原首相の兇変に就て当局の一官人に与ふるの書
原首相の意外の兇変につき、直接取締の局にある君は嘸ぞ心労を極めて居ることであらう。原首相の政見に対
しては兎角の批評もあつて、僕自身も服し得ざる多くの点を有つて居る。が稀に見る偉才として不時の兇変を愛
惜するの情に於ては、僕と雖も人後に落ちるものではない。併しこんな事は今更云つても返らない。只斯の如き
不祥事は今後絶対に繰り返させたくないものだ。人心の険峭に趨きつゝある今日に於て特に此感を深うする。此
点に於て僕は特に君の手腕に期待する所甚だ多からざるを得ない。
先達は安田翁が殺された。今度復た首相の兇変があると、世間は何となく同じやうな事がまた繰り返さるゝこ
とがなからうかと心配する。取締の局に当るものが、更に一層の熱心を以て将来を警戒すると云ふ態度に出づる
のは怪むに足らない。当の犯人を捉まへて之を厳重に取調べるに手落ちがないばかりでなく、更に其周囲の八方
に手を入れて少しでも怪しいものならば之を見逃すまいとして居るのも将来を警戒すると云ふ懸念から見れば
首肯かれる。僕等から考へても近頃の人気は可なり荒いやうだ。人心変を思ふと云つては大袈裟だが、今度の兇
変を見ても之を単純な突発孤立の事件と見る訳に行かないやうな気もする。従つて僕等も亦君等と同じやうに之
について相当の対症法を講ずる必要を認めて居るのだが、之については正確なる診断が先決問題だ。而して君達
は昨今の社会の症状をどんな風に診断して居られるのだらうか。
182
詳しい事は分らない。が新聞の報ずる所によつて、君達や君達の仲間の遣られて居る所を見ると、正確なる診
断をするのに必要な条件を万遍なく突き止めて居るかどうかが疑はれぬでもない。病菌の伏在すと認めた所に大
清潔法を完全に遣らうとする誠意と熱心とは認める。併し、伝染病の蔓延を防がうとして、脚気で死んだものま
で始末する必要はあるまいし、又同じく伝染病で死んだものでも、此等予防の方式を以てしては天然痘は防げな
い。世の中が進むと病気にもいろ〈のものが出て来る。此頃のやうな変転期に於ては格別慎重な研究を積まな
いと往々にして誤ることがある。聡明な君には疾くにこんな事は分つて居る筈だ。
原首相の兇変に就て当局の一宮人に与ふるの書
之は直接君達の遣つて居る仕事を批評するのではないが、新開などでは今度の兇変を大久保利通、森有礼や近
くは星亨の暗殺と比較する議論がある。大久保、森の暗殺は一面誤解と狂嗅との嶽果ではあるが、主としては政
治上の理由に基く。星の暗殺に至つては彼の政治的行動に対する不満が殆んど唯一の原因で、純政治的暗殺たる
こと一点の疑を容れない。要するに政治家の暗殺は其原因専ら政治的であつた所から、今度のも亦政治的性質を
帯ぶるものであらうと頭から極めてか、る議論が多いやうだ。だから一方には原氏の政策を極力非難した反対党
の議論が、自ら無垢の少年を煽動したと云ふ風に観るものもあるし、他方には原内閣の誤つた政策其物が畢克自
ら禍を招いた事になると説くものもある。密かに聴く所によれば、君達の仲間では、此際原氏の人物及び政見を
主遺とする非難攻撃は新開雑誌に書かすまいと云ふ評議があつたとやら。其真偽は分らないが執れにしても兇変
の動機を専ら政治的方面に求めんとする点は同一だ。併し我輩の観る所によれば、之が果して唯一の、又は少く
とも主要なる理由であらうか、甚だ疑ひなきを得ない。
尤も右のやうな政治的理由も眼中に措かないでいゝとは云はない。疫病で悩んで居つた時に、不幸にも亦風邪
k者
を引いて死期を早めたと云つたやうな助成困にはなるかも知れない。或は風邪を引かなかつたなら死なずに済ん
だと云つたやうに重い働きを此場合為したとも見られやう。けれども根本の病源は政治的方面に求むべきもので
ないやうな気がするので、そこで僕は能伽々此手紙を君に書く気になつたのだ。僕も亦昨今の社会状態に対しては
深き憂を砲いて居るのだから。
