東学及び天道教
日本と朝鮮との交渉に関する研究の二


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 先年の朝鮮の万歳運動以来、天道教の名が著しく我々内地人の神経を刺激するやうになつた。そは天道教が実
に之等の運動の中堅を為すからである。天道教とは一体どんなものか。
 天道教は東学党の一変形であることは前号にも述べた。東学党といへば、之は日活戦争の原因を為すもの丈に
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我々に新しい名林ではない。そこで先づ東学党の起りから詮索して掛る必要があみか
 東学党の起りは、今より約六十年の昔に遡る。尤も此頃は東学党とは云はず、単に東学と云つた。東学は即ち
西教に対するもので、始めから少しく排外的色彩を帯びてゐる所に注目を要する。
                  きいせい▲ぐ
 初めて所謂東学を唱へ出したのは程済愚といふ人である。彼は一入二四年(西暦に依る)南朝鮮の慶州に生れた。
家は地方の豪族で、父は博学多識を以て郷党の重んずる所であつたと云ふ。政治の腐敗、官吏の横暴、階級別の
姪枯等、御走りの事情が揃つて居て、有為の人材は不平の裡に世を見限つて仕舞ふ。彼の父も固より此例に漏れ
ない。笹済愚は実に斯う云ふ境遇の下に斯う云ふ人を父として生れたのである。加ふるに彼の幼時は、家政も段
                            〔酸〕
々傾いて来たので、壮年時代まで随分辛惨を嘗めたと云ふ。彼の教に政弊の革新と救国済民の要素を含むは右の
様な事情に基くものと思ふ。
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 併し彼の教の表面上の立場は右の様なものではない。純宗教的なものである。伝ふる所によれば、彼は生れ乍
らにして甚だ宗教的素質を有つて居つたとやら。是れ一つには父よりの遺伝であらう。彼は幼時衣食の道に追は
れ乍らも儒・仏・老・荘の諸典を渉猟して倦まなかつたさうだ。斯くして彼は年齢三十有五にして天命を受けた
りと称して世の中に出て来た。先づ彼は或る山寺に寵り、天に祈ること四十九日、天帝との霊交を体験して民衆
      はじ
教化の事業を郷むるに至つたと云ふ。之より彼は四年間普く南朝鮮を巡歴して布教に従事したのである。
 彼の教旨を組織的に紹介するは今私の目的とする所ではない。之を知るには彼の作つた布徳文や東経大全など
色々のものがある。之等は「天道教研究資料」と遺して大正八九年の頃『国家学会雑誌』に訳文を公にした事が
ある。要するに、さうはつきりしたものではない。所謂儒・仏・道三教の粋を集めたと称するも、固より整つた
一体に完成せられて居るのではない。冷静に考へて観ると、余程基督教からも取つて居るやうでもある。疑のな
い点は、彼は儒教の天を説き而かも之をば基督教的に人格的に解し、自分は之と日夜交通して居るものだと訓へ
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て居る事である。即ち自分は天の道を教へるものだといふのである。是れ後に天道教と名を改めし所以である。
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 然るに彼は斯う云ふ結構な天道の名を称せずして何故に東学と名づけたかと云ふに、之には大に理由があると
思ふ。或人は云ふ。当時朝鮮には天主教即ち西教の抜屁甚しく、一度之を迫害せるも殉教的精神を以てする伝道
は益ケ盛にして、一部の人は非常に之を怖ろしいものに思つた0そこで之に対抗して何等か一新運動を起すと云
              と
ふ事は最も時人の心を撹るに都合がよかつたのである。是れ東学の名を取つた所以であると。成る程西教の危険
を誤りて過大に怖れて居つた場合に、国粋に拠て奮起せりと声言するは、運動の勢を張るに便利であつたらう。
之も憶に一つの理由であつたに相違ない。けれども一つの理由として或人は斯様にも云ふ。鄭鑑録には一大国難
の後」偉人席方より現れて故国を救ふとあるので、笹は這の迷信に乗じ、「我は東に生れて東に天の道を学びし
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者なり」と声言し、さてこそ東学の名を立てたのだと。此点は甚だ正確だといへぬが私は之も主たる原因だらう
と考へて居る。少くとも鄭鑑録の迷信と照し合せて、彼の教が東学の名をつけた為に大に拡まつたことだけは疑
を容れぬ。而して少しく詳細に立ち入つて考へて見るに、東学の教の中には随分鄭鑑録の所載と相応ずる者も少
く無い様である。
 又此教は国政素乱・民心昏迷の際に生れたものとて、同じ様な事情の許に生れた大本教など、同じ様な事を述
                                                   あらた
