枢密院と内閣  『中央公論』一九二七年六月


     枢密院と内閣との衝突

 枢密院と内閣との衝突といふ問題は、この数年来政界の癌腫となつた。この問題で紛糾が起りかけると、直ぐ政変が予想される。そして今度はたうたう内閣の総辞職を見た。為に先頃の臨時議会には枢密顧問弾劾決議案の上程を見るに至つたが、この事の是否は別として、枢密院が最近事毎に自ら自己に対する国民の注視を挑発して居る形なるは疑ない。我々も国民の一人としては篤(とく)とこの問題を攻究するの必要を感ずるものである。

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 枢密院は如何なる点で吾人の特別なる注目を若くか。之には大体三つの方面がある様に思ふ。
 第一は民主政治に対する重要なる牽制機能を有する点である。近代の政治は民衆の意向に依て政権の帰属を決するせ理想とし、之が徹底を碍(さまた)ぐる機関の存在を原則として容認しない。故に下院に多数の基礎を有する政府が、或は貴族院の反対に躓き或は枢密院の異議に引退を余儀なくさるるが如きは、その忍び得る所でない。故に枢密院がその牽制機関としての活動に少しでも度を超ゆることあらん乎、国民が遂に之を不問に附せざるに至るのは已むを得ない。
 第二はその決定に対し全然之を争ふの余地がない点である。貴族院の反対なら衆議院をして両院協議会に之を争はしめる途がある。枢密院には之がない。或は内閣大臣が枢密院の票決に加はり得るではないかと云ふ者もあらうが、之は貴族院に多くの政府党のあるのと変りはない。其上に更に全体として反省を促す方法の有ると無いとが、貴族院と枢密院との異る所である。
 第三にその反対決議の政治的効果が極めて重大だといふ点である。政府の重要政策に付て枢密院の反対があると、現在の慣例では、政府が辞職せねばならぬことになつて居る。現に今度の若槻内閣の引退がこれだ。若槻内閣は形式上国民多数の支持する所ではなかつたけれども、これが下院の過半数を制して居つたにしても、枢密院に反対されて辞職を余儀なくさるるに変りはない。斯く枢密院の勢力が国民の大多数を圧倒して優勝なる地位を占むるといふは、今日の政界に於て許されるものだらうか。最も事実上斯んな場合の頻発に際して枢密院が敏に如何なる態度を執るかは、今より予期し難いが、兎に角今日彼に与へられてゐる地位が右の如くである以上、国民が之を不問に附し難しとするは当然であらう。

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 枢密院のことは先頃の臨時議会でも問題になつた。提案者の説明に依ると、一つは顧問官たる伊東伯の言動を難じ、又一つは枢密院の施政干与を難ずるを目的とするものである。国民の現に有つ感情を代弁したものとしては、私共も固より同感である。けれども之を議会の問題とするは、恐らく失当の護りを免れまい。この点に付ては尾崎行雄氏の説を正しとする。いづれにしても、伊東伯の弾劾は総辞職に伴ふ鬱憤の小供らしい発露に過ぎずと見るべく、枢密院の権限の論に至つては提案者の説明は丸で見当を外れてゐる。枢密院の行動の穏当を欠くか否かの論は別として、単にあれ丈けでは決して施政の干与にはならぬのである。施政の干与らしく見えるのは、枢密院の決議に不当に重大の効果を附すからであり、而して斯かる不当の効果を附して怪まないのは、枢密院そのものよりも寧ろ議員自身ではないか。果して然らば、彼等は枢密院を責むる前に先づ須らく自らの謬想に反省すべき筈であつた。
 私の考では、枢密院の反対決議の当然の効果として内閣総辞職を前提するのが抑も根本のあやまりだと思ふ。併しこの謬想は由来する所実は相当に深きものがある。従てこの点で政界に紛擾を醸したことは今に始まつたのではないのである。例へば最近では加藤(友三郎)内閣が日支郵便条約の問題で之に悩み、清浦内閣も亦火保問題でさん/"\困(くるし)んだ。只以上の場合に在ては、孰れも際どい所で妥協点が発見され、幸にも疑惧された異常の効果が現れずに済んだが、今度は到頭両者の喧嘩分れとなつて、かねて懸念された通り、若槻内閣の総辞職となつたのである。成る程枢密院の反対のために内閣の顛覆したのは今度が始めてだ。けれども反対の決議が斯う云ふ効果を有つものとはかねて深く政界の信条となつて居たればこそ、その実現を恐れてイザと云ふ場合いつも弥縫に弥縫が重ねられたのではないか。弥縫の裡にあやうく政変の実現が喰ひ止められる所に、這の慣行の存在が消極的に証明され、而して今度いよ/\若槻内閣の総辞職に依つて、その積極的証明は備つたわけなのである。
 この慣例は一体正しいものかどうか。
 加藤(友三郎)内閣と清浦内閣の辛うじて危機を脱したのは、異常の政変あらしめてはと懸念して枢密院が少しくその鋒鋩(ほうぼう)を蔵(おさ)めたからである。枢密院の決議の恐るべき大きな効果を有つことの可否には始めから疑をおかない。民間には斯かる異常な危機の頻出なからしめんが為に枢密院の権限を縮少すべしと説くものがあり、又は枢密院の施政に干与すべからざるの規定の解釈の上から、今日現に有するその権限を不当だと論ずるものもある。是れ亦枢密院の決議に関する在来の慣行を前提しての話なることは明である。而して私の考では、この謬つた前提に執着して居つてはいつまで経つても問題は解決されないと思ふのである。枢密院と内閣との関係を正視し、其間に適当なる解決を樹てんとせば、先づこの点から吟味して掛らねばなるまい。

