政党首領の今昔 『中央公論』一九二七年九月
近代日本の歴史の上から政党の首領と祭り揚げられた先輩政治家を算へると、最も著しいのは先づ板垣退助と大隈重信とであらう。而してこの二人が特に推されて政党の総理となつたに就ては、次の二つの事実を忘れてはならないと思ふ。
第一は彼等が共に維新の元勲であり遠からざる過去に於ては大臣参議として世に時めいたと云ふことである。何と云つても此頃世間はまだ偶像崇拝の域を脱して居ない、如何に異常の英才でも庶民の出では天下が附いて来ないのである。故に国民的の大運動を起すには看板になる「名」が入用であつたのだ。是れ大井憲太郎で行かず馬場辰猪で行かず板垣退助が必要なる所以、又沼間守一で行かず河野敏鎌で行かず大隈重信の名が必要とされた所以である。
尤も国民的運動の重点として必要とされた「名」も、時代に依て少し宛変つて来て居る。例へば維新前の勤王家の運動に在ては公卿を戴くことが出来ればそれでよかつた。大和十津川の乱にしろ但馬生野の変にしろ、公卿はあだかも皇室の代表者の様な意味で迎へられたのである。この点は維新となつても変る所はない。先づ大政の奉還をうけての後の新政府の最初の筆頭総裁は有栖川宮で、やがて三条実美が之に代つて永く太政大臣の地位を占めたではないか。而も其下に於ける各行政部の長官は当初は必ず公卿か大名かに限つて居た。併し段々政府も整つて来従てまた事務も複雑になつて来ると、空名だけでは地位が保てなくなる。勢ひ維新の大業に実際の功を樹てた英敏の陪臣にその地位を譲らなければならなくなつて行く。それでも明治十八年までは、政府の首班は公卿でなければならぬとの伝統が守られて居た。故にこの年の改革を以て始めて伊藤博文が内閣総理大臣となつたのは、或る意味に於て官制上の大なる平民化であつたと謂ていゝ。それでも身分の低いものでも宰相になれると云ふのでは満足出来なかつたと見えて、この時伊藤以下の勲臣をば新に華族に列することにした。大正になつて原敬が始めて無爵を以て内閣総理大臣となつたのを人皆異例としたのは、馬鹿/\しい話だがまた以て如何に右の伝統が其後も永く時人の頭を支配して居たかを想ふべきである。今日だつて色々の団体が名も聞いたことのない様な華族を総裁にいたゞいて巧に田舎者を釣ることに成功して居ると云ふではないか。故に明治十年代の昔に於て、民主主義を基調とする政党がその統率者の地位に虚名の高きものを求めたとて些の不思議もないのである。
第二に板垣も大隈も共に官界に於ける落伍者であると云ふ事実も看逃すことは出来ぬ。云ふまでもなく我国に於ける政党は官僚政治に反対することから起つた。故に政党は ― 政府弁護の為に起つたものは別として始めから政府の敵である。そこでその首領をばどうしても政府圏外の人才の中に求めなければならなかつた。この点に於て板垣大隈の二人が当時最も適当な地位に居つたことは云ふまでもない。啻に地位が適当なばかりではない、南船北馬の煩労を厭はず到る処元気のい、長広舌を振ふ点に於て、特に彼等は最もその任に適して居つたのであつた。
板垣大隈を戴くことに依て我国の政党運動は明治十四五年の頃急速の進歩を見た。板垣の系統に属するものは自由主義を奉じ大隈の系統に属するものは改進主義を唱へ、外に福地一派の藩閥御用党もあるがこは殆んど云ふに足らず、天下の政界は要するに自由改進の二大派に分有されしの観があつた。唯この間に在て我々の看逃してならぬことは次の二つの大なる特色である。一は藩閥といふ共同の強敵を前にし乍ら自由改進両派の反日は犬猿も啻ならず、極度の悪罵を交換しつゝ民党陣営の不統一を暴露したことで、他は同じく自由派改進派と云つても規律整然たる鞏固な全国的団結の出来たのではなく、事実に於ては一県内に三つも四つもの政団が簇出したことである。