西園寺公の元老無用論  『中央公論』一九二六年九月

 御下問奉答機関に関する西国寺公の意見 八月上旬の某新聞は報じて曰ふ、四月半ばから百日あまり滞京した西園寺公は、其間数回牧野内大臣、一木宮内大臣と会談し、政変時に於ける後継内閣奏薦の問題につき次の様な意見を述べたと。

 一、従来元老に御下問を賜はるの例になつて居るが、之は本来は内大臣が御下問を蒙つて奉答すべき筈のものである。
  二、従来の慣例を尊重せんと欲する者は、自分の外に山本伯とか清浦子とかを新に准元老に奏薦し、以て御下問奉答の重責に当らしめよと説くが、自分は其の必要を認めない。
  三、御下問範囲を拡張し、内大臣、宮内大臣、枢密院議長、貴衆両院議長を加へんとの説もあるが、之もその必要を見ない。
  四、たゞ御下問奉答の結果の重大なるに鑑み、之を一内大臣の全責任に帰するの穏当ならざるを憂ふる者あらんも、政党の発達も段々健全になり、超然内閣の出現を必要とする理由も薄らいだ今日、内閣組織の推移は今後自ち帰着する所ありて、所謂御下問の奉答も形式にとゞまり、恐らく其の実質に触るることはなくなるだらう。然らば内大臣の責任として置いても十分であらう。
  五、自分は従来右の如く信じて居たから、加藤高明内閣の出来る時も、御下問に対しては平田内大臣に御下問あらせられたいと申上げ、第二次加藤内閣及若槻内閣の成立の場合にも、大体同様の態度を執つた。今日は最早元老が内閣組織の実質に干渉すべき時節ではない。内大臣が自ら理の帰着する所を稽(かんが)へて決定するに面倒はなく、又さうすることに格別の故障もない筈である。

