社会主義と基督教

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社会主義と基督教
 「社会主義に対して足下等は如何なる意見を有し、又如何なる態度を以て之に接せらるゝか」とは吾人の近来
 しばしば
殊に屡受くる所の質問である。本誌の主筆は一度本郷教会の講壇に於て此問題の解釈を試みたところ、この一
場の説教は意外にも教会の内外に大分反響したやうだ。して見ると、此問題は実に教会の内外に於ける目下緊急
                                   キ‖ソスト
の問題と思はれる。察する所、世間では社会主義なる思潮及び運動と基督教のそれとは将来如何に関係し行くだ
らうかと云ふことにつき剖目して居るに相違なく、社会主義者自身は基督教徒の租が主義に対する能違が気掛り
でならず、又基督教徒自身に至りては基督教徒としての我は社会主義に対し果して如何なる能違を採るべきであ
るかに迷ふて居るものが少くない処からして、右の問題が目下の急務となつて居ること、思ふ0不肖ながら基督
教界の木鐸を以て自ら任ずる吾人は、この間題に対する吾人の解釈を明白にするを以て、吾人当面の義務なりと
         いわ
感ぜざるを得ぬ。況んや過般主筆の為せる「社会主義と基督」なる説教は、其後二三の新開雑誌に全く誤り紹介
                    すこぶ
せられて居つて、為めに世間の読者を誤ること頗る多いのを認めたる以上は、\吾人は益々「社会主義に対して吾
         士▲
人基督教徒の当さに執るべき真態度」に閑し、最も明白なる宣明を為すの必要を認めたのである0
 第一、吾人基督教徒は「社会問題の存在」と「其解決の急要」とを主張することに於て社会主義者に同ず0
           さきだ
 この点を説明するに先ち、先づ社会問題の意義を定めて置かう。吾等の考ふる所では、近世の社会組織が私有
財産制度を認むる結果として、資本家階級対労働者階級の対立と云ふいと悲むべき形勢を馴致し、斯くて社会に
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       もたら
種々の惨害を蘭し来ることゝなつた、之は何んとかして政治せねばならぬと云ふのが、即ち社会問題であると思
ふ。換言すれば近世文明の特徴たる私有財産的社会組織に伴ふ所の一大弊害を認め、如何にしてこの大弊を除去
すべきやと云ふのが社会問題である。而して吾人は社会主義者と共に私有財産制度には右の如き一大弊害の伴ふ
こと、近世文明には猶ほ右の如き一大欠陥の伏在することを確実に認むるものである。従つて如何にせばこの大
欠陥を補充することを得べきやの問題の最も緊切急要なるを認むる点に於て、吾人は全然社会主義者と同感であ
る。許な此点に於ては吾人は全然社会主義者と提携が出来るのである。
 世間には全く私有財産制度の光明怒る方面のみを観て、更に其裏面に伏在する所の悲むべさ大惨害を識認せず、
                                                 ゆえ ん
従つて社会問題の存在をすら認めぬ人が随分少くない。よしんば社会問遮の存在又は其存在すべき所以は之を認
めて居つても、この間題に同情が薄く、其解決の急要を痛切に感ぜぬ人は中々に多い。我等基督教徒は社会主義
                                         つく
者と共に之等の社会閏邁の存在を認めぬ者又は其解決に冷淡な者に村し、カを濁して社会問題の存在と其解決の
急要とを鼓吹する必要と義務とを感ずる者である。而して吾人は滋に従来の基督教徒が此方面にカを致すことの
極めて薄かつたことを自白し、社会主義者が最も熱心に、否な誰人よりも熱心に此方面に死力を濁されたことを
心から感謝するものである。
  第二、吾人は「社会問題の存在及び其解決の急要」 の鼓吹が決して社会主義そのものに非ることを主張す。
 吾人は基督教徒として決して社会問題を等閑に附することを得ぬ。併し読者諸君は之を誤解して基督教徒は夫