私の手許に明治十五年東京で刊行された『各地政党一覧表並図』と云ふのがあるが、之に依ると政党の数が全国を通じて百八十七ある。又同年中村義三といふ人の編輯公刊に係る『内外政党事情』を観ても、主なる政党として挙ぐるもの実に三十五に及んで居る。之に依ても全国的単一結成なんどいふことの当時てんで問題にならなかつたことを想ふべきである。若しそれ之等の政団が藩閥に対抗する場合と劣らぬ熱情を以て自由系対改進系の反目暗闘に浮き身をやつしたことは今更説くまでもなからう。
右に挙げた二つの特色は何に依て起つたか。細かく述べたら色々の原因はあらうが、専ら政治に関する範囲内のことを云ふと、当時の政党の使命が一に藩閥政府の監視糺弾と云ふ消極的批評的方面に在て未だ大政燮理の積極的建設的地位に置かれてなかつた事に帰せねばならぬ。この点に於て当時の政党は頗る今日の無産政党に似て居る。当時と今日とは交通の便に霄壌の差があるので昔の様な小党族出の勢を今日見ることは出来ぬとしても、事実に於て無産政党の動もすれば地方割拠的に陥らんとするの形勢にあるは否み難い。而してその原因の何れに在るにしろ、所謂左右両翼が人目も憚らず見苦しき内輪喧嘩に無用の精力を徒費して居ることも争のない事実である。併し斯うした状景を呈するに至つたのも元より已むを得ない勢なのであらう。何れ来年の総選挙を過ぎて無産政党がいよ/\政界の積極的要素として迎へらるるに至らば、小異をすてて大同に就き、モ少し寛裕の精神を以て大局に協力する様になるかも知れぬ。諸外国の歴史を観ても、政党の大きく塊まるのは毎も政党が積極的建設的要素としての地位に置かれた時である。戦前の独逸の如く、議会の政党が何とあがいても帝国政府の実権に寄りつけぬ様な制度になつて居ては、政党の政界実勢カとしての発展は到底期すべくもない。独逸に於ける一般の文物のあれが如く発達せるに拘らず独り政党の発達のあれが如く貧弱を極めしは、一に右の点に説明を求むべきものである。外の国のことはどうでもいゝ。我国に於ても憲法発布以前は、何と云つても政党運動は実際政権の移動に何等の交渉も持ち得ぬ民間の空騒ぎに過ぎなかつた。故に板垣大隈の名声を以てするも、僅に民間の評判をいさゝか高からしむるに止まり、今日の政党の偽瞞的宣伝と同様、真に天下を動かす力とはなり得なかつたのである。
民間の政党運動が瘠犬の遠吠に類する間は、板垣大隈の如き人のみが首領として迎へらるるに適する。一つには藩閥政府の敵であり、一つには元勲としての虚名を帯ぶるからである。併し斯の関係は憲法布かれ議会が開かれると違つて来る。尤も藩閥政治家連は、その代表者たる伊藤博文の当時の意見にも明なるが如く、議会の諸政党をして独逸の如きものたらしめんと努力した。政党が政党として内閣を組織すべしと云ふが如きは、憲法違反であるとさへ放言する者があつたのである。若し憲法施行後の日本の政界が彼等の希望する通りに発展したりしならば、恐らく今日我々の眼前に現はれて居る様な問題は概ね起らずに済んだであらう。所が実際の推移は幸か不幸か藩閥者流の期待したとは全く違つた方向を取て進んだ。尤も事の先に決定するまでには幾多の曲折あり固より一朝一夕にして成つたのではないが、一言にして約すれば、所謂大権内閣対政党内閣の馬鹿々々しき論争も今は昔の笑ひ草となり、表面の形式を何と繕つても、今日最早政党を背景とすることなくして内閣に立ち得る機会は絶対になくなつたと謂てもいゝ。さて斯う云ふ時代になつて来ると、政党の首領には依然として板垣大隈の類を戴いて行けるかどうか。よし板垣大隈で不可なしとしても、首領として彼等に期待する所の資格は従前と異る所なきや如何。次に私はこの点を少し考へて見ようと思ふ。
