、一般識者の同じく認むるところ也」といふのは、何人を責むるのか分らなくなる。
 議会解散の原因は首相内相共に之を不信任案の提出に帰して居るのに、他面「而かも憲政会を除くの外は概して之(解散)を希望するが如き情勢を示せ」るは、「不自然に成立したる多数党と不自然に減少せる少数党との存在する為め」なりといふに至つては、確かに反対党の陣笠に供するに、揚足を取るの好箇の材料を供給するものである。
 然し以上の点は、要するに些末の事項である。深く吾人の論弁に値しない。けれども両訓示の中には、其外に於て尚幾多の重大なる政治上の根本問題に触れて居るものがある。此等の点に就ては、予輩学究の立場としても亦之を軽々に看過する事は出来ない。

      (二)

 首相内相の訓示の中に含まるゝ根本問題の第一は、現内閣に対する不信任案提出の是非に関する問題である。之を非とする議論の中にも、今日内外多事の際、徒らに内国政争に齷齪たるは非なりとするの立場より、極力之を難ぜんとするものがある。が、更に進んで、時期の如何に拘らず、現内閣に対する不信任案の提出は絶対的に其理由なしといふものもある。現内閣の主張は即ち此後者であることは明白である。寺内首相は不信任案提出の理由を解して「国民輿論の府たる帝国議会に基礎を有せざるを理由とし、併せて大政補翼の経綸を有せざるものと臆断し、之を辞柄となしたるにあり」とし、之を理由として内閣に処決を迫るは、即ち、「啻に至尊の大権を干犯するのみならず、併せて両院制度を無視するものといはざるべからず」として居る。然しながら余輩の観る処に拠れば、国民党憲政会の現内閣不信任の理由として掲ぐる所それ自身は、何等大権を干犯するものでもなければ、又必ずしも両院制度を無視するものでもない。此点について首相の弁駁は全然当らないと思ふ。故に問題は憲政会国民党の掲ぐる所の不信任の理由が、果して現内閣に之を適用して誤なきや否やといふ事に帰する。仮りに之を適用するに誤なしとして、之を今日の場合に政界の実際問題とするのが果して適当なりや否やといふことに帰する。
 今日の場合内閣の不信任案を提出するは時機其宜しきを得ずとする説には、三種の論拠がある。一つは「緊急重要なる議事を抛棄し驀然内閣不信任の決議案を提起」する事が宜しくない。何故なれば「為めに国務の渋滞を来たす」からであると云ふ。二は今日国家多難の際、徒らに内争を激成して国家を煩はすが悪いと云ふ。三は前内閣の庶政壊廃の後を受けて内外の秕政を矯正するが為めには、超然内閣の出現も一時の窮策としては已むを得ぬ。暫く仮すに時日を以てし、其施措する所を観なければならないと云ふのである。何れも夫れ/"\相応の理窟はあるが、然し実際問題としては、此等の点は、事政界の機微に渉り、予め器械的に一定の原則を立つるを許すべき性質のものではない。予輩が第三者として局外より観察する所に拠れば、大隈内閣秕政の後を承けて超然内閣の出現を余儀なくせし事情には、矢張夫れ相応の理由ありての事なるが故に、暫く之に其存在の継続を許し、徐ろに政界混乱の安定を待つべしとする議論も確かに一説であると思ふが、又他の一方に於て、寺内内閣に一日でも存続を許せば、其丈け我国憲政の根本的進歩が阻止せらるゝ。為めに一日も早く寺内内閣は之を殪さなければならぬといふ説にも争ふべからざる理由あると思ふものである。何れを可とするやは容易に之を断定する事は出来ないが、国民党や憲政会が現内閣の不信任案を議会開会の劈頭に提出したといふ事は、憲政発展の進歩の上に決して無意義のもので非ること丈は疑がないと思ふ。何故に斯く断ずるや。曰く寺内内閣は、其根本的政治思想に於て、非政党主義を採つて居ると認めらるゝからである。
