国際会議に於ける形式上の成功と道徳的の成功



 昔の本でこんな事を読んだ。黒船からいろいろ面倒な問題を持ち込まれて困り切つた際、幕府方の外交事務を取扱つて居つたさる小役人が単身黒船に乗込み、無鉄砲な事を云つて、理が非でも自分の顔を立てて呉れなければ、君公に対して申訳が無いから君と差違へて死なうと、本気になつて剣を抜いた、相手方は吃驚(びっくり)して、遂に其男の無理を通したといふのである。理窟の如何を問はず、之れだけの決心があれば大方の無理も通せたに相違ない。支那の外交家が外交談判が紛糾して来ると、「理窟は先方にあるが、俗衆からの対外軟の非難を恐れて無理を通す必要に迫まられる事が稀でなかつた」、私かに金を遣つてボイコットを起させる、こんな手段で外交上の懸け引に有利な形勢を作らうといふやうな事は袁世凱の好んでやつた慣用手段であるが、之も亦幕末外交家のやり方と異曲同工と云つていゝ。外交談判に只形式上勝さへすればいゝといふのなら、こんな方法でも勝てぬ事は無い。
 子供の時大久保利通が支那に談判に往き、彼の国の容易に決せざるを見て憤然旗を巻いて帰り掛けたといふ話を聞いて非常に痛快に感じた事を覚えて居る。云ふ事を聞かないなら実力に愬へると啖呵を切るのは気持が好い。外交談判は押が強いに限る。こんな風に、外交を廃兵の押売り同様、目的を達しさへすればいゝといふ風に考ヘて居る人は今日でむ多いやうだ。フューメ問題で伊太利の首相が、旗を巻いてヴェルサイユ会議を見捨てた時など、吾々日本人は大いに痛快がつたものだ。之は啻に当時日本の山東問題について伊太利と同じ様な逆境に居つた許りではない。外交談判については此位の無理押しが必要だといふ考をかなり抱いて居るからであらう。
 併し此頃は人間も段々利巧になつた。殊に外交官などは西洋の儀礼に嫻(な)れて、子供らしい意地張りはやらないやうになつた。其代り彼等は昔の人が腕づくや意地張りで成功し得たものを、法律や条約の訓話解釈で得んと心掛けて居る。此事についてはかういふ内規があつたの、条約の解釈から行けばかういふ事になるのと、形式的の理窟で自家の言分を通さうとする。之れでも相当に目的を達する事が出来たに相違ないが、併し時勢は段々進んで、こんな事だけで国家の重きを世界に成す事は出来ないやうになつた。
 吾輩が屡々繰返して述べたやうに、今日は条約で何うなつて居るの、法律が何う定めて居るのといふ点に、それほど重きを置かない。法律や条約の定めが何うであらうが、事実何うする事が社会全体の平和と幸福との為めになるかを専ら考へる、従つて何事を主張するにも道徳的根拠より議論を立つべく、法律的根拠では甚だ重きを成さないのである。
 殊に今度の戦争に関聯する問題については、条約(殊に密約)の中には、苦しい時に不本意ながら作つたといふやうなものがある。例へて云ふなら、青島陥落後も日本をして依然戦争を継続せしめる為めに、将来斯く/\の報酬をするといふやうな類ひの事もあつたらう。併し今となつては斯くする事が果して全体の平和幸福の為めに善いか悪いか分らないといふやうな事もあらう。さればと云つて密約などは全然顧みてはいけないと云ふのではない。只何事を主張するについても、主張の根拠を条約等のみに置かず、更に斯くする事が世界の平和幸福の為めになるといふ実質的道義論にも置く事が必要である。此処まで行かなければ、吾々は国際会議に於いて堂々たる成功を収め得たと云ふ事は出来ないのである。
 従来の国際会議は、謂はゞ局部的の利害の調節を目的とするものであつた。甲の利己的要求と乙の利己的要求と、之を何う調節つけるかと云ふのだから、原被両告が法廷に争ふやうに、兎に角勝ちさへすればいゝ。併し今日の新しい時勢に於いては、世界の民衆はかかる浅薄な仕事を国際会議に期待して居ない。之に参列する政治家は何んな考で出て来るか知らないが、少くとも民衆は世界の平和幸福を実質的に進める為めの議論と協定とを期待して居る。而して此期待に背かない態度を一貫するのが即ち真の成功であつて、形の上で無理を通しただけでは、結局永く世界の民衆の道徳的支持を受くる事が出来ない。勝負を唯一の目標とする相撲でも、汚ない勝を仕続けると人気が無くなるやうに、吾々は国際談判に於いても形式上の成功許りでなく、道徳上に於いても立派な成功を占むるやうに心掛けねばならない。今度の会議でも、参列する諸国の代表者は流石に時勢の影響を受けて、それ/"\頭が変つて居るやうだ。併し政治家は兎角余りに現実に拘泥するの弊がある。直接の対手は是等の政治家だけれども、吾々は更に欧米諸国の民衆一般の要求といふものに通じて居なくてはならない。

      〔『中央公論』一九二一年九月〕