尚僕の密かに考ふる所によると、今度の兇変の原因が、主として政治的であり、又此方面の外に憂ふべき何物
もないとするなら、原首相の兇変其事は夫自身極めて重大の問題であるけれども、之を一つの伝播性を有するも
のとして怖るべき理由はないと思ふ。癌は恐るべき病気だけれども伝染性はない。伊庭想太郎や西野文太郎やは
さう沢山あるものではない。絶対にないとは云はないがコレラやペストを恐るゝやうな態度で臨む必要はなかり
さうに思ふ。
や ぶ
考へても見るがいゝ。大久保の殺されたのは幕末の余勢尚去り遣らず、打つたり切つたりを何とも思はなかつ
た時代の事だ。些かの政見の相違があ、した結果を産むと云ふ事はあの当時には怪しむに足らない。況んや大久
保の傲岸は当時最も強く反対党の悪感を唆つたに於ておや。今日は時勢が違ふ。どんな倣岸な政治家でも、朝鮮
にでも行つたら格別、内地に居つて大久保と同じ制裁を受くる気遣はあるまい。森有礼や星亨の暗殺は仮令其間
に幾多の誤解があつたにせょ、相当の人が相当に考へた結果の行動で、中にも後者の場合に至つては深思熟慮の
つまはじ
後の断行であつた。斯う云ふ事は決して沢山あるものではない。社会全体が指弾きをするやうなものでも、社会
の為に進んで之を抑へつけると云ふやうな所謂義人は滅多にあるものではない。我々は寧ろ其乏しきを嘆ずるも
ので、社会の道徳的制裁カの弱いのも、畢尭勧善懲悪の熱が足りない所にあると考へる。従つて社会の為めに害
悪を除かうとて進んで自ら殺人的行為に出づると云ふやうな事は容易にあるものではない。少くとも斯う云ふ風
う44
は段々少くなりつゝあることは疑を容れぬ。尤も人によつては名の為めに斯んな事を遣るものもあらうなどゝ云
ふ人もある。殊に今度のやうな兇変があると、彼は名の為めに遣つたなどゝ説くものもあるが、如何に名の為め
とは云ひながら、自分の生命をまで捨てゝかゝる程の無謀の者はさう多くある筈はない。仮令偶々あつたとして
も之が伝染性を有すると観るのは断じて誤りである。今日の人間は仮令年少気鋭の士と錐も、生命に対する執着
は寧ろ強過ぎる位だ。故に今度の兇変の如きも若し之が大久保や星の暗殺と同じやうな種類のものであるとする
なら、之を病気に響へば癌のやうなもので、ペストやコレラと同一視すべきものではないと思ふ○
原首相の兇変に就て当局の一宮人に与ふるの書
之も新開の報ずる所によつての話であるが、今度の兇変が起ると直ぐに、所謂社会主義者の方面に探偵の眼を
放つたと云ふ事である。当局としては当然の所置でもあらうが、之も少し見当椀遭ひはしないか0所謂社会主義
しかし
者の仲間の中には平素可なり粗暴過激な言論を縦まにするものはある。併ながら社会主義は決して大臣の暗殺な
どを鼓吹するものではない。西洋では斯う云ふ仲間から虚無党のやうなものが事実起つて居るから、主義の理論
的詮索を離れてテロリストの発生を警戒すべく、此等の仲間を監視するの必要はあらうが、日本に此等のものが
起つて居るか、或は起らんとしつゝあるかは尚一層慎重なる講究を要すると思ふ。此点については尚折を見て親
しく会つて君と話さう。君達の仲間は余りに最近の社会主義者の動静に通じて居ないやうだ。彼等の間は昨今中
々複雑で、局外の者にはなか〈分らない。下級の刑事なぞの報告のみにたよつては大変な間違だと云ふ事を意
こうけい
に留めて呉れ給へ。勿論放任していゝとは云はない。けれども又取締りが肯紫に中らないと却つて穏健なものま
でも駆つて過激なものたらしむる惧れがある。此点が実に此種取締方策の最も慎重な態度を必要とする特色だ0
〔詐欺〕
欺偽や泥棒の不蓮の徒を取締ると同じ心持でやつては飛んでもない結果になる。昨今の形勢を真に憂ふるなら、
拙者
どうか僕の此忠言をよくよく噛み分けて貰ひたい。
う46
どうも僕の考へでは、今度の兇変は専ら政治的動機から来るものではないやうだ。無政府主義的冥想から来る