 西園寺公の談として新聞に出たものは必しも右様の文字にはなつてゐない。分り易からしめんが為に私の言葉に直したのだが、意味は毫末も違はぬ積りだ。而してこの西園寺公の言明なり態度なりは、我国の政界に取て頗る重大の意義あるものなるは言ふを待たない。
 人或は曰ふ、一人の元老が御下問に奉答するも一人の内大臣が之に代るも同じ事ではないかと。然らず。抑も誰が内閣を作るかといふが如き重大の責任は、到底尋常人の負ひ切れる所ではない。そこで(一)今新に之を内大臣一人の責務にするといへば、そは這(こ)の重大な責任を此の一人に負はさうとの意味と観べきではなく、必ずや今後は内閣組織の事をば或特定の慣行又は原則に拠らしめよう、実質的に或る個人の責任にしないといふ趣意だと解さねばならぬ。詳しく云へば、政界には政党内閣主義といふ原則並に慣行がある。従来之は日本憲法の精神に反すなどと反対されて居つた。それでも大勢は漸次之を認めざる可らざるものたらしめて居る。強て之を排斥せんとするとき則ち政界は紛擾するを常とする。そこで寧ろ之を認むるに若かずと西園寺公は認められたのであらう。之を認むるとすれば、事に面倒はない。形式上内大臣が奉答の任に当るとしても一向差支ない。況んや内大臣は制度上掌侍輔弼(ほひつ)の重任に在る者なるに於てをや。之に反して(二)内大臣を差措き元老をして御下問奉答の重責に当らしめた従来慣行の由来をたづぬるに、そは実に政界通行の原則並に慣行に反し、所謂政党内閣主義の確立を阻止せんとの目的に出でたものである。即ち之を日本憲法の精神に悖(もと)ると為し、所謂大権内閣主義を何処までも押し通さうとなら、内大臣の外にもツと権威のある特別の奉答機関は是非とも必要といふことになる。西園寺公一人で威望に足らぬ所あるなら、外にも二三之をこさえて兼ねて又その後継に備へておくも可(よ)い。若し夫れ彼れ程の威望ある人物が外にないといふなら、内大臣、宮相、枢相に両院議長を加へた堂々たる一団を作るの外に妙案はないのかも知れない。所が西園寺公は一切之を必要とせぬといふ。山県松方を経て彼に渡されたこの重任を、こゝで此儘消滅さして仕舞はうといふのである。茲に私は重大なる意義を考ふるの必要があると思ふのである。
 成る程西園寺公は法律に依て設けられたる何等の官職に居るのではない。併し乍ら何人が内閣に据(すわ)るかの天下の大事が実に彼の方寸に依て決するのだとすれば、国政に関する彼の素論が如何に重大なる意義を有するかは、問はずして明であらう。而して今や彼は内閣組織の重大問題に関し、多年通用せる原則を一擲し、事実に於て別に新らしい一原則を宣明したのである。それは外でもない、政党内閣主義の推奨即ち是れ。加之之に附随の結果として来る元老又は少数貴族政治の凋落といふことも亦見逃すことの出来ぬ現象である。
 以上の点を政界門外の士に能く理解して貰ふ為めに、私は次に少しくこの事に関する沿革をも述べておきたいと思ふ。
 政変の際に於ける後継内閣の決定 一体政変の結果今までの内閣が総辞職をした時、次の内閣はどんなにして生れて来るものか。例へば若槻内閣が総辞職をする。その場合後継内閣は如何にしてきまるのか。若槻が退けば、憲政会に次ぐ大政党たる政友会の田中総裁が之に代るべきだとか、又は政友会と政友本党とを左右両翼に率ゐて下院の過半数を制し得べき人物が仮りにあつたとすれば、其の人にやらせるも面白いといふのは、皆是れ民間の下馬評に過ぎず、その評判が如何に盛であつても、之れで後継内閣がきまるのではない。下院の形勢に基き、その多数を制し得べき者がお召に預つて、陛下より新内閣組織の大命を賜るといふ慣例は、まだ定まつてゐないからである。尤も段々斯ういふ傾向になりつ、あることは明白だ。併し之が一個の政治的慣例と認められるには、今後なほ数回之が繰返されることを必要とするだらう。今日の所はまだ、何人に組織の内命が降るやは、いよいよ其時になつて見なければ分らぬといふ状態である。
 陛下が全然御自分の発意に基き何某に組閣の大命を賜るといふ場合は問題がない。併し今日までの例に依ると、斯の場合陛下は必ず何人かに御下問になるのである。決して独断で御決定をなし給はぬ。そこで何人かに御下問になるといふことだけは、既に不動の慣行になつたと謂ていゝ。然らば何人に御下問になるか。この点になると、昔と今と慣行が変つて来て居るやうだ。即ち昔は、辞職する所の首相が後任者を奏薦するの例であつたのに、最近は、元老と称する一団の勲臣が相談の上で意見を上(たてまつ)ることになつたのである。尤も昔でも、特別の場合に元勲会議で相談したこともないではない。併し概して前任者が後任者をきめて退くのを常としたが、其後政党内閣が現れる様になつてからは、この例は守られなくなつた。現に大隈内閣辞職の時、首相はその後継者を奏薦したけれども、御聴容を得なかつたと伝へられて居る。斯くして最近は、後継内閣の決定に関しては、前任首相は全然之に与らず、御下問を受くるものは徹頭徹尾元老の一団のみといふことになつた。従てまた元老とは、その本来の意味を離れて、今では首相奏薦権を有するものといふことになつたやうでもある。山本伯や清浦子を元老又は准元老にするのしないのといふは、畢竟右の義に解して始めて意味を為す問題である。而して此意味に於て今日元老といへば、実に西園寺公一人となつたことも亦申すまでもない。
