民族と階級と戦争


 日本の満洲経営は一朝一夕の事ではない、満蒙が国防上また経済上我国に如何なる関係を有するやは今更絮説するだけが野暮だ。我国は之が為に一度国運を賭して露西亜と戦つた、其後支那政府の諒解を得ていろ/\の権益を此地に設定した。然るに最近彼国官憲は種々の口実を設けては権益の完成を妨げる、甚しきは既に完成したものを蹂躙する、信義に悖つて我国人の生存発展を阻止するが如き事実は数ふるに遑ない。斯くて満鉄線路爆破といふ突発事件に機会を見付けて今次の事変が勃発したのである。
 さて然う云ふ意味で起つたとすれば、今次事変の行き着く先は略ぼ自ら明瞭な筈だ。この事変を通じて我国の民国に望む所は最少限度に於て既得権の尊重でなければならぬ。之は理に於ても当然であるが、併し実際問題になると爾(しか)くその範囲が明瞭でない。そは第一に既得権の内容に付て彼我の間に著しい見解の相違があるからである。そこで我国は動もすると遠い外国から侵略的なりと誤解されるわけであるが、之に対して我国官憲は断じて侵略の意志なきを中外に声言し頻りに一切の行動は自衛権の発動に外ならざる旨を弁明して居る。
 満洲に於ける軍事行動は時を経るに従て段々趣を変へて来て居るやうである。初めは成る程単純なる自衛権の発動であつたかも知れない。今日では自衛権の意味を余程広く取らねば××〔説明〕のつかぬことが多い。暫く一片の理窟を弄ぶを許さるるなら、一体自衛権の発動として非常行動に出で得るのは、重大なる利害が不当の強迫に遇ひ其状の頗る急なる場合に限るのである。普通の個人間に在ては其際相手方を必要以上に追窮するは其自身亦一不法行為として難ぜられるが、国際間では必ずしも然らず、禍根を絶つことも場合に依ては自衛権の圏内の事として許され得んも、事実の認定に格別慎重の注意を加ふべきは言を待たない。更に進んで自衛権の発動として達せんとする目的のうちに繋争権益の確認とか将来の保障の為めの新義務の負担とかを含ましめ得るかと云ふに、「戦争」の結果ならばいざ知らず、単純な自衛権の発動の××〔結果〕としては些か無理だと思ふ。現に我国は他日の撤兵交渉に於て永年我の主張し彼の否認し来りし諸権益の新なる確認を要求、排日排貨の将来に於ける取締につき厳重なる義務を負担せしめ、更にまた条約一般尊重の再確認を約せしめて例へば夫の二十一ケ条問題の如き××〔強迫〕を理由とする条約の一方的無効宣言を×××〔防がん〕として居るとやら。いづれも我国としては至当必要の要求であるが、併し之を自衛権の発動の当然の要求とするはいさゝか××〔理屈〕に合はぬと考へる。而して必要当然の要求なら何も自衛権の文字に拘泥するには及ぶまいと考へる。
 それでも政府殊に××××××〔陸軍省当局は〕今なほ頻りに自衛権を以て一切の行動を説明せんとして居る。去年の暮南陸軍大臣は錦州政府の関外に存立する間は邦人の生命財産は安全なるを得ぬ、張学良の勢力を満洲から完全に駆逐し去るまでは軍事行動をやめないと宣言した。北に於ては馬占山を、南に在ては張学良を、即ち日本に好意を有たざる諸勢力を一掃し、×××〔満洲に〕プロ・ジャパニーズの×××××××××〔政権を樹立すること〕までを自衛権××〔当然〕の発動と見得るや否やは問題であらう。
 こゝまで行くと実は××××〔侵略行動〕になるのだ。政府並に軍部の人達は既に一旦自衛権の発動に過ぎずと云ひ毫も侵略的意図なしと声明した手前、今更自家の行動を××××〔侵略行動〕に相違なしとも云ひ兼ね依然自衛権の文字に拘泥して×××〔無理な〕説明を続けて居る。尤も彼等は自衛権の意義の斯く広く解せられざる可からざる所以につきては、特殊地域といふことを重要な理由に挙げた。満洲は日本の生存に取つて特殊の緊密な関係に在る、従て其権益に就ても
