我憲政の回顧と前望


 憲法の発布されてより今日に至るまで、約三十年に亘る我国憲政運用の跡を、国民の一人として回顧してみると、種々不平不満の点が尠くない。此等の点については、予輩の今日現に多くの同志と共に、天下に呼号して止まぬ所であるが、今姑く自己を第三者の客観的地位におき、世界の憲政発達史上に於ける一現象として之を観察すれば、果して如何なる結論に到達するであらうか。
 この立場よりすれば、過去三十年間における我国憲政の発達は、満足に値するといふは固より過褒たるを免れざるも、併しまた決して悲観、絶望すべきほどのものではなからうと思はれる。現に何よりも確かな生きた証拠として、憲政運用の根本たる一般国民の政治的自覚は、兎も角も日に月に顕著となりつゝあるではないか。社会上、政治上における実際的勢力としての輿論の権威も、今日之を三十年前のそれに比すれば、固より同日の談ではない。我が選挙界は、益々腐敗堕落に向ひつゝある。他の一面に於て、飽くまでその弊竇を一掃せんとする真面目な反対精神の、勃興しつゝある事実を看過することは出来ない。政府に対する議会の威力も、議員其人の品質より見て、格別向上せりとも思はれざるに関はらず、兎も角も漸次増大しつゝあることは事実である。責任内閣の主義は、今日の所未だ充分に確立せざるも、之れが確立の近き将来における実現を、誰か確信を以て疑ひ得るものがあらう。其他一々枚挙すれば際限もないが、兎も角我国憲政の運用は、仮令吾々の希望通り捗々しき進歩を示してをらぬとはいへ、大体その辿るべき正当なる方向を誤つてゐないといふことだけは確かである。
 斯く言へば我国憲政の現在及将来に対し、予輩は余りに楽観に過ぎるものゝ様である。随つて論者或は予輩に詰問するに、今日我政界に存在せる幾多の流弊悪風に対し、殊更に耳目を蔽へることを以てするかも知れない。が予輩は無論之れに答へていふ。決して此等の悪弊に耳目を蔽ふてゐる者でなければこそ、吾々は従来幾多の苦言を朝野の識者並に政治家に呈し来つたのである。而して今後と雖も吾々は、我国の憲政をして真にその有終の美を済さしめんが為め、一層熱心に斯種の努力を継続する決心である。この国民の一人としての主観的立場には、昔も今も大して変りはないのであるが、唯予輩は一個の歴史家たる客観的立場より見て、我国憲政の前途を余り甚だしく悲観するものではないといふまでのことである。蓋し今日我国の政界に見るが如き幾多の悪弊は、憲政史上我国と同じ道程を辿れる他の先進諸国に於ても、みな等しく経験した所である。随つて歴史的観察をなすの便宜としては、我国三十年の憲政史を、我国と同様の道を辿れる他国のそれと比較することが最も必要である。


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 さて比較の問題になると、何れの国をその対象に撰ぶが最も適当であるか。先づこれより決めてかゝらなければならない。第一に憲政の祖国たる英国は殆ど問題にならない。蓋し英国の憲政は、千有余年の長き経験の結果である。大憲章(マグナカルタ)の発布せられし千二百十五年、所謂模範国会(モデルパーラメント)の召集を見たる千二宮百十五年より数ふるも、なほ六七百年の星霜を閲してをる。随つて僅々三十年の歴史を有するに過ぎぬ我国の憲政と、それとを比較対照することは、如何にも乱暴であり且つ不合理である。
 然らば次に米国は如何といふに、是れ亦英国の場合と殆ど同様である。米国の独立、随つてその憲政の創設は未だ僅かに百四五十年の歴史を有するに止るも、而かも彼等はその背後に母国たる英国の千年に余る長き憲政の歴史を有してをる。かるが故に比較的新しき憲政史を有するものを求むれば、自然大陸諸国殊に独仏二国を撰ばねばならぬ訳であるが、その中独逸はまた我国のそれと比較するに決して適当な対象ではない。
 世間では独逸と我国との国情の相似たる点を挙げ、且つ諸般の制度文物に於て我国は尠からず独逸を模倣してゐる事実を指摘し、かくして憲政の運用につきても、動もすれば独逸の後塵を拝せんとするものも尠くないやうである。併しこれ畢竟独逸の国風に通ぜざるものゝなす所である。此事は種々の方面より之を確説し得るのであるが、今例を議会対政府の関係にとつて見るに、独逸は人の知る如く国内に幾多の異分子を抱擁してをる。就中ポーランド人、デンマーク人、乃至フランス人の如き、徹頭徹尾独逸の国家其物の進歩発展を悦ばない。其他天主教徒の如き、社会主義者の如き、その主義信念を以て国家よりも重しとせるものも亦尠くはない。