 元老奏薦権の政治的意義 もと前任者が奏薦したものを何故元老の手に奪ふことにしたか。之が全く政治上の理由に出づるものなるは前述ぶる所でも明であらう。憲法創定の当初から、政党を以て国家の公敵となし、自ら皇室の藩屏を以て任じた官僚の一団が、大事な内閣組織の実権を、生命に換えても自家の掌中に独占せんとせるは怪しむに足らぬ。故に一の内閣が行詰ると、自派の他の者をして代て内閣を作らしめて来た当初の十数年間は、前任者が奏薦するの例で一向差支がなかつたのである。所が政党の異常な発達は、やがてその政権慾を無下に斥(しりぞ)け得ぬ形勢を馴致(じゆんち)する。時にはその内閣組織をも認めてやらぬ訳には行かぬ。そこで一度位は内閣を作らしてやるといふことになるが、併し其の次ぎの内閣を誰にやらせるかをまで、彼等に容喙される様になつては困る。そこから元老といふものが出て来て、段々重大な政治的意義を帯ぶる様になるのである。而して内閣組織に関する元老の実権が、山県公に於て最も花々しき活躍を見たことは、既に読者の知らるる所であらう。
 して見れば、前首相の奏薦が元老の奏薦と変つたのは、実際政界の形勢の変化に伴ふものであつて、之に依て達せんとする根本目的に至ては、前後を通じて異る所あるのではない。即ち政界に於ける最終の発言権を先輩官僚の間に独占し、断じて之を政党者流に許さざらんとするに在るのである。而して之を粉飾する為には、大権の擁護だの、非国家思想の排斥だのと、尤もらしい議論も唱へられるのだが、虚心平気に其実際政界に現はれる結果を観れば、そは明白に貴族政治の擁護であり、又従て民衆政治の抑庄であつた。何となれば、(一)政党は如何に政党としての本来の任務を尽しても、之に由て必ず内閣に立てると限らず、内閣に立て天下に経綸を行はんと欲せば、先づ奏薦権を有する元老の機嫌を取らねばならず、斯くして元老といふ二三者の一団が不当に広大な威権を有することになるのが一つ、(二)更にモ一つは、その為め政党は元老二三者の意を迎ふるに忙殺され、真に輿論の大勢に従て方針を決定するに勇なるを得ず、其結果彼は民衆に聴くよりも、寧ろ民衆を籠絡して自家の非合理的行動に盲従せしむるの策に出でざるを得なくなるからである。是れ進歩せる政界論客が多年口を揃(そろ)へて元老の攻撃に熱中せし所以ではないか。元老其人に甚しき過誤なしとしても、単に其の存在だけで政界の進歩が斯くも妨げられるを思ふと、元老制度の将来は事実上決して小さい問題ではない。
 元老としての西国寺公の立場並に其意見 今日は元老といへば最早西園寺公一人のみとなつた。今にも政変が起れば、西園寺公一人の方寸で政権の帰着がきまるのである。そこで政界の有象無象は、所謂西園寺詣に浮身をやつして、平常から彼の機嫌を取らんとする。併し時勢は段々変つて来た。天下はいつまでも元老だからと云つて一々其の指図に盲従しようとはせぬ。幸にして西園寺公は、今日までの所あまり無理な処置はしてゐないので、民間の評判も悪くない。彼がもと政友会の総裁であり乍ら、最近その内密の運動を斥けて、公平な態度を一貫した点などは、寧ろ賞讃に値する。彼にして若し屡々山県公の如く無理な横車を推さん乎(か)、恐らく彼は今まで通りの信望を保ち続け得なかつたらう。斯くして彼の公平は、今猶ほ元老の威望を内外に重からしめて居るけれども、それでも彼れはこの重き責任を一人で負ふことを昨今余程堪へ難しと感じて居るらしい。孰れにしても、彼が今日までこの重要な地位を大体国家の利益と抵触せぬ様に善用して来たことは、何人も認める所であるやうだ。
 併し今日の西園寺公の立場として最も重大な問題は、此地位を如何に運用すべきかでなくして、寧ろこの制度を将来に継続すべきか如何の点であらう。元老は彼れ一人となつた。且彼は高齢である。そこで若し元老といふ制度を国家に必要なるものと考ふるなら、彼は一日も早く之を受け継ぐべきものを新に作つておくべき義務がある。それを彼は作らないのである。尤も作らうにも人がないぢやないかといふ者もある。所謂元老としてあれ丈の権力を振つても世間に文句を云はせないといふには、尋常一様の人間を持つて往つたのでは駄目だ。故に人物の有無といふ点からいへば、嫌でも応でも西園寺公を以て終りとせねばならぬのかも知れない。併し人物がないといふ丈の理由なら、元老を作らなくても、他に之に代る機関は如何様にも工夫され得ると考へる。現に内大臣以下貴衆両院議長を以て特別機関を作れといふ説もあるではないか。それをも作らないとすれば、西園寺公の腹中には、疾(と)くに元老なる制度を不必要とする確信が出来たものと観なければならぬ。不必要と信ぜざる限り、ともかくも重大なる此地位を彼れ一人で終らす筈はないからである。故に公の這回の言明なり態度なりは、はツきりと口にこそ出さゞれ、最も雄弁に、自ら元老無用論を唱へられたものと観ることが出来る。
 西園寺公のやうな地位に在る人は、一体に腹に思ふことを其儘露骨に口には出さぬものらしい。それでも彼は現に、「元老の存在も必要でなくなつた」と云ひ切つて居る。新聞伝ふる所により、彼の思想の筋道を辿ると斯うなる。