特殊の見方をする必要があるといふのである。国際聯盟あたりの異議に遇ふと、這般の認識が足りないのだと云つて対抗する。民国は固より日本の此立場をオイソレと認めぬにきまつて居るが、せめて諸外国が之を認めて呉れると云ふのでないと、既定の方針を押通さうとする我国の外交的地位はなか/\安易なものではない。
 満洲が領土接壌の特殊地域であると云ふ事は従来国際的に或点まで認められて来た所である。意義が極めて明確だとは云ひ難いが、従来認められ来りしは実は国防的意義に於けるそれであつたと謂ふべきであらう。その意味ならば今日の国際聯盟でも恐らく苦もなく承認されるだらう。所が満洲を特殊地域とする意味は我国に於て何時の間にやら段々変つて来て最近は特にその経済的方面を高調するやうになつた。即ち日本は極めて天恵に乏しい国である、満蒙の自然が埋蔵する宝庫に侍らずして日本民族の将来に活くべき途はない、満蒙は日本民族の生存其ものの為に絶対に必要だと云ふのである。然り満洲は経済的に観て日本の為の特殊地域である。そこでその特殊地域たる所以を完うすることを目標として今次軍事行動の善後始末をつけようではないかと云ふ事になる。政府並に軍人も腹は此考に違ひないのだが前の声明に拘束されてか判然と云ひ切れずして居るやうだ。併し正直なる国民の中には、今や自衛権などいふを口にも出さず、民族生存の必要を論拠として出兵を是認し軍事行動を支持し、目的を達する為には此上の犠牲をも辞せずといきまく者がボツ/\現はれて来て居るのである。
 そこで私は考へる、表向き政府や軍部やは今なほ満州に於ける軍事行動を自衛権で説明しようとして居るけれども、一般国民の方は知らず/\の間に日本民族の生存上の絶対必要と云ふことに目標を置換えて居ると。軍事行動の起りは在留邦人の生命財産の保護といふだけの事であつたかも知れない、併し在満邦人は日本民族に取つての絶対必要たる満洲経営の前衛だ、之を迫害するは則ち絶対必要たる権益の侵害だ、之は完全に排撃せられなければならぬ、而して権益は十二分に保護伸張せられなければならぬ、折角始めた軍事行動だ、之が跡始末はどうしても満洲の事態をして我国の特殊地域としての面目を完全に備ふるに至らしむることでなければならぬといふのである。


 満蒙に於て有する日本の権益の中には、民国側に於て認めるもあれば又認めざらんとするもある。否認の理由の一つに其権益の基く条約が強迫に出づるものであつて本来無効だからといふ説がある。強迫であらうがあるまいが立派に調印された条約を一方的意志で勝手に無効呼ばはりするは明白に国際信義の背反である。相当の方法に依つて改訂を求むるはいゝ、改訂あるまでは之を認めないといふ方が無理だ。従つて我国が一切の権益に付て其の十分なる運用を要求し之に対する一切の障碍を排除せんとするは正しい。然う考へると、之等の権益に対する支那官民の永年にわたる直接間接の侵害は明かに武力救済行動の一理由たるを失はない。是れ今次の出兵が自衛権の発動と云ふことを以て説明されて居る所以である。併し乍ら之は実は形式上の話だ。我々はモ少し事の実相を透察しなくてはならぬ。成る程わが権益に手を触るるものは許しては置けぬ。けれども其権益の実質がさ程大したものでなかつたら、果して我々は兵力を動かしてまで其救済に急いだであらうか。少し早過ぎたと思はれる程に又少し行き×××〔過ぎた〕と思はれる程に大袈裟な軍事行動を執つた点から観て、我々は所謂権益の包む内容実質の如何に重大なるものなるかを想像せざるを得ない。