     枢密院に認められたる憲法上の権限

 枢密院の権限を今まで通りにしておくと施政に干与する結果になるとて、その縮少を説くものがある。之は今度も問題となつたが、清浦内閣の火保問題のときには一層甚しかつた。あの時の論議の中心点は、枢密院は一体どれ丈けの事が出来又どれだけの事をせねばならぬものか、一言にして云へば、其査定範囲の限界如何といふことであつた。今度も矢張り此点が頻りに論ぜられる。而して之に関して説かるる所は大体二つの方面に亘つてゐる。一は枢密院の権限は与へられたる諮問案の憲法に対する関係の審査にとゞまり、事の内容に亘りて利害得失を争ふべきでないとするもので、他は施政に干与するを許されざるの結果として、政府の政策を実行不可能に陥らしむる様の措置に出てはいけないとするものである。この二説共に枢密院の職務を正当に解せざる謬論であると私は考へる。
 第一に枢密院は、君主最高の顧問府として、諮詢の実に対してはその良智をつくし、その観る所を遺憾なく上申すべきである。啻(ただ)に実の法的形式ばかりではない、その実質的内容にまで立ち入つて論ずるは、毫も妨げなきのみならず、斯くするに非れば十分に至高顧問たるの職任を完うしたものと謂ふことを得ぬ。伊東伯の場合の如く個々の言動に非難に値するものありと云ふことはあらう。併し一般的に声へぼ、顧問官の発言には本来何等の制限のないのが本則なのである。
 第二に枢密院の施政に干与することは枢密院官制第八条の明かに禁止する所ではある。併し之は枢密院をして終始一貫君主至高の顧問府たるに安住せしめんが為の規定である。之が為には直接政府と交渉して施政の方針を左右する様なことあつてはならぬ。この懸念に基いて第八条の規定が生れたのだ。故に右第八条に所謂施政不干与の禁戒は、政府と直接の交渉なきの事実を以て終り、君主の諮問に対し如何の答申を上つるかに就ては、絶対に制限する所がない。その答申の結果君主が政府の輔翼に対し如何の態度を執られ、又之に続いて内閣の運命に如何の異変を生じても、そは最早枢密院の関知する所ではない。落第生が親の勘当を受くるの恐れあるからとて試験官が採点に手心を加へてならぬと同様である。
 憲法第五十六条は曰ふ。「枢密顧問ハ枢密院官制ノ定ムル所ニ依リ天皇ノ諮詢ニ応へ重要ノ国務ヲ審議ス」と。諮詢せらるべき事項には略ぼ一定の限界あるとして(枢密院官制第六条等参照)、苟くも諮詢せられたる問題に付ては、形式内容の両面に亘り、良智良能を絞つて思ふ存分その見る所を上申すべきである。その答申に対し自ら一定の限界ありと考ふるのは間違である。尤も枢密院の決定そのものが偏僻だとか、顧問官個々の議論に失当の点ありとか責むるのは別問題だ。