とも見難い。只何んとなく社会の何処かに暗雲が棚曳き、それが年と共に濃厚な低気庄を作りつゝあるやうに思
はれてならない。果してさうだとすると、其低気庄が何時勃発して雨となるか風となるか分らない。先に君達が
今回の兇変を伝染性を有するかの如く見て大いに心を悩まして居る所以があるのだ。若し之が無政府主義的の考
に動かされて遣るのなら、やりさうな連中は大抵分つて居る。誰が遣るか分らないと云ふ所に深く考ふべき点が
あるのではなからうか。彼れほど警戒を厳にして居りながら、あゝした結果を見たとて警視庁辺では恐催措く所
を知らずと云ふ有様なさうだが、併し僕から観れば、そこに何等の不思議はない。予め警戒すると云へば、社会
主義者のどの仲間とか、政府反対のどの仲間とか、大抵眼の着け所は定まつて居る。其以外に眼の着けやうがな
い。而して此等の連中は口では随分乱暴な事を云はうが、滅多に之を実行するものではない。豊に図らん哉実行
は意外の所から来た。之ではどんなに警視庁が要心しても気の附けやうがないではないか。空気伝染の疫病に対
して現代の医学が、殆んど為すなきと同様の感がある。そこで僕はこう云ふ不安の状態を来たしたその源が何処
にあるかを、も少し立ち入つて君方に考へて貰ひたいと思ふのだ。今度の兇変は取調べの結果或は意外にも僕の
心配するやうなものでなかつたかも知れない。それならそれでいゝが、併しそれと別にして僕の次に述ぶる点は、
枢要の地位にある君達に是非共慎重に考へて貰ひたいのである。それは何かと云ふに、現代社会に対する労働階
級の心理と云ふ事である。
原首相の兇変に就て当局の一宮人に与ふるの書
労働者の心理などと云へば君達は、何の事だ、そんな事なら改めて聴くまでもない、と云ふだらう0そこだ0
問題は君達が労働者の問題に一通り通じて居る積りで居る所にある。労働問題の事は僕も専門でないからよくは
知らないが、之まで多少注意はして来た、少くとも君達の程度には通じて居つた積りだ○所が此頃になつて僕達
の知識は意外に浅薄なものであつた事を発見して居る。否、我々は労働者の心理が今日此処まで深刻になつて居
る事を見て驚いたのである。君達には分るまい、と云つては失礼のやうだが、僕達すらが分らなかつ〔た〕のだか
とが
ら、君達に分らないのが当然だ、言葉の不遜を尤めずして先づ事実を正当に見て呉れ給へ0
労働争議などの起る度毎に、君達はよく労働者は二三矯激の思想家に煽動されたと云ふ。労働争議の中には糎
動の結果として起るものも無論少くはないだらう。併し君達は今尚此等の煽動がなければ労働争議は起らないと
考へて居るか。最近ふとした事から少し突き込んで此等の事情を研究して見て僕の驚いたのは、労働者が間是を
いのちが
自分の問題として生命懸けでやつて居る其真剣味の濃厚な事である0君達は思想家が労働者を煽動して居ると見
るが、煽動どころか、労働者の真剣の運動に引張られて思想家の方が手も足も出ない状況にあることを念頭に置
いて貰ひたい。熱のない労働者を結束する為めに困つたと云ふのは二三年も前の話だ。今日僕達の友人の労働運
動に従事して居るもの、最も苦心して居る点は、如何にして労働者の生一本の突撃的態度を適当に指導すべきか
と云ふ点にある。こんな事は殿上人には容易に分るまいが、流石に君丈けは略ぼ諒解が出来るだらう0
も一つ考へて貰ひたいのは、労働者の真剣になつて居る結果昨今の対労働政策をどう観るかと云ふ事である0
表面の理窟は抜きにしよう。労働者の気分を今問題として居るのだから、一歩退いて労働者が今日の資本家なり
政府なりの能違をどう覿て居るかを研究しよう。労働者と資本家との対抗戦に於て、労働者は曾て一方の活路を
開かれた事があるか。労働者の根本主張がいゝかわるいかは別問題として、政府は曾て彼等の運動に一方の活路
柳・留
を開いてやつた事があるか。国際間選でも最後の勝利に因る平和の解決は根本的の解決ではないと云ふ思想の流
