選挙権の理論的根拠
 「選挙権の理論に関する各種の説明 選挙権の問覆を論ずるに当つて先づ第一着に決めねばならぬのは、何の
為めに選挙権と云ふものが存在するかと云ふことである。此開演が決まらなくては、選挙権に関する他の一切の
問題の持が明かない。
 扱て、選挙権の理論的根拠に就ては、実は古来いろいろの説明が与へられて居る。而して今日に於ても吾々は
しばしば     な
蜃古い説明が佑ほ尤もらしい形に於て唱へられて居るのを見る。そこで真の理森上の根拠の何れに在るやを明
白に認識する為めには古来唱へられ来つた色々な説明を列挙して、之を比較対照する事が一番便利であると思ふ。
 前述の如く、選挙権の根拠を説明せんとする学説は、昔からいろ〈のものがあるが、之を大別すると先づ次
の二種類になる。第一は選挙権を国民の固有の権利と観るもので、第二は国民に固有なるものではない、国家の
方から或目的の為めに特に国民に賦与した権利だと観るものである。
選挙権の理論的根拠
     甲 選挙権は国民の固有の権利に非ずとするの説

 二、特別報憮説附兵役と選挙権との関係 先づ選挙権を国民の固有なる権利にあらずと観る方の学説を吟味するに、
之に属する主なるものにまた二つある。第一は選挙権を以て国民の国家に捧ぐる或る特殊の労務乃至提供に対し
国家が報償的に与ふるものと為すの説である。今日でも我国の一部の政客が説くが如き、「兵役義務を完了せる
派屠

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者に選挙権を与ふ可し」との説は、解きやうによつては此種類に属すると云へる。英米に於ても、婦人に参政権
を認むべしとの論拠を、戦時に於ける婦人の功績の著大なるに置くものあるが、是亦前記の思想に多少かぶれて
居ることを蔽ふことが出来ない。併し選挙権に関する今日の学理上の通説としては、最早此種の説明は認められ
ない。蓋し今日の理論から云へば、若し国家に労務乃至提供を捧げた者に此種の報償を与ふ可しとせば、独り兵
役の義務に服する者に之を限るの道理が無い。一体兵役の如き国民一般の共同に負担すべき義務に対しては、何
も特殊の報償を与ふるの必要はない筈である。のみならず、之を事実上特殊の役務なりと見ねばならぬとしても、
之に対しては他に自ら報償の途あるべく、選挙権を以て之に報ゆるのは決して適当と云ふことは出来ない。猶ほ
之は兵役に限つた事ではない、総じて国民の特別なる役務に対する報償として選挙権を論ずるのは、今日は最早
陳腐の説となつて居る。
                                                     らんしよう
 尤も議会制度発達の沿革の上から云へば、此説には多少歴史的の意義がある。今日の議会制度は英国に濫傷し
て居るが、その英国に於て昔之が何のために起つたかといへば、租税負担の承諾を求むる為めに、民間の代表者
を中央に召集したといふ事に在る。之は英国に限つた事ではないが、昔時一切の国務は原則として国王の私産の
      ■王かな
収入に依つて賄はれて居つた。併し世の進むに連れ、国用多端となり、到底五室の収入のみではやり切れない。
そこ.で新しい負担を大名小名から段々地方の豪族にまで命ずることになる。之が一度や二度ならい、が、段々度
           なかなか
重なると、貴族豪族は却々おいそれと之に応じなくなる。斯くて時には上下の間に不幸な衛突を見る事もある。
斯ういふ経験を重ねて往く中に、滋に漸く、穏便に民間の貢納を承諾せしむる為めに、彼等の代表者を会して、
一体何の為めに之れだけの金が要るかを明白に説き開かすといふ慣例が開かれた。斯くして特別の貢納金を負担
すべき豪族は、謂はゞ政府の財政問題に容唆する権朴を得、此権利の実行のために自分の代表者を中央に送ると
274
J′
選挙権の理論的根拠
いふ事に進んで来る。之が即ち民選議員の発生を見た因縁である。して見ると、少くとも其起源に於て、代議士
は租税の負担に承諾を与ふる為めのもので、選挙権は則ち租税納付に対する報償に外ならなかつたのである。従
つて租税を払はない人は選挙権を有すべき謂れはない。租税を払ふが故に選挙権があつたのである。今日我国に
