泊翁先生を中心として



 明治初年の文化発達の跡を研究するに当り看逃す可らざる人々を算へると、福沢先生を筆頭として中村敬宇、
                                                  しき
西周、津田真道、神田孝平、加藤弘之、西村茂樹等の諸氏がある。昨今僕は頻りに之等先哲の書き残したものを
集めて居るが、今差し当り西村先生の往事録といふを手に取つて見る。一種の自叙伝の様なもので、初めに租考
先考の略歴を述べ、次いで自分の経歴は幼時より明治二十九年の頃に亘り、公け向きの行動を主として可なり詳
          そ
しく叙して居る。夫れ丈け歴史的材料としては少らぬ価値があるものと思わるゝ。西村先生の遺著は其の後泊翁
叢書といふ大部の二冊に纏められ日本弘道会から出版されて居るが、どうしたものか此の往事録だけは収められ
て居ない。坊間にも余り多く見掛けぬやぅだ。
 以下書き列ぬる所は往事録を読んで明治文化史研究上参考となると思つた点を書き抜いたものに過ぎぬ。西村
先生を中心とはするが、皆当時の形勢に触る、所がある。事柄を明にする為に間々他の書からも若干抜拳した。
 なお
 猶三コロ断つて置くが、此処には明治以後の分だけを紹介する。往事録は一つ書きにしてあつて章別はないが、
約半分は明治以前の事に係る。こ、には後編に就てのみ述べ、前編の紹介は別の機会に譲りたい。
初めに版籍奉還より廃藩置県までの頃の天下の形勢が説いてある。版籍奉還は明治二年二月の事、薩・長・



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・中





                         な′つ
土・肥卒先して決行し、自余の列藩之に倣ふもの多かりしも、形勢を観望して遅疑決せぎりしものも少くは無か
ったとある。新政府に果して全国を背負つて立つ丈けのカあるかが疑はれた為であらう○全部の奉還が耶るには
数ケ月かゝつた。六月に至つて漸く「府藩県三治一致の制度を立て」る事が出来た。次いで明治四年の廃藩置県
となるのであるが、此時は大分諸方に不平があつたらしい。歴史の伝ふる所に依れば、廃藩置県の一事は天下の
じようらん          うち
擾乱を恐れて非常に秘密の裡に決行されたとあるけれども、世間の噂には余程早くから上つて居たらしい0現に
西村先生も此噂を耳にし明治二年の秋すでに、郡県議一編を草して集議院に提出して居る。郡県議は先生の著建
言稿の中に収められ、建言稿はまた前記泊翁叢書の第一輯の中に在る。
 廃藩置県の発令は云ふまでもなく明治四年七月十四日の出来事だ。先生の記する所によると、「在京の藩知事
を宮城に召し、天皇臨御ありて廃藩の旨の勅諭あり。何れも其職を罷められ、旧藩大参事以下に命して仮に事務
を管理せしめ、大事は朝裁を取らしむ」とある。翌十五日には在京の各藩大参事を召して三条太政大臣より同様
                しゅっぎよ       ひたたれ     ふる
の勅諭を申渡された。「宮城の大広間に天皇出御、諸藩の大参事は皆直垂を着す」は一寸振つて居る。
 さて廃藩の当時諸方に不平のあつた事は致し方がない。西村先生の手録の中から其の二三を抜かん乎。日く、
                                          ととの
新県の事たる、旧数藩各異なる民政を合せて一の模型に入れんとする事なるを以て、不斉を斉へ不均を均しくす
る為に事務甚煩雑なりと。日く、其間に朝廷が地方を治むる意見を伺ふに、旧藩の士民を待すること降附の国民
を待するが如きの風あり。又県令は速に成功を立んと欲して急劇の変化を為さんとする者多しと0日く、旧藩主
は其薄遇を怒るもの少からず。士族の禄制も金禄公債証書と変じ、其処分は走りたれども要するに奪禄の難に逢
ひたることなれば、其朝廷に対して不平を抱く者甚多しと。
 今朝鮮でごたついて居る様な事が、丁度此頃の政界にも在つたものと見へる。
2
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一スノ
 廃藩置県後の天下の形勢をば先生は非常に危険と観られた。「其形勢を察するに、遠からざる内に国中に叛乱
                       しばしば
の起るは鏡にかけて見るが如し。廟堂の上を見るに屡々大官の進退ありて、国家大政の基礎確定せざるものゝ如
し」。其処でどうしても士族をして「不平の気を消散せしむるの法」なかるべからずと考へられた。之には立法
       し      いわ
院を設立するに若くはない。況んや「君民同治は我邦今日の急務にして又我邦に最も適当するの政体」なるに於
てをや。但し君民同治の理想から云へば上下両院を設くべきだが、平民の方は「其知識未だ国事を議するに足ら
ず」、下院の事は之を他日に期して可い、今日は先づ士族を集めて上院を作るを急とすといふ意見を定められた。
                                                         一そな
当時としては一種の見識であるが、僕の特に興味を感ずるは先生の単なる学究に非ず常に国士の風貌を具ふるの
点である。
                     はか
 先生はまづ其案を以て福沢中村の両氏に諮つた。両氏の之に対する態度がまた面白い。敬手先生は、法律の事
は不案内だけれども良い事なら大に助力しやうと云はれたが、福沢先生は、御尤もの説だが子の説の如くせば華
士族の勢力々増すに至るだらうとて頭をかたげられたとある。夫より西村先生は躍起となつて大名華族の間に運
動された○往いて意見を述べた人を算へると、北条氏泰、松浦詮、黒田老侯、木戸参議、毛利元徳、松平春岳、
池田章政、伊達宗城、細川護久の歴々がある。其際先生は自ら起草せる大日本会議上院創立案なるものを持廻つ
たのであるが、之を見ると頗る珍妙なものである。即ち旧諸侯を以て議員とし、1議員は世襲だといふ如き、又議
員は自ら出席せず、藩の大小に依て一人乃至三人の代議員を旧臣中から出して職を執らしめ、之れの任期は五ケ
                                                  ただ
年とするといふ如き、而かも之は政府の設立に係るものに俳ず、私立の立法院とすべしといふが如き、膏に理窟
               もくろ み
が通らぬばかりでない、表の旧藩復興を目論見る形になるペ如何に先生の誠意を諒とする人でも、馬鹿気て費