故に社会主義を奉ずるの義務があると思ふてはならぬ。吾人は社会問題に対して冷淡なる態度を執つてはならぬ。
                                   けだ
然らば社会主義に対してはどうであるかと云ふにソハ全く別問題である。蓋し社会問題と社会主義とは同一物で
はない。二者の間に大なる区別の存して居ることは決して忘れてはならぬ。
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社会主義と基督教
 然らば社会主義とは何であるか、と云ふに之れは問題となつて居る社会の一大惨害は、私有財産制度の廃滅に
                                                                     カ
依つて之を除去し得ると云ふ提案である。即ち私有財産制度の廃滅と云ふことに依つて夫の困難なる社会問題を
板本的に解決し去らんとする一種の主義である。然らば社会間遺と社会主義との区別は最も明白であらう。一は
答へらるべき問題である、他は問はれたるに対する一種の答案である。
 さ
 扱て吾人は社会問題の存在と其解決の急要とを認むる以上は、如何にかして之を解決せねばならぬ。故に社会
問題を等閑に附せざるの義務と共に之が解決はまた吾人基督教徒の義務である、少くとも社会問遺を最も的確に
最も根本的に解決するを得べき正確なる答案を供示することは吾等の社会に対する最要なる義務の一つである。
然らば吾人は何物か果して所要の根本的答案であるかを慎重に吟味せねばならぬ。既に世に根本的答案として種
々の提案があるならば、吾人は一々之を比較し吟味して真偽を判断せねばならぬq然らば夫の社会主義の如きも
また吾人の慎重なる判断を受くべきものである。慎重なる判断なしに社会主義に投ずるが如きは基督教徒として
余りに軽卒であると云はねばならぬ。
 ある社会主義者は盛に私有財産制度の弊害、資本家の横暴、労働者の疾苦等を切論して後、「かゝるが故に吾
等は社会主義を主張するのである」と論結した。是れ実に社会問題と社会主義とを混同して居る著しい第一例で
ある。

 吾人は猶ほ未だ社会主義の価値に就て疑を有して居るものである。然るにある社会主義者は吾人を責めて日く、
               ふ らち
「汝等は社会主義を賛せぬとな。不玲なり。汝等は下層同胞の疾苦に同情せざるにや」と。是れ亦社会問題と社
会主義とを混同して居る著しい第二例である。
 ある宗教家は日く、「基督も亦人々にパンの必要なることを忘れ給はざりき。故に基督教は決して社会主義と

一もと
悸るものに非ず」と。是れ第三の例である。
 或る諌急なる青年は資本家の暴虐に憤激し、労働者の惨状に同情するの余り、直ちに社会主義の運動に投じた。
是れ殊に極端な而かも最も普通なる第四の例である。
                               しか
 社会問題と社会主義との区別は、之を言説の上よりすれば、爾く見易いものであるのに拘らず、其社会主義者
自身を誤り、又性急なる青年男女を実際に誤り居ること、斯くも甚しいのである。是れ吾人が先に二者の区別を
説いて聡明なる読者の注意を乞ふた所以である。
 第三、吾人基督教徒は私有財産制度の廃滅を以て社会問題の根本的最終的解釈法と認めざることを断言す。
 吾人は今日この困難なる社会問題を誘起するに至つた社会の一大惨害の原因に、差当り内外二方面の基礎があ
ることを信ずる。先づ吾人は内的原因として「潔められざる心」を挙げ、次に外的原因として「此汚れたる心に
依りて悪用せらるゝ社会の組織」を挙げ、この二つの原因が今日の大惨害を生じた所以だと信ずる。而して其中
                                              あた
何れか根本的の原因かと云へば無論「潔められざる心」であると断言するに躊躇せぬ。宛かも殺人と云ふ恐るべ
き結果を生じた原因は「殺した人」と「殺人に用ひた刃物」とであるけれども、其根本的の原因は要するに
「人」であると云ふと同一である、故に今日の大惨害を救治するの道としては、無論潔められざる人心を誘惑す