     最近枢密院に許されたる政治的職能

 前述の如く枢密院の権限には世俗の考ふる様な制限はない。如何なる答申を上つるも絶対に自由である。その結果政府が窮地に陥る様なことがあつても構はない。否、斯んなことを顧慮して答申を加減する様なことがあつたら、それこそ職責に忠なる所以でないと謂はねばならぬ。是れ実に憲法の要求であつて創走当時以来一貫して変らざる所のものである。
 さうすると、枢密院が若し無遠慮な態度に出でたら昔だつて政界に多大の波動を及ぼした筈だと考ふる人があるかも知れぬ。所が昔は之で一向面倒が起らなかつたのである。枢密院の決定が意外に重大な影響を政府の地位に及ぼし、まかり間違へばその更迭をさへ促す様になつたのは、実は近頃の事である。然らばどう云ふわけで、昔し面倒でなかつたものが昨今になつて急に面倒になつたのか。私の考では、之は枢密院と内閣との関係に付ての憲法制定当時の精神が、其後段々に守られなくなり、之に関する政治上の慣例は、却て当初の期待とは丸で違つた方向に発展したからだと思ふ。最近の紛糾を明にするには、先づ此事実から調べてかゝる必要がある。
 一体憲法制定当初の精神から云ふと、枢密院は天皇最高の顧問府であつて、政府と対立する牽制機関に非るは勿論、又決して広く国民と何等の交渉を有つ機関でもない。尤も枢密院第十一条の示す如く、「各大臣ハ其職権上ヨリ枢密院ニ於テ顧問官タルノ地位ヲ有シ議席ニ列シ表決ノ権ヲ有ス」るのではあるが、本来は第一条の明定する如く、「天皇親臨シテ重要ノ国務ヲ諮詢スル所」であつて、その表決は単に天皇裁政の御参考に供するに過ぎないものである。但しそれが間接に大臣の輔弼に依る国務の最高裁量に影響することあるべきは固より想像に難くない。けれども枢密院は、如何なる形に於ても、決して直接の交渉を政府そのものと有つものではない。枢密院の決定は何処までも君主と顧問官との内部的関係にとゞまるものである。故に君主裁量の結果が大臣の輔弼と相軋り、為に政界に変動の起ると云ふのなら分るが、枢密院の決定如何が原因となつて直ぐ政界に大波瀾を捲き起すといふが如きは、本来決してあり得ないものである。換言すれば、枢密院の決定は、その内容の何であれ、そは本来単に君主の参考材料たるにとゞまり、其以外憲法上何等の意味をも有たないのである。だから枢密院の会議は常に秘密とせられ、其表決も本来外部に伝唱さるることはなかつたのである。従てまた其の表決が君主の裁量に如何の影響を及ぼせしかをも見定めずして軽々に大臣の進退去就を考ふる様なこともあり得ない道理なのである。そこで斯ういふ当初の精神が厳格に守られて居たなら、枢密院がどんな決定をしようとそは決して政界表面の問題とはなり得ない筈なのに、近来は之が毎に大きな表面の問題となるのはどう云ふわけか。是れ詰り元の精神が守られなくなつたからではないか。見よ、現に枢密院の会議は、元首親臨の慣例は姑く措くとして、その顛末は昨今は直に外聞に伝へられ、殊に之と内閣との見解の対立の如きは、まざまざと国民の耳目の前にさらされて批評の標的とされるではないか。斯くて枢密院は、今や顧問府たるの性質を一変して政府監督の最高機関たらんとする。事実上から云つても、昨今の枢密院は、自ら進んで頻りに斯の方面にその機能を発揮することにつとめて居り、俗人をして斯かる政治的作用を外にしては最早存在の理由を有たぬものなるかに誤解せしめても居る様である。
 斯く論じて来ると、枢密院の行動が天皇の最高顧問府たるよりも寧ろ政府の監督機関の実を呈するに至つたことを、私は悪いと責むるものの様に聞えるかも知れぬが、必ずしもさうではない。私は我国政界の進展を冷静に観て、実は斯くなるのが自然だとも考へて居る。加之そこには亦相当の理由もある様に思ふ。そこで若し之が自然の成行であり且つ相当の理由もあるものとするなら、之に基いて新に変つた原則が樹てらるべきであり、又この新原則に基いて枢密院の行動が批判さるべきであるまいか。然るに政界の現状ではさうなつて居らぬ。事実は自然の趨勢に委せて、而も之を批判する頭の方は旧態依然古い思想で固まつて居る。種々面倒なる問題の起るのは要するに此処から来るのではあるまいか。政界は当初の期待に反して既に数十里先へ飛んで往つた。之を再び席のスタートに呼び戻すか(之が可能だと仮定して)、又は現状を既定の事実と承認して拠るべき原則を新に樹てるか。之を決めるのが先決の問題になる。枢密院と内閣との関係を論ずるに当ては、先づ以て這般の事態をよく念頭に入れておく必要があると考へる。

    憲法制定当時の枢密院設立の理由

 右の点を明にする為には、一応憲法制走者が当初如何なる考に基いて枢密院を設けたかを研究しておく必要がある。これには起草者たる伊藤博文公の意見を参致するのが一番い、。伊藤公はその著『憲法義解』第四章の解説に於て次の様に述べて居る。