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成も出来なかつたものらしい。但だ僕等は之等の事実を通しても当時如何に新政府に対する精神的支持が国民の
間に弱かつたかを察することは出来ると思ふ。
 西村先生は、前の上院設置論でも又後に説く条約改正論に於ても、政治法律の方面の活動では余り芳しい成績
を示して居られぬが、純文化的方面、殊に教育の方面に於ては、中々大きな功績を遺された。
 中にも特筆大書に催するは明六社の創設である。先生の手記に依れば、明治六年の春森有礼氏米国より帰り横
山孫一郎氏を介して先生に面会を求められた。森氏日ふ。「米国にては学者は各其学ぶ所に従ひ、・学社を起して
以て互に学術を研究し且講談を為して世人を益す===余は本邦の学者も彼国の学者の如く互に学社を結び集会講
究せん事を望む云々」と。先生即ち其事の可なるを賛し更に都下の名家に謀り、其同意を得て出来たのが、明六
                                                          ?ま
社である。最初相談を受けたのが福沢諭書、中村正直、加藤弘之、津田真道、西周、箕作秋坪の諸氏である。詰
り明六社は、森有礼氏の発意に始り、西村先生が当時の新進学者を糾合して出来たものと謂ふべきである。会員
相会して談話討論するの外、毎月一回楕養軒の楼上で公開講演会を開き、又明六雑誌を発行して、口に筆に文化
の開導に尽したのである。「其頃まで本邦の学者は、其知識皆和漢の二学に限りて西洋の事を知るものなし。明
六社の説く所は多く西洋の新説なるを以て、官員学者来聴する者甚多し」。兎に角非常な影響を与へたものだ。
                           ぎんばうりつ
明六雑誌は四十二号まで出して明治八年にやめた。新開条例汲誘律の発布あり、言論に対する政府の束縛甚だ厳
しくなつた為だといふ。明六社は其後七人年も続いたが、.学士院の創立ありて自然に消滅した。
今手近にある明六雑誌の第三了を出して見るに明治七年三月の発行だ0巻尾に次の様な抱負が書いてある0日
   ヽ

‘、ノ
ユノ

 本朝ニテ学術文芸ノ会社ヲ結ビシハ今日ヲ始メトス。而シテ社中ノ諸賢ハ皆天下ノ名士ナリ。入管謂ハン、
  たくらく
 卓拳奇偉ノ論千古不磨ノ説ハ必ズ此会社ヨリ起ラント。何トゾ諸先生ノ卓識高論ヲ以テ愚蒙ノ眠ヲ覚シ、天
                 むなし
 下ノ模範ヲ立テ、識者ノ望ヲ暁フセザランコトヲ是祈ル。
猶明六雑誌所載各論文の内容については近き将来に於て評論して見たいと思つてゐる。当時の思想界の有様を
知るには是非とも之を十分に研究することを必要とする。
 次に教育行政の方面でむ西村先生の功労は頗る大なるものがある。先生が文部省に出仕されたのは明治六年十
      これにさきだち
一月である0先是明治五年太政官より学制の頒布があつた。之が新政府で出した始めての統一的教育令である。
全敗来国の制に放つたもので、今から見れぼ珍妙なものだが、政府では頻りに瀬切強行を諜り、各府県を巡回監
視するために翌年には大少督学をさへ置いた(但し之は十年に廃された。尤も仕事其ものを廃めたのではない、
仕事は大書記官をして継続せしめたのである)0其の為めにや此の制は割合によく行はれたといふ。但し地方宮
中には随分強圧手段を用ゐたものもあつたとの事だ0而して急いで強行した結果、規則に拘泥し機械的に流れた
といふ弊害は免れな〔か〕つたとて、先生は其一例に或る小学校で習字を為さしむるに墨を摺り筆を取り字を書き
筆を置く笠こ々号令を以てやつて居たといふ事実を挙げて居る。夫れでも政府の威権当時盛大を極めて唇つたの
で人民に一人の之を批議するものがなかつたさうだ0只学費の賦課に付ては、従来に例のない全く新規の徴収な
りしが故にや随分苦情があつたとの事である。
 此制度は明治十二年に改められた0新しい教育令は文部大輔田中不二麿氏の発意に基き、顧問米人デヴィツ
ド・モルレーの起案に係るものである0改正の要点は従来の干渉的方針を緩和するに在つた。即ち政府の発令は
              ま                はなは
大網を示すに止め、其の細い施設は町村に委かさうといふのである0然るに其の結果は表面太だ良くなかつた。
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          はかり
「是を行ふこと一年許、全国の学事急に衰退の状を現はし、或は既設の学校を閉鎖する者あるに至れり」。之で
はならぬといふので、政府は学事視察出張中の田中氏を急に司法卿に転じ、司法大輔河野敏鎌氏を文部卿に移し
て教育令の改正に当らしめた。斯くして出来たのが十三年冬の発布にかゝる改正教育令である。「自由教育の精
神を改めて旧時の干渉の制に復」したのであるが、先生は「是により表面は教育再興の状を現はしゝといへども、
   せんせん
政府の専檀と人民の依頼心とは更に一層を増加せり」と批評して居る。
 西村先生は大に田中氏に服する所ありて、河野氏とは全然ソリが合はなかつたらしく見ゆる。外の色々の所に
                                            やや
も此点がほのめいて居る。夫は感情から来たのか、又は前者が比較的自由にして後者の動もすれば劃一専制に流
                        いす                                        も
る、を観ての話かよく分らない。執れにしても西村先生が当時既に一種の自由な教育意見を有たれたことは大に
注目に催すると思ふ。
 先生の自由思想は、小学中学模範規則制定問邁についても現はれて居る。河野文部卿は、十三年の冬改正教育
               【校〕                わか
令を発布して後、小中学□模範規則を作つて各府県に頒ち、以て全国の教則を統一せんと企てた。先生は断妖箕
不可なるを説いたが、文部卿は之を聴かぬ。遂に先生は其委員長たる嘱命を辞したのであつた0
 教育行政部内に於ける先生の功績はまたいろ〈の方面に亘つて居る。
 先づ第一に来るのは編輯事業である。新教育の発展には新しい書物が要る。此の点に深く意を留められたのは
早い頃に時の文部卿だつた大木喬任氏である。今の司法大臣たる大木伯はどんな偉い人か知らぬが、其の先考は
                                      ほんやく
憶に日本国民の深き感謝に催する人に相違ない。斯くて文部省内に編書課と反訳課とが置かれた。先生は明治六
年十一月〔に〕入つて前者の課長となり、後者の課長には河津祐之氏が掘られた○編書課では小学読本から理科算
7
つつ′

