憲法と憲政の矛盾   『中央公論』一九二九年一二月

    故伊藤公の憲法起草基本綱領

 十月下旬国民新聞社主催で、伊藤公の遭難二十過年を紀念する為めの遺墨展覧会が東京上野自治館に於て開かれた。多大の骨董的価値を有するらしい書幅類も沢山あつたが、主として私の興味を若いたのは書翰其他の草稿類であつた。就中(なかんずく)公が憲法制定の詔命を奉じいよ/\其の起案に取掛らうと云ふ際その補助員たる井上、伊東、金子の諸氏に書き示したと云ふ所謂基本綱領の草稿は、最も私の感興を唆(そそ)つたものであつた。之は最近伊藤公爵家に於て故公の遺物整理の際不図反故(ほご)類の中から発見されたものらしく、憲法の起案に直接の関係ありしと云ふ所から、伊藤家の当主博邦公より特に金子子爵に贈られたものである。子爵は本草稿と博邦公の手翰とを併せ更に自ら詳細なる抜文を添へて之を立派な一卜巻きに仕立て上げられて居るが、本草稿が憲法起草上の基本綱領としてあの当時示されたものだと云ふ事も実はこの金子子爵の抜文に依て知り得たのである。
 この一巻が特に私の注目を若いた点は二つある。(一)は伊藤公が最も強く英国式の所謂「君主は君臨すれども統治せず」の政治原則を排撃し、天皇親政を以て国体の基本とすべきを力説せることで、(二)は金子子爵が之を以て帝国憲法制定の根本精神となし、先年来よく唱へらるる所謂議会中心主義に付ては之を右の根本精神と相容れざるものと認めらるるらしく切に其流行を慨嘆せられて居ることである。最近の我国に於ける憲政の運用が何と謂ても所謂議会中心主義にかたまりつゝあるは疑を容れない、而して憲法制定者たる伊藤公の起草当時の精神が前記基本綱領の示す如きものとすれば、今日の運用が憲法本来の精神と全然相容れぬことも亦明白である。金子子爵の抜文を添へて示されたる伊藤公の基本綱領は、右の事実を二層鮮明にして呉れる点に於て大に我々の興味を若くものである。
 因(ちなみ)に云ふ、学友平塚篤君の編纂にかゝる『伊藤博文秘録』(本年三月刊)の「六一=帝国憲法と英国主義」(同書二二七頁の条下に出て居る故公の手記は、右の基本綱領の初めの一部分ではないかと想像される。さうでないとしても、伊藤公の思想は亦この文字に依ても十分に窺ふことが出来る。而して之に対して加へられた金子子爵の註釈に至ては、所謂伊藤公の精神なるものの最も鮮明なる敷衍として亦頗る注目に値するものである。子爵自身は流石に今日の憲政運用の実況をばその所謂憲法の精神と相容れざるものとはツきり断言されては居ない。併し或は憲政運用の実状を説明する世上流行の諸議論の中に許すべからざる「牽強附会の説」あることを遺憾とされ、又或は憲法の精神はその制定の沿革に遡つて之を探求すべきであると主張される所などから観れば、言辞は婉曲であるけれども、矢張り伊藤公の流れを汲み、今日の憲政を以て憲法の本旨に反すとする立場を執るものと謂はなければならない。