も行はるゝ 「選挙権の資格を二疋の税額に置く」の制度は、実に此沿革に基くものである。併し乍ら今日では、
少くとも理論上租税は特定の国民の特別なる負担と観るべき性質のものでない。国民一般の負担たること兵役と
同一である。従つて租税と選挙権との間に今尚一定の関係を法制上に認めて居るのは、実は何の根拠もなくなつ
たのである。
 今日に於て若し選挙権に特別の制限を認むべき根拠ありとすれば、夫は租税納付の有無若くは其多少にあらず
して、国政に参与する能力の有無乃至高低にあらねばならぬ。故に納税額の多寡に制限の標準を置くは、財産の
多少が実に能力の高低を判ずべき唯一若くは最主要の標準たる場合に限りて認めらるべきものである。而して今
日では財産の多寡は事実上必しも能力の高低を意味するものではない。是れ今日の財産的制限の制度が著しく非
難せらるゝ所以である。而してかゝる非難の起る所以のものは、畢克選挙権の根拠を租税負担の報償と観た時代
の遺制を、其俵今日に於ても維持して居るが為めである。
                                    あやま
 選挙権の根拠を特殊の義務に対する報償と観るの説は前述の如く全然謬りであるが、併し特殊義務に対する国
                       つく
民の感情を誘致し、国民をして喜んで此義務を濁さしむる為めの一方法として、義務の分担と公権の賦与とを相
交換せしむる事は政策として一顧の価値がないではない。仏蘭西が兵役義務の完了を以て被選挙資格の一要件と
して居るが如きは即ち此例である。但し選挙権に就ては、今日の欧羅巴各国は選挙権をば、兵役義務の一般的な
るが如く同じく一般的として居るから、二者を相交換せしむる実際上の必要はない。這般の問題は選挙権を特に
抑留

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狭く限つて居る国に於て姑めて論ぜらる、のである。現に最近我国に於ても、熱心に此点を主張する者を見受く
るが、唯呉れぐも注意せねばならぬのは、此両者の関係を決して報償的に観る可からざる事である。且又予輩
の考では、兵役優に関する国民の感情を誘導するといふ点から観ても、此方策は必しも得策でないのみならず、
選挙権の拡張に伴つて当然無意義に帰す可きものであるから、余りカ瘡を入れて説く可き開演でもないと思ふ。
是よりも一定の程度の教育を受けた者に選挙権を与ふ可しとする説の方が余程実益も理窟もある。
 三、適任者選抜方法説 選挙権を国民の固有の権利に非ずとする種類に属する第二の説は、議会を以て一定の権
限を有する元首の諮絢機関と看倣し、而して之れを構成するに方り、最も適任なる者を挙用するの方法として人
民一部の公選といふ制度を認めたと為し、所謂選挙権は議会といふ諮絢機関の構成に閑し国法によつて一部の人
民に認められたものに外ならぬとする説である。此説の特色は、議会に認むるに立法権と予算議定権との二疋の
狭い権限を以てし、共限られたる範囲内に於て主権者の諮絢に応ふる丈けの機関と看倣す点と、又人民の有する
所謂選挙権は国家の命令権発動の反射として存在するに止まるとする点とにある。憲法条文の形式的解釈論とし
ては、或は之に一応の理窟を認め得ないでもなからうが、然し今日の議会の権限は、事実に於て立法権と予算議
定権とに限られて居ないのみならず、単純なる諮絢機関と観るのでは、之と枢密院などとの実質上の差別を明に
する事が出来ない。而して選挙権についても、之を適任者選抜の方法に過ぎずと為すだけでは、何故にあんな不
便な遣り方に依らねばならぬかの理由が判らず、又国法の反射として存するに止まると観ては、今日事実上強く
叫ばるる選挙権拡張の要求の意味が解らな\い。要するに此説明は、今日の憲政運用上の実情とは余りに矛盾して
居る。従つて一部の保守的専制政治家輩が、僅に此理論に合ふやうに憲法の解釈と憲政の運用とを窮窟に押し付
                                             はし
けやうとする者あるの外、政界の大勢は、こんな説に見向きもせず、遠慮なくどん〈其捻る可き途を走つてや
276
珊当礪彗」満「増好ヨ.当、苛1りJ.dち、