 寺内首相は自ら議院を重んじ政党を重んずると云ふて居るけれども、従来の経歴に徴して、伯を非政党主義者と認むる事は、国民の間に定論がある。独り伯ばかりではない。現内閣の殆んど全員が皆非政党主義者である事も疑を容れない。寺内首相は自ら「現内閣を以て国民に立脚せずといふものあるを聞く…之れ事実を誣ゆる中傷の言のみ」といひ、「現内閣は夙に政策を円満に遂行するが為めには議院に多数の党員を有する政党の援助に恃む事の甚だ切実なるを知悉す」といひ、「本大臣は内閣組織の初めに当り、親しく各政党の首領を歴訪して礼譲を厚うし誠悃を効し…現内閣は其進捗に伴ひ逐次各党の首領に諮る事を懈らざるの決心を抱けり」といふも、其所謂国民とは何をいふか、又国民に立脚するといふは如何なる方法によるを意味するものか。其辺の事は一向明瞭でない。唯疑のない点は、貴族院に於ける多数の後援があれば、仮令衆議院に於て我を後援するものが少数でも、尚以て国民の輿望を負ふと為すに足ると考へてをる事、並に各党の首領に一片の形式的訪問を遣れば、それで国民に立脚するの意義が立つたと考へて居る事である。然しながら之を以て果して国民を基礎とするの主意が完了せられたりと見るべきや否やは大に疑がある。それ等の点は姑くどうでも可いとして、従来寺内伯の代表する一派の思想が、明白に非政党主義を以て始終一貫して居ること丈けは十分之を明白にして置くの必要がある。最近日本政治史の研究の結果として余輩の堅く信じて疑はざる事は、我国政界の先輩が、常に官僚政治の永続をはかり、何れの政党をしても断じて議会に絶対過半数を占めざらしむるを以て、彼等の間の不文の憲法とせる点である。先輩政治家の此点に於ける苦心の跡は、殊に議会に関する諸種の法制に明白である。更に最近の例を取つて之を云ふならば、政友会の絶対多数を打破せんとして大隈内閣の成立を助けた者は彼等である。而して大隈侯の一味の者が存外に成功して、遂に政友会に代つて議会に於ける絶対的多数を制するを見るに及んで、再び之が切り崩しを計画した者も亦彼等に外ならない。相手方の政友会たると憲政会たるとは問題ではない。唯絶対的過半数を制するの政党を成立せしめざらんとするが、彼等の主たる要求である。蓋し絶対多数の政党の存在はやがて政党内閣の勢を導き、遂に全然官僚政治家の前途を閉塞するに至るからである。斯くて現内閣は始めから盛んに非政党主義を以て起つたものである。而して非政党主義の結果は、言ふまでもなく第一には政党其物にとつての大打撃であるが、其上政界一般の進歩も亦之が為めに永遠に阻止せられ、更に甚しきは政界の腐敗をも誘致するの傾向を有するものである。政界の腐敗は非政党主義の跋扈に伴ふものなることは歴史の証する所である。只非政党主義の余毒は一時的に明らさまに顕れないので、為めに世人は動もすれば之を看過し、却て政党其物の一時的弊害を挙ぐるに熱心するものもあるが、心ある者は寧ろ非政党主義の見えざる禍害の恐るべきを知つて居る。国民党憲政会の諸子が、果して此認識に基いて急遽不信任案を提出したりや否やは、固より之を疑ふの余地あるも、我々第三者は、其動機の如何は暫く之を措き、不信任案の提出を以て全然無意義のものとは思はない。

      (三)

 政党内閣は果して至尊大権の干犯なるか。寺内首相は「純然たる政党内閣は、曾て英国に其実例を観たるが如く、衆議院多数政党の代表者たらざるべからず…然るに単に衆議院に於ける多数党の代表者を以て内閣を組織せざるべからずとなす」は、至尊の大権を干犯するものであるといつて居る。国務大臣の任免の全然大権に依つて定まり、決して外間の容喙干渉を許すべからざるは、憲法の形式論として固より一点の疑を容れない。従つて至尊の御意に反して下院多数党の代表者に内閣組織を任ずるの法条を樹てよと主張するものあらば、之れ明白に大権の干犯である。然しながら憲法に依りて定まれる大権の行動を実地に運用するの問題としては、或は元老が会議を開いて内閣の首班たるべき人を推薦する事日本在来の例の如くするも、或は上下両院議長を会して其協定に待つて之を定むる事仏蘭西の例の如くするも、又は下院多数党の首領を以て内閣組織の任に当らしむる事英国の例の如くするも、何等憲法上の大権と抵触する事なきのみならず、寧ろ之と相待つて憲法の運用を完成するものである。