新政党に対する吾人の態度   『中央公論』一九二二年九月


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 国民党の解党や後藤男の外交調査会委員の辞任などの目立つた事件の頻発に依て、昨今の政界はこの暑さにも拘らず若干動揺を感じて居る様だ。新に組織さるべく期待さるゝ新政党に、噂の如く伊東平田後藤等の諸氏が果して関係するや否やは今の所不明だが、斯の如きは我国政界の近状に照して全く有り得べからざる事ではないと思ふ。仮りに之が実現したとして之が国民の慶福に幾何の交渉ありやは然し乍ら全然未知数である。
 所謂民主々義(デモクラシー)の緩慢なる発達―曲りなりではあるが―はともかくも我国に於ても純粋なる超然内閣を維持し難きものたらしめ、徐々に政党なるものゝ発展を促した。が、之とて独力を以ては政権を確実に掌握し難く、其結果暫くは官僚と政党との慣れ合を以て政局の一時的収拾を見ると云ふ変態的現象を呈したのが、最近までの我国の状能である。併し乍ら、官僚と政党とは本来政界の分野に在て互に両立せざる敵味方であるから、彼等の慣れ合は畢竟一時の便宜に基く休戦であつて、固より内面的に連結さるゝ階調ではない。従つてあわよくば他方を出し抜いて独自の地位を堅めんと互に陰険なる策略を廻らし合ふのは怪むに足りない。寺内々閣と原内閣とは此点に於て最も適切なる好例を示す者だが、さて昨今の形勢は如何と云ふに、政友会は多数党たるの事実に変りがなくて而かも失脚を余儀なくされ、官僚の一味はまた山県公の逝去―とも一つには時勢の圧迫―に由て其の有力な拠り所を喪ひ、詰り政界の中心点が大に動揺した形になる。こゝに野心に燃ゆる政治家の暗中飛躍を見るのは何等怪むベき事はないではないか。
 尤も昨今の政界を中心点が動揺したと観るのは誤りで、実は落ち着くべき処に安定しつゝあるのだ、と謂つた方が正当の見解かも知れない。政友会は、下院に於ける多数を以て民意の最高代表者を以て居り、茲に政権掌握の道徳的権利を繋けて居つた。併し彼の多数は、民衆信頼の結果として獲たものでなくて、有らゆる不正手段を弄して劫取(ごうしゅ)したものである。故に夫の政権掌握の権利の主張の如きは要するに鬼面人を欺くものに外ならない。従つて、事実に於て其の多数の力を押し及ぼし得はざる貴族院に向つては、常に研究会辺の表裏両面の援助を乞はざるを得なかつた。是れ少しく政界の実状に通ずるものには疑のない事実である。次に官僚の一味が拠て以て政党者流と抗争し得るとせる地盤は上院であつた。上院は斯くして其の始め官僚―又は元老の走狗に過ぎなかつたのだが、一寸の虫にも五分の魂とやら、思ひの外に有力なる自家の地位に目覚めた彼は、何時までも官僚の傀儡たるに甘んぜざる様になる。斯くして彼は漸く独立の勢力たらんとして来るのであるが、此趨勢は所謂元老の凋落と共に更に益々甚しくなる。官僚の走狗たりし研究会が却つて官僚を牽制し監督する様になつたのは、蓋し亦当然の順序である。
 斯くして最近は、何人にあれ上下両院に事実上多数の味方を有するものでなければ政権を掌握し得ぬ事になつた。但斯くても猶、民衆多数の信頼を以て政権掌握を要求する道徳的根拠たりとするの仮説が、民間に於て若干の神秘的威力を有して居つたので、何とはなしに上院の多数よりも下院の多数の方が重いと云ふ様な考が潜在して居つた。固より今日の我国に於て民衆の良心と現実の連絡ある政団があるかといへば無い。民衆と実質的の連絡を欠く点に於ては、政友会も憲政会も、上院の研究会や公正会と何等択む所がないのだが、併し俗間の感情と