まない。尤も此第二の説は、其が政界の実情に合はないからとて、直に理論上も駄目なものと速断する訳には行
かない。理論上の謬妄は別の着眼点から之を指摘するを要するが、
      いと士▲             −
カとを費すの蓮を有たない。
     か
然し予輩は僅かる下らぬ閑問題に此上時と精
選挙権の理論的根拠
     乙 選挙権を国民の固有の権利と観るの説
                                      あたり
 以上論ずる所に依つて見ると、今日の議会乃至選挙の制度を論ずるに方ては、形式的法律論は姑く別問題とし
て、少くとも政治の実質的研究に於ては、吾人は選挙権−即ち人民の参政権1を本来人民に周有なる権利と
観るの立場から出発しなければならない。滋に固有といふ意味は、法律に根拠なくして先天的に有するとの謂で
はない。法律に拠つて有するには相違ないが、法律に依つて作られた全然新しり権利でなくて、法律が之を認め
て権利とするに相当の理由があり、其実質に於て法律以前に既に何等かの存在を有して居つたといふ意味である0
此意味に於て選挙権の本質が人民の固有の権利たるに在ること丁占…の疑を容れないが、只問題となるのは、人民
は何ういふ理由で国政に参与するの地位を其固有の権利として要請する事が出来るかの一点である0之が中々の
大問題である。而して此に関する最近思想の沿革を歴史的に観ると、第十九世紀の初め以来今日まで三大変遷を
経て居る。従つて今日迄選挙権の根拠として挙げられた説明には大体三つあると言ふ事が出来る〇
 四、人民主権論 第一に来るものは人民主権論である。滋に人民主権論と言ふのは、第十八世紀の末主として
仏国に盛に起つた各個人の絶対的自由、各個人の無上の権利を主張する所の各種の説を総林するのである。是等
の思想の起り並に其文化史上の意味に就そは、滋に詳論するの限りでないが、兎に角、各個人は生れながらにし
て絶対独立の主格である、何者も彼の独立自由を侵すことが出来ないと言ふのが其の根本主張である0併し乍ら

人類は如何なる時代に於ても国家といふ団体を作つて其生活を完うして居る。人類が其国家生活に於て著しく自
由独立の拘束を受けて居るといふ己むを得ざる事実は、当時の人と維も之を認めざるを得なかつた。然らばこの
已むを得ざる事実と天賦人権の思想とは如何にして之を調和する事が出来るか。此点を説明する為めに彼等の当
                            ね も え
時唱道したものは即ち社会契約説に外ならない。彼等以為らく、自由なる人格者が他に対して義務を負ふ場合は、
其の自由意志に出づる契約に依つてのみである。私生活に於ける此の古来の原則は、移して以て公生活にも応用
すべく、即ち公けの義務拘束も亦契約に依るものと考へて始めて理解する事が出来るとした。之から段々押し詰
めて、結局、各個人を拘束する所謂周家命令の権威の基く所は、社会契約に基ゐて可能なる個人の自由意志の統
一的綜合にある。従つて各個人は凡て皆国家意思の決定に参与す可き固有の積極的権利を有すと言ふ事になる。
之を通俗に言ふならば、各個人は少くとも全体を造る有機的一部分としては、夫れぐ背王権者であると言ふべ
きである○此理から押せば、凡ての国民は洩れ無く皆国政に参与する所なければならぬことになる。之れやがて
普通選挙論の主張せらるる論拠になる。普通選挙論が、制度の上に初めて徹底的に顕はれたのは、一七九三年の
               ■
仏国憲法に於てであるが、此時の論拠は実に右述ぶるが如き理論であつたのである。
             ただ
 此の人民主権論は、当時膏に選挙権の論拠として唱へられしのみならず、一般民主政治の理論上の根拠でもあ
つた。従つて独り人民参政権論者ばかりでなく、所謂デモクラシーの主張者も、亦等しく其議論の根拠を滋処に
求めたのであつた。是れ当時の政論を読む者の注意を要する所である。而して其後政治学理は大に変遷したに拘
           ふ            すくな
らず、今日尚平然としてこの旧るい理論に執着して居る者の鮮く無いことも、亦特に注意する必要がある。
                                      さかん