術の教科書、さては歴史や自然科学や外国語学の類に至るまで、手当り次第に手を着けたものらしい。反訳課で
は主としてチエムバアの百科全書を訳し、小冊子の形でドン〈世1に送り出した。代価は十銭二十銭といふ程
度である0僕の有つてゐるのでも、論理学とか法律沿革草体とか天文学とか洋教宗派とか、北欧鬼神誌とか人口
窮救及保険などいふがある0有名な加藤弘之先生の国法汎論や内田正雄氏の輿地誌略も此課にて出版したものだ。
この仕事は明治去二月の官制改革の時までに及んだのだが、此時以来は教科必要の書だけに止めることになつ
た。
            はか                                   はい
 斯く書いて来て僕は図らず子供の時読んだ小学入門といふ本を想ひ出す。僕の小学校に這入つたのは明治十七
年で、その時の学校は寺小屋時代から脱し切れぬ甚だ幼稚なものであつた。這入つてすぐ「いろは」を習ひ、一
        むず
ケ月ばかりで大分六かしいものを読まされた記憶がある○中に「神は天地の主宰にして人は万物の霊長なり」な
どいふ文句があつた0意味は無論分らない0只暗諭するのみである0之れも今考へて見ると西村先生の主裁の下
                                                  ついで
に此頃編成されたものであらう○無鉄砲な教科書だが併し文章は中々簡潔にして要を得て居ると思ふ。序に二三
の句を引用して見やうO「朝は五時に起漣夜は十時に臥す0働く時は労を厭はず食するときは飽くを求めず」。
             つまず
「急に走るときは速けれども蹟くことあり、緩く歩むときは遅けれども疲るこ」と少し」。「庭にあまたの花を栽
          たくわ
え、池に多くの魚を畜ふ0春秋の景色もあり、朝夕の眺望もよし」○実際に筆執つた人が誰だか知りたいものだ。
 編輯の事に関連しても一つ特筆すべきは古事類苑のことである0学術の振興を謀るには其の基礎として学術大
辞典の編なかる可らずと為し、明治十二年之を時の文部卿代理田中不二麿氏に建議した。其許可を得、編輯局の
事業として那珂通高、榊原芳野、小中村清矩、佐藤誠実、小杉租邸等の碩学を集め、更に十余名の助手を附して
作つたのが古事類苑である0十人年の改革を機とし此書編纂の事業は文部省の手を離れたけれども、西村先生の
8
ユノ



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着想を待たずんば此書或は永久に出来なかつたかも知れない。大槻文彦先生の言海についても西村先生に同じ様
な功労を認むべき瀬、其の序文にも明である。
 先生は大学教育に就ても頗る熱心であつたらしい。大学では始め英語を以て教授して居つたのだが、文部省顧
問米人モルレーが、大学の教育に他国語を用ふるの不面目を説くに感激し、先生は初め之を田中文部大郷に説き、
次で大学総理加藤弘之氏の同意を得、之から段々日本語で講義する様になつたといふ0併し先生は後に至て此考
は必しも正しくないと自認されて居る。そは国語で教授するには国語で書かれた立派な書物が無ければならず、
夫には反訳では追つ付かぬ、又急に良反訳の沢山出来るものでもなし、殊に邦人中より良教師を得るは一朝一夕
の事でないといふに在る。此点に於ても西村先生の俗説に捉へられざる卓識の程が窺はる、○
 明治十九年二月、文部大臣森有礼氏より大学総理に就任せんことを勧告せられ、、之に対し大学改革の意見を陳
述して辞したとある。時の大学に対しては可なりの不満を有つて居られた様だが、詳しいことは書いてない0要
するに先生は大学教育に就ても意見は大にあつた様だが、結局実際には遂に之を行ふ機会に接せずして了つたの
である。
 先生はまた学士院の事に付ても書いて居る。学士院の創立は明治十一年十二月九日だ。時の文部卿は西郷従道
氏であるが、実際の計劉は田中大輔の久しく考案せる所なのである。最初は蜃兄学士会院と呼ばれ、第一回の会
員として文部卿より挙げられたのは西周、加藤弘之、神田孝平、津田真道、中村正直、福沢諭吉、箕作秋坪の七
氏に過ぎなかつた。後の会員は本院の選挙によるとされ定員を四十名と限られたが、∵翌年三月最初の選に入つて
先生もやがて会員となつたのである。初めは大に任ずる所あり、専ら教育界に貢献せんとして、文部省に向つて
                                 わわむ しりぞ
も盛に建議などしたものだが、田中氏去りて後は邪魔物扱され、建説亦概ね郁けられしを以て、後には公開講演
9
つ「ノ