 国務大臣ハ輔弼ノ任ニ居リ、詔命ヲ宣奉シ政務ヲ施行ス。而シテ枢密顧問ハ重要ノ諮詢ニ応へ、枢密ノ謀議ヲ展ブ。皆天皇最高ノ輔翼クルモノナリ。

 即ち見る、施政最高の鍵は至尊ひとり之を掌握し給ひ、而して右には枢密顧問を率ひて事を諮り、左には国務大臣に命を伝へて万機を行はしむるの制度なることを。詳しく云へば、我国の政治組織は、英国などの如く当時決して政党首領に組閣を命じ、その統率の下に施政の方策を纏めしめてその裁量に一任すると云ふ仕組ではなかつた。君主はその信任する個々才能の士を挙げそれ/"\補弼の任に当らしめる。便宜上総理大臣といふものはあるが、之が国務各大臣を統率するのではない。総理大臣は彼自身亦一国務大臣として他の国務大臣と同列に独立各別に輔弼の任を尽すと云ふ仕組であつたのだ。だから各大臣の上に立つて最後の大方針を決定する地位に在るものは、制度上君主の外にはない。即ち君主親政の原則に拠つたものである。少くとも日本の憲法は―又は制定者たる伊藤公は君主の地位を斯の如きものと前提して居るのである。して見れば、国務大臣は君主の詔命を奉じて大政の施行に当るものでその所謂輔弼は詔命の執行に限るべさは論を俟たない。詔命そのものの構成に至ては、大臣の干与し得る所ではない。勿論君主が如何なる詔命を発すべきやに付ては、固より国務大臣の進言を参考とすることはあらう。併し之を決定するに付ては、命を受けてその施行に当る者に与らしむべきではない。
 於是この方面にも一つ別の輔翼機関が要ると云ふことになる。是れ則ち枢密院の設けられたる所以。而して国務大臣と相並んでひとしく「皆天皇最高ノ輔翼タル」所以である。
 なほ誤解を避くる為に云つて置くが、我国の憲法上では「国務大臣」と所謂行政各部の長官たる大臣とは観念上別個の職任である。本来之を分けたのが変なものだとも思はれぬでないが、制度上のきまりとしては、普通行政各部の長官として解せらるる何某大臣は、総理大臣の下に統括せらるる合議体を為すものだが、憲法上の輔弼機関たる国務大臣の資格に於ては、合議体を為すものではない。つまり各自独立に君主を輔弼するものなのである。英国などには斯んな区別はないから、大臣は大臣として纏つて施政の統一的方針を定める。故に大臣の外に別個の輔翼機関を必要としない。然るに我国では、国務大臣は個々別々に輔弼の任務を尽すのだから、之を取捨斟酌して之から統一的方針を編み出さるるのが君主の最高の任務となり、そこから之にも輔翼の機関が要ると云ふわけになるのである。
 以上の事は枢密院官制の前文を拝諭してもよく分る。曰く

 朕元勲及練達ノ人ヲ撰ミ、国務ヲ諮詢シ其啓沃ノ力ニ倚ルノ必要ヲ察シ、枢密院ヲ設ケ、朕ガ至高顧問府トナサムトス。

 更に伊藤公の『憲法義解』を見るとこの点一層明瞭である。第四章の解説に曰く

 蓋内閣大臣ハ内外ノ局二当リ敏急捷活以テ事機ニ応ズ。而シテ優裕静暇思ヲ潜メ慮ヲ凝シ、之ヲ今古ニ考へ之ヲ学理ニ照シ、永図ヲ籌画シ制作ニ従事スルニ至テハ、別二専局ヲ設ケ、練達学識其ノ人ヲ得テ之ニ倚任セザルベカラズ。此レ乃チ他ノ人事ト均シク一般ノ常則ニ従ヒ二種要素各其ノ業ヲ分ツナリ。蓋君主ハ其ノ天職ヲ行フニ当り、謀リテ而シテ後之ヲ断ゼムトス。即チ枢密顧問ノ設実ニ内閣ト倶ニ憲法上至高ノ輔翼タラザルコトヲ得ズ。

と。之に由て之を観れば、天皇は自ら万機を総裁し、一方には枢密顧問の良智に諮り、他方国務大臣に政務の摂行を托する仕組みたるは明白である。
 されば枢密院と内閣との間には本来何等直接の交渉の有り得ないことは論を待たない。枢密顧問は文字の示す通り天皇の意思決定に参与する。即ち天皇の諮詢を待つてその観る所を奏上する。但し之を採ると採らざるとは一に君主の決定する所に係るが、要するに、枢密顧問が如何なる意見を表示せしやは、本来君主と顧問とだけの事柄にとゞまり、外間に問題とさるべき筋のものでない。枢密院の会議が君主親臨を本則としその顛末を外間に公にせざるの規定なるも、皆一にこゝから来る。故に枢密院の斯の性質が今日も依然としてよく理解され且之に基く諸制度諸慣行が厳格に守られて居るなら、枢密院と内閣との衝突など云ふ問題は決して起り得ない筈なのである。但し君主のお手許の問題としての話なら別だ。君主が内閣の意見を斥けて枢密院の答申を是なりとされたら、始めて内閣が辞職すると云ふ問題も起らう。併し君主の執り給ふ態度のいづれとも決まらぬ間は、枢密院の議定が如何様のものであつても、内閣は一切之を雲烟過眼視していゝのである。場合に依つては、枢密院の決定に対抗して飽くまでその真に国利民福とする所を君主の前に強調力説しても差支ない。併し斯は憲法制定当時の設定理由に即して枢密院の職能を観察しての話だ。今日枢密院なるものは当に如何なる職能を有つべきであるか、枢密院なるものの今日の政界に有する合理的存在理由の何であるかの純理論的問題とは全然没交渉の議論である。
 枢密院と内閣との関係につき、現今の実際政界が之に附する意味は、右に、説明せる所とは丸で違ふ。枢密院の意向なるものはすぐ外間に知れる。その上それに依て直に政界に大動揺が起る。一言にして云へば、枢密院の一挙一動が直に甚大の影響を内閣の運命に及ぼすのである。之は一体どう云ふわけなのか。思ふに是れ枢密院の行動が今や憲法制定当時の趣意通りに運ばれて居ぬからではないか。
 そこで問題は一転する。枢密院の行動の斯く変つたのは一体いゝことか又は悪いことか。この点の考へ様如何に依て、憲法制定当初のに復(かえ)るべきか、又は現在の事態を既定の事実ときめ憲法解釈の上に新しい主義を容認すべきか、の議論が岐れる。運用上の実際慣行をば時勢の進みと共にぐん/\変つて行くに委せ乍ら、解釈上の原則のみ四十年来の旧套を守株せしむるのは、どの道許されぬことであらう。