政党創生時代に在て首領たるに必要な資格として求められたものは「名」であつた。今や憲法が布かれて政党には新に議会と云ふ活動の新舞台が与へられた。今までは遠吠するだけに止まり到底寄りつくことさへ許されなかつた藩閥の勢力と公然角逐するの権利が与へられたのだ。斯うなると今までの様に無用の内争に精力を徒費しては居れぬ。於是民間政治家は新に自派諸政団の全国的結成の必要に覚醒する。そこから又首領たるべき者には「名」の外に新に「組織的手腕」が要求さるることになるのである。
板垣大隈の政党首領としての地位が ― 少くともその実際上の地位が ― 憲法発布に先つて早く既に影の薄らぎ、殊に議会開設後に至ては却て星亨の如き人格が之に代つて傍若無人に跋扈せるの事実は、右の点を念頭に置いて始めて了解さるべき事柄である。併し之を以て星亨の如き組織的天才が政党首領として迎へられる様になつたと観るのは適当でない。星亨が活躍せし時代は、政党が始めて藩閥の強勢と正面衝突を試み、まんまと押し潰さるるか又は相対立し得る勢力にまで伸び上るかの奮闘時代である。海のものとも山のものとも分らぬ時代だから尤も必要とさるるは腕の人であつて、在来の首領に併せて又之をも求め得ればよし、求め得ぬとすれば首領の事など余り重きを為さぬことになる。憲法発布後六七年間の政界の状景を仔細に吟味せば蓋思ひ半に過ぐるものがあらう。さて此期間に於ける我国政界の抗争に於て、政党は見事な勝利を得たとは云ひ得ぬけれども、少くとも藩閥者流の宿望を粉砕するには成功した。賞めていゝか悪いかは別問題として、星亨の現実的見識と之を行るの霊妙怪絶の手腕は兎も角も我国政党の実権的地歩をして確立不動のものたらしめた。之を事実の上に就て観るに、藩閥は最早政権の独占を主張し切れず、我国最初の政党内閣なる憲政党内閣の見苦しき失態に依て挽かに若干頽勢を挽回し得たとはいふものの、爾後十数年の政界は閥族と政党との苟合妥協に依て辛うじて一時的小康を保ち得ると云ふ有様であつた。斯んな分り切つたことを説くのは併し私の本論の目的ではない。私の主題は斯う云ふ時代になると政党の首領たるべきものに如何なる資格が要求せらるるかと云ふ点にある。そこで之より議論をその方に向けようと思ふ。
この点を正面から論ずるのは面倒臭いから、単刀直入この期に於ける著名なる政党首領伊藤博文と西園寺公望とを俎上にあげ、彼等が何の他に長ずる所あつてこの地位に置かれしやを考へて見よう。之は外でもない、宮中の覚えめでたく其の個人的信任を頼りて政党は始めて公然権要の地歩を占め得たからである。無論政党には事実上藩閥をして己れを無視せしめざる丈けの勢力はあつた。だから閥族政治家は政党を操縦しようとしたのである。只操縦される丈けではいやだ、時には実権の地位に俺達をも置いて試て呉れ。這般の懸引に於て星亨は実に巧妙を極めたものだといふ。併しイザとなると、陛下の御信任がなくてうまく天下は取れるかの問題で毎も行き詰る。之も緩々時勢の推移を待てばどうにか解決がつくのだらうけれども、政党者流には実は之を待つだけの余裕がなかつた。早く目的の彼岸に達したいと焦る。それには宮中御信任の厚い人を首領に戴くに限る。斯くして板垣は弊履の如く棄てられて伊藤新に自由党を踏み台として政友会を作りあげたのだ。伊藤に次いで西園寺が永く政友会の統領たりしも、畢竟彼は這の要求に応ずるものであつたからに外ならぬ。
