新自由主義の提唱  『中央公論』一九二六年六月「巻頭言」

 『企業と社会』創刊号に載せられた上田貞次郎博士の「新自由主義の必要」なる論文は、近頃頗る注目に値するものだと思ふ。社会主義的思想の旺盛を極むる今日、所謂自由主義に還るべきの提説に傾聴せよと云つたら、気早の青年諸君は理由も聞かずに立腹されるかも知れない。併し日本の社会主義も上田博士の提唱を尤もと思ふ程に周到な省察を自ら加ふる様にならなければ、実際のところまだ生硬の域を脱したものとは謂へない。
 上田博士は訂ふ、明治初期の民間政治運動は、新政府に志を得ざりし不平士族と、多年武士に圧迫されて居つた地方農村の不平地主とに依て企てられた。従て其の目的は主義の実現よりも寧ろ政権分散の要求に在つた。故に斯くして出来た政党が、民間の利益希望を代表するものでなくて、単純なる政権争奪の機関に過ぎぬは怪むに足らぬ。是れ今日の政党が仍然(じようぜん)として国利民福と没交渉なる所以であると。
 博士又曰ふ、この状態は併し普選の実施で変るだらう。之に由て既成政党の間に様々の分解作用の起ることが期待され、結局に於て一方の極端に保守党が起り他方の極端に社会党が起るだらうが、併しその中間に出来る新自由主義を標榜する政党が、一番有力なものとなるだらう、又斯くなることは希望すべきことでもあると。
 新自由主義を標傍する中間党が大なる勢力を占むべしとする上田博士の観測の当否は別として、斯くなることを博士の希望せらるる趣旨が、実に吾人の傾聴に値する所だと思ふのである。何故に今後の日本は新自由主義の盛行を必要とするか。抑も博士の所謂新自由主義とは何か。
 博士新自由主義を解して曰く、原則として自由競争の自然的調節力に依頼せんとするの主義なりと。併し文字の定義はどうでもいゝ。肝要な問題は、何故に今日の日本が之を必要とするかの点である。博士曰ふ、維新開国の当初我々の先輩ははじめて世界を見て彼我文物の差の余りに大なるに驚いた。如何ともして早く彼の如くならんを欲するも、民智未だ高からず一般国民は更に為すべき術を知らない。斯くして已むなく一切の計画立案は専ら政府の之を作すに委するの外はない。其の結果は如何。即ち国家の力を以て資本的企業の樹立を促し、資本主義の勃興を助長したことではないか。之が為に我国の文物は非常に発達したのではあつたが、また其の傍には濃厚なる保護政策の余毒の遂に抜き難きものもないではない。斯くして今日は寧ろ此の保護政策の余弊を一掃すべき学説を要求する時代となつたと。
 博士は今日なほこの保護政策を支持する学説あることを指摘し、其の妄を弁じて居る。帝国産業の国際的発展の為には国家の保護が必要だといふ説は、屡々説かれ又実際に於て現に行はれても居るが、博士が、その直接の結果の非社会的なることと、帝国産業の発展といふ観点からしても結局に於てそが不利なることとを指摘されたのは、門外漢たる我々にも首肯(うなずか)れる。こゝまではいゝ。さて保護政策は不可としてその先きをどうするか。この問題に逢着して博士の意見は最近流行の社会主義と衝突する。即ち博士は社会主義者の唱ふる如く一朝の革命によつて資本主義の社会的秩序を一変することは、事実不可能であり且つ得策でもないと主張さるるからである。
 私共の観る所では、博士の立説の根拠は次の点にあるらしい。企業の社会化はよろしい。併し資本主義的企業を廃して之を国有又は公営にしたとて、それが直に企業の社会化ではない。そはたゞ社会化の手段だ。畢竟外形に過ぎず精神ではない。国有又は公営に依て社会化の目的を本当に達するには、企業経営そのものに就て国民がもつと訓練されてゐなければならぬ。而して能率の高い且正直な経営の仕方を教へるものは自由主義でなくて何であらう。日本は今日まで余りに保護政策に毒せられ、自由主義の訓練を受くる機会を恵まれなかつた。この訓練を受けずに一足飛びに社会主義に赴くのは危険千万である。そは「徒らに経営の能率を引下げ且政治上の腐敗を招くの結果に終るべき」を以てである。「若し他日社会主義的産業組織が実現せらる、時ありとすれば、それは新自由主義の洗礼によつて中央及地方の自治機関が充分健全になつた後でなければならぬ」。
 斯く解するを誤なしとせば、博士の提説は必しも理論上社会主義的改造論を排斥するものではないらしく、日本当面の問題として、自由主義的訓練の機会を国民に提供すべしとの論と観られぬこともない。孰れにしても、日本独特の国状を背景として社会主義的改造観がその実際政策の綱目中に先づ以て何を顧慮すべきか、を暗示せる論文として、上田博士のこの説は敵も味方も大に味ふべき必要あるを思ふのである。