大正政界の新傾向
一
大正と改元してから急に政界に新らしい傾向が起つたとも思へないが、併し明治の末から大正にかけて段々新らしい傾向が著しく起り初めたことは疑ひない。而して此新傾向は、最近日支問題の交渉が切迫した当時に最もよく現はれて居る。我国よりの二度目の対支要求が拒絶され、愈々最後通牒を発するといふ間際に、元老の干渉のあつたことは、公知の事実である。聞くところに依れば、五月四日の元老と閣員との会議に於て両者の意見が合はず、中にも加藤外相に対する元老の反感が本となつて、お互に「勝手にしろ」といふ態度で物別れとなつた。斯うなれば元老は元老で、更らに相談を新たにして事の顛末を闕下に伏奏するといふ段取になる。さうすると内閣は顛覆せざるを得ない。そこで政界は俄に色めき渡つて、策士並びに策士と移する者が、暗中の大飛躍を試みる。翌日旅行から帰つて来た大浦内相が、事の急なるを憂へて元老と内閣との調停の任に当り、各元老の私邸を回訪したのであるが、此際松方侯のみは不在と称して中々会はなかつた。二度三度訪ねても居ない、行先も分らないといふ事であつたが漸く夜になつて面会する事を得た。而して不在と称した朝から夕方までの間は、実は奥深き密室に於て、山本達雄、床次竹二郎二氏と卓を囲んで後継内閣の役割を相談して居つたといふ事である。斯く政界の頭領株は元老並びに其周囲の政界の長老の間を活動して頻りに運動する。之と同時に彼等は又政界の陣笠をして、或は歌舞伎座に、或は新富座等に、外交失態の声を大にして内閣を痛烈に弾劾せしめ、以て盛んに民心を煽動せん事を努めた。斯くて内外相呼応して現内閣の顛覆を計つたのであつた。幸か不幸か此運動は其目的を奏せなかつたが、兎に角此事実は、最近政界の新傾向を語る代表的の出来事であると思ふ。
然らば其新傾向とは何ぞやと言ふに、政界の転機を決するところの中心点が今や二つあるといふ事である。一つは元老で、一つは民間の輿論である。一体元老を中心とする勢力は、少数の間に政権を壟断せんとする考を代表する者で、所謂輿論政治とは両極相反するところのものである。性質上相容れざるところの二つの主義を代表する者が、両々相並んで、同一の目的の為めに活動を共にするといふ事は、考へて見れば極めて不可思議な現象であるが、併し之が我国今日の争ふべからざる事実であるから致方がない。而して此二つの中心が、各相当の勢力を以て現今の政界に活動して居るのであるが、単にそれ丈けなら何も之は大した問題にはならない。けれどもこゝに一つ面白いのは、前者が段々凋落し、後者が段々芽を吹き出さんとして居る事である。之を我輩は新しい傾向といふのである。尤も絶対的に両者の現在の勢力を比較すれば、元老の方が強く、輿論の力はまだ頗る弱い。けれども、将来の傾向から言へば、輿論の力には先きの望みがある。而して元老は最早や過去の勢力たるを免れない。而して元老の命運が今や日に/\縮らんとして居る際に、兎も角民間の輿論が政界の新勢力たらんとして居るのは、政機進展の大局に着眼する者の看過するを許さゞる所である。
二
元老は今日でもなか/\勢力はある。けれども其威望の昔日の如くならざる事は、彼等の羽翼たりし官界の俊髦(しゅんぼう)が、近頃踵を接して政党に加入する事に依つても分る。政党に加入する事は、多くの場合に於て、元老に見切りをつけた事である。尤も中には元老の廻はし者もあらう。けれども政党に入つて相当の地位を得れば、彼は最早や元老の傀儡たる事を甘んじない。さればにや、今日元老の勢力といふものは、段々元老の個人的勢力以外には之を認むべきものがないやうになつて居る。昔元老の勢力の偉大であつたのは、只彼等が個人としてエライばかりでなく、其周囲に天下の人才を網羅して社会の各方面に其大いなる羽翼を張つて居つたからである。されば当時彼等の意志は一つとして成らざる事はなかつた。政界に於て彼等は唯一の主人公であつた。我国に立憲政治が布かれて帝国議会が一方の勢力となつた後でも、彼等は決して政府を議会にあけ渡さなかつた。当時議会に於て現はる、民間の勢力は、積極的に内閣を取つて代る能を有せなかつたのみならず、消極的に只内閣を破壊するといふ能さへ十分でなかつた。