椚刷仙

に専らカを注いだといふ0何れにしても当時の学士院の意気込の盛なるは、今日の夫に比して雲泥の差がある様
である。
序に誌して置くが、僕の所蔵に各国学士院紀略といふがある。明治十三年五月東京学士会院の版に成るものだ。
                             ・あつ
序言によると、学士院創立の参考に供する目的で文部省で究めた稿本を田中文部大輔から下附を受け、五官部を
限つて印行したものだと云ふ0之に由つて観ても、学士院の創立には田中氏の功を看過す可らざることが分る。
             むか                    ヵ
而して田中氏自身が学士院に対つて今月あるが如きよりも遥に大きな期待を繋けて居たことも、想像が出来る様
に思ふ。
0
′4
西村先生が教育の任を以て宮中に仕へた功も亦頗る大なるものがある。明治八年五月加藤弘之氏の元老院議官
に転ぜるに代つて三等侍講の兼勤を仰付つたのを振り出しとし、暫く聖上及皇后宮の御前に進講したが、明治十
年十一月には格別の御依頼により有栖川宮、小松宮、北白川宮、伏見宮の四親王殿下にも西洋史の御講義を申し
上げ、明治十人年十一月には皇康子殿下の「御教育御世話可申上旨」の御直命を蒙つた。明治廿二年七月には華
族女学校長の任に就き二十六年十一月に及んで居る。
 両陛下御進講に就ては先生は次の如く書いておる0「御学問の御課業は、日曜日の外は日々にして、午前午後
共に進講あり0時刻に至れば聖上御学問所へ出御あり。侍従試輔三人(藤波言忠、堤亀丸、荻昌書)代るぐ御左
                                                 かたわ
右に奉侍し、侍講御正面に進みて講義を申上ぐ、聖1先づ本文を御素読あり。次で侍溝其義を解き、傍ら治乱の
逃、政事の得失を援引して本文の意を補足す0皇后宮にも日々御読書の御課業あり。午前午後両回に分ちて侍請
出で、是を進講す0皇后宮の御課業は内廷にて遊ばされ、聖上とは全く御別なり。講義の時は掌侍権掌侍代る



、卜い






′ハト奉侍す」と。此時の侍講は、先生の洋書を受持てる外、国典は福羽美静氏、漢籍は元甲水字氏であつた0斯
                                                  それゆえ
く当初は毎日御聴講遊されたのである。「明治十二年の頃より、聖上御政務御繁劇にならせられ、夫故御学問は
追々御休暇多く」、遂に明治十八年に侍講は全く廃官となり、毎年一月の御請書始めの事のみ儀式的に永く残る
こととなつた。
 四親王穀下の御進講も、元田氏と毎月三回代るノハト出講し、三年程続いたさうだO「其御待遇極めて鄭重なり」
と述懐して居らる、。之も各殿下の御職務御多忙となるに連れて自然と中止された○
皇太子殿下は、当時中山従】位、嵯峨正二位の御輔導の下に、高辻修長、勘解由小路資生の二氏御読書御手習
の御世話を申し上げて居つたのだが、皆旧式のやり方で、現代の教育法に適合しないと云ふ所から、新に西村先
生に恩命が降つたものなさうだ。後土方久元氏代つて御輔導の任に就かるゝに及び、御教育法をも根本的に一新
すること、し、湯本武比古氏を勧めて御教授を担当せしめ奉つたとある○
 明治十人九年頃の欧化主義の風潮に反動して国家主義乃至国粋保存主義が勃興したに付ては、良い意味に於て
又わるい意味に於て、貢献した人が沢山にあるが、西村先生の如きは其の良い意味に於ての功労者の随一であら
ぅ。先生の立場は、三自にしていへば開明国家主義とでも謂つてよからうか0今日謂ふ所の皇室中心主義の倫理
説の如き、先生はすでに可なり古くから之を鮮かに説いて居られた様に思ふ0
併し先生の思想を細かに究明することは今僕の仕事ではない0往事録について先生の立場や考へ方の傾きを推
定すべき二三点を引くだけに止めやう。・
先生が二何に於て可なり自由な考を抱いて居られたといふことは前にも述べた0教育方針としては田中不二麿
l
ノ4−

