総選挙後の政戦と国民党の責任

      (一)

 政府構成の形式を超然主義に取るべきか政党主義に取るべきかは、憲政の発達上極めて重大な問題である。之を単に形式の争なりといふ一言の下に軽視するは浅薄の見たるを免れない。仮令戦時であらうが、疾うの昔に決せらるべくして而かも久しく決せられざりし此の重大問題が、茲に或は解決の端緒を見出し得べしとせば、今次の政争は決して無意義なものと見ることは出来ない。只今度の政争の結果、此の多年の宿題が、果して解決の端緒を見出すや否やが問題である。而して思ひ一度此事に及ぶ時、我々は自ら此際に於ける国民党の責任の重大なるを考へざるを得ない。
 総選挙の主題たる超然主義・政党主義の争を、政界今日の具体的問題となせるは国民党の功である。無論、国民党のイニシヤチーブを取ることなかりしとするも、憲政会は恐らく同じく不信任案を提出したであらう。けれども国民党の此問題について憲政会と提携することなかりしならば、反政府軍は、遂に議会の解散を導くに至りし程、其勢容を大にすることは出来なかつた。して見れば、国民党は、兎に角、今次政戦の口火を切りしの功を認めらるべきものである。果して然らば、国民党はまた今次の政戦に於ては勿論、総選挙後の政局に立つても、同じく超然主義の潰滅の為めには、飽くまで全力を注がねばならぬ政治上の義務を負ふて居ると言はなければならない。


     (二)

 総選挙後の政局は如何になるであらうか。本論文は総選挙の前日を以て起草せしものなかが故に、右の点は一に想像によつて推測するの外はないが、殆んど起り得べからざる「場合」は総て之を問題外に置けば、総選挙後の政局は、恐らく政友会と御用中立の一団と合して優に議会に過半数を制するか、或は憲政会と国民党とが之に反政府中立の一団を加へて過半数を制するか、其の何れかであらう。而して政友会は已に政府党を以て人も許し自らも任じて居るが故に、若し之が御用議員と合して議会に過半数を制するを得ば、超然主義は先に立派に勝を制して、解散を賭して争はれたる問題の解決は、一段落を告げたことになる。無論之は終局に安定したる解決とは思はれない。予輩の如き常に政党主義を信ずる者の眠から見れば、超然主義の勝利は之を以て一時の変態と認むるの外はないからである。けれども、兎も角も次期の総選挙までを寿命として、超然主義の勝利を占めた事だけは認めなければならない。尤も今度の総選挙の結果、政友会のみで優に過半数を制するを得ん乎、問題は或は少しく違つて来る。即ち例へば内閣の改造を追つて閣員の地位若干を政友会に与へしむるか、或は現在の閣員の若干をして之に入党せしむるか、之等を条件として寺内内閣を援助すること、宛かも彼の山本内閣の如くならしめんと要求するかも知れない。政友会は、過去に於て其絶対過半数を制し得たりし時でも、官僚閥族と妥協して其地位を維持するに慣れて居るから、政党主義を以て徹底的に奮闘せんことを求め難いやうにも思はるゝけれども、然し、官僚閥族を牽制して幾分政党の勢力を張ることは全く期待し得ないこともあるまい。けれども政友会が単独で絶対過半数を制するといふことは、殆んど想像することが出来ないから、若し政府側の勝利といふ時は、之を政友会のみの勝利と見んよりは、寧ろ政友会プラス御用議員団の勝利と見るべき場合であらう。
 之に反して若し総選挙の結果が政府反対派の勝利に帰せりとせば如何。此場合にも若し憲政会のみで絶対過半数を制するといふことになれば、問題は頗る簡単である。何となれば、彼が直ちに不信任案を提げて戦を現政府に挑むべきは疑を容れないからである。併しながら、多くの人の予想するが如く、憲政会は国民党と相合するに非んば、過半数を制する反政府団を現出せしむるを得じとすれば、不信任案を提げて挑むところの対政府の戦争は、専ら国民党の嚮背によつて其勝敗を決するものと言はなければならない。是に於て国民党の態度は総選挙後の政界に於て最も吾人の注目を若くことになる。而して超然主義・政党主義の争に多大の興味を感ずる我々に取つては、殊に此点が気にかゝるのである。