るやうな社会の悪組織を改革することも必要だけれども、之よりも先づ人心の改善が必要であると信ずる。恐る
べき殺人の禍を根本的に無からしめんと欲せば、刃物を奪つたばかりでは駄目である、到底一般の人心を善に導
かねばならぬ。之と同じことで社会問題の根本的解決は矢張り迂遠ではあるけれど絹而かも極めて確実な「人性
の開発」であることを信ずるものである。是れ吾人が私有財産制度の廃滅を以て社会問題の根本的解釈法と認め
ざる所以である。
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社会主義と基督教
 併し去ればと云ふて吾人は社会組織の改革を以て全く不必要と思ふものでは無い。吾人は人性を移し導かぎれ
ば到底殺人といふ様な恐しい事は絶滅するものではないといふもの、、差当り刃物を与へぬといふことが幾分殺
人の罪業を少くし、又悪人の改善を進捗せしむる一端となるものであるが如くに、社会組織の改革は明かに今日
の惨害を著しく減し、又或は之に依つて人心改導の大なる助を得るだらうと信じて疑はぬ。故に「社会組織の改
革」はまた実に夫の「人性の開発啓導」と共に社会問題の解決上重要なる地位を占むるものであることは吾等の
十分に認むる所である。只事の軽重本末を云ふならば、人心の改善のみが独り根本的終局的の価値を占むべきで
あつて、之に対しては社会組織の改革は只一時的応急的若しくは消極的の価値を有するに過ぎぬ七信ずるのであ
る。何となれば、若し一般の人心にして善に移らん乎、よしんば社会の組織が今の様であらうとも決して之を悪
                                  たと い
用するものあらざるべく、又若し人心にして善に移らざらん乎、仮令社会組織は改革せられても、夫の刃を奪は
れたる悪人が今度は毒を以て人を害はうと企る如く、他に何とかまた罪悪をたくらむであらう。
 故に吾々基督教徒は神より賜りたる伝道の整業がまた同時に社会問題解決の根本方法たるを想ひて、益主専一
に之を奮はねばならぬ。之と同時にまた応急的救済策として社会組織の改革(但し如何に社会の組織を改革すべきか
は全く別間選である。必ずしも社会主義の主張するが如く改むるが宜いと云ふ訳ではない。此点は別に研究するの必要があ
る)に志すも基督教徒として決して不適当の事では無い。が併しドコまでも「伝道」と云ふことが根本であるこ
とは忘れてはならないのである。
  第四、吾人は若し社会主義にして社会組織の改革を以て社会問題解決の唯一根本の方法とするものなりとせ
     ば、そは明白に基督教徒の信仰と相容れざるものなることを断言す。
 吾人は前項に於て社会問題の根本的解決は矢張り人心の改善にあることを述べ、社会組織の改革の如きは社会
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問題の解決と云ふことに対しては応急的副的の地位を占むるものであることを述べた。此点に関しては忠実なる
                           いささ                 なが
基督教徒にして同時に熱心なる社会主義者たる木下君石川君等の聯か御異存のない所であらうと信ずる。去り乍
ら他の多数の社会主義者は決して吾人の説に服するものでは無い。予の観る所を以てすれば、普通一般の社会主
義者は大抵、社会組織の改革を以て根本且唯一の解決法となし、人心の改善の如きは全然無力である、否な社会
組織を改革せずしては伝道は畢克徒労であると主張するやうである。我国に於ける斯種の説の最も顕著なる代表
者は幸徳君の著『社会主義神髄』である。君日く、「果して然らば之が治療の術亦実に知るに難からざる也。予
は即ち断言せんとす。今の社会問題解決の方法は唯だ一切の生産機関を地主資本家の手より奪ふて之を社会人の
公有に移す有るのみと」(二十一頁)と。
 何故に彼等は社会組織の改革を以て唯一根本の解決法となす乎。幸徳君日く、「=…・而して予は信ず、現時社
           しやこ
