選挙と金と政党  『中央公論』一九三二年六月

 この間政界のある先輩に会つて、斯ういふ述懐を聞かされた。自分が普選制確立のために奮闘したのは、一つにはそれが理に於て正しいと信じたからでもあるが、一つには有権者激増の結果従来のやうなやり方では金は幾ら掛るか底が知れず、為めに自ら金はめちやに使はないといふことになり選挙界は漸を以てひとり手に廓清されるだらうと考へたからである。然るに今日に見る実際の結果は如何。金はます/\余計にかゝる、些しも減少の傾向はない。少くとも金の点では普選制の実施は毫末も政界廓清の効果を見せてない、我々の当初の予想は全く裏切られた。自分は今になつて深く我が不明を愧ぢると。
 斯う云はれると私だつて同じやうな述懐をせずには居れぬ。私も大正の初め頃から熱心に普選制の実施を主張した一人だ。そして普選制の功徳の一つとして金を使はなくなるだらうことを挙げた。金を使はないのではない、使へないのだ、さうは出し切れないと云ふ事になるのだ。そして、金が姿を消すとこれに代り選挙闘争の武器として登場するものは言論と人格との外にはないと説いたのであつた。人格と言論が唯一の武器となれば政界腐敗の問題の一掃さるべきは固より言ふまでもなく、而してそが実に選挙の理想であり民衆政治運用の正道であることもまた喋々を要せずして明かである。併しそは制度を改めただけで実現せられ得る事柄ではなかつたのだ。今日となつては選挙界から金が姿を消せばその跡に直ちに人格と言論とが登場するとの見解をも取消す必要を認めて居るが、普選制になつて金の跋扈が減つたかと詰問されると一言もない。この点に於ては私もまた前記の先輩政治家とともに当年の不明を愧ぢざるを得ないのである。
 併しながら、普選制になると金が威力を振はなくなるだらうとの見透しは全部間違ひだといふのは正当であるまい。傾向としては矢張然ういふ風に現れて居るのではあるまいか。第一に私は選挙費用は大体有権者の数に比例して増加すると観たのであつた。この予想は間違はなかつた。金の掛り方は選挙毎に多少増加する傾向にはあつたが、普選制実施以前は多くとも二三万といふところだつたのが実施後は急に七八万を呼ぶやうになつた。第二に私は斯ういふ形勢になつては各候補者が到底これに堪へ切れなくなるだらうと考へた。これも事実その通りである。立候補数減少の傾向がその一つの証拠として挙げられ得ると思ふ。第三に私は使ひたいが使へないので金にたよることを諦め各候補者ははじめて余儀なく本来の正しき武器に還へるだらうと見た。この見透しが当らなかつたのである。やり切れないのは誰しも同様であり、外に良法もないのは選挙界を断念するに至つたが、既成政党に属するものは金の責任の大部分を政党本部(こゝに政党本部といふは、便宜上政党の中央機関の外最高幹部の列にある先輩党人をも含むものと観られたい。選挙費用は党からも出すが、銘々の親分たる最高幹部の誰れ彼れも出す。斯くして親分乾児の関係が出来、勢力割拠の弊習を生じ、党の統制を著しく阻害して居るの事実は看逃がしがたい。)に転嫁することに由つて一時の難関を切り抜けた。つまり政党本部が大金を作つてそれと思ふ候補者に貢ぐので、選挙界は旧態依然として最後のドン詰りに陥るを免れて居るのである。政党本部では従来の選挙でも随分金が掛つたのであつた。今や掛り方が数倍したとて候補者が悲鳴を挙げて居る、それを一々需(もと)むるところを聞いて弁じてやらうと云ふのだから、更に如何に莫大の金を要するやは想像にあまりある。しかし政党本部に取つてそれはいつまでもやり通し得ることだらうか。若しこれが早晩行きつまるとすれば、いよ/\選挙に金が使へなくなる時期が到来せぬと限らない。もう少し永い眼で見てゐたら、選挙界に金の威力の薄くなるとの見透しも強ち実現せぬこともあるまいと思はれる。


