恒久平和の実現と基督教の使命
 九月半ば突如として報ぜられたる嗅国の嬢和提議は多くの新聞紙の報ずるが如く真面目に受取るべきものでは
ないかも知れない。従て今日嬢和の時期近づけりと考ふるは大なる早計には相違ないが、しかし段々戦争も終り
に近づきつゝあることは争い難いことである。従つて昨今戦後の世界の形勢に関する考へが盛に多くの人から説
かるゝやうになつた。而して其中で最も著しく吾々の注意を若くものは戦後に於ては、何とかして世界の平和を
永遠に保証したいと云ふ希望の証明である。最も一部の人士の間には之れと反対の考へを以て居るものも全くな
いではない。中には全然戦争承認論を説くものあり、争闘は人類生活に必然欠くべからざるものである、人類の
進歩は実に争闘の結果として生ずるものである、此の世に戦争がなくなつたならば、人類の進歩は恐らく底止す
                              す Mリ
るであらうと云ふものもある。併し斯の如き説は世の中に拘児や泥棒があるために、ぼんやりした人間も小利巧
                                             たぐ
になる、人間の利巧になつた事については拘児や泥棒に感謝しなければならぬと云ふ比ひで、殆んど取るに足ら
ぬ議論である。又或人は世界永久の平和と云ふが如きは之れ一場の空夢に過ぎぬと諦めて、こんな空しき影を追
ふよりも、実際的に国際競争の舞台に引けを取らぬ用意をするがよいと云ふ0又も一つ変つた方になると、世界
が穏かになると自家の利益を此上急激に伸長する道が塞がれると云ふ処から、現状を打破して局面を展開する必
                             ことさら
要を認むる所の後進国に於ては兎角平和論に特更に耳を傾けざらんとする0要するに是等の種々の反対論を唱ふ
う6う

るものは全くないではないが、併し全体の傾向から云へば、戦争は如何なる場合にも許すべからざる一の罪悪で
ある、何とかして之れより免かれんことが人類の生活の理想であらねばならぬ、世界の平和は出来るなら永遠に
之れを保障したいと云ふのが、動かす可らざる文明国民全体の希望である。
 斯る希望が識者の間に説かれたのは元より今に初まつた事ではないけれども、多くは学者論客の机上の空論た
るに止まり、実際的政治家の実際的研究に上つた事は余り開かなかつた。然るに昨今になつて之れが実に現実の
問題として吾々の眼前に展開されてをる。かの平和強制同盟と云ふ、大国際聯盟即ち之れである。即ち世界各国
を一の法的組織の中に統一して之れに秩序ある生活を成さしめんとするものである。夫れには斯る大きな国体を
全体として統制するための国際法がもつと発達しなければならぬ。更に此法を各国家に有効に行はれしむるため
に一種の強制組織が必要である。国際法は今日既に法規としては相当に進歩を遂げてをる。唯だ今日の問題とな
るのは強制組織の問題のみである。
う66
 国際的強制組織の問題に就ては今度の戦争に際して、一面に於ては益々共の必要なる所以を感ぜしめ、又他の
                                    なかなか
一面に於ては其の実現の如何に困難なるかを思はしむるものがある。之れが却々容易に出来なかつたからこそ戦
争が起つたのではないか。夫れ丈けに戦争の惨禍を避けんとすれば強制組織は何処までも必要になる。斯くて国
′/
際的強制組織の必要と云ふ事に就ては疑ひがないけれども、唯だ問題として残るのは斯る強制組織は果して可能
なりや、はた不可能なりやと云ふ問題である。
 然るに国家と国家との間に強固なる強制組織を打ち立てると云ふ事は事実不可能であると云ふ説がある。国家
恒久平和の実現と基督教の使命
間の関係は国内に於ける個人間の関係とは其本質を異にする、個人間の関係が法律道徳によつて二疋の制裁の下