会の一切の害悪は実に這個の矛盾に胚胎し来れることを」と。して見ると彼等は社会の一切の惨害の由て来る所
を一に社会組織の罪に帰して居る。若し果して彼等の云ふが如く、社会の一切の惨害が全く独り社会組織のみの
結果であるならば、社会組織の改革が唯一根本の方法であるに相違はない。併し事実は如何だらうか。
 吾人は先きに社会の一切の惨害を第一には「潔められざる人心」、第二には「社会の悪組織」に帰し、畢尭は
人心の潔められざるのが根本であると述べた。之に対して社会主義者は云ふ、臼く「ソノ人心の悪と云ふことが
何処から来るかと云へば、社会組織から来る。性悪の原因は社会にある」と。然り、若し強て「社会組織の改
革」を以て社会問題解決の唯一根本の方法であると云ふ主張をドコまでも押し通うh号っとするならば遂にはこの
「性悪の原因は全く社会の悪組織である」と云ふ説にまで来ねばならぬ。併しこ、が即ち吾人基督教徒の信仰と
正反■肘なる点ではあるまいか。
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社会主義と基督教
 若し社会組織と云ふ外部の条件が罪悪の唯一の原因であり、社会組織が改善せられでは人心は到底善に移るも
のでない、猶ほ露骨に云ふならば、人性の善悪は全く其物質的生活の状態によりて決せらる、と云ふならば、人
は即ち境遇の奴隷、物質の奴隷であつて、吾人の生活は決して夫の動物の生活と異ならぬのである。併し乍ら、
読者諸君、人はすべて神の子である、生れ乍らにして神の心を体して居るものである、而して又万物の霊長であ
ると云ふことは基督教の信仰では無いか。人は本来境遇を支配すべきものである。物質を統御すべきものである
と云ふのが吾等の最も大切なる信条ではあるまいか。無論世には境遇の奴隷となり、貧苦の為めに身を誤るもの
が決して少くは無い、けれども吾人はまた他方に境遇を支配し、所謂貧に処して泰然本心をみだづゞる君子の多
いことを見逃してはならぬ。而して右の二つの例のうち、前者は一時本心のくらまれるものであつて、後者こそ
真正なる人性の換発であると見るのが基督教の神髄ではあるまいか。
 要するに罪悪の唯一の原因を社会組織に帰する、従つて社会組織の改革を以て社会問題解決の唯一根本の方法
となすの説の根底は唯物主義である。決して霊性の権威を信ずる基督教と両立すべきもので無い。去れば西洋に
ては社会主義者と云へば多くは無信仰家である(基督教社会主義と云ふものがあるけれども、アレハ所謂社会主義では無
い。基督教の精神で以て社会問題を解釈しやうと云ふに止るもので、必ずしも社会組織の改革を唯一根本とする者でないのみ
か、中には全く社会組織の改革を目的とせぬ者すらある)。日本でも辛徳君の如きは自ら無神無量魂を主張して居るそ
うで、現に『社会主義神髄』に於ても寧ろ宗教に反対して居る、日く「誰か能く之を解決する者ぞ。宗教乎、否。
                              ここにわいて
教育乎、否。法律乎、否。軍備乎、否。否。否」(一〇頁)と。於是社会主義は基督教と全然正反対の位置に立つ
ものである。
 之を要するに、若し社会主義と云ふ者が社会組織の改革を以て唯一根本の方法でないと云ふに於ては、基督教
10う

と両立するの余地あるけれども、之に反して唯一根本の方法であると云ふに於ては、全然両立するを得ざるもの
である。而して基督教徒にして同時に社会主義者なりと云ふ者ある時は、其人の社会主義は必ずや前者でなけれ
ばならぬ。今日我国の社会主義者中には一方には木下君石川君の如き篤信の基督教徒あると共に、他方には明白
に宗教の価値を否認する幸徳君の如きあるを見れば、吾人は所謂社会主義者と云ふ中にも、右の如さ根本思想の
丸で違つた二種の者が存すると云ふことを認めざるを得ぬ。去るにてもイブかしきはこの丸で根本思想の違つた
者が、同じく社会主義なる同一名目の下に運動を共にして居ることである。
                                           〔『新人』一九〇五年九月〕
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