 日本の政党は民衆の自由な支持によつて発達したものではない、不正な誘惑に由つて民衆の良心を欺き無理に多数を作りあげた勢力であることは今更くりかへすまでもない。民衆の心を欺き取るための手段は権力と金力だ。権力を握つて金力を作り金力によつて権力を奪取する。我国に於ける政権争奪の形情はやゝ複雑で、単純な二大政党の力闘だけで解決するのではないけれども、とにかく選挙に勝つて下院に多数を制することが政権獲得の第一の条件なので、このためには手段を択ばず死力をつくして競ひ争ふ。そこで候補者に金がつづかぬと訴ふるものあれば、何とか工面して出してやる。そんなに大金が掛つては大変だと思つても、実際近年のやうに選挙に金のかゝる趨勢の止めがたく各候補者のこれに堪へ切れぬ実情を知つて居る以上、選挙に勝つて我党の優勢を確立せんがためには嫌が応でも選挙資金を潤沢に用意しなくてはならぬのである。昔しは選挙費用の大部分は候補者本人が作り極めて小なる部分を政党本部が補助したのであつた。今も全部を自分の懐から投げ出して中原の鹿(ろく)を争ふ人も少くはあらうが、多数は一小部分を私財並に知己友人の寄附に求め大部分を党本部の支給に仰ぐといふ有様になつて居る。
 選挙費用を政党本部が出すことになつた結果として現はれた一つの面白い現象は中立候補の凋落といふことである。中立議員の凋落は二大政党対立の形勢をかためるもので甚だよろこばしい現象であると説く人がある。二大政党の対立といふことの果してよろこぶべきや否やはしばらく別論として、これが我国選挙界の自然の帰結であるかに考ふるのは正しくない。選挙民が意識的に斯ういふ結果をつくりあげたなどと云ふものあらばそは飛んでもない間違ひである。選挙に金が掛つてやり切れない、既成政党の公認候補には相当豊富な資金の準備が出来て居る。これでは中立候補は手も足も出ないではないか。それに其筋の干渉もある。干渉があつても金で互角の争ひが出来たならモ少し伸びる余地はあつたらう。私は中立候補の凋落といふ事実の上にも、選挙費用の政党本部負担といふ新形勢を見留めることが出来ると思ふのである。尤もこれを中立凋落の唯一の原因と断ずるのではない。
 最近の選挙で民政党並に無産党の振はなかつたのも一つの主なる原因はこゝにあるのではないかと思ふ。政友会では公認を得れば三五万の補給をうけると云ふのに、無産党の方ではあべこべに立候補の当人から百円内外の公認料を取る。比喩は正しくないが貧乏人は無いが上にしぼられ金持はます/\ふとると云ふ形だ。民政党でも政友会との競争上お多分にもれず本部から公認料を支給するそうだけれど、固より無い袖は振れず、その額は政友会のに比して殆んど云ふに足らぬ、殊に肝腎の最後のどたん場に大に欠乏を感じたといふことだ。政府与党であることはいつの場合でも金をつくるに有利なるは申すまでもないが、苦しいながらも候補者自身が選挙費の大部分を工面する間は、与党でなくとも政戦に馳駆して勝利を庶幾するの見込みは相当にあつた。今や候補者の懐は涸(か)れた。それでも従来の政弊からぬけ切れず政党本部が無理して必要な費用をつくるとなれば、政府与党の大勝利を占むべきは当然である。過般の総選挙で民政党があの辺でとゞまつたのは一つは情勢の賜物であり、中立小党の没落は必然の帰結、これと運命を共にすべかりし無産党が辛うじて従来の勢力を維持し得たのは流石に時勢の力といふべきである。