     枢密院を必要とせし事情並にその事情の変遷

 前項の末段に提出した問題に対する私の答案は斯うだ。新しい慣例の生ずるのは時勢の要求として阻止し難い。加之斯く変ることの上に相当の理由もある。然らば之にも拘らずいつまでも古い原則に拘泥して新事態の当然の発展を妨ぐるのは寧ろ間違であらうと。斯くして私は、枢密院と内閣との間には今や憲法運用上新らしい原則が樹立さるべき時機に達して居ると考ふるのである。
 さうすると世間には、憲法は必ず制定当初の精神に依て運用さるべきだ、之と相容れない事態の存在を許して居るのすらが間違ひだと論ずる人があるかも知れない。世運の進歩に眼を掩うて一旦覚え込んだ理窟を機械的に遵奉するのみを能とする連中に、とかく斯んな考の人が多い。併し制定当初の精神通りに運んで居ないのは、啻にこの問題ばかりではない、外に幾らもある。畢竟するに是れ当初の制定者は万能にあらず、将来の進展を予見して凡ゆる新事態に処すべき謬なき方途を予め講じ得ざりしを語るものではあるまいか。制定者も人間だ。その限りある能力を買被つてはいけない。彼も固より我々と同じく間違ふことはある、況んや予期せざる新事能だ対し聡明なる方策を前々から決めて置くと云ふが如きをや。故に制定当時の精神が斯うだから今日も之に悖つてはいけないなど云ふのは、昨の過誤を今日に守株するの迂愚に外ならない。斯れ豈政界の活機に処する所以であらうか。軽卒安価な変易も固より慎むべきだが、時運の遷移に処して適宜な新策を樹つるを知らざるも亦深く戒むベきである。
 試みに所謂制定当初の精神が制定者其人に依て已に破られたる顕著なる一好例を挙げて見よう。憲法制定者伊藤公がその晩年に於て一種の政党内閣論者となつたことは人の知る所、而して彼が当初熱心なる超然内閣論者たりしことも極めて著名の事実である。『伊藤公演説集』に依るに彼は憲法発布の当時斯んなことを云つて居る。曰く

 …然れども政府内に政党を引入るることは甚だ宜しからぬことにて、政府は須らく政党以外に独立すべし。大臣にして若しも政党に関係あるものとせんか、勢ひ彼に厚く此に薄きが如きことなしと云ふべからず。夫の英国の如き、政党内閣の害なしと為す所以のものは、是れ其国民の習慣の然らしむる所にて、他国の決し模倣すべきに非ず。