      (三)

 国民党は多年平民の友として知られて居る。閥族官僚の最も熱心なる反対者として知られて居る。政党政治は彼の理想、超然内閣は彼の宿敵、此等の点は総ての政党に共通の題目なれども、特に国民党の主張に於て最も鮮明に説かれて居つたのである。現に彼は今次の政戦に於ても寺内内閣を攻撃するには殆んど余力を残さなかつたのである。併しながら国民党はまた憲政会を以て同じく不倶戴天の政敵と見做して居る。前大隈内閣の時には、彼の地盤は甚しく憲政会の為めに蹂躙された為めにや、彼は寧ろ却つて政友会に接近して憲政会に当つたのであつた。然るに今や元の友党たりし政友会は現内閣に接近して来た。是に於て彼は其年来の主張を固執して超然内閣を打ち倒さんとせば、多年の政敵たる憲政会と提携せざるを得ないことになつた。先に国民党の苦心がある。此苦心に対しては吾人も大に同情を表するに躊躇せぬ。蓋し国民党は、進んで超然内閣と戦はざれば、多年の主義に忠ならざるの譏を免れず、さればとて又超然内閣の打破に全力を注げば、少数党の悲しさ、功名と利益と二つながら憲政会に奪ひ去らるゝの恐がある。我々の如き局外の政治研究者をして言はしむれば、第三少数党の運命は畢竟常に如斯きもので、是れ偶々憲政の運用に於て第三党の結局存立し得ざるを証明するものであると思ふけれども、併し已に多年苦闘の歴史を背景として多少の勢力を政界に占め来つた国民党としては、労せざれば世の譏を受け、労するも亦功を他に奪はるゝといふことは、到底其の忍び得ざるところであらう。故に国民党にして若し主義に忠実に且つ自党の立場を十分擁護せんとするならば、一方には飽くまで現内閣反対の旗幟を振り廻はしつゝ他方に於ては其点に於て利害を同じうする憲政会の勢力にも反抗するの必要に迫らるゝ。之れ現に国民党の取つて居る態度ではないか。国民党が先に不信任実の提出に於て憲政会を誘ひながら、解散と同時に殆んど掌を飜すが如く憲政会に反噬するに至つたのは、強ち両党の領袖間に多年蟠つて居る感情の阻隔にのみ因るものではあるまい。
 以上の如き事情から、国民党は今度の総選挙に於ても憲政会に向つては頗る烈しく悪声を放つて居る。其結果として閥族打破を標榜する勢力が夫れ丈けそがれることは勢ひ免れない。是に於て人或は国民党の態度を疑つて、彼の本来の意志は憲政会の打破にあつて閥族の打破にあらず、現内閣不信任案を提げて起ちしは、偶々之によつて憲政会の多数を破るの機会を促さんとせしにありと言ひ、又或は国民党は已に政友会と通じ、来るべき政局に於て暫く現内閣の存続を許さんとすと誣ふるものあるに至る。併し之れ恐らくは表面皮相の見に非ずんば誣妄の評であらう。予輩は今尚ほ国民党の反閥主義は終始渝らないと信じて居る。偶々憲政会に対する態度に於て世上の疑を蒙つて居るのは、只前述べた如き已むを得ざる事情に出でたものであらうと思ふ。若し否らずして国民党が果して心から節を変じて閥族乃至政友会と声息相通ずるに至れるものなりとせば、彼は最早精神的に其独立存在を捨てたものと言はなければならないからである。
 国民党が少数なる第三党の悲しさ、政界の波瀾に際して常に明確なる態度を取るに多大の苦痛を感ぜしは今に始つた事ではない。今度の政変に際しても固より此感あるが、先年の山本内閣末年の政変の際も亦同様であつた。総ての政党が悉く政府に反対すること例へば最後の桂内閣成立当時の如き場合に於ては、彼は最もよく其能力を発揮する。併し常に多数の横暴に反抗するを以て生命となし来りし彼は、今度の様な、両大政党の相争ふ場合に於ては自ら其去就に迷はざるを得ないのである。現に今度の政争に於ても、犬養氏の言論に既に徹底的の意見を認め難きのみならず、二三領袖の言説には争ふ可らざる明白な矛盾がある。即ち甲某は来るべき新議会に於て亦必ず率先して不信任案を提出すべきを説くに拘らず、乙某は政府にして政友会と提携し、所謂超然主義を形式上撤退する以上は、強ひて反対するの理由はないと説いて居る。斯く領袖間の意見が既に矛盾して居る以上、世上一般が国民党の態度に多少の疑惑を抱くのは、亦無理からぬ次第と言はざるを得ない。


