クロポトキンの思想の研究
Z句W
クロポトキンの思想の研究
(一)
予の最も尊敬する学友森戸辰男君が、東京帝国大学経済学部の機関雑誌とも云ふべき経済学研究の創刊号に於
はか とん かも
て「クロポトキンの社会思想の研究」なる一論文を公にしたと云ふ事は、図らず昨今飛だ物議を醸してゐる。森
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ も かね
戸君がクロポトキンに精通し、又い、意味に於て其思想に多少の共鳴を有つて居らる、とは、予て開いて居つた
うんちく
所であるが、今度公にされた論文は、クロポトキンに関して有たる、平素の藷蓄を、最も遺憾なく又最も適当に
披渡されたものと観るべきや否やは、幾分疑はしいと思ふ。あの論文其ものに就ては、予にも多少の異見はある。
が併し、之を以て直に無政府共産主義の宣伝と見倣し、森戸君の人格思想の全体を危険視するのは亦決して穏当
けん ここ
の見ではない。但此等の点は、直接に親友の身上に捗る事だから、滋には略して云ふまい。他日更めて論ずるの
いわゆる
機会もあらうから。今はたゞ此問題に関連して、所謂無政府主義に関する世上の誤解を正し、外面の名に恐れて
こつしよ
有益なる思想の研究の今後忽諸に附せられざらん事を警告するに止めて置かう。
あらかじ
予め断つて置くが、予は無政府共産主義には勿論反対であるが、クロポトキンの思想の中には、色々の点に於
て多くの共鳴するものを見出して居る一人である。少くとも我々は、毒の中から薬を作り得るが如く、ク氏の思
いちにん
想の中より、今後の社会国家の経営上有益なる幾多の指導原理を見出し得べきを信じて疑はぬ一人である(之れ
こスノでい
丈けの事はノ々原書に遡るまでもなく、森戸君の紹・介を見ただけでも分る)。危険らしく響くその名に拘加柁して、
しnリぞ やや
玉石を分たず、凡てを斥けてはいけない。無政府共産主義といへば、世人動もすれば社会の秩序を破壊するに暴
力を用ふるを辞せざるものとのみ理解するやうだけれども、之は大なる誤りである。クロポトキンの無政府共産
主義そのものは排斥すべきものに相違ない。けれども彼の思想の中には、幾多の宝石の混在して居る事を忘れて
はならない。さればこそ最近西洋に於てもク氏の思想の研究は盛んになりつつあるなれ。我国に於ても、先般来
ひそ
畏友中沢臨川君が率先して其研究の必要を説かれて居つたので、予私かに之を徳として居つたが、今度森戸君の
カ さ一て
詳細なる紹介があつたので、新開の広告を見た時から、既に予は多大の希望を之に繋けたのであつた。扱公にさ
いたしかた
れたものを見ると、其紹介の仕方に就て多少の異見もあり物議を醸すに至つたのも致方ないと思漑るゝ点もある
も
棟だが、併し、之が原因となりて若し折角芽を吹き出したク氏の説の研究が挫折する事もあらば、そは学界の為
には勿論、日本の文化の上にも甚だ遺憾の事であると思ふ。
(二)
予の観る所に依れば、戦後の我が社会国家の経営に於ては、大にクロポトキンの所説を参考とするの必要があ
もた
ると思ふ。戦後の社会変遷に伴つて先づ大に頭を接げた者は
少くとも我が日本に於て1マルクスの思想で
あつたが、当時予は人に向つて、マルクスの時代は今に去るであらう、之に代るべさは即ちクロポトキンの思想
で、やがては之をトルストイまで持つて往きたいと云ふ様な事を申したのであつた。西洋に於ては今日既にマル
かな
クスよりもクロポトキンが遥に重きをなして居ると思ふが、果せる哉、我が日本に於ても、クロポトキン研究が
段々盛んになつて来る様に見ゆる。是実は当然の径路にして、何も直に之を危険視すべき理由がない。若しそこ
に何等か危険な事がありとせば、そは之が研究を適当に指導する者を欠く事である。更に危険なるは、無政府主
24う
かかわ ふさ
義の名に拘りて之が研究を絶対に阻止し、以て事物当然の進行を塞ぐ事であらねばならぬ。
もつと
尤もクロポトキンの思想は西洋に於ても久しく危険視されて居たことは事実である。・否、クロポトキン自身、
