満洲動乱対策




 満蒙問題に関する積極論と自重論 張作霖軍が段々郭松齢軍に圧迫せらるゝに伴れて、我国に積極的対策を講ずべしとの説が起つて居る。最先に此説を唱へたものに流石は軍閥出身の田中政友会総裁あり、貴族院の一角にも之に応ずるものがボツ/\見へる。之は一部の実業家に動かされたものだなどと誣うる者もあるやうだが必しもさうではあるまい。枢密院辺にも政府の態度に不安を懐くものありと云ふから、老先輩の中には今なほ帝国主義的国力発展の甘夢に耽つて昨今の形勢を黙過す可らずと憤慨する者が多いのであらう。孰れにしても之等の所謂積極派は政府の態度を以て手緩しとせめて居る。而して政府側はまた頻りに之等の議論を排して増兵不必要を宣伝してやまない。尤も政府では絶対に出兵しないと云ふのではないようだ。満洲が本当に無政府的混乱状態に陥らんとしたら遅滞なく出兵するとは云つて居る。今の所急いで出兵するは啻に其の必要を見ざるのみならず却て無用の誤解を招くの恐があるとて、政友会辺の要求には耳を傾けんとしない。即ち満蒙対策には斯くて積極論と自重論と二種あるわけである。
 二種の対策ある所以 之が数年前の出来事であつたら、丁度いゝ機会だと出兵論を主張する者が吃度あつたに相違ない。又之が相当に聴かれて或る程度に実現しないとも限らない。併し今日は斯んな侵略的思想(仮令如何に柔和な衣を被つて居るのでも)は流石に跡をひそめてしまつた。偶々あつても識者は誰も之を顧みないだらう。さうすると今次の積極論は斯うした侵略的動機に出づるものでないことは明である。そんなら政府が責任を以て大丈夫だと保証するをも顧みず無理にも出兵させようとするのは一体何ういふわけか。是れ云はずと知れた張作霖援助の為めである。表面は何とごまかさうと、本当の腹は張作霖を没落さしたくないのであらう。而して昨今張の旗色が甚だ悪いので彼等は居ても立つても居れないらしい。かうした事情の外に即時出兵論の根拠となるべき動機は外に一つもあり得ない。
 然らば何故斯くまでに張作霖は助けてやらねばならぬのか。大急ぎで奉天から帰つて来て要路の軍部当局にしきりと出兵を促して居る張君の顧問松井少将のやうな人なら、人情として自ら張君を保護したいと思ふのは怪むに足らぬ。我国の朝野に之と同じ様な情誼を張君に対して有つ者の尠くないことは私も認める。之が即時出兵論の一原因たることは疑ないが之を唯一の動機と考ふるのは誤である。張君に対して松井少将と同じ様な情誼を有すると否とに拘らず、彼を没落さしたくないと云ふ所以は、実は我国の満蒙に於て有する所謂特殊利益の中には、張君の存在と不可離の関係にあるものが多いからである。詳しく云へば、所謂特殊利益といふ中には、条約に基いて有するもの(その何であるかは一々之を説かない)と其外張作霖の明示又は黙認に依て現に我国に許されて居るものとの二つがある。条約に拠つて有するものは、張であらうが郭であらうが、濫りに之を侵すことも出来まいし又侵させもすまい。従て之れ丈の擁護の為なら何も急いで出兵するの必要なきは勿論だ。只張君あるに依て始めて存する所の利益に至ては、張君なき後も依然之を主張し得るや否や明でない。故に之をも擁護せんとならばどうしても張君を没落させぬ様に骨折らねばならぬ。それには早く出兵して郭軍の進路を阻むに限る。之が実に即時出兵論の本当の根拠ではあるまいか。出兵論者が他方に於て特殊利益の解釈を政府者と異にするなどと云ふのは、暗にこの点を念頭に浮べての論であらう。
