独逸に於ける自由政治勃興の曙光
      ― 選挙法改正の議 ― 


      (一)

 四月一日の西電は、独逸の帝国議会に於て、国民自由党の提出に係る「憲法問題調査委員会設置案」が三十三票に対する二百二十七票の多数を以て可決せられたるを報じた。此案の目的とする所は民権伸張の着眼点より諸種の憲法問題を研究する為め二十八名の委員を挙げて調査会を設置すべしといふに在り、就中最も力を入れて研究すべきは現在の帝国議会は果して完全に民意を代表して居るや否や、又現在の如き議会対行政府の関係は民意伸張の本旨に協(かな)ふものなるや否やの二点であるといふ事である。
 更に四月九日の西電は、独逸皇帝即ち普魯西国王が其政治機関改革の要求を容れ、殊に其下院議員選挙法に根本的改革を加ふるに同意し、新たに其主意の法案の起草及び提出を政府に命じたといふ事を報じた。之より先き三月の末頃から、帝国議会に於てもプロシヤの議会に於ても、それぐ改革要求の声が頓と盛んになつたといふ事であつた。中にもプロシヤ選挙法の改正は豈に普国議会に於てのみならず、帝国議会に於ても亦盛んに主張されたといふ事であつたが、以上二個の電報によつて見れば、今や従来の政治組織を根本的に改革して、民本主義の要求を今後の政界に徹底せしめんとするの思想は、帝国に於ても将た又プロシアに於ても、将に実現せられんとして居ることが解る。之れ実に独逸の政界に取つては非常な大事件である。而して斯の如き大事件の突発を促した原因は、三月央ばに於ける露西亜の革命に在ることは亦多言を要しない。露西亜に於ける革命の成功は従来先づ墺国に波及し次いで独逸に及ぶを常とするが、墺国より未だ格別の報道に接せざるに、吾人は今や独逸が適確に其影響を蒙りつゝある事を耳にするのである。何れにしても露国革命の成功は、今や世界に於ける最後の専制的文明国たる独逸を促して、漸く多年の迷より覚め、真個民本主義の国家たらしめんとして居るのである。
 何を以て独逸並びに普国今次の改革案が、同国の政界に取つての一大重要事件なりと言ふか。帝国并に普国に於ける今次の改革案は、共に選挙法の改正といふ事に触れて居るが、元来此の両者の現行選挙法は甚だしく旧式なものである。其結果は即ち両者に於ける官僚の跋扈屁を助け、独裁専制政治の存続を便にし、従つて危険なる軍国主義の繁昌を促したので、為めに何れ丈け内に対しては自由政治の発達を妨げ、外に対しては国際間の平和を脅かしたか分らない。されば若し是等の選挙法にして一度近世的に改正せられんか、独逸は則ち一転して他の立憲国と同じく名実共に真の自由国となり、世界も亦其威嚇を免るゝを得るに至るのである。而かも此不都合なる現行選挙法は、実は官僚の拠つて以て自家の利益を擁護する唯一の障壁と為すものなりしが故に、従来彼等は極力其改正に反対し、遂に人をして尋常一様の手段では自由政治の実現は到底絶望なりと思はしむるに至つたのである。而して今や政府並びに皇帝は、率先して之が改正を公約宣言せらる。之れ決して尋常一様の事ではない。何となれば独逸に於ける此点の改革は、実に官僚階級の勢力の顛覆を意味するからである。選挙法の改正などゝ言へば其意味甚だ軽く聞ゆるけれども、之が実行によつて生ずべき独逸政界の変状は、正に之を露国の革命に比するも必しも不倫ではないのである。而して斯の如き革命的変革を独逸皇帝が此際率先して宣言するに至つたのは、是れ或は独逸に於て露西亜革命の影響が極めて重大であり、従つて新に勃興せる民権の勢力の実に抑へんとして抑ふべからざるものあるを語るものではあるまいか。
 然らば問ふ。何を以て帝国並びに普国の政治機関の改革が、独逸現在の政界に取つて実に根本的改革を意味すと言ふか、次に少しく其訳を説明しよう。

     (二)