実は永い間危険人物として諸国の監視を受て居つたのである0何故に彼と共思想とが斯くまで危険視されしかに
ついては、別に説あれども、今は問題外だから説かぬ。只三一口して置かねばならぬのは、之に就いてはクロポト
キンの往々にして発する矯激の言が多少禍の種となつたのみならず、当時無政府主義といふ文字にまた世上多大
なが
の誤解があつた事である。併し乍ら、此誤解は段々分つて来た。無政府主義者と云へば只乱暴する者ばかりと思
うてはいけない。中には今日の国家の特徴となつて居る或る原理よりも、更にヨリ高い原理で社会生活の秩序を
きよろノこ いだ
一層筆固なものにしやうといふ様な、建設的の思想を懐いてゐる者も少くはない。而して斯う云ふ建設的な分子
ようや
を段々クロポトキンの思想にも見出して来たので、さてこそ昨今漸くク氏をかつぐものが殖えたのである。彼が
たつと
時々ヤッツケロ式の無鉄砲を叫ぶからとて、彼の説の中にある尊き珠玉を棄て、はいけないと云ふのが、彼の思
想に対する予の最近の感想である。然らばク氏の思想のどう云ふ所にさう云ふ珠玉があるのか。之れ最も大事な
問題である。
ついで と かく
244
猶序に三日したきは、我国に於ては
殊に官界に於ては−1兎角名に拘泥して其実を顧みないと云ふ風があ
そ
る事である。ツイ最近まで社会主義と云ふ名が非常に忌み嫌はれて居た事は、今更説くまでもあるまい。若し夫
な
れ無政府主義など、云へば、今彷ほ直に露国の虚無党などを連想して、大逆不道の陰謀を企むものなるかの様に
すぐさま
見倣されてゐる。従つてまた何等か不蓮の大陰謀でも企つる者があると、世間では直棟之を無政府主義者と云つ
し ま
て仕舞ふ。学問上所謂無政府主義と云ふ思想上の根拠に立て居るか否かを問はない。だから、此頃の様に思想界
が混乱し世上の風気も動揺して来ると、直に無政府主義的傾向が盛んになれるの結果なりとして警乾する。其上
可▼「/
ア メ ‖ノ カ シ ベ ‖ノ ア
亜米利加にも無政府主義者の大陰謀が発見されたとか、西伯利にも世界麒覆の恐るべき計画があるとか(此事の
ねつぞう シヤンハイ
荒唇無稽の捏造説なることは序に三日して置く)、又最近北一輝と云ふ人が上海から来て不穏の文書を撒布した
さぞ
とか云ふ類の出来事があるので、当局に於ては味無政府主義の幻影に怖れをなして居る事であらう。之も無理は
ない。併し乍ら昨今の思想界の混乱や社会の不安やは、決して無政府主義や其他の西洋に起つた特異の思想の東
漸の結果ではなく、我国の社会其者に不安動揺を招ぐ種があるからであると信ずる。尤も西洋の影響は全く無い
とは云はぬ。改革を要する欠陥を有するの点に於ては、東西其揆を一にするから、之に基く不安動揺は、謂はゞ
世界共通である。けれども、只此一端を外面的に観察して、深く内部の欠陥に察到するを怠らば、幾分危険思想
の取締を厳重にしても、社会の安寧は保たれない。社会の安寧を保つ根本の途は、思想の取締に非ずして、寧ろ
よちノ
危険思想の発育に適せぬ様社会其者を改革するに在る。
クロポトキンの思想の研究
(三)
ままこ
久しく継子扱ひにされて居つたクロポトキンが、
ふまでもなく、
今度の戦争が、
なかんずく
ないが、就中、
〔以上、『東京朝日新開』一九二〇年一月一六日〕
はや ど う
昨今急に持て嚇さるゝ様になつたのは如何いふ訳か。そは云
しやはん
這般世界大戦の進行に伴ふ − 又は其結果とも見るべき − 各国社会状態の急変の為めである。
各国に於て又夫等の国の各方面に亙りて、いろ〈著大の影響を与へた事は今更説明するまでも
其最も重要なるもの、換言すれば、最も熱烈に改造を要求されて居るものは、国際関係と労働対
資本関係との二つである。此両面に於て特に痛切に改造と云ふ事の要求せられ、次で如何に改造すればい、かの
問題になつて、即ちかねぐ一般世人よりは一歩先きに是れ等の点に答へて置いたといふ所から、クロポトキン
24う
ぎl附
が初めて顧みられるといふ事になつたのである。であるから、今頃クロポトキンが担ぎ出されたといふのは、軽