    問題の輪廓

 この問題に関して平素我々の考へて居る所の大要を摘記すれば次の如くである。
 (一) 憲法制定者たる故伊藤公の執(とつ)て以て帝国憲法の基本精神とせるものが今日謂ふ所の議会中心主義と全然相容れぬものたることは疑ない。
 (二) 併し乍ら実際上に於ける憲法の運用は必ずしも伊藤公の予期せるが如き方向を取らなかつた。憲法の運用に由て作り上げらるる我国の憲政は、公の解する憲法の原則に反して益々所謂議会中心主義の色彩を濃厚ならしめんとする。官僚の一派が頻(しき)りに伊藤公の解釈を金科玉条として其の趨勢を阻止せんとし、之に対しては亦政党側の猛烈なる反抗のあつたことも、普(あま)ねく人の知る所である。
 (三) 憲法の運用に関する実際政界に於ける争闘は、やがて学界にも反映した。学問上に於ける論点は主として左の三項に在つたと謂てい。
 (イ) 憲法の解釈は其制走者の意思に依て拘束せらるるを要するや。伊藤公は斯く/\の考で之れ/\の条目を定めたといふ。伊藤公の考なるものは当該条目の意味を定めるに就て肝要な参考材料たるべきは言を待たない。併し作り上げられた憲法そのものは最早伊藤公の意思とは全く独立の存在だ、制定者の意思に依て膠柱(こうちゆう)的に制約さるべき性質のものではない。そは須らく別に一般の理義に依で解釈せらるるを要する。斯う云ふと反対論者は直に抗弁する、その所謂一般の理義とは西洋に於ける経験が生んだ諸原則を謂ふのだらう、日本の憲法は西洋慣行の翻訳ではない、その運用には日本独特の国情に基きて全く新しい原則の樹立を期待すべきであると。乃(すなわ)ち立憲政治の普遍性を無視し国体の特異を力説高調することに依て、憲法解釈上の通説を抑へんとするのである。而して之に関連して伊藤公はいつも憲法の制定起草に当り特に日本の国体を精察し之に基く独特の方針を建てた人として引合に出される。
 (ロ) 議会中心主義は帝国憲法の条章に反するや。反すると云つたのは伊藤公一流の解釈である。之を離れて虚心に帝国憲法の条文を逐読して見るに、何処にも議会中心主義を排斥する意味の個条はない。尤も議会中心主義を徹底するに都合の好くないと云ふ様な個条が二三無いではない。さうかと云て議会中心主義を排斥する意味の皇室中心主義の憲法とも認むべからざるは、這(こ)の皇室中心主義を徹底するに不便な個条が亦同じく二三あることに依て明かである。要するに憲法制定に関する主権者本来の意思は、議会中心主義と対立反撥する意味での皇室中心主義に拠るつもりでなかつたのであらう。果して然らば議会中心主義は伊藤公の素志とは相容れぬが、本来我が憲法その物と相背くものではないのである。
 (ハ) 議会中心主義は憲法上君主の大権と相悖ることなきや。既に憲法の条章と反せずと云へば、其の憲法上の大権と相悖ることなきは言ふまでもない。して見れば議会中心主義を排斥する意味の皇室中心主義といふが如きは、本来憲法上の観念ではないのである。議会中心主義の排斥は謂はば人民参政の排斥である、人民参政の排斥は天皇統治権の絶対不可侵の極限的標徴である。この意味での皇室中心主義は日本の国体の基本的説明としては当つて居る、此点に就ては何人も疑を挿むものはあるまい。而して這の絶対不可侵の統治権を有し給ふ君主が、特に憲法を賜うてその統治権の行使を一定の法則に依らしむべきを宣明されたのである。憲法そのものを君主がお廃めになると云ふのであれば皇室中心主義の国体上如何ともすることは出来ぬのであるけれども、苟くも憲法を前に置いての話であれば、些少でも君主の地位を拘束するといふの故を以て議会中心主義を非議するは当らない。拘束が悪いのではない、その拘束が君主自ら宣示し給へる憲法上の拘束の範囲内のものなりや否やが問題となるのである。若しそれが所謂憲法的拘束の範囲内のものであれば、其は決して君主を以て統治権の総攬者とする憲法上の重要原則と反するものではない。憲法の範囲内に於ける皇室中心主義は断じて議会中心主義と相悖るものではないのである。憲法の運用に関しての議会中心主義を論ずるに当り、憲法を超越した国体論上の皇室中心主義を対立せしめるのは、土台間違つて居る。この意味の皇室中心主義を持て来るなら、之と両立せざるものは独り議会中心主義ばかりではない、何よりも先に憲法そのものが徹頭徹尾之と相容れずと謂はなければなるまい。
 以上の説明は、簡単ながら学問上の争点を明にしたと同時に略(ほ)ぼ今日に於ける学界の帰趨をも語り得たと考へる。而して説いて見れば簡単だが、然うした解決に落付くまでには実は相当の長い時間を要したのであつた。論争の先端に立つた主なる人を尋ぬれば、古くは穂積八束対有賀長雄、中頃は穂積先生に対して美濃部博士が戦を挑まれ、前者に代つて上杉慎吉博士が起つに至つて論争は白熱化した。而して大正年代の始めに及んで這の憲法上の議論は漸く略ぼ定まる所を見たのである。斯んな分り切つた間違が其の解決に斯くも長い時間を要した所に、所謂独特の国情の看過すべからざる所以が存し、その同じ理由がまた憲法新解釈の闘士美濃部博士をして時に種々の意味の身辺の危険を感ぜしめたことであらうと察する。孰れにしても憲法解釈の学理上に於ける紛争の論定に就ては、外にも沢山の関係者はあるが、先づ第一に美濃部達吉博士の功労を推さなければならない。
 (四) 学界に於ける解決が実際政界に於ける在来の動きを幾分助長促進したるべきは是亦想像に難くない。併し乍ら学界に於て最早疑がないとされて居ることがすべて実際政界に於ても同様に疑ないと容されて居るかといへば、我々は今更乍ら大に幻滅の感を抱かざるを得ない。即ち実際政界に於ては今仍(な)ほ議会中心主義に対する確信が十分ならず、従て之が徹底の為めにする必要な努力が等閑に附せられ、甚しきは謬つた皇室中心主義の横行に対する闘志をすら鈍らすものがあるのを見る。それ丈け我々は、実際政界に在ては学界の風潮よりの影響にもかゝわらず所謂皇室中心主義の勢力の依然として容易に抜くべからざるものあるを認めないわけには行かないのである。尤も考へて見れば実は之にも由て来る所の頗る遠いものがあるやうだ。
 伊藤公自身が熱心なる皇室中心主義の信奉者であつたこと、此の考に基いて彼れが其の制定せる憲法を運用せんと試みたこと、同時に彼れが又その独特の憲法理論を有識階級の間に普及せしめんが為めに非常に骨折たこと、(ならび)に彼れの僚友たる所謂元勲諸公の大多数が実に彼れに輪をかけた程の該主義の盲目的信徒であつたこと等も、看過すべからざる原因に算(かぞ)へねばならぬが、何よりも大事なのは、右の考が幾分憲法成文の上に制度的具現を見て居ると云ふことであらう。其事は後に詳述するが、兎に角我国現在の憲政の運用は、右等の事実に依りて、今日現に理路の徹底した安定を得兼ねて居る様な状能だある。固より憲法理論の方面の問題としては、多くの疑問は疾(と)うの昔に解決されて居るといへる。従つて今頃斯んな提案をする私の態度を評して或は陳腐の議論を蒸し返すと難ずる人があるかも知れぬ。併し現在の憲政が事実如何の基礎の上に運用されて居るかを明にする立場から云へば、この論題を紹述するは寧(むし)ろ焦眉の急と謂ふべさであらう。民衆政治を確立すべき基礎的地盤の構成を知らずしては、何等の具体的改革案も立て得ざるべきを以てである。
(五) 以上の説明は自ら私をして次の結論に到達せしめる。
 (イ) 故伊藤公の解するが如きが帝国憲法の真髄だとすれば、我国今日の憲政の運用は全然右の真髄と相容れない、即ち憲法憲政の矛盾を叫ばざるべからざる所以である。
 (ロ) 伊藤公の解するが如きを帝国憲法の正しき解釈と信ずる者は、我国憲政の現状をば絶対に容認し得ぬ筈である。従て之等の人達に向つては、如何なるが正しい憲政の運用なるかの詳細なる宣明提示が需(もと)められなければならぬ。
 (ハ) 憲政運用の現状に対し敢て排撃の熱意を示すに非ず、議会中心主義の徹底を目的とする各種の政治改革に対し偶発的に伊藤公の制定の精神などを云々して毎時その阻止を謀るが如き事程、政界を毒するものはない。右か左か態度を何れかに決めて、憲政進展の途を坦々たる大道たらしむることは我々国民の切なる願である。

