政治に対する宗教の使命 『新人』一九一四年五月
     一

 此問題に就て余が論究せんとするに至りし動機は、前号海老名牧師の説教中、「伊藤公がビスマルク公に会つ
て、憲法政治を日本に施く志望を語つた時、宗教はどうする積りかと尋ねられ、宗教はぬきにする積りであると
答へた、所がビスマルク公は之を開いて驚き、無宗教の憲法政治は我れ未だ之を開かぬと云ふた話がある云々」
とあつたのに起因してをる。宗教なしの立憲政治が成功するか、之れは実に面白い問題である。折あらば此事を
考へて見たいと思つてをつた。
一体宗教と政治との関係はどんなものか。日本では政治と宗教は全然無関係であると云つて得意がつて居る学
者政治家も少からずある。殊に西洋では政教分離の傾向が今頃になつて現はれて来るのに、我国では一足お先に
行つてをると云つて如何にも卓識であつたかの如く語つて居るものも少くない。然しながら之は大なる誤謬であ
る。成程政教の分離は現代の趨勢である、然し政教の分離は政教無関係と云ふことではない。否政治の根砥には
宗教的精神が横はつて居らねばならないのである。故に政治と宗教とは実に密接なる関係を有するものである0
最近欧米の政治界を見るに所謂権謀術数の政治家よりも、宗教心の燃えた人が大統領となり大臣宰相となるの傾
向が見えて来た。又宗教なしの立憲政治が成り立たないと云ふことは旦別に我国の政治が既に之を証明してゐる
ではないか。今や世人は政治家に信望を置かず、却て世の宗教家道徳家に政治の腐敗を訴ふるに室つた。国民は
飢留

政治と宗教、政治と精神問題との間には密接なる関係あることに気が附いて来た。宗教を政治から駆逐し全然無
関係のものとしたのは、我国政治家の大失敗であつた。然り両者を相伴はしめないならば立憲政治の進歩といふ
ことはないのである。
46
      二
 抑も政治の変遷を考ふるに、種々の方面があるけれども、其一は政権の推移と云ふことが、尤も大なる事であ
                                                    たとえ
る0政権の推移は即ち政権争奪であつて、歴史的に之を考ふれば、昔は血を以て之を争つたのである。例令ば源
平の戦、豊臣、徳川の戦ひ、皆之れ政権の争奪である。今日は道徳上許さぬ事になつて居るが、然も支那に於て
 そうきようじん     えんせいがい
は宋教仁を殺したのは衷世凱の廻し者であつたといふ噂もあるから、矢張り自分に反対するものは之を殺すとい
                      な
ふ所謂血を以てする政権の争奪は今も彷ほ時々行はれて居るのである。斯くの如く昔は政権の競争のためには兄
  せめ
弟相閲ぎ骨肉相食むも尚辞せなかつた。共後血を見るといふ事は段々やまつたけれども、併し同じ国の中に反対
の党派は一人もをかぬと云ふことになつて、放逐亡命といふ事が新に政権争奪の結果として現れて来た。例令ば
そんいつせん l亨こう                                                        メキシコ
孫逸仙、黄輿の如き我国に亡命の客となつて居るのが即ち是れだ。其尤も新しき西洋における実例は墨西寄の革
命である。墨西寄の今回の革命は昨年二月マデロが殺された事に起因してをる。此のマデセは三年前の大統領デ
アスを追ふた。デアスは三十余年間大統領として勲功ある人物で最早八十歳をこえた人である。然るにマデロは
                                        スペイン
之に背いて共権を奪ひ、為めにデアスは一族三十余人を率ゐ住み慣れし故国を後にして西班牙に亡命したのであ
つた。斯様に初めは血を以て政権を争つたものが、後には放逐の形をとつて、反対者を同じ国内に居ること能は
ざらしめ、自分の一族を以て政権を握るといふ事になつたのである。而して斯くの如き惨酷な方法を取つたのは
政治に対する宗教の使命
其基く所の動機は、畢尭一身一家の功名栄達にあつたからである。
 然るに今日はかの利益を主とした政権争奪の状態は消滅することになつた。此悪風一変して今や立憲政治とい