何人をして内閣を組織せしむべきやは、大権の発動を待つに先つて、事実上何等かの形式に於て先づ定まる所なければならない。一旦定つて大権の発動を見たる以上は、政党内閣も超然内閣も皆大権の任命に基く内閣たるに於て敢て異る所はない。後藤内相が「至尊の御信任を辱うして組織せられたり」と誇称せる現内閣も、又現内閣があらゆる悪声を放つ所の前内閣も、一旦成立せる以上は等しく皆陛下の簡抜し玉ふたる政府である。其間憲法上何等の区別がない。現内閣は至尊の御信任を辱うして組織せられたるが故に、之に向つて不信任を呼ばはるは放肆濫妄の行動なりとせば、其理論上の当然の結論として、前内閣の失政を指摘するも亦放肆濫妄の行動なりといはざるを得まい。要するに首相内相の訓示は、憲法の形式論と運用の実質論とを混同してゐる。法律論と政治論との混同は思想の幼稚なる人々の間には免れずとするも、之を宰相大臣の言説に聞くは予輩の意外とする所である。少しく発達せる国に於ては、流石に憲法の形式論などは最早全然問題に上らない。独り日本政界の先輩今尚ほ憲法の形式論に拘泥し、而かも法律の形式によつて政治の実際的運用を律せんとするは、其思想の浅薄なる実に驚くの外はない。
 日本に政党内閣の行はれ得るか否かは、今日我国の学界に於て最早問題ではない。余輩は曾て政党内閣の純粋理論上の是非並びに実際上の可能不可能、之と帝国憲法との関係、日本の現状に於ける政党内閣実行の利害得失等の問題を詳論した事がある(拙著『現代の政治』一八三〜二一六参照)。政党内閣が帝国憲法の規定の何れの部分にも抵触せざる事、並びに政党内閣制が憲政運用上の帰趨たる事は、今日学界の定論である。廃残の頽塁を苦守して今尚一二「少数政治」の僻見を主張するものなきにあらずと雖も、如斯は固より学界の大勢の顧みる所ではない。後藤内相が「如何に煽動を試むるとも、政党内閣にあらざれば非立憲なりと云ふが如き」は「単純にして旧式なる陳套の偏見」なりとなし、「学者其他の識者も亦、其所論を発表するに際して特に此点に留意し、今や健全なる立憲思想の根柢堅実にして軽々しく動揺するが如き事なきに至れり」と云ふが如きは、全然我々学者社会の実情に反対するの説明である。
 政党内閣の主張を以て至尊大権の干犯なりとするの説に対しては、江木法学博士も亦痛快の弁駁を試みて居る。曰く「凡そ内閣組織の権限が天皇の大権に属する事は独り日本ばかりではない。寺内首相が反対の例証の如く援用せる英国に於ても、内閣員は総て国王の任命する所であり、内閣組織は大権の発動であつて、憲法上の形式に於ては我国と一点の相違する所もない…此大権の降下が人民の代表者に下つたからと云つて、何の大権侵害であるか…又かゝる慣例が永続したからとて、之を至尊の大権の干犯なりといふ事が出来るか…彼等の主張する所は、要するに浅薄なる形式論である。かゝる紙上の空論を以て、いかにして天下を治むる事が出来やうか…形式論の一面に眩惑せられて恐るべき誤解をなし、為めに日本の立憲政治を害する事少からざるは、慨嘆の至りである。」(二月十二日東京朝日新聞による)。新聞の筆記なれば、或は博士の言を完全に伝へ得ざりしの憾はあるとしても、略ぼ博士の意のある所は十分之を汲み取ることは出来る。要するに国務大臣の任免が大権の作用なりといふは、憲法上の形式論である。而して其実際の運用として、別に何人をして如何なる条件の下に内閣組織の任に当らしむべきやの政治的原則の成立するは、何等之を妨げざるのみならず、又実際に必要である。而して形式的原則は容易に之を枉ぐる能はざるものなる丈け、実際政治上の問題としては殆んど之を顧慮するの必要がないが、運用上の政治的原則に至つては、形式的に明白でないのみならず又之に対して幾多異議を挟む余地ある丈け、夫れ丈け実際間道としては重大である。又此方が国家の利害休戚といふ実質的の問題に直接関係する所甚大なるものがある。憲法条章の直接掲ぐる所にあらざるの故を以て、運用上の実際的問題を軽視するのは非常な誤りである。政党内閣が憲法上の大権に抵触するといふ議論の誤りなるは極めて明白であるが、政党内閣制が直接憲法条又の要求する所でないからといつて、必ずしも之に拠らざるも可なりとする態度も亦決して国家に忠なる所以ではない。
