最近政変批判   『中央公論』一九二二年七月


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 本誌前号に掲げた僕の時論を読まれた読者に取つて、加藤内閣の出現は決して意外の出来事ではなかつた筈だと思ふ。加藤大将の内閣組織をば事前に予期しなかつたとしても、さていよ/\出来て見れば、成程斯うでもならなければ落ち付かなかつたのだらうと首肯かれるのである。現今の様な政情の下に於て、高橋内閣に嗣ぐに加藤内閣を以てせるは、極めて自然の成行なのである。
 併し自然の成行だと云ふことは、必しも之を是認する理由とはならない。万事を事勿れ主義で押し通さうと云ふ連中は、ヤレ/\と胸撫でおろして十二分の満足を感じたであらうが、少しでも社会国家の向上進歩を念とせる者に取つては、復かと呆れて政界の前途猶ほ遼遠たりの哀感を抱いたであらう。尤も加藤内閣の出現に接して失望せる者の随一に憲政会があるが、吾人は彼等と失望哀愁の動機を同うする者でないことは呉々も断つて置く。
 何故加藤内閣の出現に対して爾(しか)く悲観するか。僕等は必しも加藤内閣そのものを悪いとは思はない。此点に於て全然憲政会と立場を異にする。悲観の要点は、加藤内閣の出現を促した政界の空気そのものにある。僕は加藤内閣の出現は自然の成行だと云つたが、自然の成行だといふ事が即ち悲観の原因なのだ。そは最近政界の腐敗萎靡は万人周知の事実であり、誰しも局面の一大転回を希望し、此希望に促されて高橋内閣の瓦解を見たのに内閣の更迭といふ所謂局面の転回は在来の空気に其儘乗つて何等清新の気分を入れないからである。
 在来の政界の安定は、其の裏に必ず腐敗汚辱の種子を包蔵して居つた。此事は前号の本欄に可なり詳しく説いた。若し政界が少しでも国民の声に聴き又自ら其弊を継続するに堪へずと考ふるなら、此処に粛正の斧鉞を加へて一時政界の安定を失ふも決して辞すべきではない。而かも当今の政客は、一面天下の清議に応ずるが如き顔をしながら、政界安定の攪乱を恐るゝこと豺狼も啻(ただ)ならない。故に直接の責任者たる高橋内閣の瓦解は之を救はざりしも、後継内閣の詮議に対しては、現在政情の攪乱を促すが如き解決を避くべしとの主義で、終始一貫の大運動を試みたではないか。当今の政客の大半は斯う云ふ動機で動いて居り、斯うした気分に安心を与へるものとして加藤内閣が迎へられたとすれば、同内閣の出現は、誠に自然の成行であると同時に、僕等は当今の政界の未だ真に覚醒せざるを想ふて、こゝに深甚の失望を感ぜざるを得ないのである。
 但し加藤内閣が当今政客多数の俗望に応じて依然政界の積弊を坐視するか、又は独自の見識に立つて漸次革正の斧鉞を振ふかは、別問題である。故に前にも断つた通り、吾人は加藤内閣の出現を促した政界の空気は大に之を遺憾とするも、加藤内閣そのものに対してはまた別個の着眼点から批判すべきものと考へて居る。


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 加藤内閣の出現が自然の成行だといふ事は、政機運用の根本方針が内閣更迭に依て毫も変更されないといふを意味する。而して根本方針の不変は、政機運用に伴ふ腐敗的慣用手段の承認を意味するが故に、政界に対する国民良心の不平不満は、這の折角の政変に依て少しも癒されない。斯くして民衆の良心が政治から段々と遠退いて行くのは、真に憂ふべきことである。