 張郭争覇の運命 我が日本に取て、若し今次の動乱に張君に十分の勝味があるといふなら問題はない。それでも従来の様な結托を張君との間に続けるのは帝国百年の大計として得策か否かの問題は残るが、そは他日の論究に残していゝ。兎に角張君に勝味があれば差当り出兵是非の論は起らずに済む。尤も松井少将とやらのやうに、どうせ張は倒れぬから早く出兵して彼の歓心を買つて置けといふ説も一応の理窟はあるが、併し勝つにきまつてるのなら出兵しない方が得策であらう。負けられては大変だからこそ、金のかゝるも厭はず諸外国の猜疑を招くも構はず、出兵せずには居られまいといふのである。そこで問題解決の当面の鍵は両者争覇戦の勝敗の予測如何といふに在るのだが、私の観測にては、残念ながら張君に勝味は薄い様に思はるゝ。其の故は必しも郭君が赤露から多くの金品の供給を仰いで居るからといふのではない。天下の人心が全然張君から離れて居るの事実に由て斯く観察するのである。蓋し支那の戦争に於て人心の向背が如何に重きを為すかは、多言を要せずして明白だからである。
 支那の戦争に在ては、武器弾薬の供給は本来極めて限られてある。之は多く外国の供給に仰ぐのだが、今次の戦争に於て日本が積極的に張君を援けずとすれば、敵味方とも武器弾薬に困るは知れ切つて居る。赤露が後方より郭軍を助けるといふても高が知れて居る。加ふるに天津附近やら河南山東のあたりでも戦はれて居るからつまり戦争の範囲は極めて広い。されば之等の各方面に普ねく供給の行届く筈もないから、結局勝敗は例に依て宣伝の巧拙に依て定まると観なければなるまい。人は宣伝戦などと如何にも不真面目のやうに笑ふが、之は本来決して不真面目でないのだ。或る意味に於ては、輿論が戦争の解決をつけるものと観ることも出来るので、我々は兼々之を甚だ面白い現象と考へて居るのである。
 何れにしても私は、残念だが張君の勝味が薄いと考へて居る。張君が多年国民の怨府となつて居たことは前にも述べた。其の為めか青年有識の士にして郭軍側に投じて居るもの頗る多いと聞いて居る。私はよく我国の労働争議で経験するのであるが、幾ら痛切な生活苦に促されて起つた労働者でも、自分達だけの力ではなか/\永い争闘に怯え切れない。彼等にはどうしても外部からの激励が要る(この点に於て労働争議に第三者の応援を非とするの論の、如何に事情に通ぜず又労働者に同情なきものなるかを、序ながら一言しておく。労働争議に第三者の応援を禁ずるは、瀕死の病人から気付薬を奪ふの残刻にひとしい)。是れ争議に際して総同盟辺の特志家が迎えられる所以であらう。彼等の来援が夜となく昼となく演説会でも開いて激励してくれるので、労働者も永く生気を持ち続け争議の陣容を崩さずに行けるのである。之と同じやうな現象は今次の戦争にもあるのではあるまいか。確実なる情報に接して居ないから能く分らぬが、私にはどうもさう信ぜられてならない。又さう信ずるに全然根拠もないのではない。                           L
 私はこの数年来反張作霖宣伝の目的を以て満洲方面に入り込んだ多くの青年志士を知つて居る。而して之等の連中は今日必ずや郭軍のうちに投じて頻りと士気の作興につとめて居るに違ひないと思ふ。さう云ふ所から私は張軍と郭軍とでは丸で意気込が違ふのではあるまいかと考へる。是れ私は郭軍の方に已に八分の勝味あるを推測する所以である。よしんば一時張軍が勝利を占むることありとしても、既に軽重を問はれた鼎の何時まで安定を続け得るやは頗る疑問とせられねばならぬ。斯くて私は、我国の方針としては、之を好むと好まざるとに拘らず、早晩張作霖は没落するものと決めて計画を立てねばなるまいと考へるのである。