薄なる好事者が、思想界の紛乱に乗じて面白半分に世間を騒がすといふのではなくして、其実、当今の時勢の熱
烈なる要求に応ずるものあるが為めに妖…るものなのである。
一体戦争以前の国際関係は、如何いふ状態に在つたか。三一口にして云へば、無政府的混沌状態であつた。国際
法はある。国際慣例もある。けれども、イザといふ際には一片の紙屑に過ぎない。結局の所、国際関係に於て最
終最大の発言権を有するものは、現実のカに外ならぬ。道徳も法律も、腕力の前には何等の権威がない。其結果、
もと
各国家は、斯かる状態の許に自存の道を得んが為めに、自然富国強兵を唯一の目標として進まなければならなか
つた。是の為に如何に一般文化能力の開展が犠牲にされたか分らない。是れ実に十九世紀文明の一大欠陥として、
わ
識者の深く遺憾として措かざりし所であつた。若し夫れ国内産業関係に至つては、如何に保守的の人でも、資本
家が不当に労働者の利益を侵略して居るといふ事実を承認しない訳には行かない。是等の点は既に世上に十分言
くどくど
ひ尽されて居る所であるから、今詳々しく繰返すまい。要するに、此等の両方面に於て、従来の社会状能仙は実に
重大なる欠点を持つて居つたのである。而かも此事たるや昨今に至りて初めて明かとなつたのではない。平和論
の絶叫も久しいものだし、労働問題の如きは、数十年来の懸案であつた。が併し、社会の状態其ものは、容易に
改革の実現を許さず、其上、一方に微力ながら改革の要求の唱へらるゝものあるに拘らず一般の輿論は結局に於
て依然強い者に味方して弱い者を虐げる底のものであつた。斯くして戦前の世界は、国と国との間に於ても、又
人と人との間に於ても、弱い者に取つては誠に住み心地のわるい処であつたのである。
今次の戦争の終末に際して起つた各国の社会的動揺の如きは、或意味に於ては、此弱者の撞頭と見られないで
と
ないが、此一弱者の為の声は、実は既に疾くの昔からも叫ばれて居つたのである。クロポトキンは則ち其中の最も
246
議パ1照射ぢシい‥ト々ご駕{r.純潔 発
雄弁なる代表者であつて、而も最も能く時代の欠陥を指摘し、之に代るべき新施設をもH掟唱したものである。尤
はつこ
も強い者が非常に放屁して居た時代に生れて、彼自身また随分烈しく当局からも社会からも迫害されて居るから、
たと い
其所説に過度の誇張と激烈とを包有して居るのは已むを得ない。併し其割に彼の説は、仮令其根本に於て誤りあ
りとするも、能くも精密に将来の、社会状態の姿までを考へたものと感心される程である。何れにしても彼は其当
時の社会を1殊に国際関係と労資関係との二方面に於てT周到に批判し、如何に改造すべきやの点までを丁
寧に説明して居る点に於て、出色の特色を示して居ると謂つていゝ。
されば今度の戦争の終ると共に世界の人心が所謂改造の必要に目ざむると、彼等はどうしてもウロポトキンの
教を乞はぬ訳にゆかなくなつて来た。如何に改造すべきかの指針を求めてマルクスも一応は相談を受けた訳だが、
さ
併し彼は鋭利なる舌鋒を以て従来の制度の批判はして呉れるけれども将来の理想的社会に就ては教ふる所左まで
多くはない。クロポトキンの教説に至つては、勿論其俵之を受納れることは出来ないが、当今の要求に対しては、
たしか 〔深〕 しきり
憶にマルクス以上に吾人を教ふること親切なるものがある。近頃日本でも頻に流行する1否或る意味に於ては
日本の思想界を風靡して居ると云つていゝ所の
英のベルトランド・ラッセルの如さは、最も多くクロポトキ
クロポトキンの思想の研究
ンに学んで、彼の教説を如何に今日に採用すべきかを最も適切に吾人に語る所の代表的思想家である。改造とい
へば直にラッセルを連想する程に、ラッセルの思想は今日に重さを為して居るが、そのラッセルを正当に理解す
るためには、是非ともクロポトキンを知るの必要がある。云はゞクロポトキンは、ラッセルを通して特別に現代
の吾人と深い関係に在ることを認めなければならぬ。
と云つて予輩は、クロポトキンは無条件に吾人の師とすべきであるといふのでもなければ、又現代改造事業の
