支那の将来


     (一)

 一両年前の話だが、南洋の去る島で領事をして居つた支那人の古い友達に逢つた。この人の話で、支那の領事は、支那に居る日本の領事などゝは大分様子が違ひ、領事に対する居留民の期待も雲泥の差があることを知つた。一例を挙げると、右の男が領事として蘭領南洋の一島に堂々と乗り込み、領事館開設の為めに一軒の家を借らうとすると、これぞといふのは大抵同胞支那人の所有だ。ところが、同胞の支那商人は、元来支那といふ国家を背景として成功した連中ではない。否、政府などは邪魔物だ位に考へてゐる。領事などはてんで眼中にない。従つて都合よく家を貸してくれない。そこで転じて和蘭政庁に頼む。政庁では貴下のお国の人に御相談になつたらよからうといふ。結局、政庁長官の紹介を貰つて自国商人の主だつたものに行つて頼む。それでも仲々逢つてくれない。そして、彼等の面会謝絶の口実は皆、一致してゐる。曰く、商売上の話なら倶楽部鮮で承りませう。その他の御用なら当分忙しくてお目にかゝれません、と。こんな風で、一軒の家を借りるに随分てこずつたといふことである。
 私の友人は、私にこの話をしながら、自国商人の我利一片なるを憤慨するのであつたが、然し、私は此処に支那民族の生活方針の一つの大なる特徴を見出さずには居れない。夫は別儀ではない。支那民族はその生活を発展して行くに、単純な自力の外、毫も国家の力といふやうなものに頼らないといふ事である。この点はまるで日本の商人と違ふ。
 日本の商人の事は別に詳しくいふの必要はなからう。支那などに随分著しい発展を日本商人は示して居るが、領事などを通しての国家的後援を取り去つても猶その発展を続け得るもの、果して幾人あるだらうか。浦塩に於ける日本人今日の惨状は雄弁にこの事を物語つて居る。支那人のやうに国家を馬鹿にするのも極端だが、日本人のやうに一から十まで国家を頼るのでは、本当に堅固な民族的発展は確立し得まい。然し之れを以て日本商人の無気力といふことにのみ原因を置いてはいけない。政府にも罪はある。何故なれば、政府に頼らずして、独自の発達をなさんとするものがあると、俺に無断で勝手なことをする不届者といつたやうな風に、いろいろの圧迫を加ふるのも隠し難い事実だからである。
 話が枝葉に走つたが、支那の将来を語るについて、先づ第一に念頭に置かねばならぬ点は、支那民族は国家を背景とすることなしに、発展し又発展して行けるといふことである。


     (二)

 良かれ悪しかれ、国家といふものが支那人の生活に対しては、我々日本人のそれに於ける如く、一向重きをなしてゐないとすれば、支那人に向つて国家的統一の速成を責めるのは無理だ。少くとも、国家的統一の完成が支那民族の利福の先決問題だなどゝ忠告するのは、尤も滑稽な本末転倒だ。尤も支那人が、日本人のやうに国家的統一を早く見て居つたなら、今日のやうな悲しむべき状態にゐなかつたらう。然しこれは、背の低い人に背が高かつたならといふに同じく出来ない相談だ。たゞ問題は国家的精神に乏しい支那民族は、過去に於いて不幸であつたやうに、将来に於いても到底不幸な境遇を脱し得ないか何うかの点である。このことは後段に別に述ぶるとして兎に角、支那人は我々の考へてゐるやうな形の国家としては、決して纏まる素質を持たないものと考へる。
 永く日本に居つたもう一人の支那の友達は、嘗つて私に、無知矇昧の権助田吾作輩でも日本人が一朝戦争にでも引き出されると、君国の為めといふ一言に感激して驚くべき犠牲献身の美徳を発揮するを見て、どうも諒解に苦しむと不思議がつて居つた。然しこれは支那の人には不思議ではあらうが、我々日本人には不思議でもなんでもない。寧ろ我々は支那の兵隊が戦争の真最中、誘うものゝ金の多少に依つて、掌を覆へす如く態度を変ずるのを不思議に思ふ。要するに此処に民族性の大いなる開きがあるのだ。そして我々日本人は、従来かういふ支那人の性格を極めて卑むべしとしたが、夫れは、若し日本の中にこんな奴があつたら本当に卑んでいゝので、その判断を直に、支那人に適用するのは謬(あやま)つてゐる。支那人の立場からしたら、日本人の方を寧ろ馬鹿なことだといふかも知れない。両者の立場の違ふところを冷静公平な眼で弁別することが必要だ。