     皇室中心主義と議会中心主義

 日本の国体を説明する主義として、皇室中心主義以外の何物をも認むべからざることは前にも述べた通りである。之と議会中心主義との対立の論ぜらるるは実は憲法の埒内に於ての事である。而して憲法の埒内に於ても本来この二つの主義は理論上相反撥すべきものではないのであるが、従来我国に於て之が相轢るものとして取扱はれたのには、亦由て来る所の淵源があると思ふ。私の考では、名を皇室中心主義と議会中心主義との争に藉るも、本当の所は全く異つた二つの政治主義が斯うした変装の下に烈しく鏑(しのぎ)を削つたものと認むるのである。そは何かと云ふに官僚主義と民衆主義との対抗が即ち是れである。
 (一) 議会中心主義とは何か。形から云へば議会に於て国民を代表する優秀の勢力に専ら君主輔翼の大任を託することである、精神から云へば君主が二三側近の臣僚とのみ事を諮(はか)らず国民全衆と共に社稷(しやしよく)の大計を籌劃(ちゆうかく)することである。君民一体の理想はこの主義を徹底することに依てのみ達成せらるるとされる。
 (二) 議会中心主義の確立は大政親裁の君主の権能を拘束するが故に非なりとする議論がある。この議論を徹底すれば、君主は絶対に御相談相手を有つべきでないと云ふ結論に到達せざるを得ない。維新当時、国政と云ふものを極めて小規模に考へ須らく神武天皇の初政に倣ふべしなどと文字通りの御親政を主張した者もあつたが、それでも左右輔翼の臣僚を全然認めぬ程の趣旨であつたかどうか判らない。国務の複雑を極むる今日、何人(なんぴと)を挙げて君主の御相談相手たらしむべきかの一つの制度として組織立てらるることは最早絶対の必要である。故に議会中心主義の排斥は、他に之に代るべき君主輔翼の機関を予想せずしては全く意義を為さぬのである。
 (三) 君主裁政の輔翼に関し議会主義(即ち民衆主義)と対立するものは官僚主義である。即ち議会主義に取て争ひの相手は本来官僚主義の外にはない。議会主義は之れまで其の闘はざるべからざる戦に於て屡々君主の大権に弓引くものとして呵責された、而も結果に於ては、その進出に由て追ひ詰められたものは常に官僚主義であり、君主の大権は之に依て寧ろ益々輝きを増して居るではないか。
 (四) 故に私は曰ふ、日本の政界に於て皇室中心主義と議会中心主義との対立といふものはあり得ない。若し対立抗争がありとすれば、そは唯民衆主義と官僚主義とのせり合ひのみである。
 さう云つて了(しま)へば問題は極めて簡単に見へる。皇室中心主義などと云へば談自ら宮中の事にも亙るので軽々に論じ去り得ぬ様の感もするが、民衆主義の対手が官僚主義だとなれば、斯んなものに一向遠慮する必要はないと云ふことになる。所謂鎧袖(がいしゅう)一触忽(たちま)ち之を粉砕し得べきのみと考ふるだらうが、併し事実はなか/\然うは行かないのである。往来自在一切関門は撤廃したと開いて馳け出して見ると、到る処で矢張り意外の障碍に遭逢すると云ふ風の事が今なほ頗る多いのだ。振り揚げて見た拳の収めようがなく今更困つて居るらしい政党政治家の態度を意気地がないなどと罵るのは情機に通ぜざる局外者の放言に過ぎず、多少でも元老に之に準ずべき古参官僚の政界に占むる現実の立場を知る者は、寧ろ簡単である筈の問題の実際決して爾(しか)く簡単でないことに驚くであらう。