 大権を楯として政党内閣を批議するならば、元老の推薦によつて内閣の組織を実現せしむるの慣例も、亦之を大権の干犯といはざるを得ない。而かも後者を是とし前者を非とするは、是れ偶々大権に口実を藉りて少数閥族の政論を弁護せんとするものに外ならない。彼等が真に大権の擁護を名として政党内閣に反対せんとするならば、所謂元老推薦の慣例をも絶対に之を否認して、純粋なる絶対的君主親政を主張せねばならない筈である。我国に於ても、論理を徹底せしめて遂に此説を説かざるを得ざるハメに陥れるものなきにあらざるも、然し絶対的君主親政と云ふが如きは過去に於て完全に行はれたるの実蹟に乏しきのみならず、今日に於て亦到底之が実現を見得べきものではない。否独り事実に於て斯くの如き現象のあり得ざるのみならず、又理に於て斯くの如きは決して国家の利益ではない。一私人の生活に於てすら、例へば三井、岩崎と云が如き富豪は夫れ/"\八釜しい家憲を制定して、主人自ら全然其所有に属する財産の自由処分に干渉しないやうに定めて居る。是れ皆主人が直接に其全財産の処分に干与せざるの制度を設くる事が、岩崎家三井家の繁栄の為めに必要欠くべからざる為めではあるまいか。一私人の経済に於て尚且つ然り。況んや複雑なる一国の経営に於てをや。絶対的君主親政の事実上不可能にして、又理に於て得策にあらざるは火を睹るよりも明瞭である。親政の美名に眩惑して此理を看誤ることなきを希望する。故に今日実際の政治社会に於ては、憲法上に在つては大臣任免の権は之を君主に収め、唯如何にして内閣組織の適任者を求むべきかの実際的問題については、其間自ら一定の政治的慣例の発生するに任かして居る。而して元老推薦も政党内閣も、等しく皆この大権運用の方法に関する回答に外ならぬのである。一方が大権と抵触し、他方は毫も抵触しないと云ふのは明白に誤りである。
 されば政党内閣論者と之に反対する論者とは、実は大権を干犯すると之を擁護するとの差別にあらずして、結局は少数政治を謳歌すると多数政治を主張するとの差に外ならない。而して昨今多数政治主義たる政党内閣を難ずる論者の中に、更に別個の根拠より出発して、最良の政治は哲人政治なり、多数政治は即ち之に反すと説いて、政党内閣を排斥し得べしと考ふるものがある。若し哲人と云ふ二字を解して、此場合政治上特別の知識と手腕とを有する少数の先覚といふ意味に解するならば、之は何等多数政治乃至政党内閣と相容れざるものではない。何故なれば政党内閣に於ても実際政権運用の衝に当るものは、所謂常に哲人であるからである。哲人といふ句が可笑しいといふならば、少数識者の階級に属する者といつても差支はない。多数政治は常に凡庸なる下級の人民其物が直接に政治の衝に当るものだと思ふならば大なる誤である。多数政治も少数政治も、直接政治の衝に当るものゝ哲人たる事は何等異なる所はないのである。唯此両者の間に重大の差別ありとせば、そは現に政権運用の衝に当る哲人が、此に在つては近代国家に於ける一大勢「力」たる民衆を基礎として立つに反し、彼に在つては全然民衆より孤立して立つ点である。
 抑々近代国家の政治に於て、「多数民衆」は確かに一個の奪ふべからざる大勢力である。之れ個人の自覚に基く当然の結果にして、今更ら到底之を古の状態に引戻す事は出来ない。従つて此勢力を無視しては如何なる政治家と雖も其抱負を十分に実行する事が出来ない。而して斯く多数民衆が政界に於て奪ふべからざる大勢カを有するといふ事は、必ずしも国家の為めに憂ふべき事ではない。国民の忠誠なる心情を言ひ表はす言葉としては、成る程天下は一人の天下である。けれども国家の堅実なる発達を図り、此激烈なる競争場裏に於て優に内外に国光を宣揚せんとする所謂国家経営の見地からすれば、天下は即ち天下の天下であると云はなければならない。