尤も伊藤は深く自分の個人的声望を恃みその意の儘に操縦し得べきを信じて政友会を作つたのであつた。故に屡々旧自由党の継承に非ず全然新しい政党の誕生だとの主意を力説した。若し政友会が文字通りに当時伊藤の声言せしが如くに発達したものなら、そは全然近代民主主義の精神とは相容れざるものでなければならぬ。幸にして実際の推移は伊藤の意の如くにはならなかつた。表にはハイ/\と云ひ乍ら裏面に於ける策士の劃策は徹頭徹尾伊藤の方針を裏切るものであつた。伊藤の遂に忍ぶ能はずして逃げ出したのも一つにはこの為めであつたらう。兎に角政友会は遂に伊藤の意の如くならざることに依て始めて能く政党の面目を維持したものと謂ふべきである。それだのに、昨今なほ時々伊藤公立党の精神を遵奉するなどの宣明を聞くのは滑稽の沙汰である。
政党首領としての手際に於て西園寺の方は寧ろ伊藤よりも数等上であつたと謂ていゝ。尤も星が死んだので統率が余程楽になつたと云ふ関係もあつたらう。併し西園寺の下に於ける政友会は全然西園寺の政友会であつた。政友会が西園寺を有つのではない。一から十まで西園寺に頼つて政権に有りつくことが出来たからである。斯くして這の特異の優越的地位は、依然として惰性的に今日の彼にも認められて居る。而して西園寺時代に於て我々の最も注意すべき現象は、総裁専制の制度の確立したことでなければならぬ。この事がやがて憲政会にも模倣され、今日に至るまで ― 仮令段々影が薄くなつて来つゝあるとはいヘ ― 我国の政界に特異の影響を与へて居ることも吾人の決して見逃してならぬ点であらう。
西園寺がやめて原敬が後任の総裁となつた時は、丁度明治を過去に送つて大正の新時代の始つた時である。若し明治大帝が猶ほ在世ましましたら、西園寺の跡を原で嗣げるかどうかは大問題であつたらう。必ずや西園寺に似た同じ様に宮中の覚えめでたき人が物色されたのではあるまいかと私には想像される。然るに明治大帝の登遐に依て時世は変り、大正時代に至ては政界非常時に於ける機務の解決は事実上所謂元老の手に委せらるることとなつた。この辺の事も敢て詳説するの必要はあるまい。孰れにしても時世が斯う変ると、之に伴れてまた政党首領に需めらるる資格も自ら多少の変更を見ないわけには行かない。
大正時代に在て政党首領に要求されし第一の資格は、内閣奏薦権を有する元老の信任はどうかと云ふ点である。金を作り得ると云ふことも必要だ。政治的経歴も無論なくてはならぬ。併し之等の条件が如何に完備しても、イザと云ふ場合元老が推薦して呉れねば何にもならぬ。是れ政変時に於て政界の有象無象が元老の霊宮に詣でて頻しきりに其意中を探らんと焦る所以である。誰しも熟知の事実だからこれ以上の説明はよさう。唯こゝに是非とも読者諸君と共に考へて置きたいことは、斯う云ふ事態の当然の結果として次の如き特異の現象が政党界に現はるるに至つたといふ点である。
(一)総裁専制の旧習が依然として保持さるること 元老の意を迎へることが政権に有りつくことの重要原因(この外に議会に多数を制するといふことも勿論必要だが、此方面のことは今は姑く別論としておく)だから、元老なるものが一体何を考へて居るか分らぬ限り、政党総裁は予め党内諸機関の拘束を受けてその出所進退に自由を欠いてはならぬ。殊に我国の元老は挙つてみな政界の大先輩を以て居り優に政党首領輩を指導し得るを自負して居るから、猶更ら首領自身が常に白紙で居ることを必要とする。是れ総裁専制の由て来る所、而して今なほその堅く維持されて居る所以である。党界の少壮政客が時々相結んで機関並に政策の公議公選を躍起となつて主張するに拘らず、いつもそれが泣寝入りに終るのは之が為めである。一人一党主義などいふ勝手な議論の許さるるのは、天下の取れる見込の絶対にない革新倶楽部などに於てのみ有り得る現象である。