思想的指導者として、クロポトキンだけで十分だと云ふのでもない。彼の説に重大なる欠点あることは、何より
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も先に之を了解して置かねばならぬと思ふが、只之が為めに、彼が現代に対して要請し得べき其正当なる地位を
無視するは、大なる誤謬であり、大なる損失であると信ずるものである。
〔以上、『東京朝日新開』一九二〇年一月一七日〕
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(四)
おし
之よりクロポトキンの思想が当今の時勢に向つて何を訓ふるかを略述して見やう。
や か⊥よ
先づ第一に彼の共産主義の方面の説であるが、之は現今矢釜しい労資関係の解決に対して大に光明を与ふるも
のである。戦後労働問題が大に論ぜられ、否論究の時代を過ぎ実行の時代に進んだと云つてもい、程盛んになる
に連れて、世人は始めマルクスに指針を求めた。然るに先に十分の満足を見出すことは出来なかつた。マルクス
並に彼一派の社会主義の学説は、従来の経済組織のわるいこと、私有財産制の維持す可らざることは、明白に教
へて呉れるけれども、さて私有財産制を廃した後の社会を如何にするかについては、十二分に教へて呉れない。
夫れでも強大なる資本主義と戦ふといふことが当面の主要問題である間は、之でもい、が今日の様に時勢が急転
して来ると、如何しても世人は将来の理想的社会の積極的建設といふ方面で新なる興味を起さゞるを得ない。マ
ルクスは余りに階級闘争に主力を注ぎ過ぎて居る。誰か外にモット先を考へてゐる学者がないかと探して見付か
つたのは、即ちクロポトキンなのである。
尤も理想的社会を如何に建設すべきやの細目を説いた者は、ク氏の外にも多い、所謂ユートピアン・ソーシア
リストは督之れである。古くはトーマス・モーアより、近代のモーリスに至るまで、数へ上げれば随分ある。申
すこぶ しきり
にもモーリスの如きは頗る精細で又頗る傾聴に催する提説に富む。近頃此方面の事を井箆如即三氏が頻に紹介され
クロポトキンの思想の研究
て居るが、此点に於て予は私かに同氏に大なる敬意を私つて居る、又同氏が所謂科学的社会主義を排(?)して空
さ一て
想的社会主義を提唱せられて居るにも多分の真理があると思つて居る。扱、此等ユートピアンを外にしては、学
者の中で細目の建設的方面を比較的精細に説いた者は即ちクロポトキンである。此等の点は、森戸君の紹介に依
つて見ても明かであらう。要するに右の様な次第から、クロポトキンは、最近マルクスに代つて、社会改造の論
議の上に重要なる地位を占むる様になつた。又重要なる地位を占むる丈の価値を有することも疑ひない。
(五)
王ず
次に来るのは彼の無政府主義の方面であるが、之に関する彼の説を了解する前に、吾々は先次の二点を明か
わすらわ
にして置かなければならぬ。さうでないと、兎角無用の誤解に累されて問題q肌珂静なる研究が出来なくなるか
ら○
よ
一つは、無政府主義即ちアナーキズムと云ふ言葉は往々全く正反対の意味に使はる、といふことである。能く
世間では戦前の国際関係は無政府的混沌状態に放置されたと云ふ様な事を云ふ。此場合のアナーキズムは、道徳
法律の支那の外に置かると云ふ意味であつて、従つて腕力の抜屁といふ事実を承認する者である。之が一つの使
ひ方であるが、又他の一つの使ひ方としては、腕力の践屁より社会を救ふと云ふ意味で、武力を否認することを
アナーキズムと云ふことがある、吾々が今日通常にアナーキズムといふと、動もすれば社会生活の秩序を根砥よ
り破壊する即ち第一の意味に理解する事を常とするが、クロポトキンの所謂無政府主義は全然之に反し、多数が
少数を圧迫することを社会生活の秩序の娘砥とするといふ、共強制組織を否認するのである。彼の真意は、社会
の秩序を根本働に破壊せんとするに在らずして、更に之をより輩固にせんとする所に在る。只事実彼の説に従つ