その重大とされる所以は各方面から説かれ得ることであらうが、独り経済的関係のみから観るも、或は撫順炭礦の露天掘りだけでも昨年は七百万噸を採取した。今の所何時尽くるか先きが見えないとか、或は石炭と石炭との間にある泥の様な廃物からオイルセイルを得ることが発明され其結果現在日本各種工業並に海軍方面の一ケ年の重油使用量を五百三十万石とすると撫順だけで優に三百年間は支へ得るとか、殊に話の大きいのは鉄で、之こそ満洲に於ける埋蔵量は無尽蔵であり五百年で乏しきを感ずるか千年で無くなるか分らないと云ひ、其外衣食住の原料に在ては現在の幼稚な経営の下に放任しても驚くべき生産高だとか云ふわけで、要するに満洲に片足を踏み込んだ日本は恰度宝の山に入つたやうなものだといふのである。それに此頃よく人は云ふ、日本の軽工業はもう行詰つた、之から重工業に移るでなければ産業の将来に見込みはないと。果して然らば満洲の重要性は益々加はるのだ。満洲の何等かの形式による獲得を以て日本民族生存上の絶対必要とするも故なきに非ずである。我々は昨今いろ/\の人から斯んな事を聞かされる、満洲に権益を張らなければ日本は亡びる、民族の生存繁栄の為には嫌が応でも満洲に確実な地歩を占めなければならぬと。国民は今や斯く信じて出兵を承認した、少し位やり過ぎても夫れだけ日本の立場は鞏固になると考へてその軍事行動を支持して居る。満洲に於ける軍事行動は斯うした国民的信念を背景とし、其支持に恃みつゝ其要望に応じて進められつゝありと観ねばなるまい。
 して見ると満洲に於ける××××〔軍事行動〕の本質は×××××〔帝国主義的〕だと謂はねばならぬ。之は論理上当然の結論なのだが、多くの人は多分斯く断定するを欲せられぬであらう。併しそれは帝国主義的進出を罪悪視する先入の見に捉はれる結果ではあるまいか。帝国主義の悪名を恐れて×××〔自衛権〕の看板にかくれるりが、やることが事実×××××〔帝国主義的〕であればそは畢竟慈善の×××××××××××××〔装の下に人から奪わんとする〕が如きものではないか。××××〔軍事行動〕を廃さうとすれば帝国主義的進出を思ひとゞまらなければならぬ、之を思ひ止まれば日本民族の前途に光明はない、どうしても自滅したくないと覚悟をきめて、先にはじめて帝国主義の再吟味となる。我々は自家の生存の為に満洲に権益を設定してわるいのか。之が今我々の直面せる緊急問題である。
 国民社会主義を奉ずる人の一部に斯う古ふ意見があると聞く。曰く、国内に於ける搾取関係を廃絶して国民一般の生活水準を平均せしむべきが如く、国際関係に在ても土地及び資源に対する平等の獲得を要求するは正当の権利であると。理論として之は傾聴に値する議論だと思ふ。日本の如く土地も狭く資源に恵まれず其上人口の極めて夥多なる民族は、這の権利を許されずしてどうして活きて行けるか。満蒙の如き西伯利の如き将た濠洲の如き人口に比して過分に広大な地積と資源とを擁して而も門戸解放に肯じない態度には、少くとも徳義上の根拠がない。故に一片の理論としては、土地及び資源の国際的均分を原則とし之に基いて占有の過不及を整理せんとする考は正しいと思ふ、殊更之を日本のやうな国が主張する場合其の特殊な急追の事情と併せ考へて頗る強く支持せらるべきであると云はねばならぬ。