     (四)

 国民党の立場として、紛糾せる政局に際して明確なる態度を取るに苦むものあることは予輩之を諒とする。併しながら我々の切に国民党に望むところは、常に其根本の大義を離れざらんことに在る。党の利害も大事でないとは謂はない。
 労して功を他に奪はるゝも心外であらう。況んや功を奪ふところの他党は、多くの点に於て彼と相容れざるものなるに於てをや。併しながら、余りに此等の点を顧慮することによつて、最も大事な対閥運動の鋒先を鈍らすが如きは、吾人の断じて国民党に望むところではない。況んや対松運動の勝敗は、実に国民党の嚮背其物によつて決せらるゝの運命にあるに於てをや。而して超然主義・政党主義の争が、我国憲政の発達の上に極めて重要の意義を有するものなる以上、国民党は須らく此大義の為めに総ての感情と行掛りを放擲して、其全力を傾倒するところなければならぬと思ふ。
 予輩は国民党の誠意を信ずる。彼は官僚閥族の打破の為めに、一度忍ぶべからざるを忍んで憲政会と提携した。是れ国民党に取つては実に大なる譲歩であつたらう。対閥運動に提携したからと言ふて、他の総ての点に於ても憲政会との提携を強ふるのは余りに虫が善過ぎる証文である。故に解散以後、国民党が直に憲政会に対して全く従前の反抗的態度に復し、総選挙に於ては大に責むべきを責めて毫も仮借するところなかりしは、之れ必ずしも咎むべき事ではない。尤も閥族打破といふ大事の為めに、恨を呑んで彼此相援けん事は、予輩の私に希望せしところではあつたけれども、選挙提携などゝいふ事は、今日の大選挙区単記の制度の許に於ては到底出来るものではない。現に味方同志ですら、互に暗闘を恣まにして居るではないか。故に選挙で互に悪声を放つて居るのは、感情問題といふよりは或は制度の罪に帰すべき問題であるかも知れない。故に予輩は今度総選挙に於て、国民党の憲政会に対して執りし態度をば必ずしも責むるものではない。けれども閥族打破は天下の大事である。故に総選挙後の来るべき政局に於ては、他の一般の問題については兎に角少くとも閥族打破の運動に於ては、国民党は再び憲政会と提携して其年来の宿志の到達に努むべきである。斯くせざれば国民党の国民党たる面目も立たない。理屈は如何様にもつくものであるが、政府は既に政友会を友党としたるが故に不信任の口実消滅せりなどゝ言ふのは、以ての外の変節である。予は国民党の面目の為めに討閥の旗を蔵(おさ)めざらんことを切望する。而して国民党が斯の如き態度に出づることは、独り国民党多年の苦節を全うする所以たるのみならず、又実に我国憲政の発達の為めに大に貢献する所以でもある。

                〔『中央公論』一九一七年五月〕