 人民参政権が其最初の論拠とした人民主権論が、大に選挙権拡張の気勢を旺にした事は疑を容れない。併し乍
らこの論は果して選挙権拡張の真実唯一の根拠であらうか。先づ第一に考へねばならぬことは、人民主権論を執
278
選挙権の理論的根拠
れば、自ら民主共和を以て唯一の合理的国体と倣し、君主主義を絶対に否認するの結論に陥らざるを得ない点で
ある。第二に孝へ漑ぼならぬことは、天賦人権といふ思想は、人文発達史上の特殊の意味は姑く措き、今日の学
問からいへば、夫れ自身文字通りに受入れられぬことである。蓋し我々は決して生れながらにして独立自由では
ない。独立自由は将来に於て達成す可き吾人人類の理想的目標ではある。少くとも、我々は修養努力に由り独立
自由の人格者たるの可能性を有すと考ふる事は出来る。けれども、生れながらにして然りといふ事を出発点とし
て議論を進むる事は出来ない。之等の理由よりして、選挙権論は今や天賦人権論に拠つては、其基礎を説明する
事が出来なくなつたのである。
 さて選挙権が、若し元来天賦人権論を唯一の根拠とするものであつたならば、其基礎の崩壊と共に之も亦否認
                                                         ゆる
されねばならぬ筈である。然るに事実人民参政といふ事は天賦人権論の崩壊後打破ても、依然其主張を弛めざる
のみならず、益々盛に主張さる、を見るのである。然らば之は本来天賦人権論に拠らずして説明され得べきもの、
否な別の根拠に基いて被れとは全く独立に存在し得べきものと観なければならぬ。只其創唱の当初は、偶々時の
流行説たる天賦人権論を着りて其根拠を説明せんとしたのであつたが、今や天賦人権論は間違といふことは明に
なつたから、今後は之を捨てて他に別の合理的根拠を探し求めなければならない事になつた。何れにしても人民
参政従つて又選挙権といふ事柄それ自身は、天賦人権論と共運命を共にせずして、益々盛に発達の歩を進めて居
るのである。
 五、プロレタリア権利伸張論 第二に選挙権の根拠として採用せられたものはプロレタリアの説である。即ち国
民の大部分を占むるプロレタリア階級の利益を図り其権利を伸張するの手段として選挙権は普く与へらるべきも
のといふ考である。
279屠

 人民主権論の根拠に立つ選挙権論がプロレタリア説を論拠とするに変つて往く道筋は、歴史的に見ると極めて
明白である。而して此変遷を促すに最も与つてカあつたものは、第一には最大多数の最大幸福説であり、第二に
は社会主義の政党組織であると言はなければならぬ。人民主権論に基く国家観が、個人に対する国家の権力行動
を出来る丈け狭きに限らんとした事、而して其国権の個人に対する命令関係を是認すべき範囲は、其が最大多数
の最大幸福を図る場合に限るとせし事は今詳しく説くの必要はあるまい。兎に角斯くして国権発動の主たる標目
の一として、最大多数の最大幸福を着眼す可しとするの見解が段々起つて来たことを念頭に置けば可い。唯問題
は何が国内の最大多数者なりやといふに在るが、此点は社会主義の段々発達するに従つて所謂プロレタリア階級
が夫れであるといふ思想が起つて来る。「最大多数の最大幸福」説の本家と観る可き英書利に於ては、斯ういふ
考まで進まなかつたのに、大陸に於ける社会主義の運動が労働者の権利伸張を説くに及び、此と彼と結び付いて、
国家の目的はプロレタリア階級の保護伸張にありといふ考が強く主張さるゝ様になつたのである。
 然らばプロレタリア階級とは何ぞや。一体仏蘭西革命以来、第十九世紀の初頭、大陸の諸所方々に起つた政治
的革命運動は、成程一般民衆の名に於て為され、又実際一般民衆のカが大に与つて其成功を助けたのではあるが、
改革の結果に由つて新に権力の地位に登つた者は主として所謂中産階級以上の者であつた。そこで取り残された
所謂労働者階級は、一般文運の進歩に伴ふ下層階級の自覚といふ現象に伴つて段々不当に圧倒せられたる自家権
利の伸張を叫ぶに至る。漸くして結束したる彼等は自らプロレタリアを以て称し、而して此階級が実に国民の大
部分を占むる者なるの故を理由として、其利益幸福を図る事が即ち国家の主要なる目的たらざる可からずとする
