国家魂とは何ぞや
本誌前号に於て「日本魂の新意義を想ふ」と題し、我が大日本の国家精神の過去における勢力と将来に於ける発展とに関して本社主筆の論明せる所は、多数読者の同感を博したるべしと信ず。是れ蓋し基督教徒たる我が帝国臣民の抱負を遺風なく表明したるものに外ならざれば也。只国家といひ国権といふの語辞につき正当穏健なる見解を有せざる者(一月八日発行平民新聞第六十一号所載秋水君の評論の如き其一例なり)は往々にして吾人の所説を曲解せざるを必し難し。乃ち吾人は茲に国家国権の観念を論明し以て我党主張の真義を発揮するの資となさんと欲す。
抑も人類はもと孤棲するを得ず、個人の物質上并びに精神上の生活は決して社会国家を離れて存在するものに非ず。即ち各個人は皆社会国家なる団体の一員として常に其団体の意思に統制指導せらるゝものなり。この各個人の内外一切の生活の最上の規範たる「団体の意思」を国家精神又は国家魂と云ふ。然れども人類はもと不羈自存の目的と独立自由の意思とを固有するものなり。不羈独立と束縛とは相容れず。故に今こゝに各個人の上に在りて之を統制する一大意力ありとすれば、そは必ずや各個人共通の意思に其根蔕を有せざるべからざるや弁明を待たず。然らば即ち各個人は啻に受働的に国家精神の統御に服するものたるのみならず、又よく自働的に国家魂を作るものと云はざるべからず。而してこの個人の意思と国家魂との交互影響の真理は個人の自得覚醒の明了となれる近世文明国に於て最も能く発揮せられたり。蓋し夫の古代蒙昧の時代に在りては団体の維持は僅に比較的賢明雄武なる君主一人の力に依り、各個人生活の最上の規範は君主一人の意思の外に在らざりき。此時に当りてや君主の一切の云為は独り法律上のみならず倫理上亦最高の価値を有し、君主は直ちに国家其ものなりし也。人智少しく進むに及んでも団体生活の絶対的規範を作るものは猶ほ少数の貴族に限られ、多数人民が国家精神に対して受働的の地位に甘んずること先に年ありき。然れども人智の開発は滔々として一日一刻も停滞することなし、時到り機熟して遂に覚醒せざるを得ず。世界歴史上近世と称する時期は実に個人覚醒の時期にして所謂近世史とは個人的霊覚の発展の記録に外ならず。是に於て団体生活の規範も亦普く各個人の是非の判断を免れざるに至り、斯くして国家は茲に始めて国民的基礎の上に立つことを得るに至りぬ。是れ近代国家の古代国家と其趣を異にする要点なり、故に現今の論壇に於て国家魂を目して君主若しくは貴族の声なりと為す者あらば是れ甚しき誣妄の言たり。君主貴族の声が直ちに吾人最上の規範たりし時代は既に遠き昔の夢となりぬ。今に於て此事を繰り返すが如きは時勢を観るの明なきものに非ずんば即ち不当に個人の発達を侮蔑する者なりと云はざるべからず。
国家と云ふときは常に之に併ひて権力と云ふことを聯想す。併し国家魂対個人の関係は常に必ず権力の関係のみと云はゞ是亦大なる誤なり。蓋し国家魂の各国臣民に臨むや、独り各人の行為に対する外部的規範として服従を迫るのみならず、又一種の精神的規範として各人の意思動念の実質たらんことを要請するもの也。思ふに国家精神の個人に於ける完全なる顕現、換言すれば個人的意思の国家魂に迄の活溌なる向上は国家最上の理想にして、個人の意思と国家の精神との乖離は実に国家の生存に取りて一大不祥事たり。故に若し個人にして未だ国家魂を体認せざるものあらんか、即ち国家は徐々に斯かる個人を同化するに務むべきと同時に、国家存立上当面の急務としては先づ非国家魂的意思に基きて顕れたる「行為」を排斥打破することを怠るべからず。所謂国家の権力とは国家魂が各人の行為を強制する外部的勢力として発現せる場合を指して之を云ふもの也。而して各人の行為を厳格に強制せんが為めには国家魂は明確なる具体的形式を得ざるべからざるが故に、権力としての国家魂は必ずや特定の一個人又は個人団体の意思を通じて発表せられざるを得ず。この国家の権力の通過する個人又は個人団体を主権者と云ふ。故に現代の国家に於ける主権者(一個人なると又は個人団体なるとを問はず)の効用はそが国家の権力を顕表する唯一の機関たるに在り。然り、国家の権力は主権者を通して人民を支配強制す。国家の権力を表するが故に人民は主権者の命令に従ふ。主権者が永久に能く主権者たるを得る所以は一に国家の権力を着実に顕表するの点に存せずんば非ず。然らば夫の国家魂は単に臣民を統制する規範たるのみならず、また実に主権者をも指導するの活力なりと云はざをべからず。然るに世往々国家と主権者との観念を混同し、国家に謳歌するを以て徒らに君長に阿訣する所以と做す者あるは頗る怪むに堪えたり。
之を要するに吾人の所謂国家といひ又は国家魂といふは君主貴族の意思を超越したる一大民族的精神なること以上論明せし所に依りて明なり。而して民族の偉大なると否とは実に此国家魂の偉大なると否とに係る。然らば吾人は帝国の精神的文明の為めに敢て国家魂の発展を慮らざるを得ず。又国家の強弱治乱は国家魂と個人的意思との関係の疎密によりて分かる。然らば吾人は主権者をして其拠る所を知らしめ民衆をして其則る所を悟らしめんが為めに敢て国家魂の意義を明了にせざるべからず。是れ実に吾人がカを極めて屡々大和魂を論明鼓吹する所以也。
〔『新人』一九〇五年二月〕