に律せられて居るが如く、国家間の関係をも同様に律すると云ふことは出来ない0斯くして彼等は国家間には道
徳なしと云ふのである。国内にあつては道徳を守るべし、対外関係の問題になれば最早之れを守る必要がないと
云つて吾々の良心が満足するであらうか、又斯くして国民の道徳風教を維持する事が出来るか否や、一の大なる
疑問とせねばならぬのであるが、暫く論者の説に譲つて国家と国家との間は道徳や法律を以て之れを律すること
は出来ないとしても、国家内部の個人間の関係は之れに反して常によく道徳法律を以て統一されてをるかと云ふ
に必ずしもさうでない。少くとも歴史的に云ふて見れば同一国家内に各種の勢力が対立抗争して、丸で今日の国
際間以上の騒乱を極めた時代もあるではないか。彼の群雄割拠の戦国時代は云ふを待たず、例へば最もよく統一
的に治まつた時代にしても猶ほ辺境に不順の強族あつて、本当に渾然たる社会的統」の実現を見た時代はない0
仮令外観偉人の徳とカとの下に統一された事があるやうに見えても、真に之れが精神的に統一されたものでない
                                    〔当〕
事はすぐ後から統一が破れると云ふ事実に見ても分る0唯だ暫く例を日本に限つても、日本国家が本統に強固な
る強制組織に纏つたのは最近の事である。従つて国と国との関係と、個人と個人との関係とは其の本質の異なる
によつて一方には纏りが出来、他方には纏りがつかないと云ふ議論は恐らく肯紫に当れるものではない0故に強
制組織確立の可能不可能の問題は彼と是との本質の差に求むるものではなく、原因は他にあるのではあるまいか○
そこで吾人は更に進んで国の内部には強制組織が出来、国と国との間には何故之れが出来ないのであるかを調べ
なければならぬ。
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      三

 国家の内部に強制組織の確立を見るに至つた原因は思ふに次の二点に帰するであらう。第一は之れを組織する
国民間に濃厚なる精神的同情の発生せることである。同じ国家の臣民であつても例へば徳川封建の時代に於ては、
我は同じく日本国民なりと云ふ様な同情同感は薄かつた。青森の人間は長崎の出来事を以て「韓国」 の事件とす
                                                     ゆうよく
る情念は起らなかつた。然るに維新と共に国家的観念が強くなり、例へば千島の端に外国の密猟船が遊七したと
云ふやうな報導を開いてさへ全国の人心は激動するではないか。之は次の第二の要素に関係ある事であるが、然
し主としては国民一般に日本としての深い意識が発生した結果である。此精神的同情同感が実に自己の生活を国
家と云ふ団体に全然托せしむるに至つた所以の一の原因である。第二の要素は吾人の物質的生活関係が国家と云
ふ広き範囲に渡つて正に相侍り相助くるの状態に進んだ事である。他の言葉を以て云へば吾々の物質的生活の基
本なる経済が国民的に営まるゝやうになつた事である。更に他の言を以て云へば郷土経済乃至地方経済が国民経
済に進んだと云ふ事である。斯くして長崎人の生活は北海道人の生活と全然無関係無交渉ではない。従て互に他
の利益を以て我利益なりとする関係を発生した。斯う云ふ考へは今日の一般に国籍を異にする人々の間にはまだ
起つてゐない。故に外国人間の事になると己の利を計るために相手方に揖害を加ふる事を意としないけれども、
吾々の生活関係の緊密に相借り相助ける間柄に於ては己の利を図ると共に、又相手方の利を図らなければならぬ。
′相手方をエキスプロイトするのでない。互に自他を利し合ふのであるから、滋に〓疋の法則を生じ、而して此法
を白から守るのみならず、人をして広く之れを守らしむるの必要を感ずる。斯くして団体の権威は団体の法規を
各人に強制するのカとして表はれざるを得ない。最もかう云つたやうな団体の法規と云ふものは共同団体的生活