(二)少数幹部団の専恣横暴 総裁は白紙で居なければならぬとして絶対に相談相手を作らないわけには行くまい。さればとて多勢の者に諮つて公然の拘束を受けてはならぬから、自然彼は内密の裡に極めて少数の幹部を自分の相談相手とする様になる。是れ我国の政党には表て向きの機関の外常に一種裏面の隠れたる幹部団ありて大なる実権を振ふ所以である。之がまた絶えず党界の平和を紊る種たることも周知の事実である。そが多くの場合政党の健全なる発達を歪曲することに役立つことも、亦言をまたずして明であらう。
(三)元老の意を迎ふに急なるの結果時勢に伴ふ必要なる施設の攻究を怠ること 時勢の要求に促されて或る問題が政党首領の頭に映じたとする。その場合彼の最も強く懸念する所は、之と国利民福との関係にあらずして之に対する元老の思惑如何である。少くとも彼の忖度する元老の思惑なるものが彼の態度を決する上に最も重要なる関係を有することだけは疑ない。而して多くの場合に於て、元老輩は之等の問題に就ては例外なく頑迷固陋の見を持することも亦事実である。最近我国の各種社会的施設がこの方面よりの直接間接の圧迫に依て如何に屡々阻止されたかは、既に普ねく人の知る所であらう。
(四)元老の周囲には常に一団の頑迷者流の群がるありて緊密に之を取巻いて居ること 元老は政界の枢機を握つて居る丈け、常に之に取り入らんとするものあり又平素その意を動かさんと努むるものもあつて、相当に人の出入の頻繁なるべきは想像に余りある。従て元老は自ら之に依て教育され内外政界の事情にも通ずる様になる。山県公などはこの点に於て中々聡明であつたと云はれて居る。但しその教育たるやもと/\彼に迎合するの目的を以て参ずる者より受くるのだから、到底所謂楯の半面を観るものに過ぎざるは云ふを待たぬ。だから彼等は悪く利口なブルジョアの馬鹿息子と同じく、変態的に発育して一寸始末におへぬのである。抽象的な議論として私は国家の元勲には本来相当の敬意を表するものであり、所謂元老に対しても何等個人的反感を有するものではないけれども、近代歴史の事実の上に、政界の実際家が彼等の意向に迎合せんが為めばかりで幾多必要なる施設の遠慮会釈もなく阻止されしの事実に鑑みては、心中時に大に憤慨の情を禁じ得ざることがある。
併し以上の如き形勢は大正の末期頃から少しく変つて来た。元老が内閣奏薦の実権を有すること、従て政党首領が彼の意を迎へんとするに汲々たることに変りはないが、その奏薦権の実行に当りて最近の元老は昔の様に気紛れの選択をやつたり出来心に動かさるるが如きことは無くなつた。一つには時勢進歩の当然の結果として元老の行動に対する民間の批評も露骨無遠慮になつて来た。元老も自ら漸く責任の重大なるを自覚せざるを得ない。斯くして元老は出来る丈け自家の行動を合理的な規道の上に置かんことを努める。換言すれば無茶苦茶な選択をしない様になる。是に於て後継内閣の選任に関しては漸を以て一定の法則が成立せんとするの傾向を生ずるのである。然らば如何なる法則かと云ふに、有力なる政党の統率者にして整然之を統制するの実力を有し優に時局を安定するの才能を有する者を推挙すること即ち是れだ。斯く云へば分り切つたことの様だけれども、私は特に、従来は元老と気脈を通じて居ると云ふ事実の上に党員を服せしめ得たのだけれども、今度は党員を服せしめ得るから元老の推挙にもあづかり得るのだという風に変つた点に、読者の注意を乞ひたいと思ふ。彼に在て政党首領は元老を笠に着て威力を党員に振ひ得たのであつたが、此に在ては自家の実力に依て元老に臨み併せてその容認を求むると云ふのである。元老の推挙を待て台閣に列すると云ふ形式は同一だが、内部の実質的関係に於ては既に主客の地位を顛倒したと謂てもいゝ。