 一、御下問奉答機関としての元老は、超然内閣の出現を余儀なからしめた時代の必要に応ずるものであつた。
 二、政変の推移は本来自然にして円滑に運ぶを要し、政権の帰着は自ら政局を安定せしむるものでなくてはならぬ。而して政党が健全に発達して居れば、政党をして政権を争はしめて此目的は十分に達せられる。
 三、然るに従来不幸にして政党は十分健全に発達して居なかつた。為に政党内閣の成立が却て政局を不安定ならしめると観るべき場合も随分多かつた。そこで已むなく超然内閣の出現を必要としたのである。従て元老の存在も過去に在ては決して無意義ではなかつたのである。
 四、今日は如何といふに、まだ政党の発達十分満足なりと謂ふことは出来ぬが、併し之を助長声援することに依て益々その健全なる発達を促し得べき程度には達して得る。

 斯くて公は、現在政界の批判に於て又近き将来に於ける其発達傾向の観測に於て、まがう方なき政党内閣論者なることは明白である。日本国民全般の政治思想の発達の上に、固より公一人の態度如何は何の係はりもないことだが、政局の実際的推移の点からいへば、之は決して小さい問題ではない。現実政局の変遷に関心する者に取り、大に注意を要する問題として、特に一言を費す所以である。

 追記 以上の小篇を草し終つた後、八月十三日の東京日日新聞を見ると、次の様な記事が載つて居つた。曰く、

内閣並に宮内省が上奏して御裁可を仰ぐ各般の事項に就ては、従来その都度直接又は侍従等から内容を御説明申し上げてゐたが、今回宮内省側の意向として、内大臣秘書官長をして上奏事項説明の任に当らしむるの新慣例を開くことに決定し、近く其旨を正式に内閣に交渉するこどになつて居る云々と。此事果して真か。後報を待て確むるの外ないが、事実とすれば、前記西園寺公の意見なるものと、何等かの関係がないともいへぬ。而して私共の考としては、(一)西園寺公の元老無用論は、内大臣をして之に代らしむるの意ではあるまじく、(二)従つて内大臣府に事実上国務輔弼の任を集中するの必要はなく、(三)この報道の伝ふる如く、内大臣秘書官長をして右等重要の職に当らしむるときは、国務大臣の輔弼はどうなるのか分らなくなり、(四)殊に国務大臣の輔弼と内大臣の掌侍輔弼との関係は甚だ明瞭を欠くことになると思ふ。元老を無用とすれば、内大臣といふものの重要さが鮮かになるが、併し国務の実質にまで彼に関係させるといふ性質のものではあるまい。此点制度の形式に於ても又政治の実際に取つても極めて重大の関係がある。後報を待て更に評論を試みたいと思ふ。