と。斯うした考は当時の為政階級間の一般の輿論であつたと見え、第一議会召集前に開ける地方官会議では山県総理大臣もその施政方針の演説中に

 …夫の行政は至尊の大権なり。其政務の任に当るもの、宜しく各種政党の外に立ち、援引附比の習を去り、専ら公正の方向を取り、以て職任の重きに対ふべきなり云々

と云ふ様なことを述べて居る。山県公は人も知る通り最後までこの見解を改めなかつたが、伊藤公は十年前後に亘る苦き経験の結果にや全然この考の永く維持すべからざるを悟り、遂に自ら挺身して政党組織に着手したではないか。伊藤公の政党観は今日より見て頗る変なものであつたことは争はれないが、兎に角彼には時勢の変を透視するの聡明が可なり豊富に恵まれてあつたと思ふ。孰れにしても制定者の意図如何に拘らず、憲法運用上の慣行が実際の必要と便宜とに推されてどん/\勝手に進んで居たことは疑ひを容れない。政党内閣制又は政党内閣的の制度が、今日となつては、之を理論づける説明の如何に拘らず、最早阻止し得ざる勢ひに在ることは明白ではないか。而して斯んな風に憲法運用上制定当初の精神を無視した慣行の生れ且つ固まつて行く例を挙げるなら、外にも其類が少くないのである。
 枢密院の性質並に其の機能に就ても、私は之を憲法制定当初の精神とは違つた方向に進化して行く著しい例の一と数へて差支ないと思ふ。而して其の因由に就ては、内閣の性質の変易と密接に関係する所あることに注意するを要する。伊藤公の制定当初の精神は、前にも述べた如く、何も彼も君主大権の親裁といふ一点に集中するに在つた。併し君主をして政務執行の直接責任者たらしむべからざるは、今や憲政至要の常則として何人も疑ふものはなく、所謂大権内閣なる美名は、要するに専制政治家の自家擁護の仮面に過ぎざるものとして排斥さるることになつて居る。其処で段々政党内閣が憲政当然の常則なりといふ論に移つて行くのであるが、さうすると枢密院は元々君主の直接親裁といふ立て前の下に必要とせられ、此の主義が厳に守らるるといふ前提の下に始めて其の機能の発揮の期待せられたものであるから、其の根本条件たる君主大権の直接親裁といふことが段々趣を変へて来た以上、初めの期待通り活用せぬは当然である。或る日当があつて作つたものが、其日当が変れば当初の考へ通りに使はれぬことになると云ふ訳である。其処で枢密院は結局どうなるかと云ふに、其運命は蓋し二つより外ない。一は告朔(こくさく)の羊(きよう)として無用の長物視さるるか、又は新しい意味を以て政界に別様の立場を要求するか、之である。私一個の考としては、当初設立の動因が変つたのだから、一挙に之を廃止するのが一番いゝ、少くとも英国のそれの様に単に名誉の閑職としたがいゝと思ふ。然るに我が枢密院は、もと先帝陛下の特に之を重用し給ひし所であり且最近までは維新以来の元勲の拠る所であつた為か、自ら政界に重要な勢力を占めて来た。而して右述ぶるが如き事情からして君主の最高顧問府たる本領が薄らぐにも拘らず、政府を薫督(とうとく)する至高機関たるの面白が却て漸を以て濃厚となつて来た。是れ即ち近来に至り枢府と内閣との関係が政界の二大難問題となつた所以である。

     変転せる政情の下に於ける古き理論と古き慣例

 以上説くが如く、枢密院の君主最高の顧問府たるは今や殆んど空名に属し、実は政府に対する一牽制機関となつて了つた。この事実は最早到底かくすことは出来ない。従つて吾人の議論も亦この事実を前提として進めねばならぬことになる。今日の如く、顧問官連が憚る所なく公然政治の得失を批判する以上、この前提は拒むことは出来まい。若し自分達に都合が悪いからとて、此の前提に基く当然の批評を避けんとする者あらん乎、そは甚だ卑怯の仕打と謂はねばなるまい。
 尤も斯う云ふ結論になるのを恐れて、或はこの事に始めて気が附いて、当初の精神通り矢張り純顧問官として留まりたいと考へ直す人もあるかも知れない。そんなら彼等は今までの態度を改め、須らく政治問題の容喙から全然手を引くべきである。万機の摂行を大臣の輔弼に託して君主が政局の紛争から超越し給ふことになつた今日、もはや枢密顧問の政治的輔翼は事実不必要となつたからである。即ち枢密顧問官は、かの宮中顧問官の如きものとなるべきだと考ふるのである。是れ私が先きに枢密院将来の運命の一として英国式の型を挙げた所以である。
 斯くいへば世上或は私の議論の根本たる君主の政界超然論を怪しからぬといきまく人があるかも知れない。併し俗間によく云ふ「我が元首は君臨して且統治す」といふを国体の特色だとする説の文字通りに受取る可からざるは、今頃事新しく説明するまでもなからう。我国に於て、君主が現に親ら直接に政権行使にあたり得る全能の地位に処り乍ら、而も親ら深く之に干与し給はず、唯君臨して自ら国民の儀表たり、政界紛争の上に超越して常に風教道徳の淵源たる所に、寧ろ我国体の尊貴な所以が存するのではないか。
 君主は君臨して統治せずといふと、如何にも君主の大権を傷くるが如き感をなして之を憤慨する短見者流も一時はあつたが、此頃はこんな点に疑を抱くもの、少くとも識者間にはなくなつた様だから、此上の穿鑿は止さう。
 只一つ序(ついで)を以て先に一言しておきたいものがある。君主大権の直接親裁といふ所謂制定当初の精神は、今は大に其意味を変へて来た。けれども、不思議なことに、或特殊の政務については、仍(な)ほこの考に基く一変例が残つて居る。何ぞや、他なし、軍令と称するもの即ち是れだ。制定当初の精神から云へば、前にも述べた通り、各国務大臣は銘々独立に君主を輔弼し得る。各大臣の輔弼する所を彼此照合按排するのが君主の任務で、別に内閣会議で協議するといふ必要はない。此理窟に根拠して今日陸海軍大臣は、総理大臣その他の閣僚に無相談で、直接君主の裁可を乞ひ、軍令と称する特殊の勅令を発布してゐる。軍事以外の政務に付いては、実際の必要上凡て皆内閣の会議を経るのに、軍令だけはさうでない。其結果どうなる。普通政務に付いては内閣会議で各大臣の意見をまとめ、彼此按排の宜しきを得るにつとめる。故に、能く国務の統一は保たれる。然るに独り軍令事項の処理に至つては、此点に関し鞏固なる一治外法権区域を為し、内閣外に一個の別天地を作ることになつて居る。是れ軍閥跋扈の声の高く叫ばるる所以ではないか。斯くの如きは独り軍閥の名誉のためのみならず、帝国国務の統一的促進の為めにも甚だ憂ふべきことである。仮に一歩を譲つて、之も良いとする。君主大権の親裁といふ旧来の原則に立脚すると云ふなら、之れこそ何を差し措いても枢密院の諮詢に附せねばならぬ筈だのに、今日の実際はそれもしない。尤も軍部の人は、軍令は政務でないと強弁するかも知れぬが、その牽強附会の詭弁たるは多言を要せずして明かであらう。私は曾て是等の点を『二重政府と推帳上奏』と題する小著に於て詳論したことあるが、未だ大に世論の注目を若かないのは遺憾である。大事な問題だから心ある読者の参照せられんことを希望する。