しては、上院の夫れよりも下院の政団の方がヨリ多く民衆的なるが如く考へて居る。そこで、実際問題として政権を掌握するには、上下両院に於ける多数を合縦せねばならぬのであるが、上院に於ける多数を主として下院の多数を味方にするは、下院の多数が主となりて上院の多数を味方とするよりも遥に困難なのである。現加藤内閣の如きは、政友会の醜能暴露に依て不思議に出来上つた僥倖内閣であつて、二度と出現を期待せらるべき現象ではない。従つて又彼は、現に頗る険呑(けんのん)な基礎の上に立つて居ると謂はなければならぬ。現内閣の基礎斯の如く弱く、政友会の信望快復亦容易に待つ可らずとせば、上下両院の策士が、相連繋して一新政団を組織し、以て近く来るべき次期の慶運を待たんとするは、怪むを須(もち)ゐぬではないか。
 故に曰く、我が国則今の状勢の下に於て新政党の組織は極めて自然であると。況んや其渦中にたゞよふ顔触を見るに於てをや。
 而してこの新政団は、国民の利福発達の上に何をもたらすかは、彼が在来の政党者流と其遣り口を全く別にするか否かに是れ繁(かか)る。是れ僕の先きに此点を未知数と称せる所以。若し思ふ所を忌悍なく云はしむれば、僕は之に由て政界に何等の新生面をも期待し得ない様に考へてゐる。

 新政党の成立を予期して、或る新聞には、この政党は従来党界に籍を置かなかつた有力なる人士を網羅するにつとめ、殊に学界の政論家には辞を低うして入党を請ふ積りである、と云ふ様な事が出て居つた。中には白羽の矢を立てられた学界の人のうち現に僕の名も出て居つたといふので、之に関する僕の態度を質問さるゝ友が少くない。依て僕はこの機会を利用して、新政党に対する僕の態度を明にすると共に、併せて一般世人の政党に対して執るべき態度をも論じて見たいと思ふ。
 僕自身の問題として、僕は自ら現在の職を地つて政治家に鞍替せざる限り、絶対に新政党に参加しない、又参加すべきものでないと考へて居る。之は例へば新政党の成立や又は主義政策やが気に喰はぬからといふのではない。凡そ政党は元来政治家の集団であつて、市民は単純な一市民としてある限り、絶対に之に加入すべきものでないと信ずるからである。此の道理は、僕をして啻に新政党に加入するを許さざるばかりでなく、他の有らゆる政党に加入するを許さない。加之僕のみが独り斯の態度を執つて動くまいとするのみならず、他のすべての市民に対つてもこの同じ立場を執ることを要求して熄(や)まざらしむる。凡そ市民は、単純なる市民としてある限り、其本来の義務として、有らゆる政党に対して絶対に超然的態度を維持すべき義務がある。夫の有象無象が自ら政友会員たり憲政会員たるを誇るが如きは、言語道断の沙汰だと思ふ。況んや之に依つて無用の争に耽るが如きをや。斯は正に道徳的罪悪として責むるに催するものである。若し夫れ政党の幹部が都鄙の良民を駆りて自党に入らしむるが如きは、群羊を欺いて豺狼の餌たらしむるに等しく、自ら侮り人を謬る之より甚しきはない。況んや之を欺き導くに各種の利権を以てするに於てをや。此点に於て僕は今日の政党に向つて骨髄に徹する底の怨恨を懐くものである。
 政治と云ふ仕事を職業的政治家に托するの可なりや否やは、大に考ふべき重大問題だ。専門家排斥の思想は、昨今政界にも浸潤し来り、露のソヴイエツト制に於て我々は大に反省させられて居るのであるが、之等の議論は他の機会に譲ることにする。今の所、政界に所謂職業的政治家の跋扈は甚だ根強いことは事実として認めない訳には行かない。尤も段々本当の市民出の代議士も出て来ては居るが、大体に於て政治は、例へば昔の伊藤とか山県とか、近くは西園寺桂原加藤といつた様な、外に定職のない専門的政治家に委されて居るのである。而して之等の人々は其協同の目的を達する為めに各々集つて特種の団体を作る。之が即ち政党なのである。