     (三)

 そんなら支那人は、徹頭徹尾個人主義で押し通し、如何なる場合にも団結しないかといふに、さうではない。この点は詳しく説明すると長くなるから略するが、たゞ結論だけを一言すれば、実利の為めには団結するも、空名の為めには決して団結しないと言つていゝ。国家的団結は空名に集まるものだとは一概にいふことは出来ないが、支那に現れた従来の国家組織、昨今現はれてる国家的構成に至つては、格別実利的な支那人から観たら成程空名の団結といはれても仕方があるまい。故に支那人は本来国家を嫌がるのではない、今迄のやうな国家なら御免を蒙るといふのであらう。羮に懲りて膾を吹くの嫌ひがないでもないが、考へやうによつては、支那人も却々隅には置けぬと褒めていゝところもある。斯くして彼等は、余りに利益に鋭敏なるが故に、容易に国家的団結に集つて来ないのであるが、自分達の利益に直接の関係があると分ると、今度はあべこべに驚くべき巧妙にして堅固な団結を作ることは、各地に見るところの商務総会とか、自治会とかいふものに現はれてゐる。この方からいふと支那の面目はまるで別人の観を呈し、その自治的能力に於いて恐らく世界第一の天才だと言ふことも出来よう。是等の点も相当に知られてゐる事実だからこゝには詳しく述べぬ。之を要するに支那民族は団結の力に依つて生活発展を図るといふ技能に於て、決して何の民族にも劣るものではない。唯、幸か不幸か国家的団結といふ方面に於いてのみ、著しく晩れて居る。これ、支那人は個人としては強く、国民としては弱しといはれ、又、支那といふ国家は滅びるかも知れないが然し支那人は永久に世界に繁盛するだらうなどと言はるゝ所以である。この点からまた支那人は或る意味に於ては怖れられ、或る意味に於ては侮られる所以でもある。然しながら支那人は結局何時までも人に侮られて甘んずるものだらうか、何うか。世界の変り目に立つてゐる我々の眼には将来の予想は過去を基礎としては立て得ない。そこで支那の将来に就いても茲に一個の別見識を立てねばならないのではないかと考へる。

     (四)