国家の進歩発達は各員の自覚的協同努力に俟たざるを得ない。此点に於て、各員が国家の運命の開拓に於て自己の使命と責任とを自覚する事は、寧ろ喜ぶべき現象である。而して此自覚が即ち多数民衆の力の根拠である。而して健全なる国家の発達は、多数民衆の勢力の健全なる発達と相伴はねばならぬ。此点に於て少数の哲人が多数民衆を基礎として為すの政治は二重の意味に於て国家の慶福である。一つには哲人が民衆と接触する事によつて其卓越優秀の思想を彼等に伝へ、不知不識の内に其賢明なる思想を以て民衆輿論の内容たらしむる事が出来る。之れ所謂健全なる輿論の発生する殆んど唯一の途である。二つには哲人は民衆と接触する事によつて、其政治的経緯の上に多数の力を利用する事が出来る。如何なる善き思想も力の助を得ずしては到底実現する事が出来ないのである。民衆の力を無視しては、少くとも今日の世の中に於ては、何事も出来ない。近代の所謂多数政治は、斯くの如き両面の特色を有するものである。然るに世人動もすれば、多数政治は即ち多数民衆が直ちに其儘政界の実権を握るものとなし、従つて平凡浅薄なる思想が天下を支配するものと早合点をする。奚(なん)ぞ知らん、他に強ひて其円満なる進行を妨ぐるものなき限り、近代的多数政治は其形式に於て多数民衆の力の支配たるも、其実質に於ては少数賢明なる思想の確実なる支配である。若し此理を誤り、単に哲人政治の空名に眩惑し、多数を基礎とする事なくして、少数者の孤立的政治を認めんか、一見政治的活動の敏活を期すみの利益あるが如く見えるも、為めに動もすれば民衆輿論の指導を誤り、甚しきは其不平反撥を招いで、遂に恐るべき結果を誘致せずと限らない。然らざるも為政者は結局に於て政界の一大勢力なる多数の力との折衝に苦しむの結果、所謂政界の腐敗を来たし、以て大に社会風教を紊すに至るであらう。歴史上所謂政界の腐敗は常に多数を基礎とせざる少数が、多数を籠絡して政界の窮通を計らんとする事から起つた事は、昭乎として明かである。
 立憲政治の要諦は、面倒を厭はず十分自家の所見の徹底的納得を求めるといふ事にある。政府は即ち之を議員に求め、議員は転じて之を選挙民に求むる。淳々として説いて倦まず、其間に決して面倒を厭ふてはならぬ。面倒を厭はざるものが即ち多数民衆を基礎とする政治主義を取るに至り、此面倒を厭ふものが即ち多数を基礎とせざる政治主義になり易い。面倒を厭へば、政府は即ち議員を買収し、議員は即ち選挙民を買収する等、種々の腐敗手段を以て目的の到達に急ぐ事になる。而して政党政治は即ち此面倒を厭はざる政治主義に立脚するものである。なぜなれば、政党は即ち少数の哲人と多数の民衆とを有機的に聯鎖する殆んど唯一の機関であるからである。固より我国現在の政党はかかる実質的使命を十分に全うして居るとは思はない。然し之は、いふまでもなく一つには政党並びに政党貝其物の罪であるけれども、更に其根本的の原因を数ふるならば、広き意味に於ける制度の罪であると云はなければならない。なぜなれば、我国の制度は政党の発達を厭くまで阻害するやうに極めて周到に組立てられて居るからである。此等は是非共速かに改善を加へなければならぬ点であると思ふ。而して之が改善を急ぐ為めにも、早く政党をしてモット有力なものとなさしめたい。何れにしても、現在は如何に多くの欠点を有するとはいへ、少数哲人の思想によつて輿論の進歩訓練を計り、而して多数民衆の力をして有効に且つ健全に政界に貢献せしむるの機関としては、理論上今日のところ政党を措いて其外にない。政党の現状に不満足なるの余り、政党其物の本来の効用を無視し、之が進歩発達を計るを怠るは、決して国家の為めに忠なる所以ではない。若し夫れ自家階級の利害の打算の上より ― 意識的にしも無意識的にしも ― 濫りに政党の発達を阻止せんとするが如きは、言語道断の至りと謂はざるを得ない。


     (四)