 独逸帝国に於て民意を表明する唯一の機関は帝国議会である。而して帝国議会の議員は、独逸全国を通じて普く普通選挙の主義により、且つ直接・平等・秘密の原則によりて選出せらるゝから、此点に於て議会は完全なる民意代表の機関たるが如くも見える。併しながら、帝国議会の議員選挙法に於ては、選挙区の分割が著しく其当を得て居ないといふ難がある。其為めに帝国議会は民意代表の名あつて其実に副はざるの現象を呈することゝなつた。而して此点の失当の原因は専ら同選挙法が帝国成立以来未だ一回も改められないといふ事に在る。
 蓋し独逸帝国議会の現行選挙法は、今より約五十年前の制定の儘である。当時独逸の人口は三千九百七十万で代議士の数は人口十万人について一人といふ割合を以て三百九十七人といふことに決め、之を三百九十七の選挙区に分配したのである。其始め各選挙区の人口は大概過不足なき様に定められたのであつた。故に五十年前の制定当時には之で公平を得て居つたのであらう。が、然し其後人口の増殖と其移動とは実に甚だしい。されば当初の趣意を貫いて長く選挙権分配の公平を保たんとせば、時々人口の増加に伴ふ議員数の増加を行ひ、又人口の変動に伴ふ選挙区分割の改正を行はなければならなかつた。現に議員選挙法は此事を予期し、人口増加に伴ふ議員定数の増加は法律を以て之を定むと規定して居る。然るにも拘らず政府は未だ一回も之が増加改正を行はず、又極力之を行はざらんと努めて居る。其結果として生ぜる今日の不公平なる実例中最も甚しきもの二三を挙ぐるならば、シャウムブルグ・リッペは僅に四万四千の住民を以て、又ラウエンブルクは僅に五万の住民を以てして一人の代議士を出すに対し、同じく一人の代議士を出すに過ぎざるハンブルクの第五区は今日五十万の人口を、又伯林の第六区は実に七十万の住民を有するに至つて居る。総じて伯林は五十年前の人口六十万より今日は二百数十万に激増して居るから、依然代議士数を六人として置くのは正当でない。要するに今日、都市の住民即ち商工業を営む住民は、田舎の農業住民に比して、著しく不利益な状態に置かるゝことゝなつて現れて居る。なぜなれば此五十年間に於て、第一には人口著しく都市に集中せるを見、第二には年々増加する人口は言ふ迄もなく田舎より都会に多いからである。而して此事実は実に全体の人口中の保守的分子が、議会に於て代表せらるゝ関係に於て、急進的分子に比し著しく利益して居ることを語るものである。
 統計の示すところによれば今日の独逸帝国の人口は既に六千万を超えて居る。して見れば人口十万人に付き一人といふ割合を立て通せば代議士の数は六百人以上に増さなければならない。今の儘で放任しては約十五万人につき一人の割合になる訳である。而して十万人につき一人の割合を貫く為めに、仮りに更に二百余名の代議士を増加すとせば、其増員の多くが社会党其他の急進主義の巣窟たる大都市に落つべきは明白疑を容れない。併し一挙に二百余名の増員は余りに急激である。そこで姑く此等の増員は急に之を行はないとしても、選挙区の分割だけは何うしても今日の儘に之を放任して置くことは出来ない。斯くて先づ此点を公平に改むるとすると、亦矢張り著しく社会党乃至急進派の増加を見るべきは明である。何故なれば、人口の減少の結果廃され若くは合併せらるべさ選挙区は主として農業的保守派の地盤であり、商工業的急進派の地盤は之に反して従来一区であつたものが二区にも三区にも分たれるからである。
 今日の制度の許に於て如何に不公平なる結果の現はれて居るかは、一九一二年に行はれたる最近の総選挙に観ても分る。此の総選挙で社会民主党所属の議員は一躍して百十名の多きに昇つたけれども、之を全体の議員数に比較すれば僅かに其二割七分半強に過ぎない。之を得票数の四百二十五万を超え、全体投票数の三割五分弱なるに比すれば、不当に少いと謂はなければならない(票数の計算はすべて第一次選挙のに依る)。更に其以前の総選挙の例を取れば、一九〇七年には得票数が二割九分弱なるに対して議員数は僅に一割、一九〇三年には得票数が三割二分弱にして議員数は二割強といふやうな有様であつた。他の急進派も亦同様である。而して此等の急進的諸派が不当に損をして居るのは、即ち他の半面に於て保守派の不当に利益して居る事を語るものである。斯くして吾々は、若し帝国議会の構成が全然近世的に改造せられ、即ち一つには其代議士数の増加を見又一つには選挙区分割の改正の断行せらるゝならば、政府反対の急進派は議会に於て優に絶対過半数を占むるに至るであらうと思ふ。独逸帝国議会に於て今日尚ほ保守派が相当の勢力を占め、為めに官僚政治の跋扈を助けて居るのは、畢竟制度の罪であつて国民の罪ではない。而して此制度たるや実に独逸官僚政治家の拠つて以て立つ所の唯一の根拠なるが故に、彼等は従来頑として其改正の要求に耳傾けなかつた。然るに今や此点が民権伸張といふ題目の下に公然議会の攻究調査の題目に上せられて居る。之れ豈に独逸に於ける自由政治勃興の曙光といふべきではあるまいか。