けれども、時勢の進歩は争はれないもので、明治三十年頃からは、段々議会の勢力も張つて、所謂政府政党の妥協に依つて、交互に内閣を組織する事になつた。而して最近に至つては、苟も内閣を組織する者は、議会に相当の根拠を有せざるべからずといふ事になつて、政界の主人公たるを得る第一の要件は、議会の後援を有するといふ事になつて来た。元老独自の勢力のみで内閣を組織せんとした最後の試みは、去年三月の清浦内閣成立の運動であらう。之が失敗に終つた直接当面の原因は何にあるとしても、之を憲政発達の大局から見れば、確かに、元老は最早や政府を組織する積極的勢力たるを得ないといふ事を明かにしたものである。之は元老勢力の大なる変動といはねばならぬ。彼等は最早政界に於ける積極的勢力では無い。然らばせめて彼等は仍ほ少くとも政府を破壊する消極的の勢力たりやといふに之も段々怪しくなつて来た。尤も今日でも元老の意志に逆つては到底政府を維持する事は出来ないと考へて居る事大主義者も少くない。さればこそ所謂政界の策士なる者が巧みに元老の間を説き廻つて常に内閣顛覆の陰謀を企てんとして居るのである。乍併去年の秋以来内閣と元老との意志が常に疏通を欠き、殊に最近に於て元老の方から起つて色々内閣の方に衝き当るに拘らず、尚未だ十分に内閣を窮地に陥れ能はざるのを以て見れば、元老は最早政府を破壊する消極的の能すら段々失ひつ、あるのではあるまいか。
尤も個人的に見れば、元老諸公は、兎角の批難はあつても、兎も角衷心国を憂ふる赤誠に於て、多大の尊敬と心服とを多くの人から得て居る事は疑ひない。従つて彼自身尚政界に於て大いに重きをなして居るのである。のみならず、其乾児(こぶん)ともいふべき者は、枢密院辺に於ては勿論、貴族院にも随分ある。内閣が常に鞠躬如(きっきゅうじょ)として枢密院の意向を迎へて居る事は人の知るところであるが、貴族院に対しても亦案外に気兼をして居るといふ事は、現内閣が今度の参政官任用に就いて低能の聞え高き某を貴族院より任用したといふ事実に依つても明かである。併しいかに元老の一派が枢密院や貴族院で頑張つて居つても、最早や孤城落日の状態にある事は疑ひない。為めに末派のものは非常に藻掻(もが)いて居るやうであり、而して陰険なる内閣顛覆の運動なども主として之等の連中から発源して来るといふ事であるが、末流の身としては之も止むを得ぬ事であらう。然しいかに国を憂ふるの誠心があるとはいへ、末派の奸策に乗つて元老彼自身の政界に乗出して来るのは、余り感心した事ではない。
一体彼等が本当に国の為めに尽す誠心があるなら、自分で政界に活動すればよい。責任なき隠居の地位に退いて居りながら、後輩のする事を一から十まで気にするのは甚だ心得ぬ。我輩は此点に於て我国の元老に奮闘活躍の任期満つるや飄然として田園に帰臥し再び政治を談じなかつたワシントンの高風を学ばん事を勧告したい。若しワシントンたる事を欲せざるならば、蔭の方に隠れないで堂々と表に出て来るべきである。早い話が、山県、大山の諸公にしても、松方、井上の諸侯にしても、彼等は皆貴族院議員である。而して未だ一回も議院に出席して其意見を吐いたといふ事を聞かない。如斯は無責任といふよりも寧ろ曠職の罪甚だしきものと言はねばならない。出て物を言ふべき場所では物を言はず、蔭の方で政界の当路者を衝ツく。之は甚だ其当を得ざるのみならず、尚一方に於ては非常な弊害の源を為すものである。何となれば、元老が如斯態度を取れば、政界の重立つた者は、元老と事を隠密の間に決する事のみに苦心して、民衆と共に公明正大に事を計るといふ風がなくなるからである。之は確かに政界腐敗の源である。而して此等の隠密の運動が、実際に於て勢力を有するといふ事であれば、為めにまた政府の行動を妨ぐる事が少くない。殊に此弊害が外交問題に於て表はれる。例へば今度の対支外交の失態に就いても、聞くところに依れば、元老の此態度が一つの禍をなして居ると思はれる。尤も我輩は、元老が直接に政府を掣肘して要求を緩和せしめたといふ当時の通説を必ずしも其儘賛成するものではない。