べて居る所もある。今や国家は道徳地を掃町人心惟れ危く人々に禍多しといふが如き、上下心を俊めて我が教を
      やまい
奉ぜば始めて疾を免れ長寿を保たんといふが如き是れである。兎に角人心漸く昏迷せるの際とて、.彼の教は実に
非常な勢を以て拡まつた。一人六四年三月彼の大邸に殺されし時には教徒の数三千を超へたりとの事である。
 彼は何故に殺されたか。一つには自ら天命を受けたりと杯したからである。天餅を受けたる者之を天子と為し
万民を支配するの権を有すとは、儒教の思想である。朝廷は即ち天の命を受けたる者の子孫、事実はカによりて
天下を統治してゐるのだとはいへ、理論上に於ては天子の国君としての地位を保ち得る所以は、天命に違はざる
に因るのだ。従つて朝廷の威衰へ天下漸く乱る、と、叛を謀る者は常に必ず日ふ、現在の王は上帝に見限られ、
天命新に我に下つたと。故に天の命を受けたといふは即ち謀反する事と同一に解せられるのである。笹済愚の意
いずこ
何処に在りしやは明ならざるが、あゝ云ふ天才に斯う云ふ様な事を口にする七いふは兎角有り勝の事である0少
くとも斯く誤解さるゝやうの事は恐らく云つたらうと思はふゝ(大本教の不敬事件を連想して見よ)。其結果とし
                                                     カ
て東学は動もすれば政治的非望を懐くものとの嫌疑を蒙つて居るのに、鴇てゝ加へて之に集るものに時の政治に
不平なるものが甚だ多かつた。之れ彼れが謀反の盟主と観られて刑死せしめられた第二の原因である0更に彼の
疑を蒙つた第三の原因としては、東学は即ち国教とも云ふべき儒教に反対したといふ事を挙げねばならぬ0此事
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は深く間はずしても明であらう。要するに以上の様な事情が重なり合つて、彼は遂に大邸の監司に捕へられ、邪
道を以て民を誘ひ、徒党を結んで陰謀を企つるものとせられ、前記の如く一入六四年(元治元年)三月十日刑場の
露と消へたのである。時に四十一歳であつた。而してこの最後の一年は彼の最も活動せし時代であつた。
  ついで
 猶序に申して置くが、予はさきに雀が共教を立てるに際し基督教を加味したらうと云ふ事を述べたが、其の最
                ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
も著しいのは彼が特に天に対する祈藤をす、めた事である。尤も基督教の如く熱烈なるものでない。けれど天帝
を人格化する思想に基かなければかう云ふ考の起り得る筈はないのである。其外教祖の事蹟中に聖書にあるやう
な奇蹟を取り入れてあるなども看逃し能はざる証拠である。
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               さい‥じ ころノ
 笹済愚の刑死するや、門人笹時亨なるもの其後を受けた。彼は済愚より後るこJと三年、即ち一人二七年同
                                     しかのみなちす
じく慶州に生れた。彼は教祖処刑の後をうけ、教勢頓挫の中に種々の困難と戦つた。加之教祖の処刑に憤激し
〔ママ〕
処刑乱を起すものあり、又時に東学に名をかりて事を起さんとするものなどもありて、政府の圧迫は益々甚しき
を加へ、為に彼の辛惨を嘗むることは実に名状す可らざるものがあつた。夫れでも彼は熱心に伝道した。其中に
は政傭の手も弛む。斯くて一八人五年頃より又盛となつた。是れ矢張り国勢不振に悩む民心に入り易きと、鄭鑑
録の迷信とに原因するものと思ふ。執れにしても、東学は再び盛に流行する様になると、政府は亦再び疑の眼を
差し向けて来る。斯くて又前よりも一層ひどい迫害が始つて来る。之より夫の東学党の乱が起るのである。
 何処の国でも有り勝ちの事だが、朝鮮の官吏は名を東学の撲滅に籍りて非常な横暴を働いた。東学に対する庄
                                                                              【支〕
追だけでも民の怨嵯に催する。況んや之に薄口して体のい、掠奪をやるに於てをや(丁度徳川時代に仏寺が切利
                               い‥じ
丹邪宗門取締の」樺を与へられたので之を利用して人民を苛めたのと異曲同工である)。そこで民心は大に険悪に







                                       〔一環レ
なつた。段々年を重ぬると共に大に危ない状態となつた。李大王は一旦懐柔政策を取つて破綻を未前に防がんと
したけれども、下級の官吏は十分に其旨意を奉体し得なかつたので、更に緩和の効を奏しない○遂に不平の勃発
が東学党の乱となつたのである。
                 ぜんはうじゆん
 東学党の名を以て乱を起した大将は仝捧準である。地方の一豪農であるが、深く政府にふくむ所あり、東学の