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て社会の秩序がより輩固に確立するか否かゞ大なる疑問であり、ウッカリ彼の説に聴蹴すると飛んでもない目に
遭ふといふ所に危険が伏在するのである。
もう一つは、クロポトキンの所謂国家は、吾々の通用する国家とは大いに其意義を異にするといふことである。
クロポトキンの無政府主義が国家を否認するといふは隠れもない事実であるが、然し彼が国家を否認するとは、
人類の特定衆団生活に於ける強制組織の否認に外ならない。強制組織に依つて統括されなくとも、人類は其社会
かえつ
生活を全うすることが出来る、否、統括されない方が却てよく完全に生存の目的を達し得ると主張するのである。
此見解には吾々は固より賛成出来ぬけれども、強制組織の効用を過度に誇張する従来の国家観に対しては、憶に
頂門の一針として大に傾聴するの価値ありと信ずる。然るに、吾々の俗用の語としては「国家」といふ文字にそ
んな限られたる意味を附して居ない。吾々の社会的生活を直に国家と云つて仕舞ふ。例へば吾々は日本国家の文
化の開発の為めにどうかうするといふ。之は日本民族の団体生活に現れたる文化といふ意味であつて、何も其団
体生活が政治組織に依つて統括されてゐると云ふ方面を予想して始めて解せらるべき事柄ではない。即ち俗用の
語として吾々は、国家といふ文字を社会といふと同意味に使つて居るのである。シテ見れば、無政府主義が画家
を否認するといふは、社会生活の秩序を維持する為めの様式を変更せんことを要求するものであつて、吾々の社
会生活の秩序其ものを根本から素乱せんとするものではない。クロポトキンの思想の是等の点に関して多少明白
ばか
を欠く所がないでは無いが、今日の無政府主義の中には世人の考ふるが如き破壊的なもの許りでないことは、明
白にして置く必要がある。
此第二の点と関連して、無政府主義と主権者との関係が問題になるが、無政府主義は必ずしも主権者の排斥を
主張するものと決つたものではない。従来の所謂無政府主義者の中には、此点に於て兇暴な考へを懐く者が多か
2う0
一′い盛
クロポトキンの思想の研究
った。従つて無政府主義が危険視さるゝといふに相当の歴史的理由はあると思ふが、最近の新無政府主義は、必
ずしも此点に於て古いそれと揆を一にするものではない。所謂主権者が、単に消極的命令者として国民に陸むの
ではない、国民の文化生活の道徳的指導者として積極的に国民の心の中に活躍するといふことは、何の妨げもな
い筈である。のみならず、本当に立派な国体ならば、主権者は単に命令者としてのみでなく、積極的感激の源泉
となる様にならねばならぬではないか。日本といふ国が、若し万国に冠絶する所ありとすれば、そは即ち此点で
なければならぬ、即ち我が皇室の国民に対する関係は、命令服従の形式的なものでなく、モット深いモット高い
道徳的関係に在るのである。故に斯る強制関係を超越した即ち無政府的境地に美しき我国君臣の情誼を安置すべ
きであると思ふ。無政府主義は強制組織の否認である。其結果として主権者を如何するかといへば、之を排斥す
べしといふ議論もあり得れば、之を道義的に更に高尚な国民的尊崇の中心とせよ患いふ議論も成り立ち得る0無
ないがしろ
政府主義を斥くるに急にして、主権者といふ文字に拘泥するは、寧ろ皇室の道義的尊厳を蔑にするものではあ
るまいか。若し無政府主義といふ文字を後説の様に解すれば、平和なる家庭に命令服従の水臭い関係がないと同
じ意味に於て、我国体の如きは寧ろ無政府的なるを誇とすべきものではあるまいか○
〔以上、『東京朝日新開』一九二〇年一月一八日〕
(六)
クロポトキンの無政府主義は、其真髄に於て、多数の少数に対する圧制を排斥するに在つて、其自身は決して
危険なるものではない。只之に附随して加説した色々の方面に危険性を有するものあるは、之を承認しない訳に
は行かない。けれども、吾々は彼を今日に活かすに当つては、主として其真髄を採らなければならぬ0彼は主張
2う1