けれども従来元老が政界の一方の中心であつて、政府に対して有力なる敵国を作つて居つたといふ事が、今度の外交失敗の根本的原因であつたと思はれる節がある。其故は外国では元老の意見といふものを非常に重んずる。殊に年老つた者の意見を公私共に尊重する支那では、元老の意見は政府の決議よりも重いと考へて居る。支那の清朝時代では、国家の大事は皇帝が必らず之を母后に聞かなければならなかつた。女であらうが何であらうが、年の老つた者に聞いて其賛成を得なければ、国家の大事が極らないといふのが支那の思想である。斯ういふ考の国で、元老の地位を実際以上に重く見たといふ事は怪むに足らぬ。そこで支那に対する談判では此政府の考は元老も同意であるといふ風に持つて行かなければ、重きをなさないのである。従来の政府は、総て皆此方法に依つた。然るに今度の大隈内閣丈けは全然此方法に依らない。聞く所に依れば、去年八月対独宣戦以来、大隈伯の発意であるか、加藤男の発意であるか、今後外交の事は従来の様に一々元老に相談はすまいといふ事を閣議で決定し、之を闕下に伏奏して御嘉納を得たといふ事である。然るに元老は、先に先帝崩御の砌、国家の大事に際しては汝等の助力を覓(もと)むるといふ 今上陛下の優詔を賜つて居るので、之を楯として、外国と戦争をするといふ様な大事を我々に相談しないのは、陛下の御恩召を曲ぐるものであると言つて憤慨し、其結果当時元老会議の様なものを開いた事があつたが、それにも拘らず加藤外相は、依然秘密主義を守り、元老に対しては一通りの報告はしたが何も彼も打明けて相談するといふ態度には出でなかつた。従来の政府は、例へば今度英国から斯ういふ抗議が来たと言うては、直ちに之を謄写版にでも刷つて元老に配附する。アメリカから抗議が来る。直ぐに其写しが元老の手に入つたものだ。すると所謂政界の策士等は、直ぐに元老の手からそれ等の写しなどを見せて貰つて、外交の大勢には皆通じて居つたものだ。然るに今度は如斯事はさつぱりない。戦後の我国の外交は政友会辺の頭株には勿論、元老にもさつぱり分らない。そこで兼々おせつかいな元老は、一つには何をするか分らないといふ心配と、一つには事を秘密にされた恨みと、両々相待つて外相攻撃を以て内閣に反対するといふ事になつた。之が何人かの手を通して支那に伝はつた。袁探の説ありし所以である。愈々最後の間際になつても、支那では日本政府の決心に対しては元老の後援がないといふ情報に接して、頗る強硬の態度を取つた。此等のいきさつに就いては、差当つては政府が元老とよく打合せをしなかつたといふ事に欠点はあると言へるけれども、然し其本をいへば、元老といふ隠れたる中心勢力があるといふ事に禍根がある。之は尤も大きな弊害と思ふが、之れ許りではない。元老が斯ういふ態度を取ると、政治は元老の間に出入して居る少数者の専門になる傾がある。長島隆二君が近頃政界で多少の注目を惹いて居るのは、其人自身にもヱライところはあるだらう。が、一つには井上侯などと接近して居るが為めである。元老と接近して居る者が、皆長島君の如き人才であればよいが、中には下らない者もある。此所謂下らない者までが政界に跋扈して居るやうでは、結局人材を阻む事になる。之を要するに、元老が今のやうな態度であるといふ事は、元老自身は善意であつても、日本政治の健全なる発達の為めにはよくない。而して今日之が尚政界の転機を決定する一つの勢力たる事は、甚だ之を遺憾とするのである。けれども、又一方に於て我輩は其勢力の日に/\傾きつゝあるのを見て、些か慰むるのである。而して彼等の余命もはや幾何もない。此等諸公百年の後は、其末流の有象無象では何人集つてもあれ丈けの勢力を支持する事は出来まいと思ふから、今日元老の勢力は先づ過去の勢力の情勢的連続と見て差支へない。
三