行する今日の時代に於て、何事でも独り労働間邁に対し、最後の勝利に因つて之を解決せんとする態度の、政府
及び資本家に濃厚なることや。最後の勝利に因る平和は敗者をして臥薪嘗胆の復讐を準備せしむるが如く、昨今
の労働界の状況は一間題が起る毎に労働者の復讐心を非常に濃厚ならしめる惧はないか。君は最近労働争議が労
働者の無条件降伏に終つた例が蜃々繰り返されたのを何と観て居るか。
人によつては労働者がさう云ふ風に考へるのが間違ひだと云ふ。或はさうかも知れない。併し、間違であつて
もなくても、さうした考を日に日に深くして居ると云ふ事実の前には我々篤と眼を割く必要はないか。而して之
は労働者の誰彼、又労働運動指導の任に当る誰彼の問題ではない。一般の空気が斯くして段々陰鬱になつて行く
ことが見逃すべからざる現象だと考へるのである。
斯うした気分は、労働者と共に所謂労働運動の指導を事として居る階級も共に有つ所だ。が、併しどんなに彼
ヽ ヽ ヽ
等が煽動者として政府や資本家からイヂメられたとしても労働者のやうな気分にはなれない。此処に僕は特に君
ヽ ヽ ヽ
の注意を憲きたいと思ふ。所謂指導階級も其立場になつて考へて見れば、随分イヂメられては居る。世間からは
悪口を云はれる。牢屋にも打ち込まれる。夫れでも彼等は大学を卒業したとか、相当の教育を受けたとか云ふ丈
けで、兎も角も飯丈けは喰へる。彼等が呪つて居る現社会は焉んぞ知らん矢張り彼等を特遇して居るのだ。どん
底まで苦しめられてはゐない。其処に我々は彼等の呪岨的態度にも若干の余裕あるを見ると共に、彼等が自分の
死活問題として専心一意労働問題の解決に熱中し得ざる事情を察することが出来る。斯うなると、本当の筋肉労
働者は惨めなものだ。彼等には自らの腕の外何の頼みとする所はない。即ち労働問題が彼等の死活問題の全部な
のだ。賃銀の値上げといひ、解職手当の増額といひ、之が彼並びに彼の家族の死活に係るのである。真剣になら
う48
原首相の兇変に就て当局の一宮人に与ふるの書
ずして居られようか。
今の貸銀では喰へないとする。値上げの運動をすれば頸切られる。一度頚切らるれば容易に他に職業を求むる
ことは出来ない。仲間を作つて気勢を揚げようとすれば先に法の制裁が来る。進んでかゝる窮境に陥る責任の何
れにあるかの議論は止さう。兎に角斯う云ふ境遇に居るものが、段々自覚しっゝある今日の彼等の気分は我々決
して軽卒に考へてはいけない。此等に関聯して僕の君達にいひたい点は沢山あるが、それは他日の機会に譲らう0
当面の間選について特に君の諒解を得たいのは、斯うした境遇にある労働者が、当局大臣なぞの機に応じて発す
る言論を如何に迎へるかと云ふ点である。概して労働者は単純な頭脳の持主だ0原さんが何を云はうが、床次さ
んが何をいはうが、我々は時としていゝ加減な事を言つて御坐ると一笑に附すこともあるが、労働者にはさうは
行かない。大人同志が戯談を云つて居ることでも、傍に聴いてる小児が真に受けて怒り出すと云ふ事もあるやう
に、労働者に対する響き方は我々とは違ふ。彼等は自分の境遇を省みて苦しくつて苦しくつて堪らない0政府の
今迄の態度にも可なり不満がある。それでも大臣などをエライ人だと信じて、其中にはどうかして呉れるだらう
とげ
と一績の望を掛けて居つた際、若し当局者が皮肉な、刺のある、同情のない言論を労働運動について発したとす
れば、どれ丈け労働者の憤激を挑発するか。此点をよく〈君に察して貰ひたいと思ふ0我々には笑つて済ませ
る事だからとて軽々に附しては大変な間違だ。
神戸の労働争議以来の労働界の状況、之に関する当局大臣の言論、理否の何れにあるは姑く別閉篭として、此
たかぶ
等が労働者を如何に自暴自棄の境に導いたか、又如何に彼等の憤激を昂らしめたか0之と併せて指導者階級が如
何に其緩和に骨折つて居るかに想到して貰ひたい。君はよく諒解して呉れるが、君達の仲間の日して以て憎むべ