    伝統としての皇室中心主義

 日本人に取て実は皇室中心主義といふ文字は、仮令(たとい)それが謬つた意味に用ひられても、一応は無批判に受容され易い。従て政治上の論争に此文字を引接するは一面甚だ卑怯な仕打であるが、他面亦頗る有効な戦術と謂はねばならぬ。而して之は深い思慮を欠く俗人に軽々しく受容れられる様に、憲法上の理論の攻明の精密ならざる又政治上の論究の未だ幼稚なりし時代に於て、相当の識者から亦成る程と迎へられたことに不思議はあるまい。私は先きに皇室中心主義なる言葉は官僚主義の政治家がその専制的立場の擁護の為めに之を利用したと述べた。固より此事実に間違はないが、そは専制的立場を擁護し民衆的干与の風潮を阻まんが為めに意識的に投出されたと云ふ意味ではない、誤解より起つたにしろ何にしろ、皇室中心主義の思想と之を政治上の重要原則たらしむべしとの決意は実は早くからあつたと思ふのである。既に在つたものを意識的に利用したと観てもいゝが、少くとも既に在つたものが自ら専制擁護の具となつた事実は掩ひ難い。之を要するに、所謂皇室中心主義は夙くから既に政界に在ては一種の伝統として一部識者の精神を支配して居つたのである。この事実を前提せなければ、それが専制主義の擁護の為めに長い間異常の働きを示した理由が解せられない。
 日本人に対(むか)つて米飯をやめてパンを常食とさせることは非常に六かしい、パンを食べるな米食で結構といふ主意を貫くことは一挙手一投足の労に過ぎぬ。専制政治家が皇室中心主義を楯に取て民衆主義の侵蝕を防いだのは、パンを食べるなと云つた程の単純な仕事であつたかどうかは問題だが、少くとも専制主義を向ふに廻しての民衆主義者の仕事に至ては、米を棄ててパンに就かしむる底の難事業たることは疑ない。流石に昭和の今日はそれ程の事はあるまいが、夫れでも去年の春政友会内閣の有力なる高官の口から議会中心主義排撃の堂々と宣明せられた事実などを思ひ合すれば、民間に於ける過去の伝統の渝る所なき潜勢力を今更ながら驚視せざるを得ない。専制主義が理に於て民衆の利害と結局相容れぬものたるは勿論である。不幸にして官僚政治家の我々に課した長い間の劃一的教育方針は、この点に於て民衆の良心を手際よく麻痺して了つた。若し夫れ一般官吏の階級に至ては、近頃政党的勢力の侵入の結果として、幾分の変調を示して居るとは云へ、思想的に之を概観すれば、純粋なる民衆主義をよろこばざる点に於て夫の古参官僚と全然其類を同うするものではないか。
 以上の事実は何を語るか。謂ふ所の皇室中心主義なる観念は、その内容の深く吟味せられずして、漠然官界並に一般民間に一種の伝統として残つて居ることを証するものではないか。而して現に在るものを除去するは、全く新しいものを植え付ける以上に困難なることが多い。伝統として残されたる皇室中心主義は、今日の時勢から観て若干の訂正を要すべきものとしても、事頗る微妙の機に触るゝものある所から、迂闊に手を染めると往々にして飛んでもない誤解を惹起すことなきに非ず、現に私も之が為めに屡々奇禍を買はんとした経験を有つて居るが、孰れにしても然うした危険を冒すことなしに明白適切なる論究を竭し難き問題なるだけ、漠然たる観念は漠然たる儘に放置さるると云ふ傾がないでない。是に於て官僚主義は得たり賢しと乗ずべき間隙を見出して、頻りに自家の立場を之に由て擁護せんとはかる。理論上の問題としては疾くの昔に解決された事であり乍ら、実際政治家に取て憲政の正しい確立を期する前途にはまだなか/\の苦労の種は多いのである。従て憲政の真正なる確立を期するには、今日仍ほ政界の一隅に蟠踞して相当の勢力を占むる専制主義を始末することに依りて民衆主義を徹底することを必要とし、此の仕事を順調に進むる為めには先づ専制主義者の動もすれば藉りて以て対抗の武器とする所の皇室中心主義そのものに精密なる検討を加へなければならぬ。而して是の如きは亦同時に真乎の皇室中心主義の意義を発揚する所以でもあると私は考へる。