扨て元老の勢力の凋落に代つて段々振興し初めて居るものは輿論の力であるが、併し、此輿論の力が儼然たる勢力として政界を支配し得るに至るまでには前途尚遼遠であると思ふ。輿論の力は今日稍々認められかけて来た。けれども政界の識者は真に果して之を敬重善導するの誠意ありや否やは頗る疑はしい。只疑のない点は今日の政治社会が民衆が一つの勢力であるといふ事を確認した事である。否之れ許りではない。民衆の勢力は世の中の進歩発展に伴つて段々に振興するといふのが自然の勢であるといふ事をも知つた。民衆が一つの勢力であるといふ事を知つたのは、恐らく例の日比谷原頭の騒擾以来の事であらう。近頃政界の策士がやゝもすれば国民大会とか、国民同盟会とか言つて、諸方の劇場や公園等で多数の人を集むるのは、民衆は以て之を利用するに足ると信じた結果であらう。何れにしても、今日の政治家が段々民衆の力といふものを認めた点が余程面白い。兎に角一つの進歩である。固より個々細目の点に就いては遺憾な事はまだ非常に多い。けれども少数政治から多数政治に移る一つの階段として見れば、今日は正に古い着物を脱いで新しい着物に代へんとして居る。其代り目に立つて居るものと見る事が出来る。此点に於て我輩は、我国今日の新傾向を将来の政界の発達の為めに之を歓迎するに躊躇せざるものである。が併し、之と共に我輩はまた他方に於て我が輿論政治の健全なる発達の為めに大に憂ふる点もあるのである。
何が憂ふべき点かと言へば、我国の政治家が、民衆の勢力といふものをやつと認めたのではあるが、併し果して民衆政治といふものは本来よいものであるかどうか、又民衆政治の美果を収むるには何うすればよいかといふ点に就いて、はつきりした考がありや否やといふ点である。今日我国には、民衆政治に対して反対の考を抱いて居る者が案外に多い。一体民衆政治といふ事は、一国の政治は須らく人民の為めに為さるべしといふ主義と、一国の政治は須らく人民に依つて為さるべしといふ主義と、此二つの内容を有して居るものであつて、若し此政治の利害得失の関係に就いて争ひの起る点ありとすれば、人民に依つて為すのがよいか、或は少数者の手に政治の運用を総て托するのがよいかといふ問題に就いて起るのであつて、政治が人民の為めに行はるべきものとするの点は、最早や一点の疑もなかるべき筈であると思ふのに、案外にも我国には此事まで明白に了解しない者がある。封建時代ならば、何事もお家の大事といふ事で押し通して行けたであらう。けれども今日は人民一般の利益幸福が政権運用の最後の目標でなければならぬ。然るに此問題にすら疑がある位だから、況んや政権運用の終局根本の判断を人民に決定せしむるといふ主義に反対するものあるは無理もない。尤も兼々民衆の友を以て立つて居つたものが、此間の総選挙で美事落選したので、民衆談ずるに足らずとして貴族主義に移つたといふ男もあるさうだが、此等は須らく論外として、我国の所謂識者の間にも、民衆政治の真義を了解しないものが相当に多いやうだ。而かも民衆勢力の滔々として伸暢する自然の傾向は、彼等と雖も之を認めざるを得ないので、彼等は滑稽にも密かに国家の前途を憂慮に堪へずなど、歎息して居る。若しそれ如何にして民衆政治の美果を収むべきや否やの問題に至ては、民衆政治を謳歌するものと雖も、よく之を心得て居ないやうである。之れ甚だ我国政界の前途に取つて憂ふべき事であると思ふ。以上述ぶるところを総括すれば、我国今日の政界の新傾向は、其赴くべき当然の径路を誤らず通つて居るといふ事は明かである。けれども舵手が果してよく政機を適当に進転して目的の彼岸に達せしむるを得るや否やに疑問がある。此点に於て予は世の識者と共に、折角勃興して来た喜ぶべき新傾向を善導し、何とかして憲政の健全なる発達を来したいものであると思ふ。之については幾多の論ずべき問題があるが、差当つて予はこゝに二つの事柄を我国政界の識者に申言したいと思ふ。
一は民衆なるものゝ政治上の意義並びに価値を適当に了解するといふ事である。民衆が政治の進歩の上に持つて居るところの地位は、そが純粋に消極的受動的であるといふ事である。之を他の半面から申せば、民衆は元来政治上の問題に就いては、何も積極的の意見を有つてゐる者ではないといふ事を意味する。尤も天下万民が悪く理想的の発達の状態に達すれば、民間に積極的の意見といふべきものが生ずるだらうが、如斯は現実の民衆には望まれない。一般の民衆は夫れ程有識な者ではない。従つて之れと定つた意見のないのが当り前である。