 将来の問題は別として、今日迄の所では、国家的団結に堅い纏りをつけてネない国民の運命は、誠に悲惨なものだ。そこで、幾度びも辛い経験を積で遂に強固なる国家的団結に纏まるのが常であるが、支那民族だけは、幾度となく苦い経験を嘗めしに拘らず、意地悪く見えるまでに頑強にこの通例に従はない。この辺の事情は最近の支那と十九世紀の初めの独逸民族とを比較するとよく分る。
 独逸民族は最近でこそ、強固な国家を作つて、所謂国家的精神の強烈なものとして知られるやうになつたが、今より五十年ばかり前、独逸帝国の発生を見るまでは、嘗つて強固な国家として纏つたことのない民族だといつていゝ。人種的にはゼルマン民族といふ独立団体は随分古い。然し単一の政治的団体として纏つたためしはない。シャーレマン大帝の下に一度び同一支配を受くることになつたが、間もなく四分五裂した。近世に至つて独逸帝国なる空名は存在して居つたが、その実独逸民族は常に少くて数十、多いときは数百の小国に分裂して居つた。所謂群雄割拠の無政府的状態を続けて来たのである。だから民族としてはなかなか豪(えら)いが、他の民族と抗敵する段になると虐(いじ)められどほしである。過去の歴史を繙けば彼等はもつとも多く仏蘭西に苛められた。フランスは統一といふ利器を以つて独逸の最も弱小ところに突け入つた訳である。就中仏のルイ十四世には盛に苛められた。そこで流石のゼルマン民族の間にもそろそろ敵愾心が起る。次いでナポレオンの縦横無尽の蹂躙を受くるに及んで遂に統一的対外精神の勃興を見るに至つた。独逸の青年が各地に於いて、長い長い割拠の旧套をかなぐり捨てゝ民族統一の大旆を掲げたるは著明な事実である。即ち苦き経験は遂に独逸民族をして国家的統一の必要に目覚めしめたのである。これから先のことは別に説明するまでもなく、読者の耳目に既に明かなる所であるが、転じて眼を支那に向けると、支那は独逸と同じやうに苦い経験をさんざんに嘗めたに拘はらず、今猶頑として統一の力を以てこの苦みを押抜けやうとしない。遠くは阿片戦争から清仏戦争、近くは日清戦争から北清事変、各列強の租借地設定、その他彼れ是れと随分支那は虐められた。この屈辱、この苦痛に対して、彼等は決して、無神経ではなかつた。その証拠には、彼等は屡これに対抗して、ボイコットをやつた。また利権回収を叫んだことも一度や二度でない。それ程、憤慨もし、感動もしてゐるのなら、何故更に一歩を進めて、国家的団結の速成に依つて最も有力なる対抗を試みようとしないのか、それは我々の今日猶不可解とする所である。けれども、かうした意味の積極的態度に出ないことは事実の示すところ、一点の疑を入れない。言はゞ独逸人と同じ境遇に立ち、独逸人と同じ感情を煽れながら、独逸人と同じ態度にはどうしても出て来ないのである。さう出る元気がないのか、またさうする方が結局損だと打算しての話か、それは何れにあれ、少くとも今迄の世界に於いては、さうした態度では到底その苦痛を脱する事は出来なかつた。況んや世界に重きをなす事に於いてをや。ところが、幸か不幸か、今や世界の形勢は、正に一変せんとしつ、ある。今が丁度変り目の端緒で、将来かうならうと断言するに異議を挟む人も定めし多からうと思ふが、私の考へるところでは、今日迄の世界は、強固なる国家的統一を有たない民族にとつて、誠に住み難い世の中であつたが、これからの世界はさうではない。今日我々の考へてゐるやうな武力的統一に結束してなくとも結構住んで行けるのではないか。恰度明治維新と共に、虐げられ通しの百姓町人が初めて士族と肩を並べて平等に天下を楽しむ事が出来たやうに、過去の経験で予想し得なかつた新らしい現象を見ることが出来るのではあるまいか。さうなると、支那民族は決して何時迄も弱いものではない。今迄彼等が頑強に採つた態度が、有意であつたか、無意であつたかは敢へて問ふところではない。過去の世界に於て生存競争の劣敗者であつた運命は、兎に角、新しい時代に於ては全く取り去られることになる。


     (五)

 而已ならず、今日の支那は、吾人をして、決して将来の統一に失望せしむるものではない。昨今支那は、頗る紛乱に悩んでゐる。これに就て我国の論壇に自ら二様の見解がある。一つは、あゝした紛乱の結果として、支那民族の統一の将来を益々悲観する考へ方だ。も一つは、どうせ干戈を動かした次手だ、何れか有力な一方を後援して、武力統一を速成しむべしといふ意見だ。孰れも民族的統一を、武力と関係せしめて考ふる点に、これ等の説は、著しく日本的だ。又は現代的だといつても差閊えない。前にも言つた通り、かういふ意味の統一なら支那民族は全然無能だから、武力統一は仮令成功しても支那では決して永続するものではない。そは空名といつては語弊があるが、兎に角実際の利害を超越したところに犠牲献身の努力を捧げるといふ特性を背景としなくては、武力統一は維持して行けるものではない。それならば、支那民族は到底統一することが出来ないかといふにさうではない。現に支那民族の間には既に統一と見るべき別種の萌芽がきざして居るやうに思はるゝ。これも、詳しい説明を要するのだが、余り長くなるから略する。要点だけを簡略に述ぶれば、一つは最近に於ける自治体の発達である。商工業者の自治的組合の発達は、随分古い歴史を有つてゐるのだから、これは怪しむに足らぬとして、特に新しい現象として挙ぐべきは、地方的自治行政体の蔟出である。かういふものゝ発達したところには、中央政府は勿論地方官も手をつけることは出来ない。戦国時代に於ける寺院の権威にも比すべきものがある。然もこれは附近の雄長と競うて横暴を逞うするのではなく、附近の横暴に対して自ら守り、而もその武力的侵略に対して優にこれを退け得るの実力を持つてゐるのである。純然たる利益団体ではないが、狭い共同の地域を基礎とせるが故に、相互の利害関係は亦極めて緊密である。かうした自治行政体の発達は、この数年間の紛乱の結果として、所々方々に発生した又発生せんとして居る。第二には、露西亜のソヴヰツト制度の研究が青年の間に勃興して居る事である。支那の青年は、どの点を露西亜のこの制度から学ばんとするのであるか。言ふまでもなく、中央の権力を地方に及ぼすことによつて統一を図るに絶望した彼等にとつて、地方の小さい独立体を基礎として、これを集めて段々と大きく堅(かたま)つて行かうとする露西亜の新しい試みに、自己の執るべき新しい方針と更らに幾度の教訓を学ばんとするのであらう。なる程、これは支那人にとつては誠に賢明なる遣り方であるに相違ない。かうしたところから、私は支那が本当の堅い統一を見るべき端緒は既に開けたのではないかと考へる。支那は無類の大国だ、従つて、統一の完成を幾年の後に期待すべきか、殆ど見当はつかないが、唯これだけは間違ひなくいへる。支那に到底統一を見る能ずんば即ち止む。苟くも他日強固なる統一を見るの日ありとすれば、夫は必ずや地方的小自治行政体を基礎とする露西亜流の段階的聯邦制度に依つてゞなければならない。かういふ形式を他にして、支那に到底統一を見るの見込みはない。而して幸にもかくして統一を見るの萌しは既に現れたと考へる。唯かうした統一に依つても世界的競争場裡に落伍者たらざるを得るかは、これからの世界の成り行き如何に繋ると言はなければならない。