     所謂皇室中心主義の由来

 『明治聖上と臣高行』と云ふ本がある(昭和三年一月刊)。佐々木高行侯の遺(のこ)せる日記等に拠りて編める侯の伝記であるが、侯は明治天皇御在世中最も多く至尊に近侍した関係から聖上の御内行に関する記事も多いので、前記の如く題したものであらう。さて此書中、明治十一年五月大久保利通暗殺当時の事を叙した部分に次の様な事が書いてある。当時侯は一等侍補であつた。侍補とは君徳培養の為めに置かれた官職で、一等が四人、二等侍補が二人、三等侍補が四人あつた。さて侍補一同会合の席に於て侯は左の如き提議をしたといふ。曰く「大久保を殺せる島田一郎等の斬姦状中に、今日の日本の政治は上は 聖旨に出づるにあらず下は人民の公論に由るにあらず独り要路の官吏数人の臆断専決する所にありとあり。是れ方今天下一般の論ずる所にして事実果して然り。故に今日は最早真に御親政の御実行なくては不可なり。欧洲の如く上下両院の設けられたる国にても国王が政治に力を入れざれば行はれ難きに、況んや我帝国に於ては猶更の事なり。維新の大業より郡県の制度に運び又西郷の如き人望ある英傑が事を起すも朝敵の名を得て滅亡せり、皆是れ大義名分より成れる事なれば、万機御親政の御実行こそ肝要なれ。故に侍補一同身命を顧みず聖上へ十分意見を言上し、屹度(きっと)御責め申上ぐる事が臣子の職分ならん」。他の侍補はみな之に同意する。依て直に 聖上の御前に出でゝ拝謁を賜り、最初に侯は次の意味を奏上した。「今日御親政の体裁なれども事実は内閣大臣へ御委任なれば、自然天下一般も二三大臣の政治と認め居れり。既に彼の島田一郎等が斬姦状も天覧あらせられたる如く此の点を指摘痛論せり。就ては今日より屹度御憤発あり、真に御親政の御実行を挙げさせ、内外の事情にも十分御通じなくては、維新の御大業も恐れながら水泡画餅に帰すべし云々」。次で吉井友実、土方久元、高崎正風もそれ/"\進言する所あつたが、米田虎雄の如きは「平素御馬術を好ませ給ふほどに政治上に叡慮を注がせ給はば、今日の如く世上より二三大臣の政治などと言はるる事はあるまじくと常に苦慮仕り居れり」とまで言上したそうだ。聖上には之等の直諌に聊かも怒り給ふ御気色なく、却て竜顔うるはしく「一同が申出でたる事は至極尤もなり、是より屹度注意致すべし、猶気付きたる事あらば遠慮なく申出で呉れよ」との辱(かたじ)けなき御言葉をさへ賜つた。斯くて侍補一同はこの顛末を更めて大臣参議に報告したが、四五日を経て三条太政大臣より、「御親政の御実行とて先づ差当り内閣に日々臨御、大臣参議等万機の事務を議するを親しく聞かせらるるやう今日御座席を設くる事となれり、時々各省へも親臨あり政務を御閲覧あらせらるる事に内決せり云々」との通牒に接したと云ふことである(同書四〇七―四一二頁)。
 以上は唯一例を挙げたに過ぎぬ、同じ様な例を探せば外に幾らもあるが煩はしいから略する。要は之に依りて、当時時勢の必要が一面に於て一種の天皇親政論を為政階級の間に鬱勃と醞醸せしめつゝあつたことを知れば足りる。二三大臣の専権と云ふことは、板垣退助等の民選議院建白中の「臣等伏シテ方今政権ノ帰スル所ヲ察スルニ上ミ帝室ニ在ラズ下モ人民ニ在ラズ而(しこうして)独(ひとり)有司ニ帰ス」の文字以来、政府反対派の常に口癖に云ふ所である。殊に西郷の乱以来は此点に関する民間狂熱の志士の昂憤は甚しく、遂に君側の佞姦を除くと云ふ名義の下に大久保の暗殺を見るにまで至つたのである。この事実に直面して、宮中に奉侍せる人々の間に「他人委(ま)かせだから斯んな不平も起る、至尊親ら政を執らせ給ふのであつたら決して面倒は起らなかつたらう」と考ふるに至るは亦怪むに足らない。至尊を直接責任の衝に当らしめ奉るが恐れ多いと云ふ様な思想は、当時の政治家には未だ思ひ及ばれては居なかつたのである。