 さて斯う云ふ組織の下に政治が行はれるといふ事を前提とすると、先に疑のない点は、政治と云ふ仕事は全然之等の専門階級に一任し放しでは不可(いけ)ぬと云ふことである。専制政治や藩閥政治の排斥せらる、所以は実にこゝにある。於是国民多数の監督と云ふ問題が起る。是れ実に一つには政治の腐敗を避くる所以であり、又一には本当の方針を誤る事なからしむる為である。所謂立憲政治なる方式の起つたのは之が為めだ。即ち今日吾人には政治運用の方式として立憲制が与へられて居るのである。果して然らば、吾人市民は、自ら進んで専門的政治家たらんとせざる限り、飽くまで彼等の監督者としての地位を固守せなければならぬ。監督するとは、外でもない、公平なる第三者として、何等の因縁を何れの一派にも結ばず、常に国家的見地より観てより善き立場を取る者に味方することである。只少しでも善き方に与みする外、絶対に自由なる超然的態度を持することである。斯くする事に由てのみ、吾人は市民的義務を十分に完了することが出来る。吾人が斯かる態度を固守する時に始めて政党は良善を競うて以て国家に貢献することが出来るのである。
 翻つて今日の我国政党の遣口を見よ。政党は利権の提供に依り地方の良民を駆つて続々自党に加入せしめて居るではないか。之を称して彼等が我党の地盤と云ふ。地盤とは即ち、地方良民に対する政党の横暴なる奴隷的駆使の別名に外ならぬではないか。地盤なるが故に、中央幹部の意の儘に動く。所謂公認候補の制に依て、選挙投票の自由は地方民より奪はるゝ。政党の誇る所謂「多数」は斯くして人為的に作らるゝ。果して然らば何処に民意の自由なる発動があるか。何処に民衆の道義的判断の発動はあるか。私に聞く、悪辣なる御用商人はよく役所の会計吏を買収し、粗末な不正品を高価に売りつけて暴利を貪るとか。河川改修・学校の新設等公共の仮面を被れる国帑の濫費は、謂はゞ贈賄である。政党幹部の指定する公認候補は、取りも直さず、粗末な不正品の提供である。之に貴重なる一票を投じて怪まざるは、賄賂に眼のくらめる官吏が不正品に高価を払うて悔ゐざると同じである。識らずして之を為すのであるとはいへ、今日我国の市民が各種の政党に加入して平然たるは、御用商人と結托して悪残に身をあやまるを怪まざると同一ではないか。考へて見れば怖しい事の限りである。
 斯くて僕は、此の数年来機会ある毎に政党の地盤政策を攻撃し、地方の市民に向つては、政党員たる事は取りも直さず国家の公器を弄ぶ重大なる罪悪たる所以に反省を迫り、一日も早く脱党して身を公平なる第三者の地位に置かんことを警告して居る。是れ政党を傷くるが如くにして、実は真に政党を活かす途でもある。之等の点は他の機会に於て詳しく述べた事もあるから余り詳々しく繰り返さぬが、要するに、吾々は単純なる市民としては飽くまで政党の上に超然たるべきである。而して何方にても善い方へ加担するといふ自由なる立場を守るべきである。斯くして始めて政党をして真に国家の利福に実質的貢献を為さしめ得るのである。此必要は、日本今日の政党の如く、寧ろ悪い事を互に競争してやつて居る様な処に特に最も痛切に感ぜらゝ、然らずとするも、吾々が超然的態度を固守するは、政党をして動もすれば陥り易き過誤より安全ならしむる途であるといふ点に積極的意義があるのだ。且又どの点から云つても、吾人が進んで政党に参加するは、政治の運用の上に必要とせらるる毫末の理由もない。
 斯う云ふ理由で、僕は断じて新政党に参加しないのみならず、凡ての市民に対つても之に参加せざる事が却つて諸君の重要な義務であることを切に警告したい。但し参加せざるの理由が必しもこの新政党を非とするが為めでないことは言ふまでもない。具体的の事実問題として、例へば総選挙のやうな場合に、与へられた一票を孰れの党派に投ずべきやは、全然別個の問題である。