ふ一定の主義主張を動機とする政権争奪といふ事になつて来た。其は果して何の理由であらうか。之れには二の
理由がある。其の一は民衆の勢力が著しく拡大されたことで、他の一は宗教的精神の勃興である。然しながら第
一の理由も詮じ詰むれば、宗教心勃興の結果、個人の価値の自覚するに至り、従て民衆の勢力が発展して来たか
らであつて、之れも畢克は宗教のカである。換言すれば人民が人類平等の主義に立つて、堂々と理想の実現を主
                    らんしよろノ
張するに至つたからで、結局立憲政治の濫腸は宗教的精神の発露に基くものであるから、宗教と立憲政治とは元
と元と離るべからざるものである。所が我国にては立憲政治を施きながら、
かつた。之れ我国初代政治家の大失敗と云ふべく、恰も根本を培はずして、
其結果が今日の有様となるは、寧ろ当然の事であらう。
其根砥たるべき宗教には思ひ至らな
美果を得んとするが如きものである。
      三

 夫れ権力のある処は同時に利益のある所であつて権力の中心には利益も亦伴ふのである。故に若し権力者にし
て宗教的の高潔なる精神なくば、そこに不義不正の利殖の行為の伴ふは己むを得ぬ事実である。故に宗教心なき
所には政権の争奪と同時に、必ず利益の争奪が行はる、は之亦自然の数と云ふべきであらう。維新の大改革に政
権は徳川幕府より朝廷に移り、草慮より一躍して政府に入つた者が多かつたが、近頃或人の書いたものを見れば、
当時要路の人にして賄賂を取らぬものはなかつた。若し夫れを取らぬ人ありとせばそは僅かに木戸、大久保、西
郷の三人位のものだとある。之に由て之を見れば以上三氏以外のものは普利益心の乗ずる所となり、収賄を敢て
47 ノ
 密′

       かくの「】とく
したのである。如斯権力のある所には必ず利益が乗じて来る。故に宗教心なくば遂に権力の掌撞によりて私腹
を肥さんと考ふるに至るのである。而して之は当局者ばかりでない商人の如きも亦抜目なく此権力と結託して其
人を利せしむると同時に自からも大に利するを心掛くる。例令ば彼の三菱や大阪の藤田家の如きが今日の富をな
したのは、当時の此権勢と結託して先に至りしは何人も認むる所である。如斯金力と権力との間にはさらでだに
深き因縁あるものなるに、我国に於て二大戦争の結果は一層密接に金と権とを結着せしめた。即日清日露の戦争
に於て政府は軍費のために、富豪に低頭して金を出させた。故に一度戦争が局を結ぶや金持は俄然として頭角を
表はし、従来は権力が金力を左右したのに、戦役以後は金力が権力を左右せんとするに至つた。今や金力の要求
         しりぞ
は政権も容易に之を研くることは出来ない。斯くて今日は正に金力全盛の時代となつた。故に法律にせよ行政上
の処分にせょ之を観察し来れば我国程強者が弱者を虐待し、優者が劣者を虐げてをる国家はない。法律でも政府
は種々の情実や関係から、金力の保護を図り、閥の利益を擁護してをる。即ち優等階級のための法律である。強
者の利益の保護である。一例を挙ぐれば現行相続税法の如きはそれである。該税法によれば百円以上を収むる者
は年賦にて分納することが出来るが、百円以下は之を許さない。然るに事実に於ては百円以下の者こそ却て困難
を感じ、百円以上の者は一度に之を納むるに何等の苦痛を感じない人々である。之れ実に下流の人々を眼中にを
かずして、富者に都合よい様に金持のために定めた法律である。如斯ことは労働者に対する政府の監督に就ても
著しく表はれてをる。労働者は腕一本にて働いてゐる。今工場労働者が共作業の際、負傷して業に従ふこと能は
ざるものとなりし場合に、傭主は之れに見舞金として十円或は十五円の金を与へて之を解雇するのである。而し
て負傷者は生涯労働に従事する能はざる悲惨なる境遇に陥り、為めに一家は路頭に迷ふに至る。然るに資本家は
日く、社の規定だから仕方がない、営業だから仕方がないと。之れ実に由々しき大問題である、現今の法律は之
48
頸「
政治に対する宗教の使命
                                いかんながら
に対して十分なる同情と理解とを持つた規定をしてをるか、乍遺憾之を見出すことは出来ない。之れ実に我国の