 天皇の政治上の地位に関しては、当時民間の識者階級に余りはつきりした考は無かつた様に思ふ。日本が万世一系の天皇を戴く世界に比類なき帝国であること、従て天皇は日本を治むる唯一の主であり、国の内外に対するすべての権力の源が天皇御一人に存することに就ては、何人も疑ふものはない。唯政権の実際の運用と云ふ問題になると、現に至尊の幼冲に在(いま)す事実を承知して居るから、その専ら所謂廟堂諸公の方針に出づるものなることは初めから世間の予定して掛る所である。是れ一面に於て有司専制の叫ばれ寡人政治の弊の説かるる所以であつた。故に民間の問題としては、政権を一部官僚の擅有に委すべきか又は広く一般の公議輿論に分散すべきかの利害得失の論あるのみであつて、之に対する天皇の地位と云ふが如きは殆んど全く考へ及ばなかつたのである。国体論の範囲に於ては固より絶へず天皇の事が第一に説かれる。政治論の範囲に於て天皇に論及せるは、私の知る限りに於ては其頃僅(わずか)に福地源一郎あるを数へ得るに過ぎぬやうだ。尤も之は少し年代が後になる、明治十四年春の事だ。彼れは東京日日新聞に連載せる「国憲意見」なる長論文の中に於て、「夫レ権ノ帰スル所ハ責ノ帰スル所タリ、其権アリテ其責ナクバ国民ハ何ニ由テ其身ヲ安ジ其自由ヲ享クルヲ得ンヤ、若シ叡慮ノマニ/\万機ヲシロシ召サバ恐ナガラ其責ハ帝位ニ帰シ、其激迫スルニ際シテハ帝統神種天皇神聖ノ大義モ国民コレヲ顧ルノ遑ナキニ至ランモ計リ難シ、吾曹(われら)ガ夙夜憂懼シテ措ク能ハザルハ実ニ此事ニ候ナリ、………是故ニ君民同治ノ政体ヲ建ルニ当リテハ、国民ニ対シテハ大臣都(すべ)テ政治ノ責ニ任ズベシト制定シ、聖天子ハ人望ノ帰スル者ヲ選ビテ大臣ニ任ジ、人望ニ背クノ大臣ハ之ヲ退ケ、一二輿論ノ由ル所ニ従テ社稷ノ重臣ヲ定メ以テ国民ノ責任ニ当ラシメ給フベシ、然ル時ハ国民ハ政治ノ得喪ニ責任ノ人アルヲ知リ、帝位ハ国民ノ休戚ニ怨府タルコトナク、万世一系ノ帝統ハ天壌ト倶ニ不窮ニ継承セラレ給ハンコト疑ヲ容レザル也」と喝破したのである。実際の施政に対しては何時如何なる場合でも一部の不平は絶へぬ、この不平に対する責任の衝に至尊を当らしめ奉つて相成らぬと云ふは、今日でこそ一点の異議を容(ゆる)さざる政治的格言と見做さるれ、明治十年代に在ては実は一種の翻訳思想以外の何物でもなかつたのである。一般の人達は至尊と政治との関係を頓と看却して居つたことは前にも述べた通り、若し之を念頭に置いた者があるとすれば、そは寧ろ至尊が直接に表面に乗り出し給ふたら不平も屹度無くなるだらうと云ふ考であつたのだ。福地の立言は、一読書子の卓見と聴くべく、当時の輿論を代表するの論説とは認め難い。
 加之一種の天皇親政論は維新以来の元勲諸公の主たる目標の一つでもあつた。大勢とは云ひ乍ら多少無理押して樹てた明治政府を、一日も早く内外に対する強力な組織たらしむるには、名実共に皇室を国民渇仰の中心とすることが緊急の必要であつた。斯くして天皇の教育といふことは早くから元勲諸公の熱心せる所であり、中にも大久保利通は此点に就て最も大なる献替の功をいたしたのである。且つこの方針は彼等の精神的薫育の基礎たる封建イデオロギーに合致するものであることも一寸注意を要する。国家の興隆すると否とは上に立つ者その人を得ると否とに倚(よ)る。民をして知らしめず唯依らしむるのみの時代に在て此事の大切なるは云ふを待たないが、這の政治思想が時勢を離れた独立の主義として其後永く彼等の精神をも支配したるべきは疑なく、秩序の未だ十分に整はざりし当時に在ては亦実に大に其の必要もあつたのであらう。大久保の推挙に依り明治天皇の師傅として召された元田永孚の書き遺したものなどを見ると、彼れを始め当時の元勲諸公が、如何に至尊をして一日も早く万機を親裁し国威を内外に拡張するの英主たらしめんことに苦心したかが能く分る。
 そこで私は考へる、天皇と政治との関係に考へ及ぶ限り、天皇親政論は当時の為政階級間の常識であつた、かの福地の所論の如きは、僅に西洋の文物制度に通ずる少数先覚の士の信奉せるものに過ぎなかつたのであらうと。