する0多数の少数に対する庄迫は如何なる場合にも許されない○吾々の社会生活は、各人の完全なる同意に依り
てのみ組立てられなければならないと○此考へは吾人の社会生活の理想としては永遠に真理であつて、盲…の非
な
難すべき所がない0而して少くとも之れだけの範囲に於ては、彼は今日彷ほ大に吾々を訓へるの資格を有して居
る者である。
クロポトキンの無政府主義の説に聴て、最も深く要求の満足を感じたものは、国際平和論者である。何となれ
′ヽるし
ば、彼等は久しく国際間に於ける強力の抜屁に困んで居たからである。併し乍ら、国際間に於ける強力の接尾を
抑へんが為には、国内に於ても亦強力の抜屁を抑へなければならない。此等の思想上の連絡の事などは滋に説く
の必要がないが、段々国内の問題に就いても、従来の国家が余りに強制組織を重んじ過ぎて居た事に気がついて
来た0之からは強制のための強制でなくして、大に自由を重んじなければならぬといふ風に考へて来た。此等の
点に就ては、予輩はこの正月号の中央公論に「国家生活の一新」〔本巻所収〕と題して詳論して置いたから、先に繰
返さぬ○兎に角かういふ風に政治上に新理想を吹き込むに就いて、クロポトキンの無政府主義が非常に働いた事
だけは、之を認めない訳には行かない。
斯ぐクロポトキンは、現代の思想界に於て重大なる役目を勤めて居るけれども、現代の思想界は、彼の説を彼
のいふ通りに承認して居るのではない0此点はまた深く注意するを要する所である。
我々は彼の無政府主義に大に共鳴する0併し之は遣い先きの理想として之を取るのであつて、今日直に実行す
べき主義だとは思はない0法律も刑罰もいらない世の中にしたいと願はぬ人は恐らく一人もあるまい。支那の人
は之を古代に求めたが、吾人は之を遠い将来の理想として之に向つて努力するを惜まない。而して之を理想とす
ることを忘れてはならぬとさへ考へて居る○監獄は何の為めに在るか。罪人が無くなり、監獄の入用を見ない様
2う2
J‖召せ−‘々 七
クロポトキンの思想の研究
きた あたか
な世の中を来す為である。之を忘れると、司獄官吏が罪人の多からんを好むこと、恰も▲医者が病人の多からんこ
こいねが
とを翼ふ様になる。故に政治家は、常に必ず無政府的状態を理想とするを忘れてはならない。従来の政治家は此
事に考へ及ばなかつた。従来の政治学も亦此事に考へ及ばなかつた。故に如何にすれば国家を富強にするを得る
ゃが、旧い政治学の主要問題であつたが、之からの政治学の主題は、国家の文化を十分に発達せしむるには、其
強制力を如何に運用すべきやに変つて来ねばならぬ。斯う云ふ一大進歩を政治の上に来さしむるに就いて、クロ
ポトキンの思想は実に著大な貢献をして居るのである。
但クロポトキン自身は、彼の無政府主義を遠い将来の理想としては説かなかつた。此処が彼の説を現代の思想
界が其佳採らざる重要の点である。彼は無政府主義を遠い将来の理想として説かず、之を今日直に実現すべき目
前の問題として説いた。暴力に訴へても実現すべき大事な仕事として説き廻つたカヤある。此に至つて彼の無政
府主義は、明白に危険性を帯びて来る。
然らば何故にクロポトキンはさう云ふ危険な説を立てたかといふに、之には相当の理由がある。彼は人間の本
土つと なか
性を非常に楽観した。本来放任して置いても、立派に社会生活を完うして行くものと信じて居た。なま中政府と
か法律とか云ふ者があつて拘束して居るから却てわるくなる。之を取り去りさへすれば、人間は自然にうまく治
って行くものと見た。故に彼は無政府的状態を即刻実現することに依つて、虜金時代は来るものと信じたのであ
る。
クロポトキンは、当時流行の一般思想界の影響を受け、人類社会を自然科学的に観て居つた。超自然的叡智が
人類の進歩を指導するなどいふ考へを迷信として排斥した。人間も共本質に於ては虫ケラと同じものと観て居た。
夫が何故に進化の段層を重ねて今日の様に発達したかの問題に対して、ダルウインは生存競争を以て答へたが、
ヨ
2うう
謂瀾瀾欄増柑り頂い州珊り§わ;暑!