     新しき政情の下に於ける枢密院対内閣の当然の関係

 再び問題を前に転回し、政府の施政に対する牽制機関といふことに枢密院の性質をきめる。斯う云ふ性質のものとすると、私は純理上枢密院を以て無用の制度なりと断ずるに躊躇しない。元来政府の牽制機関としては議院だけで沢山だ。その議院が既に上下両院に岐れ、其間また政府側の勢力なども介入し来つて状勢頗る紛雑を極めて居るのに、何の必要ありて此上更に枢密院を置かねばならぬのであるか。一体大臣といふものは、最初の選任の際の用意が十分慎重でさへあれば、あとは思ふ存分働かした方がいいのである。せせツこましい監督に累せしむる如きは啻に精力の浪費のみに留らない。此点に於て世間には既に貴族院の無用をさへ唱ふるものがある。その貴族院の外に更に枢密院までを存置するのは実に屋上屋を架するの愚に等しいではないか。加之斯く人才を各所に分散しては、必要ありて設けたる各機関の活動を十分精鋭ならしめ得ざるの憂ひもある。現に見よ、枢密院の設けある為に、之と同級と自任する人才にして貴族院に議席を有する者は、故(ことさ)らに常習的欠席を得意顔して居るではないか。昨今の上院が事毎に少壮軽佻の徒の跳梁に委せられてゐるのは、確かに其一因を茲に有すると思ふ。何の方面から考へても、今日の枢密院は無用の長物である。時として有害でさへもあり得る。強て之を存したいとなら、元老優遇の意味に於てのみ、露骨に云へば老朽勲臣の晩年を窮せしめざる意味に於てのみ、僅に之を維持するに止むべきである。少しでも施政監督などいふ娑婆気を出すなら、到底無用有害の談は免れ得まい。故に一番簡単明白な対策は其の廃止だと云ひ得る。言葉を換へていへば、政府監督の機関として枢密院を存置するは、今日もはや其必要はないと謂はねばならぬのである。
 かくて枢密院の廃止は、政治組織整理の論点からも必要とせらるる所だと謂へる。之を存するは徒らに施政の煩累を増すばかりだからである。併し謂ふ所の施政煩累は、枢密院を全然廃さなければ取り去られぬものかと云ふに、必ずしもさうではない。廃するに越したことはないが、態々(わざわざ)廃さなくとも、事実上之を有名無実ならしむる勢を作ることは出来ぬでない。尤もそれには第一に衆議院がもツと有名有実なものになることが必要だ。是等の点も頗る詳細の説明に値する問題だが、論点余りに多岐に亘るを恐れて他の機会に譲ることにしよう。只一言して置きたいのは、選挙が極めて公正に行はれ、衆議院が名義上ばかりでなく真実に民衆全般の良心を後援として立つに至るとき、始めて其の道義的権威は実に偉大なるものとなると云ふことだ。さうなると例へば貴族院の如きは、縦(よ)しんば制度上の権限が此と全然同じでも、事実の上には甘んじて下院の凌ぐ所となつて悔ゐないことになる。況んや枢密院の如きに於てをや。英国は正にその最も明白なる実例ではないか。故に下院さへ確(し)つかりして居て呉れゝば、枢密院の牽制の如きは本来些も政界の煩累とはならぬ筈のものである。所が我国の下院は、事新しく述ぶるまでもなく、英国の夫れの如き道義的権威を有つて居ない。是れ貴族院の不当なる跋扈を誘致せる所以にして、同時に又枢密院の牽制を怖るべきものたらしめた所以ではないか。併し今更下院を責めたとて仕方がない。差当りの問題としては枢密院が現に有力なる監督機関として実際政界に絶大の勢力を振つて居る以上、この事実をどうにか始末せねばならぬのである。一番簡単明瞭な解決は、云ふ迄もなく、其の廃止だが、実際問題としては、之を為すの手続容易ならざるのみならず、其の権限の伸縮すらが実現困難とされて居る位だから、枢密院は当分引続き存置せらるるものとして、さて之と政府との関係をどうすれば最も政機の活動を滑かならしめ得るかが、我々の解決を要する問題になるのである。
 此点に関して疑なき一事は、既に監督機関として存在を許さるる以上、濫りに其の発言を掣肘してはならぬと云ふことである。此事は先きにも詳しく述べた。モ一つ明白疑を容れざるは、枢密院の言議をして決して政変の動因たらしめてはならぬと云ふことである。何となれば、政府は議会以外に於て政治的責任を負ふべきものでないからである。そこで結論はかうなる。政府の進退を議せらるるは独り議会に於ける弁論に限るべく、枢密院の批議の如きは、如何に痛烈であつても、之に基いて政変を起らしめてはいけない。既に枢密院批議の効果を斯く限る以上、其の言議が如何の範囲に亘り如何の程度に達してもそはまた何等咎むる所はない。寧ろ思ふ存分に論難させた方がいゝのである。斯く観ると、枢密院の政府に対する関係は、或る意味に於ては会計検査院の如きものになるといふが、今後の目標でなければならぬと考へる。