      (三)

 独逸帝国議会の調査の題目に上つて居るものに、外に議会対行政府の関係といふ一項目がある。是れ恐らく帝国宰相の責任といふ年来の問題を意味するものであらう。之も亦同国に於ける自由政治の勃興には深き関係がある。
 元来独逸の帝国議会の内部に於ける政党関係は極めて複雑である。其中には純然たる政府党もあれば又純然たる反対党もある。加之被征服地の住民(例へば波蘭人丁抹人仏蘭西人の如き)を代表する絶対的反独逸主義者もあれば、中央党の如き大体は保守的従つて政府賛成なれども天主教擁護といふ一事の為めには如何なる者をも敵とするを辞せざる一派もある。従つて之等諸政党を甲乙に両分して、政府党及び反対党といふ風に截然区別することは六つかしい。従つて有力なる恒久的政府党もない代りに、又有力なる恒久的政府反対党もない。中間に問題に依つて或は右し或は左する有力なる団体の介在するものあるが為めに、政府は先に容易に議会を操縦するの余地を見出すのである。是れ同国に官僚政治の行はれ得る一つの原因にして、又議会そのものに実際的勢力の加はらざる所以である。同国に於て帝国宰相が議会に対して何等の責任を負はずとするの成例が、民論の反対に拘らず、久しく樹立し来りしも、亦畢竟このためであらう。
 帝国宰相の責任は実は帝国憲法第十七条に規定されてある。即ち同条に皇帝は帝国の名に於て法令を発し宰相は之に副署し依て以て其責に任ずといふ様な事が定められて居る。然るに先に所謂責任とは如何なる種類の責任をいふかは明でない。之等はもと特別法の規定に依つて定めらるべきものであるけれども、その特別法は未だ制定されて居ない。従つて宰相の責任の如何なる性質を有するものなりやは、法律上未だ明白でないのである。否明白でないといふよりも、責任の根本規定ありて之を糺す所以の細目規定を欠くが故に、責任の規定は、あれども無きに等しく、宰相は全く行動の自由を許されて居ると謂つてよい。是に於て宰相は豈に法律上の糺弾を受くることなきのみならず、又議会に対して責任を有するといふ一般立憲国に通有なる政治的慣例をも無視して顧みない。彼は日本の一部の固陋なる学者政客が論ずると同じ様な事をいひ、皇帝の信任さへあれば議会が一致して反対しようが又は不信任の決議をしようが、其の為めに地位を動かさるゝの必要が無いと放言して居る。現に先年ビートマン・ホルウェッグが一年の中に二度まで議会の不信任決議を受けても平然として其職に留つて居つた。此点は不信任の決議を恐れて急遽解散を奏請したる日本の官僚よりも遥に徹底して居る。
 斯くして独逸には宰相の責任を議会が糺すといふ途が付いて居ない。斯くては到底民意の伸張は期せられ無い。そこで従来宰相の責任といふ事は、頗る八釜しい政界の大問題であつた。たゞ政府側は離合常なき議会によりて左右せらるゝを国家の不利益なりと称し、責任論に対しては其都度極力反対し来つたのである。蓋し此事亦実は官僚政治に取つては其金城鉄壁とする所にして、若し宰相が議会の決議によつて其地位を動かさるべさものとならん乎、帝国議会其物の自由化すると伴つて、独逸の官僚政治は根柢から崩壊するの外はない。然るに今や政府側はまた卒先して宰相の責任を攻究すべしといふ。是亦政府に取つては民権に対する一大譲歩と謂はねばならぬ。