クロポトキンの思想の研究
クロポトキンは之に反対して相互扶助を以て答へたのである。彼に相互扶助論の著あるが、是は人類は相互に助
け合ふべしと云ふ様な事を説いたのではなくして、人類には他の一般動物と同じく、相互に扶助するといふ本能
があるものであり、滋から社会生活の進化も生ずるのだといふ事実を説述したのである。であるから、ダルウイ
ンは人間の本性を殺伐なものと観たのに反して、彼は非常に美しいものと観たから、自然に放任してさへ置けば、
人間は立派に行けるものと考へたのは無理もない0彼の無政府主義の危険性の本源は、些点に存するのであ
る。
尤もクロポトキンの無政府的状能蔀時実現論は、右の様な人性楽観説に根砥するにしては、余りにふさはしく
ない程、現在の国家乃至政府を呪岨するに猛烈を極めて居る0些面のみ針見ると、彼は如何にも兇暴の悪党の
わ ひとよ
棟だけれども、本来の立場は、人間の本性を観ること御人好しに過ぎて居るのである。彼はどこに生れ、どんな
しばら
境遇に育つたかを考へれば、共の兇暴なる二郎にも多少の同情すべき点もあるが、そは姑く別問題とする。今は
たゞ何処までも彼の立場を理論的に了解して置くの必要がある。
さて今日となつては、クロポトキンの拠て以て議論の出発点とせし所の人性の自然科学的説明は崩れた。従つ
て無政府的状態は即時実現しても、期待した結果は必ずしも得られないと云ふことが明かになつた。否、人間の
本性にはクロポトキンの説く様な方面もあれば、又ダルウインの説く様な方面もあることが分つた。して見れば、
現在のところ、多少の強制は人性の訓練の為にも必要であると謂はなければならぬ。只無政府的状能首いふもの
が結局の理想であるといふ点だけは、動かない0此点だけでは、クロポトキンの所説は永遠に真理である。けれ
ども即時之を実現すべしなど云ふ事は、今日誰も考へて居るものがない様になつた。
2う4
へ七)
さればクロポトキンは、少くとも国際関係1に於ける国家生活
の上に一つの新理想を与へたといふ点に
於て、大なる功労を認めらるべき人である勺新しき時勢が熱烈なる要求に燃えて、探し求めた偉人である。今後
も
も吾々は彼に聴くべき多くのものを有つて居る。但彼は元の俵の形で自分で吾々の中に出て来ることは出来なか
つた。彼の説が現代に活きて現代を指導する為には、新しき時代に適応する新粧を纏ふを必要とした。此意味に
於ては吾々は、クロポトキンを現代的に観る為めに、ベルトランド・ラッセルに赴くの必要を観るものである。
ラッセルの思想を紹介するは、本論の主題の外にある。只三日するを要するは、ラッセルは一面ダルウインに
聴きて人性の殺伐なる方面を許して所有の衝動を説き、他面クロポトキンに聴卦で創造の衝動を説いた事である。
あ
而して前者を抑へて後者を自由に活躍せしめんが為めに、政治的制度の必要を認めたが、併し其制度たるや飽く
まで自由尊重の本義に立脚すべきを力説して、クロポトキンの素志を顕彰するを忘れなかつたのである。
今日ラッセルが如何なる地位を思想界に占めて居るかは深く問ふの必要はあるまい。而してクロポトキンを知
らずしては、ラッセルを解し難いのだから、以て吾々はク氏と現代の改造事業との間には深甚なる関係あるを察
すべきである。
之を要するに、クロポトキンの学説は、単に学術的興味から云ふばかりでなく、実用的興味から云つても、現
時決して等閑に附す可からざるものである。無政府主義の名に恐れて其研究を阻止するは、国家の前途に取りて
非常に不利益である。若し今日の如く、混乱の甚だしき際に、漫然此種不穏の文字を世上にさらすは危険なりと
云ふならば、予は敢て日ふ。だから無政府主義の何たるかを明かに知らしめて置くの必要があると。森戸君が、
2うう
ヽ ヽ ヽ ヽ なます
クロポトキンを現代に活かす為めに忠実の紹介者たりしや否やは別問題とし、あつものに懲りて胎を吹くの響へ
の如く、今度の事件の為めにクロポトキンの研究其事が頓挫する様のことあつては、誠に昭代の恨事なりと思惟
はか ゆえん
する。是予が敢て自ら捕らず草率此一篇を寄せて大方の教へを乞はんとする所以である。
〔以上、『東京朝日新開』一九二〇年一月一九日〕
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アナーキズムに対する新解釈