故に独逸を国家的に統一せんとする主義政策は、帝国議会に於て単に意見の相異といふ点より批難せらるるのみならず、その主義政策の根柢が、多数議員の同意を得がたき場合も尠くないのである。其故若し政府が、一々議会の大勢に従つて行動せねばならぬといふ事になると、如何なる結果を持来すかわからない。そこで独逸の国家主義より言へば誠に困つた話であるが、止むを得ず議会の掣肘から超脱した所謂超然主義を以て政府を樹立して行かねばならぬ。然らざれば帝国其物が瓦解するの虞れがあつたのである。かくして独逸に於ては、所謂責任内閣制の政治的慣例としての確立を、極力拒否せんとした。而かも之れは責任内閣制其物に対する否認ではなくして、寧ろ独逸の特殊的国情に伴ふ止むを得ざる結論なりしことは、識者の等しく認むる所である。之れは僅に一例に過ぎないのであるが、斯くの如き特殊的国情よりして、独逸に於ては憲政の順当な発達を見ることが出来なかつたのである。随つて戦前に於ける独逸の憲政は、言はゞ一種の畸形的憲政であつて、我国の一部の人士が称ふるが如く之を以て我憲政の準縄となすべからざるは勿論、憲政の発達を比較する上に於ても、彼と我と同一に取扱ふべきではない。斯く観察し来る時、残る所は結局仏蘭西である。仏国における憲政の創設は、その革命時代より初まる訳であるが、その最初の憲法の現はれた千七百九十一年より、ナポレオンの没落に至る約四半世紀間は、所謂混沌時代であつてこれは我国の憲政と比較すべき性質のものでないこと言ふまでもない。即ち仏国に於て憲政の端緒の漸く開かれ初めたのは、千八百十四年ルイ十八世の即位後と見なければならぬ。爾後千八百四十八年の二月革命に至るまでの約三十年に亘る立憲王制時代が、恰も我国の憲政史と比較するに最も適当なものと思はれるのである。


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 右に述べた三十余年間の立憲王制時代は、仏国の憲政が愈よ確実に前途の光明を認むるに至るまでの悪戦苦闘の時代であるが、此の時代の出来事を具に観察すれば、実によく過去三十年の我憲政史に似通つてをる。而して従来我政界に行はれたるが如き幾多の弊風は、尚ほ一層露骨に一層大規模に仏国に於ても行はれたのである。即ちかれが如き過程(プロセス)を経ながら、尚ほ且つ仏国が終局に於て憲政の常道に復帰し得たとすれば、吾々も亦今日より更に将来に努力を続けて、我憲政有終の美をなすの希望を達成し得る事と信ずる。尚ほこゝに誤解なきやう一言附加しおくべきは、仏国が三十余年間の悪戦苦闘の結果、終にその憲政の前途に大なる光明を認むるに至つたといふ事は、固より國體が立憲王制より共和制に移動したことを意味するのではない。仏国に於ては不幸、憲政発達の道程に於て國體変革の不祥事を見たのであるが、憲政の発達と國體の変更とは必ずしも常に相伴ふものでないことを注意せねばならぬ。三十年の悪戦苦闘によりて達成せんとせし目的は、彼と我とに於て著しく異るものではない。唯彼にありてはこれが為めに國體の変更を伴ひ、我にありては此目的を達することによりて益々國體の精華を発揚し得る。即ちこゝに彼我両国の国本の差が横つてゐるのであらう。
 千八百十四年ルイ十八世の即位より、次王チャールス十世の没落に至るまでの約十五年間は、政府者の頑迷なる保守主義と民間における自由の要求との間に、かなり猛烈な争闘がつゞけられた。当時所謂民権自由の名に於て政界に馳駆奔走せし人達は、その実民衆全体の代表者にあらざりしとはいへ、時世が時世なりしだけに、自由主義の発達と民衆の自覚とが日を追ふて著しきものがあつた。而して政府者は固よりこの大勢に極力反抗し、議会の言論等には殆んど耳を傾けまいとしたのである。之れに類似の例を最近の歴史に求むるならば、ストリピン時代のロシアが恰度それであるが之れと同様の現象は、憲政創設当初における我国に於てもまた繰返されたことを記憶せねばならぬ。当時或る大臣の如き「明治維新の大業は薩長の力による。国家に過去の寸功なくして吾々の治世を誹議するとは何事ぞ」とまで傲語した。又議員の喧々囂々の間に立て一大臣が「者共黙れ」の暴言を放ち為めに大なる物議を醸せるも此頃であつた。或はまた選挙干渉に腕力を用ゐたのも此時代であつた。議会の如きを物の数とも思はず極力之を抑圧せんとした態度、随つてまた之れより幾多の悪弊を醸成したことは彼と我と正に同工異曲である。唯幸ひにして我には間もなく日清戦争起り、こゝに挙国一致の実経験を味ふべき機会が与へられ、為めに不幸なる政治上の争闘を緩和することが出来たのである。当時若し日清戦役の如き対外問題の勃発なかりせば、政府対議会の争闘が果してどこまで進み、又如何なる結果に立到つたかは容易に想像がつかぬ。現に我国と事情を異にせる仏国に於ては、この争ひが嵩じて遂に千八百三十年七月革命の爆発となつたことは既に人の知る所である。