徒のカを利用して事を起したともいふが、又東学の人々から担がれたともいふ0執れにしても東学の徒が彼を首
将として革命戦を開始したといふ事だけは疑を容れない。但し東学の徒が革命乱を起したからとて、東学を政治
        い け な
的結社と観ては不可い。又李朝に反対する徒党と観てもいけない0彼等は主としては宗教的団体である0唯彼等
は其修養と其努力とに依つて最も開発したる団体となつた。従つて又現状に最も不満を感ずる団体となつたので
ぁる。革命と謀反とが彼等の本領ではない。彼等が最も開発したる階級たりしが故に卒先して革命的運動を姑め
たまでゞある。夫れ丈け彼等は偉いのである。之と同じ様な関係は今日の朝鮮独立思想と基督教徒との間にもあ
ると思ふ。独立運動などの巣窟に基督教育年会がなるので、基督教が独立運動の後押しでもしてゐる様に考へ、
                                                   し
甚しきは米国人などが青年会を利用して朝鮮人を日本に背かしめてゐるのだと誕ひるものあるけれども、之は共
に普大なる誤りである。独立運動はいゝか悪いか、其判断は滋処でする限りでないが、兎に角之を敢てする程の
ものは偉い者に限る。どうして偉くなつたか。宗教の御蔭である0基督教は庚に彼等の聡明を開いてやつた0聡
明を開かれたるが故に独立運動などを始めるのだ。斯くして偶然に青年会や教会などが其運動の策源地となるは
怪むに足らない。教会が直に必然的に独立運動の源泉なのではない0故に間島にて行はれた様に、教会を焼き払
            や
ったからとて独立運動は岨む筈はないのである。独立運動は民智開発の結果である0民智の開発はもと之を抑へ
る事は出来ぬ。之を抑ふ可ちずして而かむ独立運動を阻止緩和せんとせば、最も根本的な所に立ち入つてもつと
つヘノ
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慎重な攻究を重ぬることが必要であると思ふ。
 故に当時の乱は東学の徒がやつたのだけれども乱と東学とは何も必然の関係があるのではない。乱の起る原因
は政府で多年作つて居る。東学と云はず西教といはず、誰でも不平を有つて居つたのである。偶々東学の徒は特
別の聡明と特別の勇気とを有つて居つたが故に万民に代つて革命戦を開始したのである。東学の徒は特に斯う云
ふ方面に活動する様な素質を有つて居つたとはいへる。けれども教そのものゝ中に革命的分子が主として動いて
居るのではないと考へる。されば東学の中にはまた斯かる実際運動に関係すべきでないと云ふ風に考へた人もあ
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つた。現に教祖を継いだ第二世教主笹時亨は厳しく之に反対した。彼は純宗教的の考であつて、東学としては斯
程の実際的運動に干渉すべからずと宣言した。少くとも這般の革命戦に東学の名を冠するに極力反対した。然れ
ども他の一派は、東方の偉人来りて我々を救ふと云ふ郷鑑録の迷信もある事とて、東学の名を唱ふるを便利とし
                    きゆう甘ん      く
たのである。而して時勢が時勢だけに、天下は泰然として全棒準に与みし笹時亨の方は東学の本流だけれども萎
                           あた
麻として振はず最も困難を嘗めたのである。此時に方り彼と倶に具さに敷難を嘗め、彼を助け又彼を慰めたのは
                              そんへいき
今度天道教の教主として独立運動の首魁を以て目せられ居る孫棄照である。
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 東学党の乱の事は今更詳しく説かなくてもよからう。仝棒準の起つや集る者雲の如く、仝羅道に於て最も猫漉
                                   こうけいくん
を極めたが、政府軍到る処敗走して王都将に危からんとした。招討使洪啓薫策尽き書を上りて外国の援兵を借ら
                                                          nリこ・∧ノしよ・∧ノ
んことを乞ふた。韓廷狼狽の極時の公使衰世凱に厚く贈賂して清兵の来援を求めたのである。李鴻章乃ち衰の請
に任せて出兵する其際の清国政府の日本に送れる知照が韓国を属邦と称せるに憤慨して遂に日活の戦争となった
                よスノげき
のだ。而して日本軍は忽ち清兵を遊撃し後朝鮮政府の請を容れて東学党をも掃定した。之より朝鮮政府は日本の
援助により大に東学の徒を迫害し、其幹を切り其根を絶やさずんば已まざるの態度に出でた。之より約十年は東
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〔『文化生活』一九二一年七月〕