     (四)

 次に普国の選挙法改正の事を調べて見る。帝国議会が如何に自由化しても、宰相が頑として動かない以上は、独逸に到底自由政治の行はるゝ見込は無い。独逸を自由国にする為には、帝国議会よりも宰相其者を自由化することが先決問題である。然らば宰相の議会に対する責任を明にし、議会の意思に依つて彼の地位が動かさるゝ事となれば、夫れで独逸は直に完全な自由国となるかといふに、必ずしもさうではない。何故となれば独逸の制度の上に於て行政上の実権を握つて居るものは、皇帝を外にしては、帝国宰相に非ずして、実に各聯邦政府の代表者より成る聯邦参議院であるからである。然らば独逸を自由国に変ずる根本の要点は、この聯邦参議院の自由化であると謂はなければならない。
 聯邦参議院は如何にすれば之を自由化することが出来るか。之に対する答案は頗る簡単である。曰く普国を自由国にすること即ち是れ。今其故を説明せんに、抑も聯邦参議院は、制度の表面上は成る程帝国庶政の発源地であるけれども、実際の作用は全然普国政府の意の儘に動くので、同国の意思に反しては何事も出来ない。畢竟独逸帝国の万般の政治は、聯邦参議院を通じて実は専ら普魯西の自由に動す所となつて居るのである。帝国宰相は法律上普国の総理大臣が之を兼任することになつて居り、彼は普国総理大臣たるの資格に於て聯邦参議院の一員たると共に、帝国宰相の資格に於て其議長となつて居るが、此事自身は普国が参議院全体を左右するといふ事の上にさして重大の関係はない。重大の関係あるは其組織の上にある。独逸の聯邦参議院は、米合衆国の上院が各州政府より均しく代表者二名宛を出して組織せらるゝと異り、各聯邦の大小に依りて其送るべき代表員の数を異にして居る。而して普国は実に十七名を送りて最多に居る。十七名は全員約六十名なるに比すれば四分の一にしか当らぬも、併し此独逸の諸邦中には普国の意思通りになるもの少からざるを以て、事実上普国は参議院の過半数を制して居るのである。而して帝国憲法の規定に依れば、憲法の改正は十四票以上の反対ある時は之を為すを得ずとあるから、仮令他のすべての国が一致して其改正を希望しても、普国一国が之を欲せざれば、現在の政治組織は絶対に之を改正することが出来ない。他の一般の政務に付ても大体普国が優に参議院の過半数を制し得る事は前述の通りである。従つて概して之をいふに、聯邦参議院の決定は取も直さず普国の決定に外ならない。是れ「独逸は即ち普国の独逸」なりと称せらるゝ所以である。否、斯の如きは単に理窟の上ばかりではない、事実上今日は帝国全般の政務は、便宜上普国の政府に於て計画せらるゝ事が多いのである。普国総理大臣が則ち帝国宰相なるが如く、帝国政府の各省と普国政府の各省とは同一若しくは隣接したる建物内に在るを見ても、這般の事情は察せらるゝのである。之等の点は独逸の人は能く知つて居る。故に従来一方には帝国を普国の支配より解放すべしと主張するものありしと同時に、他方には本来地方的問題たるべき普国の政治組織の改革を以て、独逸全体の政治上の問題たるが如くに取扱ひ、屡々之を帝国議会の問題に上せるものがあつた。要するに独逸帝国の政治を十分に自由化せんとすれば、何よりも先づ普国其物の政治組織を自由化することが実質上必要なのである。
 然るに普国の政治組織は、極端に保守的にして、到底普通尋常の方法では之を自由化するの見込は無い。元来独逸政治の官僚的にして且つ専制的なるを極むるは、実は普国の政治組織が極端に保守的にして、其専制的官僚的政治を万全に擁護して居るからである。而して普国政治組織の今日尚ほ依然として保守的なるを得る所以のものは、実に其特異なる選挙法の御蔭である。そこで普国の選挙法を近代的に改正するといふ事は独逸帝国に於ける自由政治の興廃に至大の関係あることゝなる。是れ予輩が今次の普国選拳法改正の議を非常に重要視する所以である。


      (五)