 そこに民族生存上の絶対必要と云ふに基く帝国主義的進出の一応納得せらるべき理由が存するわけだ。日本が之れ程困つて居るのに嫌だと云ふのは支那の没義道だ、とはいへ支那は予期しない××〔犠牲〕を払はせられるのである、人情として実は出したくはない、出さねばならぬとしても成る丈け少額で済ましたい、之に対して日本の方は少しでも余分に××〔取り〕たいと来る。中々纏りがつかないのであるが、斯かる問題が強弱の勢を異にする間に起ると紛糾が一層大きくなる。力の強い国が動もすれば強いに任せて適当の圧追を対手国に加へるからである。さすると必要の度を超えた××××〔軍事行動〕になる。帝国主義的進出も××××〔軍事行動〕の色彩を濃厚にすると今日の時勢に於ても公認を得難きは言を待たない。
 土地及び資源の国際的均分といふ。言ふは極めて易いが実際之をどう実現するかの具体案の発見は殆んど不可能に近い。疑のない点は、兎に角之は強力なる国際組織の統制に委するの外に途はないと云ふことである。此事の詳論は他日の機会に譲るが、現在の所では民族生存の必要に根底する帝国主義的進出には理論上一応の合理性はあるとすべきも、実際問題としては其の進出たるや適当の畛域を超えたりとする第三者の批判を免れ得ぬ。この事実は到底之を掩うことは出来ない。軍事行動の性質上致方ないものでもあらう。
 私共は子供の時から渇しても盗泉の水を飲むなと教へられて来た。いさゝか社会の現状に目覚めた今日必ずしもこの訓育を文字通り奉ずる者ではなく、殊に満洲問題のやうな事件に当面すると、日本の必要を無視して我が権益の行使に不当無用の小うるきき妨害を試みた民国官民の態度を腹立たしくさへ思ふのであるが、仮令正当な権利の要求の為とは云ひ、其貫徹に大規模の××××〔軍事行動〕を執つたと云ふ事に付ては心中ひそかに一種不安痛恨の感を催さざるを得ない。だから出兵に反対だとか軍事行動を廃せとか云ふのではない。やりかけた以上いゝ加減で中止し得るものでもあるまいし、民族的必要を将来に伸張し得る見込の確立するまではやつて貰はねば困るのでもある。が、前述の如く××××〔軍事行動〕の性質上彼我ともに過分の苦悩を嘗めさせられるを見ては、喧嘩しながらも其処に一種痛切なる反省が起り時としては熱烈なる××〔批判〕の起るのも当然だと思ふ。戦争で勝つたからとて、今に莫大な利権が×××〔取れる〕からとて、全国民がたゞ一本調子に歓喜するのみなるは決して正義の国日本の誇るべき姿ではない。満洲事変に関する問題の全面に就て国内にもつと自由無遠慮な批判があつても然るべきではあるまいか。今次の事変は日清戦争や日露戦争などとは全然其性質を異にするものである。
 この点に於て私が最も××〔遺憾〕とし同時にまた最も意外としたことは二つある。一つは不思議な程諸新聞の論調が一律に出兵謳歌に傾いて居ることであり、他は無産党側から一向予期したやうな自由豁達の批判を聞かぬことである。無産党は黙し新聞は一斉に軍事行動を讃美する、国論一致は形の上で出来上つた。而して之を無上の祥事とするは蓋し××〔浅薄〕である。人はよく時局の多難を云ふ、経済上思想上等の観点をも取入るれば時局は成る程多難に相違ない。併し満洲事変其ものは実際どれ程時局を多難ならしむる因子となつて居るだらうか。国際聯盟に於ける空気は頗る険悪である。併し之は自衛権の××〔発動〕を以て×××××〔帝国主義的〕進出を××〔弁明〕せんとしたからの失策であつて、始めから日本民族生存の必要を楯に取つたら斯うまで難儀しなくても済んだだらうと思ふ。向ふの納得せざるものを××××××××〔合法正当なるもの〕として×××〔構わず〕に挙国一致の積極論を作り上げたと云ふ人もあるが、其の真偽は別論として、斯の如きは畢竟日本国民に対する諸外国人の不安不信を煽るにとゞまるものである。