さて斯うした時代になると、政党首領の最も意を用ふべき所は党内の統制である。うまく部内をまとめ一糸みだれず手足の如く之を率ゐて行けるか如何に依て、首領としての適否がきまる。従て亦首領として要求さるる資格にも、新に「内部統率の手腕」といふ一条が加はることになる。之が丁度最近我々の眼前に現はれて居る現象であると思ふ。
私の考では、政党首領の主たる仕事は或る意味に於て昔と今と著しく変つたと云へる。昔は元老の周囲をめぐり歩いてその了解を得ることが毎日の日計であつた。惰性として之が今日にも盛に行はれて居る様である。事実に於て斯はまた丸で必要のないことでもない。併し今日では之のみを主として居つては足許があぶなくなる。何よりも大事なことは内部の結束を鞏うすることである。迂つかりすると党内分裂の不祥事を見ぬとも限らず、勢力が二つに分れては何とあがいてもお鉢は決して自分に廻つては来ぬ。そこで今日の政党首領は、或は右に聞き或は左に諮つて衆の思ふ所を常に能く理解してゐなければならぬ。昔の様に元老の信任あるを楯として傲然王者の威容を示して党員に臨むわけには行かなくなつた。若槻にしろ浜口にしろさうであつたが、地位と経歴と更に亦一種の閥族的背景を担つて迎へられた田中政友会総裁にしてもが御多分に洩れぬではないか。彼が今日現に如何に内部の統制に齷齪して居るかを見ば、蓋し思ひ半に過ぐるものがあらう。
但し之を以て直に田中の力遠く原に及ばざるの証と為すものあらば大なる誤りである。原は成程田中より偉かつたかも知れない。併し原をして彼が如く威力を振はしめたものは一つは時勢の力である。彼はよく山県に取り入つた。西園寺とは固より友人の間柄と謂てもいゝ。之を後ろにかざして天下に号令するとき、党員の訳もなく服従するは怪むに足らぬ。不幸にして今日はそんなコケ威しの種になるものはなくなつた。西園寺に多少その魅力なしと云ひ得ぬも、今日の彼は内部統制の実力を明示せし者でなければ進んで後援を与へようとはせぬ。故にその後援を得んとせば先づ以て党員の心を得て来ねばならぬ。斯くして政党首領は元老の門に走る前に先づ自家の家子郎党の意を迎へねばならぬことになつた。従てまた一般党員も自ら首領を見る昔日の如くなるを得ないことになる。茲処から党員と首領との本当の有機的連絡が生れるのだと思ふけれども、従来の眼から見たらば首領の威望が著しく減退したのだとも見えよう。いづれにしても最近に至りて政党首領が、ひとり元老の周囲をのみ顧念するのではなく、又大に党内の空気を理解するに努める様になり、之に格別の注意を傾けずしては首領としての働きを完うし得ぬと云ふ風になつて来たのは、頗る注目すべさ現象だと考へる。
最後に私は以上の観察から来る当然の結論に読者の注意を喚起して本稿を結びたいと思ふ。政党が台閣に上りたる場合の功罪を論ずるに当り、従来は政党首領と共に彼をして或一定の方針を取らざるを得ざらしめた元老の一味の責任を論ずべきであつたが、今後は政党首領とその政策決定の実質的要素となつた党内部の責任が真剣に問はるることになる。別の言葉でいへば、善いにも悪いにも、政党は今日以後始めて実質的に政策決定の全責任を負ふ地位に立たされた。従来の如く元老並にその周囲の官僚閥族の直接間接の影響に圧さるることなく、真に独自自由の政策を行ふを得る地位に立たされたのだ。この新境地を彼等は果して如何に利用するであらうか。久しく闇に慣れた者は俄に光明に接して之に処するの途を知らざるが如く、依然として在来の旧套を追ふだけなら、我々国民は完全に政党政治家の将来に絶望するであらう。