 張作霖没落の結果 張作霖が没落したとて我国は更に痛痒を感じないといふ人がある。不正のばれた会計掛りの免職を前にして、誰が会計官になつたつて同じだと痩我慢の御用商人は云ふ。当局者などにしても斯う云ふの外はないだらう。併し事実の問題として、張の没落は我国官民の満蒙に於ける種々の施設に対して一大打撃たることは隠すことが出来ぬ。尤も張に依て得たものを新に郭に求めて得られないことはないかも知れぬ。併し必ず得られると限らないのみならず、之を得るには従来にも増した困難が伴ふことは間違ない。殊に従来満洲に利権を得て居つた民間の企業家に取つては、張君の没落は実に致命的打撃でなければならぬ。詳しいことは説かぬが、この事は誰が何と弁明しやうと疑のない事実である。
 張作霖援助論 張作霖没落の結果がそれ程大きいとすれば、之を援助して是非とも其の没落を防いでやるのが当然でないかと云ふ議論が起る。田中政友会総裁をはじめ一部の政客間に積極論の起るのは怪むに足らないのである。我々は之等の説の真に愛国の赤誠に出づるを決して疑はない。ただ遠大の国策として果してそが得策なりや否やは、別に慎重に考へなくてはならぬと思ふ。
 出兵援助にきめるに先ち第一に考へなくてはならぬことは、我々は結局張作霖を助け了うせるか否かの点である。大廈の覆へるは一木の能く支ふる所に非ず、大勢に抗して無駄骨を折つた例は、我国最近の外交に余りに多い。段祺瑞を助けて南方の革命派を圧倒せんとした企ての失敗は、西原借款の不始末を通して今度の議会に問題にならんとして居る(此事は項をあらためて説く)。西伯利亜の天地に赤化緩衝地帯を設定せんとした所謂白軍援助の無謀な計画に如何に巨額の国帑を徒費したかも吾人の記憶にあざやかである。而して結局馬鹿を見たのは我が日本のみでないか。張作霖を助くるも、助け了うらせるものならまだいゝ。たゞそれには隣国昨今の大勢と彼の存立との関係を篤と調査した上のことにして貰ひたい。川島浪速氏が十年一日の如く清朝の遺孤を面倒見るのは、内外に誇るに足る美談だと信ずるが、仮りに若し之を国家の仕事としやうと云ふものあらば、私は大反対だ。張作霖援助論者も真に情誼を張君に感ずるなら少しは川島氏をまねてはどうか。
 次にも一つ考へて貰ひたいのは、張に依て得て居つた特殊利益の道徳的根拠如何といふ点である。私の聞く所にして誤らずんば、中には公然と事実を表明するに堪へぬものもあるとやら。斯の如きをその儘将来に維持せんとするは、之を望む方が無理ではないか。若しそれがすべて何人に対しても公然要求し得る底のものなら、郭君に求めて亦之を得られない道理はない。従て張君の没落を致命的打撃だと考へねばならぬのは、取りも直さず従来の利権の根拠が正しくなかつたことを自白するものである。若し本当にさういふものが多いと云ふのなら、満洲に於ける我国の地位は、最近我国が支那官民に示して居る公平誠実の好意的立場と根本的に相容れざるものと謂はねばならぬ。果してさうなら、之は早晩改善せらるゝを要するのだ。斯くして実は我国は最近対満政策の上に一大転回を試みねばならぬ時運に際会して居つたのである。故を以て此際動乱の勃発に慌てて俄に張君援助の挙に出づるが如きは、国策の上かち云つても折角針路を定めた大勢に又々逆転を余儀なくさせるものと謂はねばならぬのである。
 出兵と援張 尤も出兵は常に必ず張作霖援助を意味するとは限らない。戦局の発展如何に依ては純(もっぱ)ら帝国の利益擁護の為に出兵を必要とするに至るかも知れぬ。それが張の便宜になるか否かに顧慮して居れぬ場合もあらう。併し所謂帝国の特殊利益と張作霖との従来の関係を知悉して居る者から観て、我国の執る些かでもの積極的態度が直に援張と取られる恐あるに特別細心の注意を払ふ必要がある。何となれば我国の出兵は外観上、弱つて内に逃げ込んだ者の門前に武装した兵隊をならべるの形となり、追撃し来る者の行動を邪魔するやうに見へるからである。元来斯うした態度は唯一つ斯くせざれば我の存立が保てないと云ふ場合の外は許されないものだ。然らば此場合我の存立が動乱に依て現実に脅さるゝと観るべきかは余程慎重に考ふるの必要がある。