若し夫れ満洲に於ける敵側勢力に至つては要するに烏合の衆に過ぎず、現に見るが如く鎧袖一触蜘蛛の児を散らすが如く蹴散らしたではないか。故に私は曰ふ、満洲事変其ものは夫れ程時局を多難ならしめて居ないと。現に満蒙各地には我と親善の関係を続け軍事行動に便宜をはかつて居る土着人も尠からずあると聞く。敵対するものとせざるものとを問はず彼等は本来我々の敵ではない、軍事行動が済めば皆手を取合つて資源開発に協働せねばならぬ人達である。して見ると我々が満洲事変に対し所謂対支膺懲的に一本調子になり得ざるは当然だ。日本の将来を考へ日支関係の正しき親善を冀ふ者に於て殊に然りである。斯う云ふ立場から私は、今次の事変は従来屡々経験した戦役の場合とは違ふ、国論の一致を説く俗論に×××〔同調す〕べきでないと考へて居つた。従て少くとも諸大新聞の論壇に又無産党側の言論行動に国民の良心を代弁する自由発達の遠慮なき批判を期待したのであつた。而して今日之がないのを甚だ遺憾とし又意外とする次第である。
 新聞の論壇が出兵を謳歌し現在の軍事行動を無条件に讃美したとて其事自身には何の異議もない。たゞそれが従来社会の木鐸として彼等の執り来りし主義主張との間に余りに大きな飛躍があるのを異とするのである。新聞に教へられ其の指導に順従し来りし我々は、今度の問題で飛んでもない遠い処に置去りを喰はされた感がする。新聞の飛躍的態度が正しいので我々の取残された立場が間違つてゐるのかも知れぬが、従来の指導方針を一貫されたら、論壇の調子はもツと違つた筈だと考へざるを得ない。兎に角今次事変に対する諸新聞の態度は故らに言ひたい事を××××〔遠慮して〕ゐるやうで変だ。
 無産党に至つては猶一層甚しい。従来彼等は最も右なるものより最も左なるものに至るまで均しく皆所謂帝国主義的戦争絶対反対を重要綱領の一に掲げて来た。今度の出兵は全然帝国主義的進出を意味せずと堂々たる弁明を以て世論を納得せしめざる限り、彼等は義理にも何とか之に文句をつけねばならぬ筈だと思ふ。然るに事実はどうだ。最も猛烈なる反対運動を予期さるべき左翼は殆んど沈獣を守つて居るではないか。中間派は時々思出したやうに小さい声で反対声明を出しては居るが一向世上に徹底しない。右翼に至つては初め頗る曖昧なる態度であつたが近来は段々出兵乃至軍事行動を全面的に支持せんとさへするものの如くである。斯うした態度其自身の是非は暫く別として、之等は決して彼等が従来の言論行動に依つて我々に期待せしめた所のものではない。良かれ悪かれ彼等も亦今や我々の予期に反いて飛んでもない方向に走り去りつゝある。
 満洲に於ける軍事行動に対して無産党の沈黙を守ること其自身が既に一種の変態だと思ふが、その陣営の一角だけの問題にしろ、之を是認し進んで之を支持せんとする者あるに至つては正に之を思想上の一大変革と観ねばならぬ。何となれば無産党側の人達は従来ピンからキリまで階級第一主義を執り其見地から戦争絶対反対で一貫して来て居つたから。
 階級第一主義といふは必ずしも階級的必要と民族的必要とを対立せしめ後者を抑へて前者を立てるとの謂ではないやうだ。彼等は無産階級の勝利に依つて階級的反感が無くなれば民族的反感も自ら無くなると云ふ。この思想は無産階級間には本来利害の衝突がないから偏狭なる国境感を欠くと云ふ考と、階級間の搾取関係を消滅せしめると云ふ考とを双脚として成立する。現に多くの国に於ては内部に階級軋轢の状が益々昂まつて居るので、其が絶滅した場合をテストすることが出来ないが、兎に角現実の状勢は右の如き将来の予測を信ぜしむるに困難であるのみならず、少くとも斯の予測に基いて実際上の諸般の方略を樹つるを許さない。