 普国の議会はいふ迄もなく上下両院より成つて居る。上院の事は姑く措いて問はない。下院議員の全数は四百四十三人で、選挙権の資格は二十五歳以上の男子にして市町村会議員の選挙権を有する者となつて居る。大体先づ殆んど普通選挙に近いと謂つてよい。一選挙区より二人を選出するを原則とし、時として一人又は三人なる事もある。こゝまでは可い。けれども其選挙の手続きを見るに至つて、我々は其極めて不都合に組み立てられ居るに驚かさるゝのである。其第一の弊根は間接選挙の方法を採れる事である。即ち一般人民は先づ選挙委員を選び、其選挙委員が集つて代議士を選挙するので、即ち二重の手数を要するのである。第二の弊根は三級制度を採れる事である。即ち各選挙区に於ては人口二百五十人につき一人の割合を以て選挙委員を選ぶ事になつて居るが、其選び方は、一選挙区を更に沢山の支選挙区に分ち、其の各支選挙区に於て所謂三級制度に基いて選挙委員を選ぶのである。詳しくいへば、各選挙権者を納税額の標準で三級に分つこと恰かも我国の市町村会議員の選挙に於けるが如くし、各階級に於て同数の選挙委員を選ぶのである。但し其区に於て挙げらるべき選挙委員の数が三で割り切れない時には、残余一人ならば之を二級に与へ、二人ならば一級と三級とに分配する。斯くして挙げられたる選挙委員は、更に中央に集つて、改めて所定の代議士を選ぶのである。第三に最も甚だしい弊根は口頭選挙の制である。選挙は之を選挙官吏の面前に於て口頭を以て為すといふのである。此方法の民意の順当なる表現を妨ぐるは三級制度よりも遥に甚しい。此事は多くの人の其見る所を同じうして居る点である。
 斯くの如き天下稀なる極端に保守的の選挙法なるが故に、結局普国衆議院に於ける代表関係は、保守党其他の政府側に著しく多くして、過激なる在野党は殆んど其代表者を出すことは出来ない。一九〇七年の調査に拠れば、全国人口の僅かに三分が一級に属し、九分五厘が二級に属し、三級は実に全人口の八割七分五厘に達して居る。されば第三級は全体の人口の約九割を占めて居り乍ら、僅々選挙委員全数の三分の一を選び得るに過ぎない。而して一級と二級とは、略ぼ利害関係を同じうするが故に、動もすれば相提携して第三級に当るので、為めに普国の下院は、政府党全盛にして民間党は殆んど驥足を延ばすことが出来ない状態に在る。余りに不都合な制度なるが故に、社会民主党の如きは、斯かる悪法の下に選挙を争ふを欲せずとて、一八八三年来、棄権の態度を執り来つたのであつた。社会民主党が初めて態度を一変して選挙を争ふやうになつ七のは、一九〇三年からであるが、此年保守党の得票は三十二万四千余、社会民主党の得票は三十一万四千余であつたのに、議員数は前者に於ては百四十三人、後者は零であつた。一九〇八年始めて僅に七人の議員を送るに成功したが、同党の得票に至つては実に全体の二割四分に上つたのであつた。最近の選挙たる一九一三年六月三日の夫れでは議員数は更に増して十名となつたけれども、得票数と遥に釣り合はぬことは言ふ迄もない。
 斯くの如くにして普国下院に於ては、独逸帝国議会の場合と同様に、下層階級の勢力は不当に少く代表されて居る。否、帝国議会に於けるよりも其不当なる程度が甚しい。何故なれば、独逸帝国議会に於ては、一九〇三年の選挙には社会党の議員は八十−名を算し(得票は総投票数の三割二分弱)、一九〇七年の総選挙には大いに減じたるも尚四十三人(得票数は二割九分)を得、一九一二年には一躍して百十名(得票数は三割五分弱)に昇つたのに、独逸国中最も社会党の優勢なる普国に於ては、一九〇三年には一人の議員もなく、八年と十三年の選挙でヤツト七人から十人に上つたに過ぎぬからである。以て如何に同国選挙法の不当なるかゞ解るであらう。民間に改革の要求の高いのは亦怪むに足らない。