 七月革命以後の仏国政界に於ては、議会の政府に対する威力大いに増加せるも、未だ充分に政府の対議会責任の意味が確立するに至らなかつた。政府当路者は、議会の威力に圧迫せらるればせらるゝだけ、之れに対して完全なる責任を負ふといふ政治的慣例の発生するを極力避けんとした。そこで先年かの寺内首相が、地方長官会議乃至は議会に於て強調せしが如き所謂大権内閣論が、臆面もなく当時の政治家によつて称へられたのである。多数の政治家は勿論、内閣は議会に多数の根拠を有する者によりて組織されざるべからずと主張したのであるが、国王の左右にある人達は、内閣大臣任免の大権に干犯するを許さずとして、極力これに反抗した。そのやゝ温和なるものは、何人を大臣に任ずるかは固より国王の自由なるも、唯議会多数の意見を参酌するの必要ありといふが如き一種の微温説を立てゝゐたのである。之れ亦我国最近の政界と相似た所がある。
 如何に議論で争ふも、政府者は結局険要の地位を占めてゐる故、容易に之を屈服せしむる事が出来ない。而して之を屈服せしむるの道は、畢竟選挙権の拡張にあるといふ所より即ちかの普通選挙論が起つたのであるが、之れ亦我国今日の政情と相通ずるものがある。一方政府当路者は極力それに反抗せし事言を俟たない。加之、政府者は漸次威力を増大し来る議会を全然無視することも出来ないため、種々思案の結果考へついたのが即ちかの買収である。議会の威力の逓増するは、到底抗すべからざる大勢である。而か、pこの大勢に順応しつゝ他方に於て責任内閣主義に屈服せざらんとする以上、政府は人為的に議会に多数の味方を急造しなければならない。而してこの目的を達するが為めの最も有効直截な方法は、言ふまでもなく議員の買収と選挙の干渉とである。選挙干渉には国権濫用の積極的手段以外更に陋劣なる腐敗手段を以て人民を籠絡する消極的方法のあること言ふを俟たない。かくして政府者は、彼等自身の地位を擁護せんが為め、意識的に或は無意識的に、尠からず国家に害毒を流した。しかも之れ亦吾々が、今日我国に於て、親しく目撃する憂ふべき現象ではないか。斯く考へ来ると我国が今日まで辿つて来た道を、仏国はすでに七十年前に通過したのである。又一面より言へば、斯の如く障碍多き道程を通過せざるべからざるは、保守的特権階級の存在する国に於ては、所詮止むを得ざることである。この意味よりして、現在の我国に七十年前仏国の嘗めし苦き経験の存せることは、国民として誠に憂慮に堪へぬ所であり又一日も早くその撲滅を期すべきであるが、一歩退いて第三者たる客観的立場より之を見れば、未だ全然諦めのつきかねるほどの問題でもない。


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 仏国憲政三十余年間の悪戦苦闘の結末は、千八百四十八年の二月革命でついた。我国に於ては固より斯の如き不祥事の起るべき道理もなく、尚又時に多少の騒擾を導き来ることありとするも、それほど激烈なる動揺を見るに至らざらんこと、予輩の固く信ずる所である。予輩のかく観察する最も大なる一つの理由は、我国の保守的政治家は、従来余りに腰が弱過ぎたからである。
 元老といひ或は官僚軍閥の先輩といひ、かなり頑迷にその旧思想を固執し又之を以て吾々に迫り来るのであるが、併しイザといふ最後の一段になると、彼等は案外容易く大勢に盲従すること従来の例である。
 彼等は平常かなり不合理な我儘を言ひ又之を立通さうとするのであるが、結局に於て意地と張りとが足りない。其故国民は時として余り馬鹿々々しき彼等の頑迷さに憤然蹶起する事あるも、最後の一段に至り突然先方より我を折つて来るので、呆然として暖簾に腕押しの感を催すことも屡々ある。