氏の自由主義に賛して河野敏鎌氏の劃一主義を喜ばなかつた事や、大学の講義に外国語を用う可らずとする説に
                                  ひるがえ                                      なが
一旦は成程と合点して而かも忽ち其意向を翻した事なども、其証拠の一つにはならう。併し乍ら先生は結局する
所国家主義者としての確信に一貫して誤らなかつた人である。之を証明する第一の仕事として僕は日本弘道会の
創立を挙ぐ。
 先生自ら語る所によれば、日本弘道会創立の発念は、明治五年太政官の頒布した「学制」の序文中「専ら生を
治め産を興すことのみを説き一も仁義忠孝を教ふるの語なき」に憤慨せるを端緒とするといふ。其後静に世相を
                             し ぜん
観ずるに、官民共に西洋文明に眩惑して修身道徳を蔑視し、「人心坪然として放窓となり、其流弊の極る所を知
らず」、遂に明治八年より九年にかけて、阪谷素、丁野遺影、植松直久、那珂通高、杉亨二等の諸友に謀り、東
京修身学社といふを作り、毎月一回集会して相互に修身道徳を講究したのが、即ち今日の日本弘道会の始めであ
る。日本弘道会が共後今日に至るまで何を日本文化の発達に寄与したかは、今改めていふの必要はなからう。
                                          ひんしゆく
 斯う云ふ傾向の人だから、明治十人九年頃の軽桃なる欧化の風潮に対していたく攣燈したことは、之を察する
に難くない。先生は十八年十二月の改革に関連して、「伊藤内閣の新政は、法律制度風俗拝礼一々是を欧米に模
倣し」専ら外面の文明を装ひ、外人を優遇し、舞踏会、仮装会、活人画会等其他外国の遊戯を行ひ、務めて共歓
心を求め、本邦古来国家の基礎たりし忠孝節義勇武廉恥等の精神は棄て、顧みざるものゝ如し。其の登用する所
の官吏は、多」怜例便倭の人にして、質撲剛毅の者は常に排斥せらる」と憤慨して居る。伊藤公に対しては特に
度を超えた反感を有つて居つた様にも見ゆる。執れにしても時流に快とせざる所あり、不平鬱勃たるものがあつ
たや、}だ。斯う云ふ気分の中から出来たのが即ち日本道徳論の一篤である。之に就て先生は新にまた伊藤公の怒
りを挑発したといふ隠れたる事実もある。
2
′4










 日本道徳論は、明治十九年十二月帝国大学で開いた三日に亘る公開講演の草稿を印行したものである。姶め大
                                           あ
臣以下の諸知人に贈つたのだが、世上に売り出した第二版は、伊藤公の怒りに遇ひ若干「語弊を改刺して」発行
したものださうな。其訳は斯うだ。最初此書を各方面に配つた時、文部大臣森有礼氏などは大に賛成し中学以上
                                          そ がい
の教科書とすべしとまで賞讃したのだが、伊藤総理大臣は「新政を誹誘し政事の進路を阻擬する者となし」て大
                             すなわ
に怒り、森氏を見て厳しく詰責したといふのである。森氏乃ち秘書官小牧昌業氏に命じて其の不穏当と見らるべ
            さんじよ
き個所を摘出せしめ、其洲除を忠告した所、先生は改刺よりは寧ろ絶版すべしと答へたが、世上偽版を作りて不
正の利を貪る者あるに依り、遂に森氏の忠告を容れて改訂版を出したのだといふ。猶先生は之に附け加へて「伊
藤氏が大に怒りしは此時谷農商務大臣が新政に反対する意見書を出し、総理大臣頗る憤癒せし際に余の道徳論を
                                   ば・りが」い・
読みしに、其説谷氏の説と相符合するの点ありしを以て、両人相約して新政を妨碍したりと思ひ、此のごとく怒
りしものなりと開けり」と述べて居る。
 先生が一種の皇室中心主義の倫理説を把持して居られたことは先にも述べた。教育勅語の御発布などについて
も、先生の宿説が間接に与つてカあつたのではあるまいかと推せらるゝ節がある0先生は西洋の諸国が肘掛教を
以て国民の道徳を維持するが如く、本邦には「世界無双の皇室ある」が故に、之を徳育の基礎とすべしと云ふ見
地を有つて居つた。之より更に広義の教育の中知育体育は依然之を文部省の管理に留め、徳育は皇室自ら之を管
理するを得策とすとの意見を執つて居られた。副島種臣、佐々木高行、佐野常民の諸氏亦皆之を賛せるにより、
三条公にも説いたが、結局可とせられたので、愈々勅選を以て普通教育に用ふる修身書を作り之を全国に頒行せ
んとの具体案を立て、先生自ら副島佐野の二氏と共に起草の任にあたり、時の宮内大臣土方久元氏にも謀りて其
承諾を得たといふ。随分突飛の考ではあるが、誠意はまことに諒とすべきものがある。幸にして森文部大臣の堅
ヱノ
ノ4−

く執て之を非とするあつて行はれなかつたが、先生は飽くまで此事に熱心であつて、廿二年二月には更に「宮内
大臣に面して国民の徳育は帝室にて直に御管理あらせられんことを述べ」たとある。其事の文字通りに行はれざ
るは固より当然だが、之が教育勅語の発布と何等かの思想的連絡あるのではあるまいかと思はれる。但し先生自
   一やと

身はこの点については何事も語つて居ない。

            *
先生が普通の洋学者に似合はず若干偏狭な傾向を有つて居られたことは、条約改正に関する態度に最もよく現
はれて居る0併し条約改正問題に対する先生の態度に就て吾々の最も感興をひく点は、之よりも寧ろ先生の志士
                                                     か
的風貌の濃厚なることである0先生が終始一貫教育界の人を以て任じ、且つ入つては聖上の侍講たり出で、は華
胃子女の教育の任に当れるの身を以て、亘国家の大問題と観ずるや直に東奔西走殆んど寝食を忘る、といふ
ちゆう