 憲政運用上に於ける貴族院の地位如何。貴衆両院は、衆議院に予算先議権ある事の外、総ての点に於て法律上全く同等である。併しながら、法律上同等であるといふ事は、必ずしも政治上に於ても亦同等ならざるべからずといふ結論を生ずるものではない。総ての臣民は法律の前に平等なりといふの原則があつても、例へば貴賤貧富の別による社会的地位の優劣は固よリ之を免れる事が出来ないといふのが普通の現象である。寺内首相は曰ふ。「憲政会国民党は「現内閣が国民輿論の府たる帝国議会に基礎を有せざるを理由とし」 て、不信任案を提出せるも、「帝国議会は貴衆両院に依て成立し、独り一院のみを認めて直ちに国民輿論の府となすべきものにあらず…衆議院の決議は其一院の意思を表示するに止り、貴族院を包括するの理なきは固より当然の事に属す…我帝国立憲の制度にありては、貴衆両院を以て帝国議会を組織し、其間毫も軽重の差あることなし。然るに単に衆議院に於ける多数党の代表を以て打開を組織せざるべからずとなすに至つては、啻に至尊の大権を干犯するのみならず、併せて両院制度を無視するものと云はざるべからず」と」。之も亦憲法の形式論として一点批難の打ち処もない。併しながら貴衆両院が法律上其間に何等軽重の別なしと云ふて、互に其対等の地位を主張して譲らざるに於ては、憲政の運用は如何にして円滑に行はれ得るか。一体独り両院関係に止らず、立憲政治に於ては、各機関が文字通りに其法律上の権限を固執するに於ては、全然其運用が出来ないやうになつて居る。例へば諸国の立憲制度に在ては、所謂三権分立といふ原則に依つて各種の機関が法律上全然独立して彼此相牽制して居るが、若し実際の運用に於ても厭くまで相牽制するの態度を続けては、政府の局に当るものは殆んど何の仕事も出来ない。専制の弊に苦しみ抜いた近代の国家は其弊を免れんが為めに、機関の分立並びに其相互の牽制といふ原則を立て、一切の制度を改造した。之れ立憲政治の表面上の特色である。然し文字通りに、即ち憲法法条の示す通りに、互に相譲らずしては、立憲政治の運用は忽ちにして其進行を停止せざるを得ない。之れ一部の世人動もすれば立憲的制度を以て国際的競争激甚にして最も政治的活動の敏活を要求する当今の時勢に合せずと為し、甚だしきは少数政治を迎へて立憲政治を呪はんとするに至るものある所以である。然しながら、近代の立憲政治は、制度としては動きの取れぬ、頑(かた)くななる各機関対抗の組織を取つて居るけれども、之れ丈けで終るのではない、更に他の一面に於て、其間に然るべき活路針見出す事を要求して居る方面がある。然らば如何にして此活路を見出さんとするか。
 此問題に関して第一に答弁を求めらるゝものは云ふまでもなく政治道徳である。即ち立憲政治は、政治家の徳義に訴へ、争ふべきは大いに之を争ふも、結局に於て互譲交綏の精神に基き、国家の為めに一致協力の道を見出さん事を求むるものである。併しながら此種の問題は、只一片の政治道徳のみに訴へて、常に必ず解決を得るに決まつたものではない。故に更に一歩を進めて、政治上の理義を楯とし、一定の解決案に服従を迫るといふ事にならざるを得ない。只何を以て政治上の理義に適合する解決案とするかについては、時と場合とによつて必ずしも同一でないが、併し此点に関する多数識者の見解が大体に於て同一の方向を取り、従つて類似の場合に類似の解決案が繰返さるゝといふことになれば、こゝに自然政治的慣例が発生する。只之は時と共に自然と固まるものであるが故に、何の時を以て拠るべきの慣例が確定せりと見るべきやは、固より多少曖昧であるけれども、繰り返さるゝ度数の重なるに従ひ、茲に所謂政治的慣例も亦、憲政の進行を滑かにする一要件と見做さるゝに至るものである。而して事実多くの立憲国に於ては、各種機関の法律的権限の独立対峙は、実に之と併存する各種の政治的慣例と相照応して、始めて完全なる憲政の運用を行はしめて居るのである。我々は立憲的諸制度の法律上の権限を過重して、憲政の運用には寧ろ政治的諸慣例の確立が、より以上に重大なる関係ある事を忘れてはならない。然るに政治的慣例も亦憲政の進行の障礙を有効に排除し得る最終の武器ではない。