法律が弱者を何等眼中に置かない証拠である。其他経済界に於て、閥を保護するために特別なる取扱ひをなすこ
                                                いとま
との如き、金力と権力との結托の結果、強者に利にして弱者に不利なるものは殆んど枚挙に連ないのである。
         こん▲ばい
 斯くて国民は今や困億の極に達して居る。如何にして之を救ふか。吾人は出来るなら法律の根本を改めて所謂
社会政策的立法をドシ〈やつて之を救ひたいと思ふ。殊に此必要は非人格的関係に進みつゝある今日の産業組
織の世の中に尤も切に感ぜらるる。昔のやうに雇主と被傭者との関係が親密で其間に多少情味があれば、被傭者
が不時の災難に遇つたやうな場合に雇主が約束以外の救済を与ふと云ふと云ふやうな事も行はれたのであつた。
然るに今日は契約関係の一本調子である、尭も人情の介入を許さない。人情などを考へて居ては営業が立ち行か
ない、他の同業者との競争に負けると云つて居る。此趨勢は今日尤も人格的関係の存続すべき筈の農業にまでも
及で居る。中農が衰覆し、大農の兼併が行はれると、小作人は用捨なく取り立てられ、昔の様に事情を訴へて歎
願するといふことは出来ぬ。斯う人情の這入り込む余地のない世の中になれば、国家は之れ迄のやうに黙つて見
て居るわけには行かぬ。必ずや其本来の権力を以て之に臨み、弱者を保護するの能心度に出でねばならぬ。故に世
の産業が進むに連れて国家が法律を以て雇主被雇者の関係に干渉するの必要は加はるのである。然るに我国の目
下の状琴は、金権が実に政権を圧迫して、斯かる弱者保護の法律の発布を容易ならしめぬ。然らば如何にして此
難境を脱することが出来るか。
 第一の解決は、上に立つものがよく下の者の安寧休戚と云ふことに留意し、優者が劣者に同情し、弱者のため
に進んで利益を図つてやると云ふことによつて出来る。然るに優等階級のものが、下流人民の生活に同情し、十
分なる理解を以て適当の処分をなすと云ふことは実は宗教心なくては出来ない事である。宗教心なくば上のもの
針屠

が下のものに同情することは出来ない。如何に立派な人物と錐も、白から其境遇に身を置かずして、其人を理解
することは困難なる事で、之を諒解し同情することは、宗教のカに依らねばならないのである。然るに我国識者
の間には宗教がない。故に此方面の穏かな解決も我国には望み難く思はれる。
 此第一の解決が出来ぬとすれば将来どうなるであらうか。ドーセ今の儀では治らない、何時までも虐げられて
下の者は永久に獣州つてはゐまい。斯う考へて見ると結局遂に下の者自ら其地位を自覚し、自分の考で解決せんと
するに至るではあるまいか。民衆自ら其階級のカを以て優者に対抗し云はゞ階級闘争の形に於て之が解決を試み
るといふ事になりはしまいか。之れは西洋にも随分例はある。ストライ〔キ〕や其他の示威運動は即ち是だ。之は
穏に行はるゝ事もあるけれども、時として革命的破壊的の手段に流るゝこと亦稀でない。少くとも斯うなる傾向
があるから、要するに不祥事には相違ない。不祥事ではあるけれども今日のやうな有様では避けられまい。宗教
なき国は誠に不幸である。
             うた
 論じて滋に至ると予は転た英国の政治を羨むの情に堪へない。英国で政権を取つて居るのは今も昔も大体少数
の優等階級である。而かも彼の如く立派な政治を実現するに至りしは、之れ彼等が一般民衆に無限の同情を有し、
十分に民衆を理解して居つたからである。而して彼等が民衆に同情し、よく下民を理解するを得し所以のものは、
之実にうるはしき宗教心の結果ではないか。
う0
 「 ■
 民衆の勢力で以て社会政治の問題を解決すると云ふことは恐らく今後の大勢であらう。少くとも人民の自然の
要求に対し政府に立つ少数者の之に応ぜざる場合には、民衆の力で無理押しに押して行くの外はない。是れは必
政治に対する宗教の使命
しも悪い事ではないと思ふが、只一つ心配に堪へぬは宗教心の有無の点である。若し人民に宗教的▲信念と云ふも
のがなければ、人民の運動は節制を欠き乱暴に流れ彼の仏国革命の如き形を取つて表はる、外に道はない。此点