 併し考へて見ると吾々が政治を商売にして居る人に依て政界の革命的変動を期待したのは一体大きな間違であつた。軍人に軍備縮少の実行を托し、資本家に共産主義の実現を托するのと同じく、全然出来ぬことはないとしても、こは非常に困難な仕事だ。何故なれば、彼等は僕達の廃めやうとして居る事そのものに倚つて自分の生活を営んで居るものだからである。国家の為にはどんな犠牲をも辞せないなどゝは云ふものゝ、衣食の道を奪はるゝ段になると、誰しも口実を色々に考へて極力反対するものだ。是れ実際問題として社会問題解決の困難なる所以、又軍縮問題の解決の困難なる所以である。況んや政界革正の問題になると、当の相手は政権を擁するを常とし、従つて之と抗争するは更に一段の困難を加ふるものあるに於てをや。
 夫れでも政界の悪気流は之を革正しなければならぬ。而して実際問題として此の革正を実現せしめ得べき力は民衆の公議輿論の外にはない。是れ職業的政客に対する民衆的監督の必要なる所以で、近代立憲政治の道徳的根柢も亦畢竟克はこゝにある。然るに不幸にして我国ではこの民衆的監督の実がちつとも挙つて居ない。憲政逆転なる言葉が示す通り、民衆が政客を監督するに非ず、政客が民衆を左右すると言ふ変態に在るのだから、所謂民衆の参政権はほんの形式に止まり、政界の実権は例に依つて例の如く、上下両院に各若干の分野を占むる政客と所謂元老官僚軍閥の一団との間に潜在して居る。されば内閣組織の如きも、之等の政客の多数の容認を得さへすれば成立するので、民間の輿望の如きは頭から問ふ所でない。果して然らば、今日の政界に向つて政界其者の革正を期待するは、資本家に向つて社会問題の根本的解決を乞ふと斉しく、殆んど木に縁て魚を求むるの類ではあるまいか。
 夫れでも猶ほ政界の悪気流は何とか之を始末せねばならぬのだ。真に之を始末し得べき筈の民衆のカが未だ政界の最高権威たるべく組織立てられて居ないとすれば、そこで已むを得ず一時の権宜として所謂以毒制毒の手段に出づるの外はないことになる。此意味に於て僕等は当時ひそかに憲政会をして後継内閣組織の任に当らせたいと希望したのであつた。そは憲政会に積極的の善事を望む可らずとするも、之に依て少くとも政友会の在来のやり方を停止し、其積弊に世人を反省せしむる丈の消極的の効能はあつたらうと考へたからである。
 而して吾人が此際憲政会にやらしたいと冀ひし点が恰度多数政客の憲政会を起用すべからずとする理由なのである。憲政会を挙用する事に依て政局転回の端緒たらしめんと喜ぶ点が、即ち政界安定を冀ふ者の極度に忌嫌する所なのである。所謂政界自然の成行を吾人が大に遺憾とする点は実にこゝに在るのである。
 なほ重ねて断つて置くが、僕が憲政会にやらしたかつたといふのは、憲政会の組織すべき内閣は必ず加藤現内閣よりも優れて居るといふを意味するのではない。両方を比較して孰れが良いかは別の問題だ。只政界の空気を一新するといふ根本的急務から観て、憲政会を挙用したかつたと云ふまでゞある。


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 憲政会を立つべきだといふ主張の中に、憲政常道論といふがある。同じく憲政会挙用論でも、此の立場と僕の立場とは全く相異ることを注意して置きたい。
 憲政の要義は、民衆を基礎として政治すべしと云ふに在る。民衆の意思の政治的方面を代表するものは政党だ、従て憲政は政党政治でなければならぬ。故に一政党が失脚したとすれば他政党が之に代るのが憲政の常道である。この議論は形式上正しい。故に表面の観察に従へば、政友会内閣に嗣ぐものは憲政会たるべきに疑がない筈だ。加藤新内閣の如きを出現せしめたのは、正に憲政の逆転と謂はなければならぬ道理である。
 併しこの立場を僕は取らぬのである。僕が憲政会を起たしめたかつたと云ふのは単に彼が前内閣の政敵であるからである。毒を以て毒を制するといふ意味で、暫く積弊一掃の前駆をなさしめんといふに過ぎず、彼に内閣組織の道徳的な又積極的な地位を承認するからでは決してない。僕は平素所謂憲政常道論を鬼面人を欺くの甚しきものと考へて居る。