慣例は何処までも慣例で、何も法律上に定められて居る事でないから、極端な場合に之が承認を拒まるゝ事があり得る。例へば英国に於ては、久しく貴族院は結局に於て衆議院の意思に譲るべきの慣例があつたのであるが、此二三十年以来、貴族院議員の六分の五以上が保守党の勢力に帰した結果、自由党が天下を取つた場合に限り、貴族院は従来の慣例を破つて厳しく衆議院に反対するといふ態度を取るに至つた。斯くては尋常の手段で政界の疏通を計る事が出来ない。さればと云つて之を放任して置く訳にも行かないから、そこで英国では上下両院の関係は政治的慣例の解決にのみ任かして置く訳には行かないと云ふので、遂に法律上に此問題を解決せんとするに至つた。之れ先年英国が幾多の困難を排して、所謂議会法を制定した所以である。理由は多少違ふけれども、濠洲聯邦でも此問題を慣例に任せず、明白に法律の上に規定した。之は上下両院の関係についての話であるが、政治的慣例の確立若しくば其作用に不十分の点があれば、遂に法規を以て一本調子の決定を見るのは又止むを得ない。
 之を要するに、立憲制度は其の法律的方面に於ては各種の機関が厭くまで独立し、厭くまで彼此牽制するを可とするも、其政治的方面に在つては厭くまで妥協し、厭くまで交綏するものでなければならぬ。而して政治道徳の命ずるまゝに平穏着実の進行を見るは、最も理想的の方法であるけれども、少くとも其間に一定の政治的慣例が発生して、各種の機関が皆此慣例を重んずるやうになるのが望ましい。一歩進めて遂に法律の規定に之が解決を托するのは余り好ましい遺方ではない。
 以上の見地よりすれば、寺内首相の言明の如く、貴衆両院の絶対的平等を説くのは、初学の法律学生に憲法論を説くの類にして、実際政治家の口より之を聞くは、我々の甚だ意外とするところである。我々に取つては、最早貴族院と衆議院とは法律上同等の権限を有するといふやうな事は問題ではない。両者両々其所見を固執して争ふ時、如何にして其間に疏通の路を発見すべきかゞ肝要なる問題である。此点に関して我国に於ては未だ明白なる慣例は確立してゐないやうである。尤も多くの識者は、暗黙の間に欧洲諸国の大勢に同じて、下院の優越権を認めんとするものゝ如きも、従来上院の方では、何処までも下院と同等の地位を主張して下らなかつた。形式上下院に多数の根拠を有する政府にして上院の手にかゝつて打破られた事もある。併し全体としての趨勢をいへば、我国に於ても矢張り西洋諸国に於けると同じく、段々に下院の優勝的地位を認むる方向に進むに相違ない。之れ一般の世界の進歩に伴ふ当然の結果であらう。而して斯くの如き趨勢を以て進むのは、一面に於てまた理の当然に合するともいへる。なぜなれば、国民中のホンの僅かの一部分を代表するに過ぎざる貴族院が、概して国民全般の代表者と見るべき衆議院の決定に譲るのは、政治道徳の要求にも叶ひ、立憲政治の根本思想にも合して居るからである。尤も貴族院は、総ての場合に於て衆議院に盲従せねばならぬ義務はない。若し総ての場合に於て無条件に盲従せよといふなれば、貴族院は最早全然無用の長物となる。国家は決して斯くの如き屈辱的地位を貴族院に附するものではない。普通の場合に於て下院の決定に従へといふのは、謂はゞ上院に自重を求むるのである。下院議員は、一人を以て幾万を代表するに、上院の議員は概して僅かに数人を代表するに過ぎずして而かも下院議員と同等の権利を賦与せられて居る。故に彼等はそれ丈け国家に対して重き責任を負ふて居るといふ事が出来る。それ丈け又彼等は決して軽々しく動くべきものではない。故に普通の問題に於ては、暫らく下院多数の決定に譲歩して強ひて自説を固執せざるは、彼等の地位に最も相応はしき態度である。只一旦国家重大の問題について下院と意見の扞格を見、而して到底自説を枉ぐべからざるの深き確信を有するあらんか、茲に初めて彼等は猛然として厭くまで下院の決定に反対すべきである。斯くしてこそ彼等は真に其所信を国民に徹底せしめて彼等の反省を有効に促す事が出来る。滅多に固有の権利を主張して下院と争はない者が、偶々大に争ふといふのであれば、一般人良もよく/\の事であらうといふので、上院の説に謹んで耳を傾けるであらう。些末な問題についてまで絶えず下院に反抗して独立の権限を振り廻すのでは、国民は初めから上院の意見に特別の重みを置かなくなる。斯くの如きは国家が特に上院を設けたる本旨ではない。此点に於て予輩は、我国の上院が最近余りに軽挙妄動し、為めに国民の上院を見る事甚だ軽きに至れるを遺憾とするものである(同じやうな事は枢密院についても言へる)。