然るに世間の政治家中には人民は、何も分つて居ないとか、民間の輿論等は当てにならぬとか、人民の智識が低いからまだ民衆政治は早いとか、色々民衆の無智を罵るのである。之が第一の誤りである。かく民衆には何も意見がないと言つて愛想をつかす者があるかと思へば、他方には民間一部の誤つた意見を民衆全体の積極的輿論なりとして之に媚ぶるものもある。其処此処の演説会で場当りを取つて得意になつて居る陣笠政治家等は正に此類である。そこで我々は、民衆とは何も極つた意見はないものだといふ事に腹を極めなければならぬ。それならば何を便(たよ)つて民衆につきあたるかと問ふ人があらう。それは彼等の健全なる常識的判断力である心相当の程度に達した民衆には、自分には積極的の意見はなくとも、人の意見を開いて其是非曲直を判断する丈の力はある。それ丈けの力もないとならば、其時は無論民衆政治がまだ早いと言はねばならぬ。併しながら、廿世紀の今日、所謂文明国の人民は最早民衆政治を尚早とする程に智見の程度が低いといふ事は許されない。そこで或政治問題が具体的に起つた時に、政界の識者に色々意見を自由に吐かしめて、而して民衆をして其可とするものを択ばしむるといふところに民衆の政治上の意義が存するのである。各種の意見が自由に吐かるれば、大局に於て最も健全なる意見が大多数の採納を得るといふ事は、大体に於て誤りがない。個人/\に就いて見れば、其人の性癖、境遇等の影響を受けて其判断を誤る場合が少くないけれども、民衆全体を以て之を見れば、大多数の場合に於て彼等は決して判断を誤るものではない。「民の声は即ち神の声なり」といふ西洋の諺は、此点に於て動かすべからざる真理を含んで居る。只往々民衆の判断が誤るの事実あるのは、脅迫等の積極的手段、買収等の消極的手段に依つて、言論の自由を妨ぐる場合に限るのである。されば最も健全なる思想をして民間の輿論たらしむる為には、言論の自由を尊重するといふ事は根本の第一義である。此言論の自由を尊重するといふ約束の上に、各種の意見を些の拘束なしに発表せしめ、彼等をして民衆の心理上に自由競争せしむるといふところに、民衆の政治上の意味と価値とがある。此点をよく了解するといふ事が、今日我国政界の最大急務であると思ふ。
第二には世の識者が自ら民衆の一人たる事を自覚すると共に、尚民衆の指導者、民衆の代表者たるの心掛けを有する事である。他の言葉を以て言へば、民衆と共に動き、而かも民衆より一歩先に進むといふ事である。今日の議員諸君等の中には、民衆と一所に居る者はある、けれども一歩先に進んで居る者は極めて少ないではないか。又政界の先覚者学者等の間には、一歩先に進んで居る者は多少あるけれども、民衆と手を携へて居る者は極めて少ないやうに思ふ。之は決して健全なる社会状態ではない。天下の事をなさんとするものは、決して民衆の力を無視する事は出来ない。民衆に納得させないで自分一人で事をなさうとするのは、非常な専制主義者でなければ、必ず政界の落伍者である。又天下に事を為さんと欲する者は同時に、民衆を指導する一大精神的威力でなければならぬ。要するに民衆政治の健全に行はるゝが為めには、民衆から言へば、最も健全なる精神に服従しつゝ、其精神を自分の代表者として民衆の事をなさしむるものでなければならぬ。之を民衆を代表して起つた者を主として言へば民衆を指導しつゝ民衆に推されて動くものでなければならぬ。先覚者と民衆とは、常に相提携し相影響する関係に立つて居なければならない。此関係をよく理解し、此関係をよく運用するところに、健全なる民衆政治の華が咲く。然るに今日我国の識者は、動もすれば此関係を離して考へる。且つ指導する精神のみに着眼するものは、民衆の力に推されて行く関係を無視して、貴族主義を謳歌する。又民衆のカのみを認める者は、指導する精神の尊さを忘れて、衆愚主義に堕ちんとする。互に罵り合つては結局其の陥るところは自滅の外にない。現代此関係を誤つて政界の困難を来して居るものは露西亜である。之に反して此関係の適当な理解と運用とに依つて美事な成功を収めて居る者は英吉利であらう。政権の運用について、我国は果して露西亜に依らんとするか。将た英吉利に依らんとするか。
〔『中央公論』一九一五年七月〕