よりして世間には民衆政治を呪ふ人が少くない。併し民衆政治に上述の如き弊害ありとしても、之を以て直に少
                                                                                           しばち
数政治を可とするの理由はない。何と云つても今日は最早立憲政治の世の中である。利害得失の問題は姑く別と
して事実果して民衆を疎外して政治が出来るか。政治上民衆の意志に重きを置くは今日已に当然の事である。只
心配に堪へぬは国民の宗教心のなきことである。然るに之を是れ憂へずして、徒らに民衆の勢力の勃興に杷憂を
                                          お一そ
なし、民衆即ち暴徒、民衆政治即ちモップ政治と云ふ如き考へを以て、非常に之を慣れ、立憲制をとりながら、
依然として少数の専門政治を夢みるが如きは何たる間違つた考であらうぞ。吾人も宗教的精神を伴はざる民衆政
   あきた
治には糠らぬものであるが、去ればと云つて之に代うるに少数政治を以てする気は毛頭ない。蓋し少数政治は暗
室政治である。故に不正な事が種々行はれて而かも隠蔽されて容易に外に表はれない。種々の忌むべき弊害の続
出するは自然の勢と云はねばならぬ。之に反し民衆政治は明け放しの政治であるからして、少しの不正事も直ち
に暴露されるが、其割合には潔白なものである。少数者政治に於ては到底政治の潔白を維持することは出来ない。
此意味から私は熱心に民衆政治を主張する。
 元来政治と云ふものは公明正大を原則とし、一点の秘密を許さない所のものである。然るに所謂暗室的政治と
なれば、必ずそこに種々の情実が起り、誘惑が来るのは免れることを得ない。斯る場合に宗教心あり神を恐る、
人でなければ、如何に立派なる人でも浅薄な考へから、ツイ其誘惑にまけてしまふ。況んや凡庸の人間は直ちに
其誘惑に乗ぜられるのである。其証拠には我国にては一度大臣となれば、巨万の金持となる。何事で金を儲ける
か知らないが、大臣となつて金満家となる国柄は恐らく日本と支那位のものであらう。私が仏蘭西に居る時、大
う1′
・彩/

統領フアリエールが任期満ちポアンカレIが就任した。其時フアリエールが官舎を引払つて其処に借宅したと云
ふ記事が新開に出たから、私は前大統領の住居はどんなものかと思つて見に行つた。夫れは二階建の可なり大き
な建物であつたが彼は其二階丈けを借りて居ると云ふ事であつた。其家賃は東京の標準から云へば百円位の家賃
                             フラン
とでもいふべきものであらう。仏国大統領の年俸は六十万法外に交際費の六十万法合して百二十万法(即ち我四
十八万円)である。若し大統領たる人が一寸注意して貯へて置けば七年の任期中に十万や二十万の金が出来ない
事はない。然るに大統領をやめた翌日から借家住居、然も全部が借れず二階住居をしなければならぬとは、如何
に彼等が清廉潔白に生活して居るかを証明してをる。日本では大臣になれば金備になるが、西洋では大臣になれ
ば却つて貧乏になる。西洋では金満家でなければ大臣にはならぬと云ふ風があるのに日本では大臣になつて金を
作ると云ふ様な次第である。本来ならば日本で大臣になつて十万円の財産が出来るなら、西洋では勝手が大きい
丈け百万円も出来るのが当り前である。然るに日本の様な金のない経済の小さい国で、俄かに大金持になるのは、
何かそこに罪悪が行はれをる証拠である。之即ち我国政治社会の公明正大ならざる所以、隠密の間に事をなし人
を恐れて神を恐れざるの致す所である。されば吾人は宗教心を根抵としたる民衆政治を以て、公明正大なる政治
う2
を施かんことを主張するものである。
      五

す然るに世間には民衆政治は日本の国体に背くとか、或は憲法が許さぬとか、又は無智の人民をして政権に参与
せしめるのは、小児に刃物を与へる如きものだとか云ふ者があるが、之れは何れも浅薄なる議論である。例令ば
第一説に付て云はんに民衆の意志を絶対の最高権威とするなら国体上許すべからざるものなれど、主権者が其政
頚、¶
 む
政治に対する宗教の使命