 いま政府並に与党の間に選挙法改正が論議されて居る。世上にやかましい議会不信の声におそれ、これに迎合して政府側自ら革新を装ふのではないかと疑ふべき節もないではないが、多少在来のお座なりの改正騒ぎとはちがつて、今度のは差当りこの点に審議を向けたいといふ特殊の問題をもつて居るやうである。その重(おも)なる一ケ条は即ち金の事だ。去月はじめ政友会の選挙法改正特別委員会に於て犬養総裁は、選挙には金がかゝり過ぎる、政治百弊の根源は過大に金がかゝるといふことにある、もつと金のかゝらぬやうにする工夫が何よりも肝要だと述べたとやら。これだけなら何の変哲もないが、更に新聞の伝ふるところに依ると、右の根本要求に対し政府並に与党が実際に採用せんと考へて居る具体案は選挙公営と比例代表実施とであると聞いて、我々は始めて今度こそ彼等はまじめに金のことを心配し出したなと想像させられたのである。
 選挙公営の事は一部分すでに行はれても居るし、一歩進めてその適用を大に拡むべしとの論は前々からあつたので、今更めづらしい提唱とは思はない、たゞ比例代表制度の採用に至つては事情いさゝか異るものあるを思ふのである。比例代表主義の採用には理論上に強い根拠を有し、在来の政弊を匡救する一手段としても慎重に考究するの価値がある。故にまともにこれに反対することが出来ないので、従来有力な政治家のうちにも主義としてこれに賛成するといふものは相当にあつた。けれども実際の問題になると、これは結局小党分立の勢を馴致するの恐れあり自分達の拠つて立つところの大政党主義に対する一大脅威たるべきが故に、断じてその実現をよろこばなかつた。現に比例代表主義は理論上多くの反対を見ずして、而も不思議に実際界のまじめな論題とならず、よしなつても言を左右に託して葬り去られて来たではないか。いづれにしても比例代表制度は少くとも現在の政友会の最もよろこばざる筈の制度である、寧ろ政友会の大を挫くためなどに用ひらるべき最良の武器と謂つてもいゝのである。それを政友会が進んで採用しようといふのだから不思議だ。
 併しながら之も新聞の伝ふるところに従へば当今政友会辺で問題として居るのは名簿式の比例代表制だといふことだ。名簿式は政党本位の選挙形式だから大政党に取つて都合がいい、のみならず大きな選挙区の沢山の自党候補者を一団として競争せしめるのだから選挙費用が非常に助かる。同じ比例代表制でも個人本位の単記移譲式などでは格別選挙費用の倹約にはならぬ。名簿式だと例へば従来の一人分で全候補者のための有効な運動も可能だといへるのである。そこで私は推測するのだ、名簿式比例代表制を採用しようと云ふのも畢竟金が掛つて困るからではあるまいかと。名簿式は比例代表諸制度中の最良のものとは思はない。先きにも述べた通りそは大政党の勢力維持のためには比較的、都合のいゝものであるらしい。それでも矢張り群小政党の興起を促しその代表の選出を助くるの効果あるは疑ない。仮令一面に熱心な時勢の要求があるとはいひ、何を苦んで政友会がいま頃比例代表制などを騒ぎまわるのであらう。背に腹はかへられず多少の犠牲は忍んでも選挙時の金策を緩和せんとの苦肉の計ではないだらうか。要するに名簿式比例代表制は溺れんとするものに取つての一片の藁である。この藁屑がいつまで気息奄々たる政党の救世主たり得るだらうか。