 斯の如きは畢竟、彼等の眼光僅かに日本の国家といふ一小局部に偏し、世界の大勢に対しては全然受動的地位に立てるが為めであらう。それに反し西洋諸国の政治家には、仮令その思想は頑迷固随なりとは言へ、之を以て自国を支配し同時に世界の大勢をも指導せんとするの大なる気塊がある。故に彼等は如何なる障碍に遭遇するも、決して之に屈従しない。これ彼の諸国に於ては、常に革命の如き最後の爆発を見る所以である。然るに我国の政治家にはそれがない。彼等は兎も角も政治家だけに、結局世界の大勢に抗すべからざるを知つて居る。しかも彼等の無知なる、大勢は大勢として之を放置し、僅かに自国の為めといふが如き褊狭なる排他的見地より、不知不識国家をして国際的孤立の地位に立たしむるが故に、仮令彼等に国を思ふの誠意あり余れりとするも、所詮彼等には大局を達観するの明なく、随つて吾々は彼等に国家指導の大任を託するの、真に危険なるを感ずる者である。斯くして我国先輩政治家の無知無識は、或る意味に於て我憲政の発達を円滑ならしめしと同時に、他方その裏面に於て種々の陰険なる小策を弄することにより、我国の政治道徳が著しく溷濁せられたる事実、又せられつゝある事実を衷心遺憾とせざるを得ない。

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 我国の先輩政治家の無智無識が、間接に憲政の進歩を円滑ならしめてゐること前述の如くであり、又それは或意味に於て悦ぶべき現象であるが、他の一面に於て我国の民衆が甚だしく自治生活に慣れてゐないことは、憲政の健全な而して充実せる進歩といふ点より見て、誠に遺憾に堪へない次第である。世間にはよく、我国今日の民智の程度では、未だ民本政治が充分成功し得ないなどゝいふ者がある。併し予輩の観る所では、若し我国民に民本政治の成功に不適当なる点ありとせば、そは彼等の智徳の低きが為めにあらずして、寧ろ自治生活の訓練の不足せる所に在ると考へる。少くも智徳の程度に於て、我国の民衆は欧米先進諸国に比し、決して大なる遜色あるものではない。故に此点に於てならば、我国憲政の前途は左程悲観するに及ぶまいと思ふ。要は唯自治生活の訓練如何にある。
 西洋諸国が今日の如き憲政の美果を収め得たるについては、其の原因固より一二にして止らざるも、就中其最も根本的なものは彼諸国の民衆が、一個独立の公民として世に立つ前、既に充分なる自治生活の経験を積んでゐるといふ事である。今その手近な例を挙ぐれば、彼等は小学校においてすでに尠からず斯種の生活に訓練されてをる。例へば米国の小学校に於ては、大統領の選挙といふが如きに際しては、教師自ら率先して子供にも真面目にその選挙をやらせる。又英国の小学校では、上級生が下級生若干を銘々己れの配下として之を率ゐると同時に、上長者に仕ふる訓練を施す。
 即ち之れによつて一旦自己の代表者として挙げた者に対し、或は又自己をその代表者として推戴せし者に対し、如何なる態度をとるべきかといふが如き点を充分に訓練せられるのである。斯くして得たる経験は、即ち他日社会に出で公民生活に入るに及んで直ちに役立つて来る。惟ふに斯の如き隠れたる事実を背景として考ふるにあらずんば、到底彼の諸国に於ける立憲政治成功の真因を把握し諒解することが出来ない。
 翻つて我国の実状は果して如何。我国に於ては従来の国民教育中、殆ど全く市民或は公民としての訓練なるものがない。又国民教育の任に当る者に対しても、苟も一般人民の師表として立つに足るだけの精神的並に物質的待遇を与へてゐない。
 併しそれのみに止るならば未しもであるが、我国の先輩政治家達は更に一歩を進めて、余りに教育と政治とを分離し隔離せしめんとしてをる。国民教育の任に当る者が、政治に干与するの弊は固より充分に之を警戒しなければならぬ。併し乍ら我国におけるが如く、政治に関与することを以て、何か不徳義なことにでも関係するが如き考を教育者に懐かしむることは、延いて新日本の将来を双肩に担つて立つべき我が小国民をして、自国の政治に対し悲しむべき冷澹と更に大なる反感とを有せしむる虞れがある。少くも彼等は自国の政治に対し何等の理解も興味も有せずして社会に出ることとなるのである。即ち斯の如き子弟が、直ちに実社会の人となり或は中央地方の実際政治に参与し、又は選挙権を行使するのであるから、悪辣なる世人の陋策奸言に惑はされて、遂に正当の道を踏み誤まるに至ること寧ろ当然ともいふべきである。之れ亦畢竟我が先輩政治家の責に帰すべきことゝ思はれるが何れにするも此点は我国憲政の将来にとりて一つの最も大なる障碍といはなければならない。余りに平凡な且つ迂遠の説のやうではあるが、此等の点に対する根本的救治策として、予輩は国民教育当事者の精神的並に物質的待遇の必要を叫び度い。勿論之れのみで所期の目的が達せられ得るといふのでは決してないが、予輩は国民に自治的訓練を有効に与へ得べきあらゆる方策の基礎は、帰する所国民教育其物の実質的振興の外に出でずと確信するが故である。

                     〔『我等』一九一九年二月〕