田中政友会総裁の地方分権論 『中央公論』一九二六年二月
「国政の方向を地方分権へ」 と題し田中政友会総裁は三日にわたる長論文を正月上旬の時事新報に寄せて居る。今日の政情の下に所謂地方分権論の主張が可なり重大の意味を有つものなることは曾て本欄に述べられたこともある。而して実際問題として昨今政友会が頻りに之を唱導して居ると聞いたので、同会総裁の右の論文に渡した時私は多大の期待を以て之を読んだ。読んで期待の裏切られたことは実に不思議もないのだが、論者が論者だけに吾人の注意に値すものも二三ないではない。
最初に総裁は近世日本が中央集権的政治方針を執つた沿革を述べて居る。維新の当初日本が「列国対時の緊張した場面に突然置かれた」結果中央集権主義に頼つたのは已むを得ないとし、其の為め多少軍国主義の傾きもあつたからとて之を非難するのは当らないと説いて居る。「大体に於て今日まで日本の執り来つた進み来つた道は自衛上何うしても執らねばならない道程であつた」といふ観察には、話を明治時代に限るといふ条件のもとに、私も賛成する。
然らば今日は如何といふに、流石に政党の首領たる田中総裁は軍人に珍らしい意見を吐いて居る。欧米でも所謂列国対峙の険悪なる状態は未だ全く終熄せぬが、「武力の圧迫」は昨今しかし余程緩和して来た。そこで国家は他の「武力の圧迫に向つて対抗するカに幾分余裕が出来た訳であるから、其の力を今後必要の方に向けねばならぬ」といふのだ。別の言葉でいへば「団体を尊重する団体主義」と並んで「個人を尊重する個人主義」を加味せよ、新に生じた余力を今後は「国民各個の幸福の上に向けて行く」方針を取れといふのである。「幾分生じたる余力」をなんて微温(なまぬる)いことを云つたり、「国民各個の幸福」など、事新しげに云ふのに、理窟を捏(こ)ねれば不満もあるが、田中総裁のこの宣言には兎に角多少の尊敬を表し同時に十分の同情を以て聞くの値はたしかにあると考へる。
如何にして其の目的を達するか 「実際問題としての方法は種々の事柄があつて一々挙げ切れない」とことわりつゝ、田中政友会総裁は「先づ第一が政治上の主義を多少改めて行かねばならぬ」ことを説いて居る。氏の所謂地方分権論とはつまりこの事を謂ふのである。茲で一つ私の意見を述べて置きたいのは、田中総裁の所謂「国民各個の幸福」をはかるといふことは本来中央集権的社会状態の打破だけでは図り切れぬことであり、且つその一方策たる中央集権的社会状態の打破だけを取つて見ても、政治方針の中に地方分権主義を多量に加味するが如きは、決して其の目的を達する為めの唯一の方策ではないのである。田中総裁にして若し真に国民各個の幸福を旨とする所謂個人主義の必要に目醒めたのなら、何故敢然として例へば「思想の自由」を叫ばないか。何故「労働組合法制定の急務」の類を叫ばないのか。之等の点を氏はその所謂団体主義に遠慮して故(ことさ)らにこゝ姑(しばら)く手控へるのだとしても、氏の主として着眼する中央集権的社会状態の打破の為にも、も少し汎博なる見識を示してもよさそうのものだと思ふ。此点が同氏の唱導にかなりの同情を持ちつ、私のまたひそかに遺憾の情を禁ぜざるところである。
そこで田中総裁の提唱は、広げた風呂敷の大なるに似ずその中味の案外に貧弱なことを遺憾とせねばならぬ。併し盛られた中味が悪いと云ふのではない。唯所謂中央集権的統制の弊に苦んだ我々は、平然として地方分権の提唱をきくと、之に多大の期待をかけ勝になるので、斯うした期待を以て彼の正体を観ると自ら失望を禁じ得ない、と云ふまでの話である。時代の趨向を当てこんで政友会の策士が総裁に斯んな掟説をさしたとすれば、勿論羊頸をかゝげて狗肉を売るのそしりを免れぬが、差し当り手のつけ易い所から改革して行かうとの田中総裁の思ひ付きとして観れば、是亦時勢に適切なる一案たるを失はぬものではある。
所謂地方分権論の内容 田中総裁の地方分権論とは一体如何なる内容を有するものであるか。それには二つの事項がある。
第一は地方自治体をして積極消極の両面に於て中央政府との煩しき交渉から解放せしむることだ。今日の地方団体は余りに多く国家の委任事務に悩まされて居る。町村役場などは御役所といつた趣がある。従て国家の干渉も繁く更に自治体としての簡捷な活動が出来ない。此点は先き頃の本欄の地方分権論にも説いた。又モ一つは右の結果でもあらうが、今日の自治体は何事をするにも上級団体の補助に頼り過ぎて居る。土木にしても産業の事にしても教育の仕事にしても一から十まで市町村は県の補助を、県はまた国の補助を当にして居る。だから地方の力が伸びない。積極的にも消極的にも地方自治体が自分の仕事を十分自力でやつて行く様にならなければ駄目だと云ふのである。之が為にはどうすればいゝか。第一には地方団体をして国家の委任事務から自由にしてやる事が必要である。此点を田中総裁は割合に強く力説されぬ様だけれど、提案の結論が当然こゝに帰せねばならぬのは明白である。第二には地方団体に自力で十分に活動の出来るやう独立の財源を与へてやらねばならぬ。氏は特に重大な主張として此点に別個独立の地位を附して居る。
そこで第二に政友会取ておきの地租委譲論が出て来る。地租委譲論は財政上の大問題として既に種々議論が交換されて居る。理論としても議論があるが、細目の技術の点になると更に大に議論があるやうだ。之に関して私は一月号の『我観』に見えた畏友関口泰君の「地租委譲と都市財政」を頗る有益なものと読んだが、何れにしても「地方に独立の財源を与」ふるといふことは、都鄙の負担を公平均等ならしむること、共に当面の急務である。而して政友会の提唱するが儘に之を採納していゝかどうかは更に財政学者の教に待つとして、兎に角地租委譲論が理論上傾聴すべき一改革案たることは疑を容れぬ。
とにかく田中総裁はいゝ事を云つて呉れた。政友会の看板たる地租委譲論の弁護に急ぐのあまり之が理論付のお粗末を極むるは遺憾だが、之に依て国民の耳目を這般の緊急問題に転じて呉れたのは些か感謝に催すると云へやう。只願ふ所は、之が主張を党略と結びつけ国民の為の美名の下に国民の利害をふみにじることなき様厳に党員を指導監督せられんことである。