に至つたのである。
 プロレタリアの利益幸福の増進が国家の主要なる目的の一なりとする思想から、更に一転して選挙権の国民的
280
選挙権の理論的根拠
普及を説くに至らしめたものは、独逸社会主義者の功である。主としてはフエルヂナンド・ラツサールの功であ
ると謂はなければ憤らない。ラツサール以外にも、又彼れ以前にも、之と同じやうな説を唱へた者が無いではな
い。けれども此点に於てはラツサールの功績が一番著しくもあり、又此方面の説明が大に天下に普及したのも彼
に依てゞある。然らば彼が如何なる意味に於て此方面の功労者と言はる、のか。
 滋に予輩は独逸社会主義の主張を詳しく述ぶるの達を有たない。唯其創始者と言はうか大成者と言はうか兎に
角独逸の社会主義はカール・マルクスに始まる事、而してフエルヂナンド・ラツサールの説は決して多くマルク
スを出づるものに非る事を一言するに止める。唯一つ先に看遁す事の出来ないのは、マルクスと−づッサールとは、
根本の思想に相類する者あるも、其理想実現の方法に関する考は全然相違せる事である。マルクスは此点に於て
は所謂国際社会主義の主唱者である。彼は所謂国境を重んじない。世界中の労働者はみな結束して資本家と闘ふ
可き事を唱へた。彼の見解に拠れば、国家と国家との戦争の如きは、専ら資本家の慾の為めのものに過ぎない0
故に労働者に取つては全然無意義である。労働者に取つてもし有意義の戦争ありとせば、そは資本家撲滅といふ
所謂階級戦争あるのみである。而して今日資本家は凡ゆる便宜を利用して労働者を不当に圧迫して居るのである
から、吾々は之に対抗するが為めにまた飽くまで腕力に訴へて、最も有効なる正当防衛の手段を講ずべきである
といふのである。人若し之を難じて国家の法的秩序を素乱すと言ふ者あらん乎、彼は答へて云ふだらう。国家の
法律といふものが、既に資本家に取つて、労働者圧迫の為めの一好武器に外ならないではないかと。之がまた今
日露西亜のレーニン、トロッキー等の取つて居る主張なる事は附け加ふるまでもない。然るにラツサールは之に
反して「国家」を重んずる。国法の許す範囲内に於て主義の実現を図るの可能にして又得策なることを認める0
而して彼が現在の国法的秩序の下に於て社会主義の理想の実現を可能なりと信じた根拠は二つある0第一は社会
剃一筋

主義が専ら眼中に置く所の労働者なるものは国民の大部分を占むるといふ事実である。舞二は一人四九年仏蘭西
が始めて之を採用して以来、普通選挙要求の声が独逸にも高く、−従つて此制の確立は必ずしも近く望みなきに非
ずと認めた事である。若し普通選挙の制度が施かれ、而して労働者が真面目に自分の代表者に共与へられたる一
票を投ずるならば、議員の大半を社会主義者で占むる事が難くない。然らば憲法上与られたる議院当然の権能に
基きて、合法的に社会主義の理想を実現する事が出来るではないか。斯くして彼は一入六〇年前後、挺身大に天
下に呼号して、労働者の須らく結束して普通選挙を要求し、又同時に政党を組織す可きの急務を説き廻つた。独
逸に一人六三年初めて社会主義の政党組織を見たのも、専ら彼の尽力に由る。之れより普通選挙は、プロレタリ
アの権利利益を主張し、由つて以つて国家をして其最も主要なる任務を尽さしむる所以の最も肝要なる方法であ
                                                  すくな
るといふ思想が生れたのである。今日でも斯ういふ考に基ゐて選挙権の普及を主張する者が世上に砂くない。
 併し乍ら此説は、第一に選挙権を以て或る他の目的を達する為めの手段と観る点に於て、又第二にはプロレタ
                                                     もと
リアの権利利益の伸張を図る所から、階級的差別を激成し、以て国家の統一観に惇るといふ点に於て、大なる理
論上の弱点がある。最大多数の最大幸福説が、最近の新しい国家観と相容れざる限り、此説の第一の根拠は崩れ
たものと言はねばならず、然らざるもプロレタリアは国内の量的優勢を代表するに止り、必しも質的優勢を代表
するものでないと言ふ点に於て、今日は大に排斥さるゝ事になつた。此説が少数特権階級の権利壁断の蒙を啓き、