 併しながら、此不当なる選挙法が実に普国の官僚政治の立て籠る金城鉄壁である。若し之を改正して学者の所謂単純なる普通選挙若くは普通・平等・直接・秘密の原則を採用するならば、普国乃至独逸の政界は一躍して平民的勢力の横溢する所となるべきや疑ない。最近の一九一二年の帝国議会の総選挙に於ける各党派の得票数を見るに、社会民主党は単独で四百二十五万を算し、更に常に政府反対の側に立つ諸党派の得票を通算すれば約二百二十万となり、之を社会党の得票と合すれば六百四十五万(議員数は約百人十)の多きに達する。之に反して純然たる政府党の得票は僅に合計百七十万に過ぎない(議員数は約七十)。此外に問題によつては或は政府反対となり或は政府賛成となる者の得票は合計三百七十万ある(議員数約百四十)。仮りに此派を政府側に立たしむれば、議員数は二百名を超え優に過半数を制するに足るも、得票数は約五百四十万に過ぎずして遥かに政府反対党の夫れよりも少い。普国に於ては此等の関係は尚一層甚しいのである。故に独逸に於ては、帝国議会の選挙法にしろ、普国議会の選挙法にしろ、之を近世的に改めると否とは、取りも直さず専制的官僚政治の根拠が顛覆さるか否かの問題である。故に官僚閥族は従来選挙法の改正には極力反対して来たのである。
 如何に彼等が選挙法改正の問題を重要視したかは、近年に於ける改革運動の歴史を見ればよく解る。茲には只普国選拳法の方だけに就て述ぶる。改正論の八釜しく唱へられた始めのは、一八八三年並び一八八六年にある。この時秘密投票主義採用の議が議会の問題となり、激しき討論後遂に政府側の排斥する所となつた。此種の要求は其後も屡々繰返された。近くは一九〇六年にも改正の議があつた。併しながら政府側は、議員数を十名丈け増すといふことゝ、少しばかり選挙区の分割を改めるといふことに承諾を与へたに止り、直接選挙並びに秘密投票の両主義の採用には極力反対して其通過を妨げたのである。一九〇八年一月には、此問題の為めに社会党は全国に亙る大示威運動を行つた。けれども時の宰相ビューロー公は、明に現制の欠点を認めつゝ尚帝国議会議員選挙法と同一の程度に改めることにすら反対なる旨を明言した。此年また左党より一改正案の提出を見たけれども、無論否決された。六月の総選挙後の議会に於てもまた改正決議案の提出を見たが、是亦否決するところとなつた。之より社会党の示威運動は頻々として起つた。為めに政府の態度も幾分改つたと言はれた。其為めにや、一九一〇年一月の開院式の詔勅に於て、遂に国王は改正案提出を約束するに至つたが、併し乍ら其結果としてビートマンホルウェックの提出に係る一案は、最も露骨に官僚的臭味を帯ぶるもので、更に民間の要求する根本点に触るゝ所は無かつた。現に此案は間接選挙を直接選挙に改めた丈けで、秘密投票の主義は全く採用して居ない。三級制度も五千マルク以上の納税者を総て第一級にするといふやうな些細な改正を加へた丈けで依然之を存続せんとして居る。故に此案の提出に接するや社会党は勿論他の自由派は均しく冷笑を以て之を迎へたのである。二月下旬同案の調査委員は直接選挙の主義は採用しなくてもよろしいから、秘密投票の制度だけを採用して欲しいといふ意味で、原案に修正を施し、三月此修正案を通過したのであるが、四月に至つて上院は下院の修正を排して却つて原案の儘を通適したので、結局遂に成立を見なかつた。此間社会党の一派が示威運動などを以て政府の威嚇を試みたこと其数を知らぬ。けれども政府は断然此点に於て譲歩することを肯んぜなかつたのである。
 普国に於ける選挙法改正については、実に右の如き沿革がある。然るに今や政府は率先して改正を断行すべきことを宣言した。而かも普通・直接・平等・秘密の主義によつて選挙法の根本的改正を加ふべき旨を宣言したとある。是れ同国に取つては尋常一様の改正と見るべきではない。従つて此報道は一面に於て独逸に於ける民論の勃興が、今や旭日沖天の勢を以て進み、将に全然官僚を屈伏せんとして居ることを語るものではあるまいか。是れ予輩が此報道に接して独逸に於ける自由政治は今や其曙光を放てりと言へる所以である。只気に掛るは今後の成行である。

                             〔『中央公論』一九一七年五月〕