     (六)

 かういふ意味の統一でも、将来の世界には立派に生存を続けて行けるといふのが私の見解であるが、国際間に於ける武力の発言権を過小に見るといふ非難をする人は必ずあらう。然しそれは人々の見解に委するとして、兎に角支那は私の言つたやうな形に段々統一を進めて行く傾向にある。然しこの傾向は今日決してすら/\と順当に進んで居るのではない。まだ/\幾多の困難はある。而して私の見るところでは、支那の本当の統一の発展に対して最も大なる障碍をなすものは、意外にも武力統一の試みである。前にも言つた通り、武力統一は結局支那に於ては不可能だ。それでも行き懸り上、支那に於て武力を以て横暴を遣うするものを今日俄かに絶やすことは出来ない。だから、督軍だの将軍だのといふ連中は、今後も暫らくは跋扈するだらう。そして、事の勢ひとして、彼等の間には絶えず争ひがある。争ひが激しくなれば結局自滅の運命を免れない。今や彼等の間には、勢力の競争が行はれて居る。一方が他方を完全に討滅すると、それがまた跋扈して、支那の前途を暗澹たらしむるが、幸にして一方の徹底的勝利といふ現象は現れまい。夫は、勝ちに乗じて戦捷者が本拠と離れて遠く出れば出るほど、留守を預けた部下の後輩に母屋を取らるゝの危険があるからだ。喧嘩をしても、敵を追ふに急なれば、番頭に家を取られて、閉め出しを喰ふ。だから勝つても門を離るゝこと遠からざる地点に止つて、声高く快哉を叫ぶ位に止むる外はない。単りそればかりではない。遠く敵を逐はんとしても、兵隊が随(つ)いて来ない。平時は給料欲しさに兵隊になる。戦時になれば命を捨てるのが馬鹿々々しくて皆逃げる。逃げられては大変だといふので、遂に戦闘の第一線には浮浪人を掻き集め、夜陰に乗じ、泣き叫んで厭がるのを無理に、剣と鉄砲とで嚇かしつゝ戦地に送るとやら、所謂拉夫(らふ)といふのがこれだ。これで戦争して徹底的勝利なぞを云々するのは全く滑稽だ。だから、武力統一などゝいふことは、結局出来もしないし、現に今日の紛乱の如きも、睨み合つて居るばかりで、どつちの勝利に局を結ぶといふ当(あて)はない。結局は相方金に困つて疲れ分けとなるのが関の山だらう。仮令表面は戦争に勝敗があつたとしても、両方の主勢力は結局残る。残つて段々暴政を逞うして行く中に、民智の開発に促されてクーデターでも起るといふやうな所から、段々自治行政体が生るゝであらう。孰れにしても、一方を人為的に後援して、武力的統一をやらしてみようなどゝ考ふるのは、本当に支那を統一せしむる所以の道ではない。

                                〔『婦人公論』一九二四年一一月〕