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恒久平和の実現■と基督教の使命
関係の未だ夫れ程緊密でない時代に於ても発生しないではないが、併し此時代に於ては偶々之れを破るものがあ
つても余り答められない。のみならず、中には全然無頓着で居るものもある。吾々日本人は比較的団体生活にな
れてゐないから折角団体の基礎を作つても平気で之れを破り、又人の之れを破るを深く答めないと云ふ弊がある。
我国にて公徳心の割合に発達してゐないと云ふ貫めも半ば之れに基くものであらう。けれども団体内に於ける各
自の利害関係が複雑になると、内規を破るものを平気で放任して置けなくなる。初めは之れを破るものがあつて
も、どうも困つた位の所であるが、遂には之れを許さぬやうになる。滋に於て自から所謂社会的制裁を加ふるや
うになる。而して之が一歩進んで国権と結ぶやうになると即ち組織せられたる統制カとして発生するやうになる。
従て人類の団体で強制力の発生すると否とは一には精神的同情同感の実際に及ぶ範囲、一には物質的生活関係の
相侍り相助くる範囲如何によつて定まるものである。人類の団体生活其ものに_ち本質を異にするいろ〈のもの
があるのではない。
 右の如き関係は今日の所国家と云ふ範囲内に於ては立派に出来上つて居るが、国と国との間には未だ成立つて
ゐない。何故なれば今日のやうな特に帝国主義的国家主義の盛なる時代に於ては、国籍を異にする諸国民の間に、
熱烈なる同情同感がないのみならず、又生活関係の相借り相助くると云ふ度合が至つて薄い。故に国際法なるも
のが厳然として居るに拘らず、偶々之れを破るものがあつても、世人は之れを非とするの聡明はあるけれども、
蝕くまで之れを排斥せねばならぬと云ふ程の熱心はない。之れ今日の国際間に強制力の容易に発生し難き所以で
ある。
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う70
 若し濃厚なる精神的同情と物質的生活関係の相違との二つの条件を欠くならば、仮令同一国家内の個人間に於
ても統一的強制力の組み立は恐らく甚だ困難であらう。現に前に述べた如く昔戦国時代に於ては国家の名あつて
                                      しかしながら
共実各種勢力の紛糾を見て居つたではないか。一旦武力にて統一された事はある。乍併武力を以てする人為的
統一は暫くにして再び乱るゝ運命を免れない。之は独り日本ばかりでない、世界の諸国が真に統一したのは極め
て最近の事である。而して之れは国民の間に於ける国家意識の発生と交通其他の物質的進歩の賜物なるは深く弁
ずるまでもない。然らば若し同様の現象が国と国との間に起つたならば如何と云ふに、矢張同様に統一的強制力
の成り立ち得ない道理はあるまい。
 斯く云へば所謂本質不同論者は斯くの如きは国内には生じ得るが国際的には生じ得ないと云ふであらう。乍併
今旦父通機関其他物質的進歩の趨勢は既に疑ひもなく国際的に発達しっゝある。否此種の発達を一の国家の中に
制限すると云ふ事は寧ろ不可能になつた。若し夫れ人間としての同類意識の進歩に至つては更に大に著しきもの
がある。又理屈から考へても我は日本人なりとか、我は支那人なりとか云ふやうな観念は、我は人類なり、我は
神の子なりと云ふ様な観念と何れ丈け違つた深い意味を有し得るか。「血は水よりも濃い」と云ふ諺はあるけれ
ども、今日の国家は最早昔のやうな民族的国家ではない。故に今日までの所、国際的関係は極めて粗雑なもので
あつたと云ふならばよいけれども、人類は各々其国の境域内に押し込められてのみ初めて同類意識を濃厚にする
ものであると云ふならば大に謬りである。然も斯の如きは決して今日の趨勢ではない。況んや今度の戦争は其最
も著しき影響の一として、一方には同類意識の進歩発達を助長し、他方に於ては従来夫程気付かなかつた自他相