治を行はせらるゝ上に、国民の意見を参考せらる、ことは何等差支はない。又憲法と衝突すると云ふ説は法律論
と政治論とを混同したる僻論である。更に第三説に至つては民衆政治の本体を誤解せるものである。世人多くは
民衆の参政権は其高等の政治的発達を条件とするといふが、併し一体政治上の事は一般人民は勿論の事、高等の
教育を受けし者も立派なる判断が出来る筈のものでない。政治的発達といふ事を標準とせん乎、多くの人は落第
せざるを得ない。ソンナ六かしい事は民衆政治は一般人民に要求しない。唯だ代表者を選ぶ時に我々の利益を托
                                     ヽ ヽ
するに足る高潔なる人物か否かを判断し、正しく之はと思ふ人を選ぶことが出来れば足るのである。之れは政治
や法律の智識はなくとも普通人間の持ち得る能力である。併し斯の能力のよく理想的に発揮さる、には矢張り根
砥に宗教がなければならぬ。我国現在の選挙では、一票五円で選挙権を売買するといふやうな噂を耳にするが、
之は何の為めであるか。要するに予は民衆政治は到底之をやめることは出来ぬから、之は其俵之を維持し只他方
退いて宗教のカにて人民の道徳性を陶冶し、正義の観念を明かにし、以て人物を正当に判断するの能力を養成す
べきであると思ふ。さうすれば必らず立憲政治の美果を収めることが出来る。之を要するに民衆政治其物が悪い
のではない。人民や政治家に宗教的精神の無いのが悪いのである。故に立憲政治の成否は国民に宗教心ありや否
やと云ふことに帰着するのである。
 又或人々は民衆政治の盛な所には、其盛なるに比例して政界の表面に立つ人の種がわるくなると罵るものがあ
る。而して彼等は其一例として米国を挙げ民衆政治の弊に悩める国の標本と唱へて居るのであるが、之れは排日
問題などに反感を砲けるものゝ僻見で、米国の歴史を知らず、今日彼国の真相を諒解せぬ者の言である。先づ第
一に米国現大統領ウイルソンとは果して如何なる人か。彼は純然たる政党者でなく、大学教授として令名ありし
人格の人である。而して彼と民主党候補者の地位を競争したハーストは金権のカを有し、又政治上の手腕を有し
うう ′
屠/

た人物であつた。然るに米国民は後者を撰ばずして、一学究たる人格の人ウイルソン氏を挙げて、一国の政治を
                                         たず
托した。之れが果してモップの政治として罵倒に価する現象であらうか。又之を米国史に温ぬれば、彼のクリー
ヴランドもさうである。彼は品格の高潔なる人物であつたけれども、其政治的方面に至つては未知数であつた。
然も国民は反対党たるブレーンの手腕あるも而も醜聞あるを厭ふて、彼クリーヴランドを挙げた。共他タフトと
云ひルースベルトと云ひマッキンレーと云ひ又グラントと云ひ、実に其人格の高潔にしてその伎偶の卓越せる点
に於て、優に米国史を飾るのみならず、世界史を飾る所の一代の偉人たるべき人物である。斯る人物を一国の元
首として選び得るは、之れ即ち米国民がワシントン、リンコルン以来養ひ来りたる米国魂、換言すれば宗教的精
神によりて陶冶せられ、啓発せられたる結果であつて、断じて之をモップ的民族と云ふことは出来ない。斯る国
民と大統領によりて経営されつゝある国家を、民衆政治の弊に苦しみつゝある国と云ふに至つては、其浅見や寧
ろ憐むべさものである。
 又私が大学に学生たりし頃或教授は英国は選挙権拡張以来、大に議員の種が悪くなり人物が下落したと講義せ
られた。余は先年英国にて端なくも此言を思ひ、よく英国議会なるものを研究して見た。成程往時は英国の議員
は貴族や金満家であつたから、其風采や行儀作法に至つては実に立派なものであつた。然るに約二十年前の選挙
権の拡張と伴つて、労働者より代表者を選挙するに至るや、フロクコートを着ない議員沌議会に出入するに至つ
た。此点から云へば確かに形の上からは議員の品位が落ちたとも云へる。然し其人物の上からはさう云ふことは
出来ない。彼の労働党の代表者ケーア・ハルデーの如き、其見識より云ふも、又其人格より云ふも立派なもので
ある。彼れが千八百九十三年、労働党の最初の代議士として議会に出席するや、汚ない脊広服を着し鳥打帽を被