 牛乳は健康にいゝからとて、牛乳のレッテルを貼つた白い液体はすべて飲んで宜いとは限らない。世の中には奸商が多い。責任を以て人にすゝめ世に強ゐるといふには、十分に内容を吟味してかゝらねばならぬ。今日の政界には所謂奸商の類は余りに多いのだ。民衆の無智に乗じて不正の投票を集め、民衆の良心と其の自由の判断とに何等の実質的連絡なき代議士輩を集めて之に政党のレッテルを貼つて居る。抑も政党内閣の憲政の通義たるを得る所以の道徳的根底は、其が民衆の良心の自由無碍の発露たるに在る。形の上で民衆の代表だといふ丈では、白色の液体を人に飲めとすゝめ難きと同じく、憚る所なく之を政界に推奨する訳には行かぬ。僕は元来憲政常道論の熱心な信者であるが、之を実際に適用すべく今日の日本には未だ実質的関係が出来て居ないと考へる。憲政常道論を大事に思ふだけ其の贋物の押売りには絶対に反対しなければならぬと思ふのである。
 政党は民衆の良心を反映すべきものである。民衆の良心を反映する政客の集団を政党と謂ふので、政党と称するものは必ず民衆の良心を反映して居るものと速断してはならない。この厳格な意味に於て、我国には今日のところ本当に政党と認むべきものは一つもないと思ふ。自ら政党と僭称するものはある。併し実質に於て彼等は民衆の良心に超絶して居るのである。故に若し加藤現内閣を民衆と実質的交渉なきの故を以て超然内閣と云ふなら、先きの政友会内閣だつて同じく超然内閣だ。民衆の良心が実質的に政界の権威たらしめられて居ない我国に於て、前述の意味に於ける超然内閣の否定は問題にならぬと思ふのである。
 或人は曰ふ。加藤内閣の出現を憲政の常道の為めに悲しむと。併し今日政界の実状は憲政の常道が踏みにじられて居るのではなくして、憲政の常道がてんで出来て居ないのだ。悲しむべきは寧ろ憲政常道の開拓を妨げて居る政界悪気流の跋扈でなければならぬ。此点に於ては政友憲政両つながら責任を免るゝことは出来ない筈と考へる。
 以上述ぶる所でも、民衆の良心を政界現実の権威たらしめ、所謂憲政の常道を憚る所なく適用せしめ得る様な空気を作ることが当今第一の急務である趣旨は、明白であらう。吾人は従来此の立場に於て政界の批判を試みて来た。今後もまたこの立場を以て一貫するであらう。此点は重ねて読者の了解を得て置きたい。
 併し一歩退いて現在の様な政情を既定の事実と許して、さて其の基礎の上に如何なる方法が内閣組織に際して省慮せられねばならぬかを考ふるに、矢張り上下両院の各種政団に専ら意を注ぐべきだと謂はねばならぬ。之等各般の勢力にも何等の連絡交渉なき絶対的超然内閣は、如何なる理由の下に於ても避くべきであらう。若し現在の政界に於て超然内閣を否認するの説を相当理由ありと云ふ者あらば、そは右の意味に之を解さなければならぬ。民衆の意思に対する超然の意味ならば、今日のところ所謂政党内閣だとて矢張り超然内閣の実質を具ふるからである。而して又若し超然内閣を僕の用ふる意義に解すれば、加藤新内閣は決して超然内閣ではない。形の上では上院政団の多数に根柢を有し、実に於ては研究会政友会の聯立だとさへ謂はれて居る。故に加藤内閣は、現今の政情の下に於ては矢張り其の存立の合理的根拠を有するものと謂ふことが出来る。
 加藤内閣は此際我々国民の有ち得べき最良の内閣なりや否やは問題である。が、之に憲政常道論を楯に根本的否認の鋒先を向けるは当らない。殊に超然内閣たるの理由を以て之を拒むは丸で見当違ひだ。去ればと云つて、僕は超然内閣論を賛成したり、憲政常道論を罵倒したりする積りはない。只之等の論点に依て加藤内閣を難じ得ない様な我国現時の変態的政情を太(はなは)だ遺憾に思ふのである。人は曰ふ。加藤内閣は変態内閣だと。焉んぞ知らん。変態なのは内閣に非ずして政界そのものたることを。我々は読者諸君と共に深くこの点に思を廻らすことを必要と考へる。

                        『中央公論』一九二二年七月