更に進んで階級第一主義者は曰ふ、階級紛争未だ滅せざる場合でも無産階級間の連帯感情は自然と有産階級の起せる民族闘争を終熄せしむる力をもつと。詳しく云へば、自分達の利害に拘はりなき戦争に対し両国無産者の連帯感念は遂に其の戦争の継続を×××〔不可能〕ならしめ、殊に両国の力の差が大なるときは、強国の弱国に対する圧迫の支配階級的なるに刺戟せられて弱国の無産者は一層強国に対する敵愾心を燃やし、強国の無産階級をして一層呼応蹶起に便ならしむと。若し之が本当なら、民国の無産階級は挙つて反戦の協働運動に手を指し延ぶべき筈だ。此際日本の無産階級の態度の××〔定ら〕ないのを遺憾とするが、民国の無産階級の排日排貨が支配階級と無産階級との見境なく日本人の全部に向いて居るのは甚だ階級的でない。而して両国の無産階級相呼応して戦争を未然に防止すべしとの期待は欧洲大戦勃発の際見事に裏切られた。いづれにしても民族的対立感念は爾(しか)く安易に取扱はるべき問題でないと云ふので、一般の論壇に於ける階級第一主義は最近とかくの批評を免れなかつた。
 現前の事実から云つても、国内の搾取関係の絶滅を叫ぶ無産階級が一旦占め得たる生活水準の低下を恐れて国際的機会均等には常に反対するのが例だ。富強の国の無産階級が其国の国際的搾取の分配を期待して意識的に民族争闘を暗黙に支持するに傾くと云ふのは多少言ひ過ぎかも知れぬが、民族的必要の前に無産階級間の連帯感情など云ふものの殆んど物を云はぬことは、日米移民問題などで具さに我々の経験せる所である。今次の事変に於て民国の無産者が殆んど階級的必要に無関心なるは云ふまでもなく、我国の無産者だけが先き頃まで花々しく声明し続けた事の手前已むなく躊躇逡巡の態度を執つて居るが、中には既に敢然として階級第一主義を高閣に束(つか)ね恭しく民族的必要の前に膝を屈したものもあると云ふのは、流石に時勢の趨向を示すものである。

 満洲問題で民族的必要は遂に階級闘争論を押し退けてしまつた。併し階級闘争論は満洲問題がなくとも最近実は頗るしどろもどろの形であつたのだ。殊にその世界連帯論の方面は、ボルシェヴィズムの露骨な運動に対する反感の結果か、無産階級の間にも段々同情を失つてゐたやうに見える。ボルシェヴィズムの立場から云へば、外の国も自国同様の国状にならなければ自国が立ち行かないのだから、一令の下に全世界に革命を起らしむることは成る程緊急の要務であらう。何れの国の無産階級も同じ様に一刻も早く自国を社会主義的に改造するの急務を認むるのではあるが、其処には歴史もあり伝統もありてロシアの指令するが儘に動き難き事情にあるを如何ともすることが出来ぬ。せいては事を仕損ずる、急がば廻れといふこともある、現実の国状に即して方策をたてることが却て理想の確乎たる実現を迅速ならしむる所以かも知れない。斯くして世界連帯論に代つて国民的社会主義論が起つた。之をファッショ化の一現象と観る人もある。歴史的に之を否認し得ざる点もあるが、理論としては固より之と離れた独立の新見解と見られぬでもない。我国でも昨今国民社会主義の叫びが高い。之を唱ふる一団の人達をファッショ化といふは別論として、社会主義の国民的解釈は近頃流行のファシズムと関係せしめなくても局外の我々にすら能く諒解が出来る。
 国民社会主義の熱心なる提唱者赤松克麿君は、階級解放の仕事を世界的運動の一環として取扱はんとするの蒙を指摘し、先づ社会主義を国内に確立するの急を説いて居る。社会解放に関する努力を先づ国内に限局せんとす