                 びつくり
つて議場に表はれ、六百の議員をして吃驚させたと云ふことである。然るに侮蔑の眼を以て迎へた議員も、段々
う4
つ 「▼
政治に対する宗教の使命
後れの高潔なる人格を認識し、「彼は我々の中の何人よりも、より以上に尊敬すべき人物なり」と歎質するに至
った。彼は八歳の時より、鉱山の穴掘に従事し、貧窮のために学校教育を受くることが出来なかつたと云ふこと
である。然も被れは一種の精神家で、幼より宗教的信念あつく、理想的社会、即ち神の国を此の世に実現せんと
の熱烈なる誠心に駆られて努力して居る人である。其他現内閣の大立者たる大蔵大臣ロイド・ヂヨーヂの如きも、
又労働党の領紬たるラムシー・マクドナルドの如き、普選挙権の拡張によりて議員となつた人々で、ロイド・ヂ
ョーヂの如きは確かに後世に於てはグラツドストーンやビーコンスフヰルドと並称すべき人物である。されば英
国議会の議員が下落したとの評言は皮相の見で、議場にて脊広を着るものが多くなつたと云ふに過ぎない。さて
是等の人物が何故に斯くの如く世界の尊敬を博するかと云へば、云ふまでもなく其の根砥に宗教的信念ありて、
其人格を統一し支配して居るからである。斯く考へ来れば若し人民の中に宗教心嶽り、自己を代表すべき人物を
選ぶに当り、其真に高潔なる人格なりや否やを判断するの能力だにあらば、議会は必ず立派なる人物を以て充ち
                                                           わきま
て来るに違ひない。共反対に選挙人其人が何等宗教的正義の観念もなく自分は如何なる人物を選ぶべきかも弁へ
ず、人物判断の能力なくば、議会は醜類に充ち立憲政治は却つて国家を禍ひするものとなる事もあらう。一体立
憲政治では議会が政府を監督するを要すると云ふ。併し事実上人物の集る所は則ち勢力の中心であつて、議会に
人物が集らざる以上は、理窟では何と云つても議会の実力は到底政府を監督することは出来ぬ。而して議会に人
物を集めんとせば先づ選挙人がシツカリせねばならぬ。それには先づ人民が自覚して確固たる精神を以て議会に
                                                   ま
人物を送らねばならぬ。而して国民をして滋に至らしむるには宗教のカに侯つ外はないのである。
が蜜

     六

 さて右申す如く民衆政治は勢でもあり、又推奨に価するものである。併し民衆政治が完全に行はる、には其前
に従来の少数政治と戦ふを要するを以て、一時は之に対抗するために一種の民衆運動が盛行すると云ふ事も免る
を得ぬ。此民衆運動といふも亦其根砥に宗教がなければ吾々の思ふやうにうまく行かぬものである。何となれば
                            やや
宗教なきの民衆は確信に基いて積極的に行動する能はず、動もすれば煽動に乗り又は野心家の買収する所となり
て軽挙盲動することとなる。独り一般民衆のみではない、所謂識者も亦高遠なる理想なく、浅薄なる主義に誤ら
るこ」とが多い。此例は今日我国に甚だ多い。宗教なき彼等は動もすれば国家の名に眩惑して知らずして罪を重
ねて居る。或人は日本人の特長は没我思想に在りとて威張つて居る。己を没却するはよい事だが併し何の為めの
                                            ここにわいて
没却か。高遠なる理想の為めといふ事なしに己を没却するは死に均しくはあるまいか。於是予は我国の浅薄な
る国家主義を呪はざるを得ない。国家も亦高き理想に立たねばならぬ。宗教なき国家は如何に多くの人をして国
家の名に於て罪悪を犯さしめて居るか。予は思ふ真に国家の為めを思ふ者は却て正義の為めには国家の利益を犠
牲にするも、猶之を辞せざるの覚悟がなければならぬ。正義を以て国家よりも高しとするの見識なければならぬ。
現米国大統領ウイルソン氏の如きは、此点に於て実に予は無上の尊敬を払ふものである。
                                  パ ナ マ
 去三月十一日の新開によればウイルソン氏は去る三月五日の議会に於て、巴奈馬運河通航料免除規定廃止を勧