     天皇親政論と専制主義との協合

 天皇親政論が君徳を培養して名実共に万世に輝く英明の君を拝したいと云ふ趣旨に根ざすまではいゝ。天皇は大政を親裁する、大政親裁の自由を妨げ奉つてはならぬからとて、民情の上達を阻まうと云ふ事になつて問題は紛糾する。天皇親政論は専制主義の政治的武器として取上げられてより著しく歪められたことを認めざるを得ぬ。
 政治史上の問題として明治初年に於ける民衆主義と専制主義との消長は特に精密なる考察を加ふるの必要があると思ふ。私は従来の考へ方を惜気なく一擲し、具体的事実の査察の上に全く研究を仕直すの必要があらうとさへ考へて居る。日本の国民性等から考へれば、既に五条の御誓文にも現れて居るが如く、民衆主義者の要求する公議政体が帝国の当に執るべき体制たるに疑はない。併し乍ら明治政府成立の具体的事実と、直前の過去に三百年の長きに亙る封建時代を有せし現実の関係とに想到すれば、一般人民の側に必要なる根本的訓練を欠くの点を姑く度外に措くも、直に万機を公論に決し難きの事情なるは火を睹るよりも明白だ。薩長閥族をして所謂集権主義の無遠慮なる実行者たらしめ、他藩出身者の自ら分権主義を以て之に対抗するに至りしは、理義の争ひと云ふよりは寧ろ多分に史的趨勢に駆られた結果たるを認めざるを得ない。孰れにしても私は公平に観て、当時の日本にはまだ/\集権主義即ち専制主義が必要とされたのではなかつたかと考へる。西南戦争以後民権運動の急激なる進展に狼狽して不当に専制主義の鋒先を鋭からしめたるの過失はあるも、兎に角我国が民権論者の要求に聴き早きに過ぎて議会を開設せざりしは寧ろ之を幸福とすべきであると考ふるものである。
 斯くして私は明治時代の初期に於ける民衆主義と専制主義との対立を認め、而して其両者にそれ/"\存在の理由あつたことをも認めるものである。そこで私は問題を一転する。彼等は其の戦に於て何を攻防の武器としたか。民衆主義の方は問題外だから姑く議論の外に置く、専制主義は維新の当初五条の御誓文を翼賛した責任があり、且つ早くから開明新政を施くべきを宣言し来れる手前、無下に民間の要求を斥けることは出来ない(封建時代軽い身分であつた所謂維新の功臣達が、動もすれば投げ掛けられる旧藩時代の主公又は上官よりの批議に対し、自分達は公議輿論を代表するものだと抗弁して僅に安じ得たとの話も此際看過してはならぬ)。その為めに絶へず妥協綏譲を余儀なくされたことは西南戦役前二三年の歴史の上にも明白だが、遂に漸く擡頭し来れる天皇親政論を引援することに依て彼等は百万の援兵にも勝る堅塁を築き上ぐるに成功したのである。此事に就ては先づ主として伊藤公其人の当時に於ける政治的体験を観察し、其体験に基いて自ら彼れの脳中に発達せる政治思想を精細に剖判するの必要あり。次では之等の思想方面に於て彼れの帷幄に参した井上毅並に井上を通して可なりの影響を与へた内閣顧問御雇独逸人ロエスレル等の事なども攻究せねばならぬと思ふが、之等は皆別の機会に譲ることにする。こゝには唯天皇親政論が専制主義者の利用する所となりて如何に其の内容を変化したかを呑み込んで貰へばいゝ。
 天皇の御親政、それは誠に結構なことだ。併し専制主義者は民衆主義と相容れぬものとして天皇親政論を振りかざしたのである。天皇御親政と聞いて民衆主義者も一時は喜んで之を迎へたが、だからお前方の言ひ分は聴かれぬぞと宣告されては、呆然として羊頭狗肉の感に打たれざるを得なかつた。専制主義者は頻りに英国の憲法を引いて議会中心主義の我が国体と相容れぬことを云々する。英国と我国と其建国の体制を同うせざるは固より論ずるまでもない。唯その憲政の運用を説くに方つて、元来成文の憲法法典を欠き且つ物事を卒直に言ひ去る癖のある英国土人の憲法論の文句を引いて、之を我国の成典と機械的に対照するが如きは、果して親切なる研究法と云ひ得るだらうか。現に英国に在ても種々の事例を引いて実際政治に及ぼす皇室の勢力の意外に大なるを説くの著述は早くからあつた。伊藤公の英国憲法観の如きは今日より判じて固より正当の見解とは云へ得ぬが、兎に角彼れは之を痛烈に排撃することに依て我国天皇の政治的地位は始めて安全に保護し得ると考へたのだから仕方がない。焉ぞぞ知らん、之に依て保護せらるるは実は天皇の地位ではなくして官僚の専制的立場であつたのだ。尤も当時の形勢に於て官僚の立場の擁護が天皇の地位の安固と共に両々必要とさるべき理由のあつたことは事実である。
 伊藤公などが官僚の利害と皇室の利害とを混同して考へたといふ事に付ても一応は之を諒とすべき理由もある。一体万機公論に決するの上下心を一にして盛に経綸を行ふの庶民に至るまで各其志を遂げしむるのと云ふても、当年の政治家が腹の底まで斯うした新しい思想に浸透され切つてゐたと見るのは間違である。現に五条の誓文の宣揚と相前後して、新政府は旧幕時代の法則を其儘踏襲して全然封建的な徒党・強訴・逃散の禁を発令して居るではないか。開明の新政に従来の面目を一変せんとするの意気込みは盛であるから、然うと気づけば一応は何でも新しきに就くの態度は失はない、併し乍ら長い間に養はれた伝統や因襲やは一朝一夕にして之を取去り得るものではないのだ。斯う云ふ所から、彼等は口では安価に君民一体の理想を説けど、腹では如何しても支配者被支配者の階級的対立を当然の事実として前提せざるを得なかつたのである。百姓町人は治められる階級、皇室を中心とする自分達の一団は治める階級。新しい政治とは治めらるる階級の意向をも聞いてやることだとまでは知つてゐるが、併し之に由て彼等為政者の期待する所は、斯くして百姓町人も自分達の誠意を知つて呉れ、昔しの様に公事に無関心な態度は棄てて之からは進んで政府の施設に翼賛するだらうといふ位の事であつた、即ち民に知らしむるは民の協戮を待つ所以。斯くて始めて君民一体となつて国基を振興するの本源は立つと考へたのだ。されば維新当初時の政府者は、いろ/\の手段を講じては民情開発に熱中したものであつた。幸にして当時の百姓町人は未だ全く封建時代の遺風を脱せず、公事に対しては勝手の批評を慎むべきものと心得てゐたから、腹に如何なる不平不満があつても容易に之を口に出さず、口にするものはたゞ紋切型の政府礼讃に過ぎなかつたので、政府者に取ても暫くは這の民情開発方針の継続を以て自家に不便なものとは気付かなかつた。併し乍ら斯の如きはさう永く続くものではない。一旦口輪を解かれた百姓町人は何時までも偽善的従順の徳を守らうとせぬ。況んや外の諸種の事情は更に一層自由批判の風潮を彼等の間に激迫せるものありしに於てをや。斯くして明治十年代の形勢になると、事実に於て民間と廟堂の対立は避け難きものとなつた。真に心ある者は、この対立抗争を余儀なきものと見做し而して寧ろ皇室をば速にこの争から超然たらしむる様工夫すべきであつたのに、当時の政治家は残念ながら思ひ此処に及ばず、民間の勢力を以て一図に皇室と利害相反するものなるかに看得し、前者の進出に対して、後者を保護せんが為めに特別の施設を必要なりとさへ考ふるに至つた。所謂皇室の藩屏なる言葉の如きは最も適確にこの観念を現はすものである。百姓町人を飽くまで領主と相対立する固定階級と見、所謂仁政と云ふが如きも畢竟は前者の利福の為めに後者が自発的に多少の犠牲を忍ぶことだと観じ、治める者治めらるる者の利害の渾一と云ふ事に就て更に説く所のなかつた封建時代の教養に培はれた当時の政治家達に取て、右の如き思想があらゆる政治方針の前提となるのは亦己むを得ないことでもあらう。

