思想家と実際家との協戮を提唱す  『中央公論』一九二二年二月「巻頭言」

 或る人現代の思想界を評して曰ふ、有らゆる進歩思想と之を背景とする運動とに面を背けて因習と伝統とに執着するのも固より大に責むべきだが、歴史を無視し一挙に理想を実現せんとして現状の破壊を是れ事とするも亦甚だ危険だと。此説一見不徹底を咎むるが如くにして実は頗る真理に富むものがあると思ふ。
 旧文明の行き詰りが茲に新に局面の転換を要求して熄(や)まないことは云ふまでもない。理想世界への憧憬が昨今特に年若き者の血を躍らして居ることは当然のことだ。斯う云ふ時代に於て各方面の社会が、其の実際問題の解決に関してすら、政治家などを差し措いて直接思想家の許に趁(はし)りて教を聴かんとするのは怪むに足らない。見よ、最近流行の諸雑誌は期せずして皆政界先輩の政論などに紙面を割かうとしないではないか。今日は実に思想家全盛の時代である。
 而して社会は只慢然として与り聴くだけではない。如何にかして之を実現せんとするの熱情に燃えて居ることは著しい今日の特徴だ。即ち社会改造の実際問題として思想家に其解決を求めて居るのである。思想家は此要求に応じて各種各様の答案を与へて居るが、其間にまた二つの違つた種類を分つことが出来る。一つは理想の実現は実際の社会の上に進化的にのみ可能だとする者で、他は旧社会を根本的に破壊すると云ふ革命的方法によらずんば新社会の建設は望まれないと観る者と即ち是れである。此の二つの立場に対し、今日多数者の常識は前者に与すること疑ないが、其当否の論はこゝで吟味することを略しておく。
 翻つて之を歴史に徴するに、所謂先覚者が一歩時勢に先つて為に往々身を殺すものあるは、要するに余りに理想の追求に熱中して実際を無視せるの結果であらう。国民に其の求むべき所を明示して呉れた先覚者として彼は無限の尊敬に値する。而かも社会の発達は段階的にのみ進むものとすれば、彼の説を文字通りに実行するは往々にして角を矯めんとして却つて牛を殺すと同一の過(あやまち)に陥らぬとも限らない。是れ理想家のとかく実際家から危険視せらるゝ所以である。
 社会は多くの場合に於て其恩人を殺すが、其犠牲者の恩人たることに付ては一点の疑を容れない。蓋し社会は先覚者を殺しつゝ畢克其蹤を追うて進むものなのである。併し斯の如きは客観的に観ての話で、斯う云ふ次第だから社会は先覚者を危険視してドン/\始末してもいゝと許す訳には往かない。先覚者が百歩進んで居つたればこそ、社会は四十歩五十歩と段階的に進歩を続けて行けたのである。始めから百歩進める者を危険視し百方其活動を阻止するやうでは社会は遂に一歩も進み得ぬ運命に陥らう。
 加之とかく社会は保守退嬰に安じたがるものだ。特に実際家に於て然りとする。故に社会改造論の進化主義の如きも動もすれば保守的政治家の急進的改革論に対抗するの武器に利用せらるゝ嫌がないでない。それ丈また理想家は益々突飛な議論で猛進すると云ふことになる。此意味に於て、実際政治家の余りに保守的な態度は却つて実に理想家の急進的な議論を誘発するものだとも云へる。
 我国の今日に於て実際政治家の態度の保守退嬰に過ぐるは云ふまでもないが、更に驚くべきは彼等の大多数が現今の時勢に些の理解なく新人の理想と要求とに対して極端に無智であることである。是に於て社会は彼等と現代の問題を語るは木に縁りて魚を求むるよりも難しと視るに至つた。是れ期せずして思想家の門を叩くに至つた所以である。併し乍ら多くの場合に於て思想家は実際を知らない。知らないと云ふよりも実際に接して居ないと云つた方がいゝ。臨床に経験なき病理学者の様なものだ。斯う云ふ人がどん/\病名を断定し薬餌を盛るとすれば其処に一種の危険を伴うと観るも亦已むを得ないと思ふ。
 吾々は斯うした不安の時代をもはや二三年も忍んで来た。今やそろ/\本当の途に立ち還つても然るべき時だと思ふ。思想家も反省せよ。実際家も覚醒せよ。日本といふ大船は今や正に彼等の協力によりて舵を取られんことを待つて居る。