るはいゝ国際的の闘争に対して如何の態度を執るべきかに付ては未だ与り聞くを得ない。最左翼のやうに無暗に反対すると云ふのでは無論ないらしいが、さりとて積極的に賛成すると云ふのでもない様だ。無産階級圏内の一般論客に至つては、今猶ほ多くは××〔戦争〕に賛するは間接に搾取階級の勢力を助長する所以なりとの公式に拘泥してか、態度を鮮明ならしめ得ずして居る。態度を鮮明ならしめざるはそれだけ既に民族的必要の説にかぶれたものと観るべきであらう。主として搾取階級を利するも間接に亦無産階級を利すると観て這の曖昧の態度に出でたのか、何れにしても斯くの如きは従来金科玉条として来た階級第一主義の大歪曲なることは疑ない。この辺の事情を語る最も明白なる代表は社民党の声明であつた。声明に曰ふ、国内の事情今の儘では折角満洲の権益を確保し得ても正当に之を運用し得ない、故に国内の社会主義的改造が先決の急務だ、階級戦の片付くまでは広大なる満蒙の資源を一般無産階級外為に開発するの見込みはないと。だから国内の解放戦に一層の力を入れよと云ふはいゝけれども、当面の満洲問題に付てどうすればいゝのかは一向説かれて居ないのである。現状の放任は其実××××〔有産階級〕を助けることになる。直に無産階級の利益を念とする限り斯んな所で留まつては居れぬ筈だ。
 最近国民社会主義が論壇から実際界に移されて新政党組織の一準備行動を展開するや、右の点は更にまた一転進せんとして居るかに見える。先づ第一に出兵に依る満蒙権益の獲得確保が民族生存上の絶対必要として肯定される。第二に満蒙の権益が従来の如く資本家階級に依つて開発されることには反対し、それが完全に社会主義的に運営されるのでなければ無意義だとされる。そこで第三に武力で抑へ武力で維持さるる満蒙の天地に社会主義の理想を実現する見込はあるのかと云ふ問題になるが、之も次の理由で肯定されるのである。一つは最近少壮軍人の間に一部資本家階級の利害の打算のみに支配さるる対支外交に強き不満を感ずるものあり、既に×××××××××〔資本家財閥の打倒と〕既成政党の軟弱外交排撃と軍部の独自的奮起とを×××××××××××〔求めて蹶起を策謀しつゝ〕あり、而して彼等は自家の希望の貫徹の為に無産階級運動との××××××〔提携を主張し〕、大衆の輿論に聴きつゝ其を背景として行動を進めんとして居ることである。モ一つには右翼無産党の陣営内に右の所謂少壮軍人と接触し、其誠意に感激すると共に若干意気の投合を覚えたと称する有力者の尠からずあることである。斯んな所から国民社会党出現の噂も起り近く無産党間に一大変状の勃発を見るべしとの説もあるのだが、併し満蒙の天地に果して確乎たる独立政権が樹立され完全に民国中央政府からの離脱に成功し、一方には××××〔日本政府〕の保護に安んじつゝ他方には例へば島中雄三・松谷与二郎の諸君を最高顧問に挙げて真に理想的な開明政策を行ふの日があるだらうか。国民社会党の満蒙理想郷の計画は丸で空夢でもあるまいが、容易に実現せざるべく見ゆる幾多の仮定の奇蹟的具体化を想像せずしてはオイソレと受取れぬ問題であると思ふ。
 満洲問題に関する限り国民社会党の動きは左程重視するに足りぬ。但だ之に依りて民族対階級の関係に動揺を来さしめた点を注意すべきである。尤も国民社会主義の勃興は、其外に於て我国政界の趨勢の上に大なる意義を有するものたるは疑ない。問題外なので其点の論述を省略したが、いづれ近き将来に機会を得て別に其事をも説いて見たいと思つてゐる。

                              〔『中央公論』一九三二年一月〕