告するの教書を発して、沿岸航海の米国船舶に対し通航料を免除する所の運河法が各国に於て条約違反と解釈す
ることを挙げ、白から進んで該規定を廃し、寛容の態度を中外に発揚せんことを勧告した。之れは実に宗教家か
                                                メキシコ
道徳家の云ひさうな処である。然るに日本の新聞記者が之を目して、之れ米国が諸外国の歓心を買ひ、墨西等閑
う6
ノ■頭「■
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政治に対する宗教の使命
頓を巧みに料理せんとの魂胆であるといふのは、思はざるの甚しきものである。又この墨西寄不承認の開題につ
いてもウイルソンの態度は甚だ面白い。抑もウエルタが昨年二月政権を握り、四月欧洲大陸諸国の承認を得てゐ
ることは世人の知る所である。然るに独り米国大統領のみは其承認を肯ぜない。之れは米国民が承認を非なりと
するが為なりやといふに必ずしむきうでない。ウエルタに乾されたマデロが米国に於て人気あつた事は事実であ
                                       しかしながら
る。之を乾したウエルタの政策が米国の資本家に喜ばれざるは疑ふを要しない。乍併墨西寄鎮定の一日も早か
らんことは米国資本家にとり目下の急務であり、而して之れが鎮定はウエルタに待つ外なき以上、此際ウエルタ
を承認する事は当然なるが如く思はれる。然かもウイルソンは断々乎として之を承認しないのである。之れは何
故かといふに、ウエルタが道徳上許すべからざる人間であるからである。
 昨年二月九日墨西寄市に騒乱が起つた。時にウエルタは政府軍の総司令官とuで約十日間戦争に従事したが、
同月十八日突然裏切りして、大統領マデロの弟を縛し、直ちにマデロを官舎に襲ひ之を捕へて幽閉し、敵デアス
と通じて政権を奪取し、十九日には大統領の弟を殺し、二十二日夜半又大統領を殺した。且つ彼ウエルタは初め
先代のデアスの引立を受けて居つたが、後デアスに背きマデロに通じ、今又マデロを撃つて其位置を奪つた。之
れ実に道徳上許すべからざる行為である。此等の事実こそはウイルソンが承認を肯んじない最も重要なる理由と
なつてをるのである。
 ゥィルソンの正義の観念に基けるやり口は夫れとして、斯の如く正義人道のためには国家の利益をも不問に附
して、所信を断行する政治家に、其国家を托して居る人民も又実に偉大なる国民といはねばならぬ。斯く論じ来
れば政治の根底には宗教がなければならぬことは明かで、政治家に宗教心がなければ立派な政治は行はれないの
である。今日日本の外交が遅々として振はず事々に失敗の形跡を表はすのも、之れ我国の外交家に宗教的精神な
m屠

く、世界の外交舞台が、宗教的精神に基ける高速なる理想によつて開展しっゝあることを知る能はざるの致すと
                 ■育つさ
ころである。今や欧米の外交界は請詐権謀の時代を過ぎて、実に偉大なる世界的精神によりて動されつ、ある4
                                              あたかも
此大勢を知らずして外交の衝に当り、旧来の手腕とか技備とかいふことを夢みつ、あるは、恰白昼提灯を点ず
ると一般、時勢に遅るゝ之れより甚しきはない。内政の不振の如きも前来綽々述べる如く、国民に宗教的自覚な
く、政治家に宗教的精神によれる正義の観念なきの致すところ、決して手腕とか使傾とかいふ問題ではない。之
を要するに立憲政治の美果は国民の宗教心の発露によりて結ばるゝもので、宗教を抜きにしては決して理想的の
政治を見ることは出来ない筈のものである。附言す、余は漠然と宗教と称したるも、余の云ふ宗教が基督教を指
せるものなることは、多く欧米の実例を挙げたるにても、又余自身が基督教徒たることでも明なることである。
余は断じて神道や仏教が余が主張する処の能力を政治の上に貢献するものとは思はない。
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