のは、到底尋常の学究に見る能はざる特色と謂はなければならぬ。
 先生の記す所によれば、明治政府の始めて条約改正の談判に手を着けたのは十一年寺島外務卿の時であるとい
ふ○此時の月應は専ら税権の回復に在つて、法権回復の方は暫く顧みない事になつて居た。北米合衆国の外は我
が提出の案に同意しなかつたので此時のは御流れになつた0之に次ぐのが明治十人年の井上外務卿の改正談判で
ある0先是井上外務卿は、我国の法律を西洋風に改めるのみならず、又風俗等にも欧風を輸入し、以て談判に成
                                         ひ
功せんとしたのであつたが、此の子供らしい考そのものが忽ち輿論の反抗を若き起したばかりでなく、間もなく
改正協議の内容が世間に洩れて更に非常な物論の沸騰をかもした○当時最も有力に反対意見を述べた者に雇仏人
ボアソナード氏あり、又農商務大臣谷干城氏があつたのであるが、此両者の意見が秘密出版として世間に洩れた
                                          や
のであつた0而して政府は輿論の攻撃に堪へず、談判を中止して井上外務大臣をも罷めた。
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 廿、年春新外務大臣大隈重信氏三度改正の談判を開いた。内容は依然として秘密である。只世間では大隈氏の
対外硬の経歴より推してやゝ安心して居つた形である。然るに二十二年六月タイムスに出た改正条目を見ると、
井上時代のよりは幾らかいゝが要するに五十歩百歩だといふので、民間にも俄然として反対の声が高まつた。そ
は大隈氏は外国に対して既に(一)外国より判事を雇ふ事、(二)大審院の判事は必ず外国より晴する事、(三)内地
雑居を許す事、(四)外国人の土地所有権を認むる事の四点を譲歩して居たからである。而して米・独・魯などは
最早調印を了つて批准を待つばかりになつて居るといふ。夫れだけ反対運動も頗る猛烈なものであつた。そこで
閣議でも遂に延期といふことに決したのであつたが、其の会議からの帰途夫の大隈氏の遭難があり(十月十人旦、
之が幸となつて談判が無期延期となつたことは人の知る所である。
                                                   わ
 西村先生の政治的活動は此時から始るのである。夫のタイムス所載の改正要臥針見るや、先生憂慮措く能はず、
乃ち総理大臣黒田清隆氏に面して之を責めた。之を発端として先生は後鳥尾小弥太氏、三浦梧楼氏、谷干城氏を
歴訪して改正中止に尽力すべきを約し、更にまた副島種臣、元田永字、佐々木高行、曾我祐準、海江田信義の諸
氏とも心を合せ断乎として改正談判を中止せしむるに決心した。而して条約改正の反対の声は当時実に全国に喧
                         ほぞ
しくなつたのに勢を得て、先生達は一層運動続行の臍をかためたものらしい。かくて先生の同志は、三浦梧楼氏
                            すつ
の発議により大隈失脚後も其結束を続け、爾後引続き毎月一回宛星ケ岡茶寮に相会して懇談を結んだといふ。
                            のば
 大隈の後を承けて青木周蔵氏新に次官から外務大臣の地位に陛つた。彼も亦井上大隈の実に基いて別に一新案
を作り、改正の談判を開かんとすとの噂がある。此時は既に議会が開かれて居つたので、先生は勅選議員として
専ら議会で此問題に尽力せんと決心された。其の手始め心廿三年十二月「条約改正案ヲ本院二明示セラレンコト
                                 い たん
ヲ政府二建議スルノ動議」を提出せんとしたが、「議員多く政府を畏博し、条約締結は天皇の大権といふを口に
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帝して此実に賛成する者少く終に定数の賛成者を得ること能はず」因て已むなく質問書の形に改め、辛じて定数
三十名の賛成者を得たのであつた0質問の要点は、(一)外人二内地雑居ヲ許スノ有無、(二)外人二土地所有権ヲ
与フルノ有無、(三)税権回復又ハ税率改正ノ有無、(四)外人又ハ外船二沿海貿易ヲ許スノ有無、(五)外人帰化法
ヲ設クルノ彗小、の五項であつた0之に対して政府は久しく答へなかつたが翌二十四年三月に至り、やうやく外
                 〔三〕
相の答弁があつた○第二と第四は之を許さぬ、第二は無論回復するが、第諒許さねばなるまい、第五は議院の
立法権の問題だといふ様な要領であつた0要するに政府は西村先生の私に期待せし所に反し、条約改正連行論で
あることが明になつた。
 然らば其内容は如何と云ふ問題になるが、噂によると、我よりの提出案がもと〈従来の案を少しく修正した
程度のものなのに、英国よりは領事裁判権の撤去と海関税増加の件は拒絶して来たらしいといふ。夫にも拘らず
・民間では近頃は前のやうに余り反対の叫びも聞えない0斯くては猶更同志の士を糾合して反対運動に熱中するの
                                       はこぴ
必要があるとて、先生は病を押して運動され、五月一日華族会館に同志の会合を催す運にまで至らしめた。新な
る同志としては大井憲太郎、坂本則美、雀田鉄之助、千頭清臣、綾井武夫、三浦安、山川浩、高崎五六、等の名
が加つて来た○其間鳥尾の意見が少し曖昧になつたとか、千家尊福氏も三浦安氏の紹介で来会したが、・後に・・て開
けば政府の廻し者であつたといふ様な事も書いてある0富田氏と先生とが起草委員となりて政府に談判中止の建
議をしやうと云ふ段取り心まで進んだが、同月十盲図らずも露国皇太子殿下遭難といふ意外の大珍事が出来し、
天下騒然として怒べ耳目を之に集中することになり、条約改正の方の問題は自然立消えとなつて仕舞つた。′
        ことこと
 其後明治二十五年四月十三日に至り、総理伊藤を始め外相榎本、内相副島、逓相後藤、枢府議長累甲枢府議
官寺島井上(毅)の六名御前に召されて条約改正取調委員を仰付られた(但し公表されたのではない)。先生之を伝
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▲中