 郷誠之助男は文芸春秋の座談会で「政党などは選挙の争ひの時に財閥が金を出すといふのを当りまへのやうに思つてるんです、金を出したからどうかしようと云ふのでなく、君たちは金を出すのは当りまへだといふ風に考へてゐる、だから誰だつて喜んで金を出す者は一人もない」と述べて居られる。政党と財閥との関係は一般にそんな単純なものではないと思ふけれども、この頃のやうに世間の眼が鋭く政党自体の影が薄くては、漸次選挙費調達に困難を感ずべきは明白である。金が乏しくなつても選挙には勝たねばならぬ、斯くして次に来るものは権力の濫用であらう。政変毎に地方官殊に警察当局の大規模に更迭さるるの現象についても述べたい事が多いが、世間に相当知られて居ることでもあるから略する。
 今日の選挙界で一番つよく物言ふものは金力と権力とである。選挙は人民の意向を訊ねるのだといふ。理想としては彼等の自由な判断を求めたいのである。人民大多数の支持が期せずして集つたといふところに、冒しがたい強味もあれば斥けがたい正しさもあるのだ。それを金と権とでふみにじるのだから堪らない。併しこれは政治的に言へばふみにじる者が悪いのではない、ふみにじられる者が悪いのだ、何となれば金で誘はれ権で圧へられても選挙民はこれに聴くの必要なく聴かなくても格別の迷惑を蒙ることはない筈であり、否これを聴かないのが国家奉公の義務であり又結局自ら安んずる所以でもあるからである。選挙民さへ確つかりして居れば、幾ら金を使はうが幾ら権力で推して来ようが、選挙の結果に穢れはない。政界百弊の根源は金にありといふのは、選挙民が軽々しく金に動き、その効果を期待して候補者が金を使ふといふ事実を前提してのみ承認し得る。一言にしていへば罪は選挙民にある、問題の根本的解決は選挙民の道徳的覚醒を措いて外にない。これを高閣に束ねた改革諸案は畢竟砂上の楼閣に過ぎぬ。どんなに工夫を凝らしても駄目らしいといふので気短かなものは議会否認だの政党排撃だのと騒ぐのである。

 金力と権力とが選挙の結果を左右するといふ国情の下に於て、政党政治は本来必然に一党専制の形態とらなければならぬ。何となれば一たび天下を取つた者には革命によるの外敗北といふことは絶対にあり得ないからである。それにも拘らず昨今の我国の政界が二大政党更立の形情にあるのは、政党政治に対する牽制機能たる貴族院・枢密院・軍閥等の諸勢力が、その法制上に占むるところの権限以外に、歴史上さらに特別異常の発達を遂げたからに外ならない。現に三百余名の代議士を擁し、数の上では空前の優勢を誇る政友会が、近き将来に於ける政変を憂慮し、政界一部の陰謀を前にして戦々兢々たる有様だといふではないか。政友会内閣を倒せば、次の内閣は、単に政権を握つたといふだけで、総選挙戦で優に政友会を凌駕することが出来る。野党の民政党に人気がないから、噂の如く平沼内閣などいふものが出現するかも知れない。尤も流石に今日は明治大正の時代とは違つて、まるで政党に基礎を有たなくては立つて行けまいと思ふ。一時憲法を停止してはといふ説もあるそうだが、畏くも明治大帝が「不磨ノ大典」と宣して発布したまふた憲法である、仮令極めて短期間といへども、これを停止するは容易な事ではない。従つて私は一時異常の場合として超然内閣が現はれたとしても、たとへば往年清浦内閣成立のみぎり政友会が分裂したやうに、既成政党に若干の分解作用を起して国粋新党の出現を見るのではあるまいかと考へて居る。往年政友本党を率ゐた床次氏に今日同じ役目を求めるのは無理、鈴木喜三郎氏と平沼男との関係の方が寧ろ著しく目立つやうであり、森恪氏の如きは同じ様な型の人であるが故横田千之助とは違つた方向に走るのであらう。斯んな夢のやうな事に空望をかけて無産党も先般来大々的の分解作用を起して居るが、既成政党はさすがにそれ程大きな動揺までには行かないやうだ。而して同じく国粋主義的傾向に立つ既成政党系と無産系とが如何に結んで超然内閣の走狗となり羽翼となるかは、またいろ/\の意味に於て甚だ面白い観ものである。