     伊藤公の憲法起草の精神

 伊藤公がその専制的立場を擁護せんが為めに意識的に天皇親政論を引援したと云ふのは恐らく誣言であらう。けれども彼れは一団の政友属僚を率ゐて至尊に側近し、高く障壁を築いて容易に局外者をして近づき窺ふを得しめず、独り自ら至尊に訴へ又其の詔命を奉じて天下に号令し、之を以て日本国体の真髄たる天皇親政の実を挙げ得たと信ぜしことは疑ない。之等の事実は『伊藤博文秘録』を見てもよく分る。併し何よりも明に伊藤公のこの思想を示すものは、彼れがその自ら起草せる帝国憲法に与へたる註解である。私は其の一つの例として枢密院に関する部分を引いて見よう。
 伊藤公はその著『憲法義解』第四章の解説に於て次の様に述べて居る。「国務大臣ハ輔弼ノ任ニ居リ詔命ヲ宣奉シ政務ヲ施行ス、而シテ枢密顧問ハ重要ノ諮詢ニ応へ枢密ノ謀議ヲ展(の)ブ、皆天皇最高ノ輔翼タルモノナリ」と。即ち公は施政最高の実権は至尊儼として之を握り給ひ、而して右には枢密顧問を率ひて事を諮り左には国務大臣に命を伝へて万機を行はしむるの制度を眼中に置いてあつたのである。是れ取も直さず天皇親政を以て帝国憲法の根軸となすの見解ではないか。
 世間には枢密院を以てもと憲法審議の為めに設けられた臨時の機関であるかに説くものがある。憲法の草案が出来た突然公布するよりも一応相当の機関に諮つた方がいゝと云ふので、急に枢密院を作つたと云ふ歴史はある。併し単にそれ丈けの目的で出来たものだから、当てがはれた仕事が済んだら直に廃さるべきであつたと考ふるのは大なる誤りである。尤も枢密院存続の可否と云ふ根本論なら又別問題だ。憲法上の制度としての枢密院は、既に憲法草案にも予定されてあつたので、憲法に依て作らるべきものが便宜上憲法に先立つて作られたといふに過ぎぬのである。憲法に先立つて作られたことは、固より憲法審議の為めに相違ないが、既に作られた枢密院は、憲法の確定と共に之に基いて種々重要の職務を有つことになつたのである。而して制定者たる伊藤公の解する所に依れば、国務大臣は単に君主の詔命を奉じて大政の施行に当るものに過ぎず、従てその所謂輔弼は詔命の執行に限らるるのであるから、外に詔命そのものの構成に付て君主を輔翼するものがなくてはならぬ、それが枢密院だといふのである。『憲法義解』は更にこの点を一層明白に説いて居る。曰く「蓋内閣大臣ハ内外ノ局ニ当リ敏急捷活以テ事機ニ応ズ、而シテ優裕静暇思ヲ潜メ慮ヲ凝シ之ヲ今古ニ考へ之ヲ学理ニ照シ永図ヲ籌画シ制作ニ従事スルニ至テハ別ニ専局ヲ設ケ練達学識其ノ人ヲ得テ之ニ倚任セザルベカラズ、此レ乃チ他ノ人事卜均シク一般ノ常則二従ヒ二種要素各其ノ業ヲ分ツナリ。蓋君主ハ其ノ天職ヲ行フニ当リ、謀リテ而シテ後之ヲ断ゼムトス。即チ枢密顧問ノ設実ニ内閣ト倶ニ憲法上至高ノ輔翼タラザルコトヲ得ズ」と。
 以上も一例に過ぎぬが、之れだけに依ても伊藤公が如何なる主義に基いて我が帝国憲法を起草されたかが分るだらう。伊藤公自身は本来頗る坦懐の人柄であり、客に接するにも城府を設けず、用ふるに足るの人材と見れば門地郷貫を問はずどん/\抜擢したと云ふから、彼れに依て率ゐらるる為政階級は、年を経るに従て大に其の内容を民衆化するの可能性はある。現に、是れ一つにはまた時勢の影響でもあつたが、所謂藩閥の内容の憲法発布前後に至て初期のそれに比し著しく改鋳せられて居つたことも争へない。併し乍らそれでも天皇親政を伊藤公の解するが儘に執つて旗幟とする限り、結局の実権は至尊側近の二三者に帰し、そが果して帝国将来の政治の為めに得策なりや否やが永く疑問たらざるを得ないのである。いづれにしても私共は、伊藤公の解する所の憲法の何物たりやに付ては十分明白なる認識を把持することを必要とする、而してこの種の憲法観が多くの先輩政治家間に安価に承認され、又は少くとも無遠慮に之を批判するを憚られて居る所以に付ても、一応の理解を有つは極めて必要の事と考へる。
 附記、枢密院の政治的地位に就ては昭和二年六月の本誌に於て多少綿密なる研究を公にしたことがある。近く公刊さるべき小著『現代憲政の運用』中にも収めるつもりだが、就て御参照下さらば幸甚とする。

     結  論

 始めからことわつて置いた通り私はこの小論文に於て憲法並に憲政に関する学問上の理論を説かうとするのではない。学問上では疾うの昔に解決がついたのであるけれども、所謂伊藤公の憲法精神なるものが不思議に政界の一角に居然たる勢力を占め、現に運用されて居る憲政の活用に対して一種異常の牽制力を発揮するの事実をば、実際政治上の一重要問題として国民の眼前に展開せんと欲するに過ぎぬのである。例へば世間の一部には漫然として枢密院の廃止を叫ぶものがある。政治学上の議論として枢密院の如きの之を存置すべき根拠なきは或は自明の理なりとしよう。けれども之を如何にして廃するを得るか、又は少くとも之を如何にして無力なものと為し了うることが出来るか、実際政治の問題としては寧ろこの方が喫緊の重要研究項目であらう。伊藤公の憲法精神又は皇室中心主義の憲法観なるものの解剖と、其の発生成育の史的過程に関する私の説明は、不完全ながら幾分這の実際問題の解決に心を向くる人達の参考になるかと考へる。更に進んで之を如何に解決すべきかに付ては、固より私に一個の成案が無いではないが、余りに長文に亙るを恐れて之は他日の論究に譲りたい。唯呉々も注意したきは

 (1) 所謂伊藤公の憲法解釈を奉ずる限り、今日の憲政運用の実況は断じてその憲法精神と相容れぬものであること。
 (2) 謂ふ所の憲法精神を確守してあらためて憲政実際の運用に方向転換を劃するは事実に於て不可能であること。
 (3) このヂレンマに当面して一時姑息の妥協弥縫を事とするは政界腐敗の重大原因でなくてはならぬこと。

の三点である。かくて結論は当然に議会中心主義を一層徹底して君民一体の大理想を実現するの外はないことになる。議会中心主義の名を聞いて直に皇室中心主義を之に対立させるのは不明も亦甚しい。議会中心主義の対手は唯一つの官僚主義の外にはないのである。而して議会中心主義のチヤムピオンたる各政党は、元来その朝に在ると野に在るとを問はず、共同の問題として大にその確立に尽力すべきではなかつたか。今までの様に甲党が乙党を失脚せしめる為に密かに款(かん)を官僚主義に通ずると云ふ様なことでは困る。各政党が徒らなる政権争奪の悪夢より醒め、問題に依て互に争ふべきものと倶に協力すべきものとの区別をあやまらず、以て憲政の大局を玉成するの誠意なくんば、所謂明るい政治は何時まで経つても我々に恵まれぬであらう。