き煽動者となすものが、何人よりも一番熱心に民情悪化の抑止に骨折つて居ると云ふ事実をも考へて貰ひたい0
細密
を開いてやつた事があるか。国際問題でも最後の勝利に因る平和の解決は根本的の解決ではないと云ふ思想の流
行する今日の時代に於て、何事でも独り労働問題に対し、最後の勝利に因つて之を解決せんとする態度の、政府
及び資本家に濃厚なることや。最後の勝利に因る平和は敗者をして臥薪嘗胆の復讐を準備せしむるが如く、昨今
の労働界の状況は一間題が起る毎に労働者の復讐心を非常に濃厚ならしめる惧はないか。君は最近労働争議が労
働者の無条件降伏に終つた例が蜃々繰り返されたのを何と観て居るか。
人によつては労働者がさう云ふ風に考へるのが間違ひだと云ふ。或はさうかも知れない。併し、間違であつて
もなくても、さうした考を日に日に深くして居ると云ふ事実の前には我々篤と眼を割く必要はないか。而して之
は労働者の誰彼、又労働運動指導の色に当る誰彼の問題ではない。一般の空気が斯くして段々陰鬱になつて行く
ことが見逃すべからざる現象だと考へるのである。
斯うした気分は、労働者と共に所謂労働運動の指導を事として居る階級も共に有つ所だ。が、併しどんなに彼
ヽ ヽ ヽ
等が煽動者として政府や資本家からイヂメられたとしても労働者のやうな気分にはなれない。此処に僕は特に君
ヽ ヽ ヽ
の注意を若きたいと思ふ。所謂指導階級も其立場になつて考へて見れば、随分イヂメられては居る心世間からは
悪口を云はれる。牢屋にも打ち込まれる。夫れでも彼等は大学を卒業したとか、相当の教育を受けたとか云ふ丈
けで.、兎も角も飯丈けは喰へる。彼等が呪つて居る現社会は焉んぞ知らん矢張り彼等を特遇して居るのだ。どん
底まで苦しめられてはゐない。其処に我々は彼等の呪岨的態度にも若干の余裕あるを見ると共に、彼等が自分の
死活問題として専心一意労働問題の解決に熱中し得ざる事情を察することが出来る。斯うなると、本当の筋肉労
働者は惨めなものだ。彼等には自らの腕の外何の頼みとする所はない。即ち労働問題が彼等の死活間遺の全部な
のだ。賃銀の値上げといひ、解職手当の増額といひ、之が彼並びに彼の家族の死活に係るのである。真剣になら
う48
原首相の兇変に就て当局の一宮人に与ふるの書
ずして居られようか。
今の賃銀では喰へないとする。値上げの運動をすれば頚切られる〇一度頸切らるれば容易に他に職業を求むる
ことは出来ない。仲間を作つて気勢を揚げようとすれば滋に法の制裁が来る○進んでか、る窮境に陥る責任の何
れにあるかの議論は止さう。兎に角斯う云ふ境遇に居るものが、段々自覚しっゝある今日の彼等の気分は我々決
して軽卒に考へてはいけない。此等に関聯して僕の君達にいひたい点は沢山あるが、それは他日の機会に譲らう0
当面の問題について特に君の諒解を得たいのは、斯うした境遇にある労働者が、当局大臣なぞの機に応じて発す
る言論を如何に迎へるかと云ふ点である。概して労働者は単純な頭脳の持主だ○原さんが何を云やっが、床次さ
んが何をいはうが、我々は時としていゝ加減な事を言つて御坐ると一笑に附すこともあるが、労働者にはさうは
行かない。大人同志が戯談を云つて居ることでも、傍に聴いてる小児が真に受けで怒り出すと云ふ事もあるやう
に、労働者に対する響き方は我々とは違ふ。彼等は自分の境遇を省みて苦しくつて苦しくつて堪らない0政府の
今迄の能差にも可なり不満がある。それでも大臣などをエライ人だと信じて、其中にはどうかして呉れるだらう
とげ
と一線の望を掛けて居つた際、若し当局者が皮肉な、刺のある、同情のない言論を労働運動について発したとす
れば、どれ丈け労働者の憤激を挑発するか。此点をよくノト君に察して貰ひたいと思ふ0我々には笑つて済ませ
る事だからとて軽々に附しては大変な間違だ。
神戸の労働争議以来の労働界の状況、之に関する当局大臣の言論、理否の何れにあるは姑く別問題として、此
たかぶ