参政権を弘く天下に普及せしむるに多大の功績を示した事だけは、之を認めなければなら〔な〕いが、只選挙権の
根拠を説明するの理論としては、今日は最早昔しながらの権威を要求する事は出来なくなつた。
も六、社会協働論 其処で昨今に至り新に第三の論拠が説かるこ」とになつた。夫れは何かと言へば社会協働論
である。此方面を最も能く明にしたものは、独逸に起つた共同団体の説、つゞいて仏南西に起つた夫のソリダリ
282
選挙権の理論的根拠
テ.ソシアールの学説等であらう。尤も今日選挙権の論拠として取る所は必ずしも所謂共同団体説、所謂ソリダ
リテ.ソシアールの鋭に其債囚へらるゝ必要はない。彼等に依りて著しく啓発された最近の国家理論を主として
着眼すれば宜い。其考の大要は斯うである。吾々人類は今日国家といふ団体生活に於て其生存の目的を果して居
る。この団体生活を離れて吾々の生活は考へられない。従つて吾々が、吾々の生活を充実するといふことは、其
前提として又は同時に、団体其物を充実することでなければならない0こ、に国家と個人との徹妙なる有機的関
係が成立する。此の有機的関係を根基として個人は十分に国家の充実に努力せなければならず、国家はまた十分
に個人の発達を助長せなければならぬ。斯くして一方には、吾々国民は各々其積極的の責任として進んで国家を
経営すべき直接の分担を有すとの見解も起り、また吾々はこの国家経営の積極的持ち分を十分果たし得る様な地
位を与へられんことを要求すべしとの見解も生ずるのである0この事は君主国に放けると民主国に於けるとに由
って異る所はない。少くとも近代国家に在つては総てに共通する理論と言つていい○果して然らば吾々は一方に
於ては国家の経営に関する積極的責任を完うする為めの物質上精神上の保障を要求するの権利あると共に、又国
家が自ら其運命を決せんとするに方り、其意志決定に参加するの固有の権利を主張する事が出来ねばならぬ0又
国家の方から言つても、国家を組織する各員を物質的に且つ精神的に充実せしむるのみならず、更に彼等をして
国家の為めに意識的に行動せしむる様にする事が得策であり又必要である0此点が実に民本主義の政治の拠つて
                                             *
以て立つ所でもあり、又同時に選挙権の拠つて以て生ずる所の淵源である0

 * 以上選挙権の理論に関する論究は、余りに粗雑にして我ながら不満足の点が多い0たゞ一般通俗の読みものとしては
  之れ以上立ち入るは、却つて読者を煩はすに止るべきを恐れて此優にした0他日もつと詳細なる攻究を遂げて、本書附
  録の一部として追加するか、又は別の形に於て発表せんことを期する0
竿屠

以上述ぶるが如く、選挙権の理論的根拠に関する説明は、三大変遷を遂げた。共第一期に於ては共和主義に伴
ひ、第二期に於ては社会主義に伴つた0其の結果として少くとも其変遷の歴史的過程に於ては、選挙権論が或は
共和主義或は社会主義と密接の関係を有つて居つたことは疑ない0然し今日一般に承認せらるゝ理論から云へば、
選挙権は国家の本質に基く当然の帰結にして、如何なる国家も必ず之を認めねばならぬものとなつて居る。殊に
選挙権の国民的普及即ち普通選挙の論になると、世上往々之を以て共和国にのみ行はる、ものと誤る者もあるが、
  わら
之は噂ふ可き謬見である0唯従来共和主義者や社会主義者が最も多く之を唱へ、且今日でも此種の傾向を帯びた
者が著るしく此論を高調するので、為めに穏健なる政治家の肇壇に催する様な過激の議論も時々交へらるこ」と
がないではないバ従つて世人が普通選挙説に対して動もすれば誤解を懐くといふにも無理はないと思ふけれども、
然し妨主が憎いからとて袈裟まで呪ふのは、余りに理に外れた見解である。而して普通選挙に関する誤解からし
て、引いて選挙権そのものゝ論拠まで累を蒙るが如きあらば、吾人は只之を一遺憾事として放任して置くことは
出来ないのである。
                      〔『中央公論』一九一九年二月、初出の表題「選挙権拡張問題」〕
284
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