聞し、政府が益ゝ改正に熱心なるを察して再び同志の会合を謀つた。四月十七日三浦安邸の集会に出席せるは、
曾我祐準、黒田清綱、高崎五六、小沢武雄、富田鉄之助の諸氏と先生とであつた。之等の人々の一致せる説は、
                                   たと い
「到底今日は内治必要の時にして外事に手を出すべき時にあらず。縦令対等の条約なりとも、国の強弱民の智愚
貧富甚だ懸隔せるを以て遂に国家の損害を引起すは必然なり」と云ふに在る。只此考を実地に貫く為の手段とし
ては、(一)正面から改正尚早論を押し通さうといふ説と、(二)政略上対等条約希望を申出るを可とするの説と、
(三)法権は他日に残して先づ関税権の回復に努むべしとの説と三つに分れたのであつた。此時の会合も一つには
                           はかばか                くじか
他の諸氏に先生程の熱心が無かつた為と、も一つには政府の方に捗々しく取り運ぶ模様の見えぬに自ら気勢を挫
             う や む や
れた為め、何時とはなしに有耶無耶になつたのであつた。
 明治二十六年の春に至り、伊藤総理復た陸奥外相を督して条約改正の談判に入るべしとの風聞がある。先生の
最も憂ふる所は内地雑居の事であり、従て民間に於ける熱心なる尚早論者安部井磐根、神鞭知常の二氏の如きは
特に先生の目を付くる所であつた。三月末高崎五六邸の会合には、近衛公の外この両氏をも招いだ。先生誌して
日ふ。「此の集会の諸人は、其精神の十分ならざる者あり。為に相談も良結果を得ずして散ぜり」と。夫から先
生は志士のカ案外頼み難きに口め、「内地雑居にならば、宗教上の関係より殊に其迷惑を受くるは神仏二教なる
べし」とて、先づ神道家を掘起せしめんとの考から、神道本局管長稲葉正邦子爵を説いたが、要領を得なかつた
と述べて居る。此頃になると、時勢と共に所謂有志の頭も段々進んで来るのに、先生独り頑然として世の進運に
                     たの
取り残されて行く傾がないでもない。神道家を悼むなどは丁度今日の政府が類勢を挽回せんと焦るの余り国粋会
などを頼りにするのと似て居る。国粋会を悪いとはいはぬ。政権を以て利用すべきものではないと思ふ。此年の
秋頃になると、内地雑居尚早論はだん〈民間にも盛になつて来る。十月には安部井大井の諸氏の大日本協会を
7
′4

作るあり、政府の烈しき圧迫あるに拘らず盛に全国に遊説する。学者の側には、加藤弘之、井上暫次郎二氏の書
を著して尚早を力説するありて、其勢侮る可らざるものがあつたが滋にまた図らずも日清戦役といふものが起つ
て、条約改正問題に一大転回の機会を与ふること、なつた。
                                               あまね
 戦勝の余威に乗じ遂に陸奥外務大臣が二十年来の懸案たる条約改正に成功したことは、普く人の知る所である。
しやじ              ロンドン
這次の改正は、明治二十七年七月英京倫敦に於て日英通商航海条約の成りしに始まり、夫より国を別つて談判を
重ね、三十一年十二月に至つて全く終了したのであるが、之に就ても先生は嫌味を云つて居る。日く、「政府は
                                  へいば lTつそう
必ず改正の事業を成就して其功名を成さんと欲するの意強く、遂に日清戦争兵馬怪惚の際に於て其事を起し、志
         いとま                    ちゆうさつ
士をして是を顧みるに連なからしめんとす。従前改正の談判は、常に東京に駐劉せる外国の公使と我外務大臣と
の間に開きしが、今度は其方法を改め、各国に駐割せる我国の公使をして彼国の外務省と談判せしむ。是に依り
談判の掛を告ぐるに至るまで、国人一も是を知る者なし」と。故に突如条約の公布を見てびつくりしたのだが、
共成績はといへば、「新条約は政府にて対等条約の名を誇称せるを以て、世間無識の徒は是に満足を表するもの
                  ひと                    いわん
多し。縦令其文面は対等なるも、彼我国力の倖しからざるを以て、彼に利多くして我に喜多し。況や其文面も対
等に非ずして彼に屈するもの少なからず……唯新条約中に於てやゝ取るべきは、十二年にして此条約の油漉する
                                      ワシントン
こと\土地所有権を彼に与へざるとの二件のみなり」とこき下して居る。華盛頓条約に付て兎や角言ふものあ
ると異曲同巧の考方である。而して先生は何処までも尚早論者であつて、其の理由とする所は、「今日民智民産
                    たと い
の大に彼に及ばざ渇ものあるを以て、仮令条約文には欠失なきも、今日改正を行ふは国情に於て甚早きに失する
              けだ こ            ひと
の恐あり」と云ふに過ぎない。蓋し斯は恐らく当時の多数の人の斉しく考ふる所であつたのだらう。
8
一4