等が労働者を如何に自暴自棄の境に導いたか、又如何に彼等の憤激を昂らしめたか0之と併せて指導者階級が如
何に其緩和に骨折つて居るかに想到して貰ひたい。君はよく諒解して呉れるが、君達の仲間の日して以て憎むべ
き煽動者となすものが、何人よりも一番熱心に民情悪化の抑止に骨折つて居ると云ふ事実をも考へて貰ひたい0
糊留
原首相の兇変に就て当局の一宮人に与ふるの書
」一
自分が附けた火に困つて居るのだらうなどと冷笑すべき場合ではないのだ。今はどうして此陰鬱なる空気に光明
を注ぐべきかと云ふ問題の研究が必要だ。
はげこ
何れにしても労働者界を中心とする昨今の社会状態には非常に陰鬱な暗雲が棚曳いて居る。丸で毒瓦斯の蔓つ
て居るやうなもので、何時誰が共毒を受けるか分らない。偶々甲なるものが其毒に罷つたからとて、其周囲の乙、
丙を検挙するが如きは抑も未だ。僕は今度の事件に対する君達の措置に反対だと云ふのではない。只頗る時勢に
憂ふる所あるが故に、も少し研究の範囲を広くして君達と共に根本解決に協力したいと思つて此手紙を書いたの
だ。
うう0
今度の事件の真相が分つた上で、仮令ば僕の考へて居たやうな意味のものでなかつたとしても、僕の心配は相
当に理由あるものとして是非共君の講究を待たねばならぬが、序に一つ君に考へて貰ひたいのは、今度のやうな
事件については、政府に於てもつと事件の真相を社会に明かにして貰ひたい事だ。早い話が今度の問題にしても、
政治的の意味のものか、或は労働問題などに関聯するものか、之を明かにしないと我々は社会の何処に矢を放つ
てい、か分らない。此点は安田翁の暗殺についても同じだ。僕等は動機の何れにあるにせょ、斯くの如き行動の
絶対に排斥すべきを唱道するに於て決して人後に落ちるものではない。此点に於て大いに社会の一部に存する悪
さて
思想と戦ひたいのだが、倦其何物と戦ふべきかゞ今の俵では分らない。普通の詐欺や泥棒なら、天下何人も悪い
と云ふ事を認めて居るし、当の本人も亦い、と思つてやつてるのではないから、之は単純に悪い悪いと非難する
丈けでもい、。併し今度打やうなのは一部にはそれ程悪いとも思つても居ず、時としては斯くする事が社会の為
めだと考へて居るものもある。斯う云ふものに対しては単純に悪い悪いと云ふ丈けでは収らない。理論として大
いに戦ふの必要がある。而して之と戦ふに最も適当な地位にあるものは、或点まで此等兇暴な連中の主義主張に
理解と同情とを有するものである。政府当局には此等の人々をも引くるめて危険視するの嫌ひはないか。言葉は
適当ではないが、政府はもつと所謂危険人物を利用したらどうか。危険思想の取締りに一番有効な方法は、危険
人物を利用することである。政府なんぞに利用されるものかと大言はするだらうが、君のやうな聡明な役人には
さう大して難しい事ではない。
はか
最後に一つ君に諮りたいのは、遺書の発表といふ事である。安田事件についても同様だが、治安に妨害ありと
して発表を禁止して居るにも相当の理由あるが、併し之では何の動機であんな事をやつたのか分らない。従つて
我々は社会の如何なる敵と戦ふべきかを判断するに苦しむ。絶対に発表せよと云ふのではないが、発表禁止の為
めに飛んでもない想像説が世間に流布するやうでは、二重三重に社会の損害である。我々は疫病の流行を怖れて
居る。病菌の存在をも略ぼ疑はない。其病菌の如何なる種類のものであるか、又如何なる方面に伏在するかにつ
いて判断の材料を供給せられて居ない。斯う云ふ方面の診断に於て政府を最も適当と信じてゐない我々は、此点
に多少の遺憾を感ぜずに居られない。
君は今此等の問題の取扱に於て枢要の地位に居る。が、併し未だ自己の判断を政府其物の政策たらしむる地位
しか
に居ない。辛にして君の献策が上司の容るゝ所となればよし、否らずんば少くとも同僚部下の間に勧説して、他
日の備をなされんことを希望する。僕は切に君の聡明を頼みとするものである。
〔『中央公論』一九二一年一二月〕
抑留
うう2