恒久平和の実現と基督教の使命
                                                                    【後〕
倦関係の深きを自覚せしめ、且又大に之れを増進するの結果を生じたからである。して見れば戦争に於て人類は
更に国家よりも広き範囲に於て自分の物質的並に精神的生活の根拠を導かねばならぬことになる0斯くして彼等
のヨリ広き生活の根拠を統轄するために更に国際法の一段の進歩を促し、而して其法則の遵守を確実にする必要
から之れを犯すものには厳重なる制裁を加へて竜未も仮借せざらんとするの態度に出づるだらう。否戦後を待つ
までもなく、斯う云ふやうな不心得なものを放任して置くのが心外にたへ針いと云ふので、去年四月米国は起つ
て戦争に参加したのではないか。米国既に然り、然らば戦後に於て強固なる制裁の下に、各国家を統轄せんとす
るの運動の起るべきは火を見るよりも明かである。果して然らば今度の世界的変局は即ち国際的儀制組織の実現
のため正に大に機運を熟せしめたものと云はなければならぬ。
      五
                     キ川7スト
 さてかうなると右述べた様な戦後の形勢と基督教との関係如何と云ふ問題になる。戦後の新形勢の物質的基礎
とでも云ふべきものは生活関係の密接相怜であるが、又其精神的基礎とでも云ふべきものは即ち四海同胞の感情
に外ならぬ。四海同胞の誼を以て接触すべしと云ふ理屈丈けでは十分でない。さう云ふ感情が多くの人の間に生
れて来て、始めて世界平和の基礎が確実に成立つのである。然らば吾々の希望し、又其希望が酬られて戦後出現
すべしとせらるゝ平和的新形勢は正さに基督教の理想の実現と見るべきものではないか。何となれば四海同胞の
本当の感情は基督教の間に最もよく発達し、又実際上に於て基督教のみ独りよく之れを発達せしめ得る所である
からである。一部の人は今度の戦争は欧米基督教の無力を証明したとか、又基督教の所謂正義公道は今度の戦争
で全然閉塞したとか云ふ。戦争を未然に防ぎ人類を此の惨憺たる修羅の巻から救ひ得なかつた事は返す′ぐ−も残
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念である。乍併此戦争は決して基督教の無力を語るものではない。少くとも基督教の従来の主張が無意義である
事の証拠となるものではない。否寧ろ人類が本当の四海同胞の大義に醒むるを妨げてをつた所の偏狭なる国家主
義乃至、侵略主義を打破せんがために戦はれたものではないか。故に予輩は寧ろ今度の戦争に於て十九世紀の半
ば以来非常な勢を以て頭を撞げ初めた侵略的帝国主義に対し、飽まで之れに屈せざ〔ら〕んとする基督教的正義の
頑強なる健闘振りに驚くのである。故に若し戦後の世界が予輩の予想せるが如く発展するものとすれば、之れ取
りもなほさず基督教の勝利である。果して然らば戦後の世界の有らゆる経営は基督教主義に基かねばならず又基
督教主義によつて益々発展せしめなければならない。斯くして吾々は吾等基督教徒の責任の今後益々大なるを思
はなければならない。四海同胞の大義は基督教徒でなくとも、修養によりて幾分之れを体得し得られないではな
い、唯だ基督教を信ずる者に至つては此点が殆んど習ひ性となり、顔の色が違はうが、凡て管之れを神の子、我
兄弟とするの情念を有するが故に、努力なしにすら〈と四海同胞の大義を発揮し得る。此信仰を欠くもの、殊
に偏狭なる国家主義的教育の下に養はれたるものに取りては余程努力しても、時々従来の永き教育のカに累せら
れて四海同胞の大義に徹底することが出来ぬ。夫れ丈け又戦後に於ける我国諸般の経営施設に於ても、基督教の
使命は殊に重大なるものあるを感ぜざるを得ない。

                                         〔『新人』一九一人年一〇月〕