                                                             一そし
 終りに先生の思想のやゝ偏狭に失する方面を二三列挙して見やう。之を挙ぐるは敢て先生を誇るに非ず、当時
の真面目なる識者の一面の考方を代表的に明にして置きたいと思ふからである。
 土地所有権の許否に付ての先生の意見は斯うである。日く「欧洲諸国は金銭多くして土地少なし。故に土地の
価非常に貴し。洋人我邦に来り、我土地の価の廉なるを見る時は、必ず錠万の金を投じて是を買はん::・・邦民の
愚なる、其価少しく高しと開く時は、後来の事を慮ることを知らず、争ひて是を売るべし。然る時は、国中の便
利よき土地、形勝の土地は、大抵彼の所有に帰し、遂に国中の地主は多くは洋人にして、邦民は多く地借か小作
人となるべし」と。斯くして鉱山も鉄道も諸工業も或は彼等の手に帰し、又は其の圧倒する所となりはせぬかと
憂慮して居る。更に進んで内地雑居の結果については、「商売の利権全く彼の手に帰するに至るべし」と断じ、
又「宗教上よりして言ふ時は、耶蘇教の我邦に入ること益主多く、我旧来の宗教ビ衝突を起し、是が為に人心大
に動乱すべし」と憂へて居る。斯かる理由あるにも拘らず政府の改正を急ぐ所以は如何。先生は其理由を数へて
次の五点を挙げて居る。(一)「条約改正を成し遂げたいと云ふ政府の功名心」、(二)「早く文明国の仲間入りをし
たいと云ふ軽躁心」、(三)「国内人民の財産智識の度を測るの疎謬」、(四)「外国の歴史の無識」、(五)「後来の国
患を料るの周密ならざること」即ち是である。而して僕は思ふ。此程度の頭の所有者は、今日でも所謂識者階級
に可なhソ多いことを。
 伊藤公に対して先生が格別の反感を有つて居たことは前にも述べた。明治二十一年七月の華族女学校設立に付
ては、「其裏面は伊藤宮内卿が下田歌子に官禄を与へんが為に建てたるものなりとの風聞あり」と述べ、又二十
                     .さと
六年十一月突如同校長を辞すべきの旨を諭さるゝや、或人の説として「下田歌子華族女学校学監の職を失ひしを
                         ひ一そか
以て西村氏の所為なりと思ひ、深く西村氏を怨み窃に是を伊藤氏に訴へたりと開く。君の免官は其結果なるベ
9
′4

                                           ドイ ツ
し」との疑を洩らして居る0明治十人年の改革について伊藤公を攻撃する一節中の「独逸人を宮内省に雇ひ、其
妻をして内廷に出入せしめ、皇后宮以下女官の衣服を改めて洋装となし、又華族女学校を設立し、其生徒をして
ことこと                     いささか                      そしり
尽く洋装せし一む」の一句の如きは、柳彷主を憎んで袈裟にまで及べるの談を免れまいと思ふ。
 も一つ先生の固随を証すべきものにこんなのがある。「京都に第四回勧業博覧会あり。洋画家黒田清輝といふ
者、婦人裸体にして陰部を露せる画を作りて是を出す○審査官是を美術館の楼上に掲ぐ。京都の有志者及び警察
官其の風俗を壊乱するを以て是を撤去せしめんとす。審査副長九鬼隆一頑として聴かず。余京都に滞留の日九鬼
           しばしば
に面して是を論ぜんとし数主共旅寓を訪ふ。九鬼避けて逢はず。己むことを得ず書を贈りて是を論話す。九鬼返
書を送りて弁疏す。然れども遂に其画を徹することなし」と。
0
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先生の思想と全く関係のない事で往事録中一寸面白いと思ふ記事二盲摘録して此稿を終らう。
 山口県の地租の格外に安きを説いて次の言がある。「往年地租改正ありし時、当時の県令中野梧一氏如何なる
意に出たるや県下の地租の額を甚しく低くしたるを以て、県民の生活余裕ありて甚しき窮困の者を見ず」と。
 備後の中旧福山領の地居民の生活豊なるを叙する中に「尚士族中に勤勉社といふありて、労働を以て生計を立
つ0余が福山より輌に赴く時に乗りし人力車の車夫は此社員なり」の一句がある。今の資本家にも之れ位の心掛
あらば、社会改造の声にも驚くことがなからうなどの感想が湧いて来る。
 先生の貴族院観滝面白い0日く「五爵議員及び多額納税議員は無学無智の徒、多く唯政府に屈従するを以て務
めとし、独立の志操を有する者少なく、勅選議員の中には、学識経験に富む者もあれども、是亦卑屈の議員多く、
然らざれば軽浮なる洋説を信ずる者多し」と○又研究会に付ては、「研究会といへる丁派ありて、政府の要路に
Z瀾周潤頂蓑、り導引】′、



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立る者内々其威権を執りて愚昧なる多数の貴族を操縦し、以て政府の意思を貴族院中に執行せしめんとす。此策
 こうけい あた
其肯紫に中り、政府の議案出る毎に此輩は理非を儲ぜず是に盲従す」と評して居る。「此の如くなれば、貴族院
                                                       おわ
の只政府の塊偶にして決して独立する議院と称すべからず」。之等の徒と肩を比するを快とせず、第一議会の畢
らざるに辞職した三浦梧楼氏の轍に倣ひ、先生も亦遂に二十五年十一月断然辞職して仕舞はれた。辞職せること
                                   な
の当否は別論として、先生の此の▼一言、此の態度は、今日も休ほ貴族院に対する條乎たる警告として観るの価値
は十分にあると思ふ。

                                          〔『中央公論』一九二二年五月〕