     結  論

 枢密院は本来なくもがなの冗物だといふ人がある。にも拘らず俄に之を廃し難しとせば、切(せ)めて会計検査院の如きものたらしめたいと私も思ふ。斯く云ふは、練達才識の士をして自由に施政の得失を批評せしめ、之を以て議会の政府監督に大に参考たらしめんと欲するからである。惟ふに今日の政界に於て、枢密院を存在せしむる理由はこの外にはない。君主の輔翼は国務大臣を以て十分とすべきである。
 会計検査院の如きものと云ふと、世人或は非常に軽いものと思ふかも知れぬが、併し従来後者を重く見なかつたのが一体大なる誤りであると考へる。政府当局の非違を糺す上に於て、会計検査院の報告ほど重要なる材料を供給するものはないのである。故に本来もツと重視されねばならぬ筈のものだ。斯く考へると、之と枢密院とを併称しても、恐らくは左程非倫ではない筈と思ふ。況んや枢密院の方は従来寧ろ過分に重視されし嫌ひあるに於てをや。
 只一つ先に枢府と会計検査院とを実際上同一視し難き点があるを注意しておきたい。それは公式令第七条の規定あるが為だ。その第三項に曰く、「枢密顧問ノ諮詢ヲ経タル勅令…ノ上論ニハ其ノ旨ヲ記載ス」と。こゝに「議ヲ経タル」といふ意味を協賛の義と解すれば、乃(すなわ)ち枢密顧問の政府提案に対する異議は規定の条件を充さず、政府の政策を結局実行不可能に陥らしめることになる。是れ会計検査院の詰責が政府の行動に対し何等実質的の障擬たらざると同一の談ではない。そこで此点をどうするかが一つの困難なる問題となる。之を従来通りに放任して置けば、由て以て枢密院は事実政府の施政を左右し得る結果となる。事の性質に依ては、その進退をさへ決すべき程の大影響をもたらさぬとも限らない。併しかくの如き結果の現れることは、屡々述べた通り、断じて容認すべきものではない。果して然らば、どうしても茲に一つの新例が発明せられてこの難関を疏通せねばならぬことになる。是れ私が避け難き新事態に応ずる為の新慣例の発生を必要なりと主張せる所以である。
 然らば如何なる新例を開いたらいゝか。之に付いての私の考は大様次の如きものである。

一、枢密院の職能に関する法律的解釈は従来通りとする。
二、枢密院の行動の政治的価値に就ては断じてその威力を政府以上のものとしてはいけない。少くとも政府と対等のものとすべきである。
三、従て政府は最終決定権を有する者の前に枢密院と対立し堂々とその所見を争ふことを得ねばならぬ。法律上最終決定権は君主の掌握し給ふ所だけれども、政治上君主の決定に最も重き交渉を有するものは人民である。
四、最終的決定を見るまでの間は、政府の所見をして先づ優秀の地位を占めせしめねばならぬ。
五、その為には枢密院の異議に拘らず君主の裁可を請ひ奉るを得るの新慣例を開くことにする。
六、但し之に関する大臣輔弼の政治的責任は、之を次期議会の議にはかるまでは解除されないことにする。

 之を具体的の例にうつして云ふと、若槻首相は枢密院の異議に拘らず之を陛下に奏上してその裁可を請ふべきであつた。陛下が之を許し給はねば勿論総辞職をするの外はないが、否(しか)らざる限り、その必要と認むる施置に突進していゝ。但し之は枢密院の異議に拘らず異例として断行したものであるから、その政治的責任は十分に解除されて居ない。最も早き機会に於て議会に之を諮(はか)るを必要とする所以である。若槻内閣は始めより議会に過半数の基礎を有せなかつたので、枢密院の反対に遇つて直に辞職したのに多少の理由ないではないが、さりとは余りに軽卒であり聊か無責任の嫌があつた。当面の政治問題としては若槻内閣の態度に大に議すべきものあるは言ふまでもないが、枢密院対内閣の関係の問題としては、頗る芳ばしからぬ前例をのこしたことを遺憾とせねばならぬ。従てこの問題は今後も屡々世上の論議に上ることであらう。完全なる解決を見るに至るの日はさう近くは到来しさうに思へない。