 之れを西洋諸国の慣例に見るも、上院は原則として下院に譲るといふ事になつて居るのが普通である。殊に英国・仏蘭西等の国に於ては、下院の民衆的特徴を重視するの点よりして、初めから著しく下院を重しとする傾向がある。されば一般の俗称に於ても、下院を第一院と呼び、上院を第二院と呼ぶ。之に反して独逸の如き国柄に於ては、上院が社会に於ける優等階級を網羅するといふ点に特別の重きを置き、量に於て劣るも質に於て優るといふ理屈からして、兎もすれば下院よりも上院を重んぜんとする傾向がある。従つて英仏とは反対に、上院を第一院と呼び、下院を第二院と呼ぶ。独逸に於ては、政治的制度が政党の発達を阻害するやうになつて居り、従つて政界の高足逸材は多く官僚階級に集り、議会殊に下院には二流三流の人物を多く現るの有様なるを以て、上院が下院に比して特に優等の階級を代表すといふ見方は全然当らないではない。けれども英仏は全く之に反する。質について云ふならば、上下両院議員の間に殆んど何等の差を見ないと言つてもよい。仏蘭西に於ては、政界の元老は漸次上院に引込むの傾向あるけれども、現に政界に活動する第一流の名士は決して下院に少なくない。英吉利の如きは寧ろ下院の知識が上院に優つて居るといふても差支ない。故に上院が優等階級の代表者なるが故に、上院が常に優等の意見の行はるゝ処であるとなし、暗に上院の勢力を立て、下院を抑へんとするが如き説は少くとも英仏諸国には適用がない。況んや我国の如き貴族階級が決して精神的に優等階級と見做すべからざる国に於てをや。但だ我国衆議院議員の間に軽佻浮薄の言動をなすもの多きは、我々の大に遺憾とするところである。けれども、之を以て直に下院の智識は大に上院のそれに劣れりと断ずるの理由を見ない。故に我国に於ても、政治道徳及理論の要求と先進諸国の慣例とに従つて、貴族院はふだん大に自重するの態度を採り、普通の場合に於ては、概して衆議院の決定に従ふを原則とするのが適当であると思ふ。従つて何が国民の輿論なりやの決定も亦之を下院多数の意見に求むるを合理的解釈となすべきである。貴族院が、此政治的必要の要求する適当の分限を越え、一にも二にも漫然として下院対等の権限を主張するは、決して憲政を進歩せしむる所以ではない。若し夫れ貴族院が、官僚閥族の爪牙(そうが)となり、下院多数党の攻勢に対抗する非政党主義の武器として利用せらるゝが如き事あらば、是れ貴族院の本領を没却し、憲政の発達を阻害するの甚しきものである。予輩は我国の貴族院に断じて此事なきを信ずるものである。
 之を要するに、貴族院の政治的地位は、我国政界の実際的慣行の上に猶未だ決まつて居ない。政論の啓発と政治家の努力とは其中之を実際に解決するであらう。而して結局如何なる解決を見るべきやは、大勢の帰趨に稽へて略ぼ之を察するに難くない。只寺内首相の言明の如く、法律上の権限を根拠として、貴衆両院の政治上に於ける絶対的平等を論結せんとするが如きは、明白なる思想の混乱である。(二月十七日)

 本稿を草し了りて後、図らず学友法学博士佐々木惣一君の同じ問題に関する意見の、大阪朝日新聞に載つて居るのを見た。議論精密啓発せらるゝ所少くない。心ある読者は之をも参照せられんことを希望する。憲政会も亦同じく弁駁書を出して居るが、之は弁難些末に亙り而かも根本問題の論究に聯か徹底を欠いて居るものがある。吾人より之を観るに余り大したものではない。

                      〔『中央公論』一九一七年三月〕