 故に出兵の決行はよく/\の場合でなければ許されない。其の目的も真に帝国臣民の生命財産の最少限度の保護に限られなければならぬ。正当防衛としての出兵の必要を誇張する為に、郭軍の侵入は即ち帝国臣民の危害を意味するの、郭軍の勝利は満洲の赤化を意味するのと云ふものもあるが、かういふ意味の出兵は到底内政干渉たるの譏を免れないと思ふ。満洲赤化すれば朝鮮も亦赤化する、之を打棄て、置けるかと云へば、頑迷者流は成程と応ずるかも知れないが、之とて即時出兵論の根拠とならぬことは次に説く通りである。
 満洲の赤化 郭軍の勝利と満洲の赤化とどれ丈け密接の関係ありやは今まだ明でない。私は赤化の最も甚しきものを支那の学問した青年に求めることは出来るが、馮郭等の軍人間には赤化の勢左程強くないと認めて居る。併しよしんば満洲が赤化したとしても我国としてさう之を恐るゝ必要なきは、西伯利の例を見ても分るではないか。猶西伯利で嘗めた経験に於て我々は、赤化防止の目的を以て為した仕事の結末がどんなものであつたかを更めて深く反省する必要があらうと思ふ。同じ過誤を二度も三度も繰り返すのはあまり賞めた話ではない。
 若し夫れ朝鮮の赤化に至ては、之は満洲の赤化如何に拘らない問題である。満洲に武断政府の盛であつた近年、既に朝鮮の青年は可なり赤化して居たではないか。満洲赤化の影響として朝鮮が更に一層赤色を深くすべきは、不幸にして肯定せねばなるまいが、併し之は其原因を別の所に求むべきで、従て之が対策も満洲の運命には関係なく全然別個に攻究するを必要とする。満洲に張作霖の如きを据え所謂赤化緩衝地帯を作つたからとて、朝鮮の赤化が防げるものではない。
 対支政策の一大転換 斯く論じ来れば、今や我国は満洲動乱を機として全対支政策に一大転回を為すべき機運に立つて居ることが明白になる。関税会議以来我国の対支政策は大体に於て頗る公平誠実の基礎に立ち直つて居た。近く表明せられた治外法権撤廃問題に関する声明に於ても、我が政府の方針は益々同一の方向に歩武を進めて居る。折角新しい方針の下に押し進んで来たのを、如何に満洲に於ける特殊利益が致命的大打撃を受けんとすとは云へ、今更逆転するわけに行かぬではないか。満洲に於ける特殊利益が何の脅威も感じなかつたら固より我から進んで之を棄てるにも当るまい。夫れでも漸を以て之を正しき規道に引き戻すの必要があつたらうと思ふのに、今や幸か不幸か之が思ひ掛けなく大に脅かさるゝことゝなつたのだ。如かず、茲に一大英断を振つて破天荒の刷新を図らんには。加之私はひそかに思ふ、此際古き利権に執着するは即ち之を喪ふの因であり、之に固執せざることが却て将来に大なる利益を得るの種とならぬかを。只政策方針の転回に依て一部の官民の非常な打撃を受くるものあるは明である。政府は之等のもの、死にもの狂ひの運動に動されて国家百年の大計をあやまることがないだらうか。国民の周密なる監視を要する所である。

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 右書き終つて後十二月十六日の新聞はいよ/\満洲出兵の廟議決走を報じた。之に依て私の論旨に変更を加ふる必要を見ない。寧ろこの趣旨によりて今後の成行を益々監視するの必要を見るのみである。

 

                                  〔『中央公論』一九二六年一月〕