国策といふ言葉の濫用を戒む
近来国策と云ふ言葉が頻りに使はるゝやうであるが、若し之が国家の政策の中、最も根本的なものを意味するに過ぎざるものならいゝ。即ち一般法律の中に特に重大な憲法ありと云ふと同じ意味に於て、一般政策の中特に重要なるものを国策と云ふに我々は少しの異議もない。けれども此国策と云ふ言葉は初め何人が何の意味で使つたかを考ふる時に我々はこゝに大いに此文字の使用に警戒するの必要を認むるものである。予の記憶する所によれば、此文字の最初の使用者は軍閥及び其系統の学者である。彼等惟へらく軍事に関する国家の施設経営はもと天皇の大権に専属し、普通行政事務を取扱ふ政府の管理の外にあるべきものである。而して普通政策と云ふ言葉は内閣の管掌に属する事務の方策を意味するから、軍事に関する方策は全然之を其外に置き、而して内閣に属するもの及び内閣に属せざる所謂軍事に捗るもの之を総括して国策といはうと。之によつて見れば国策は即ち政策の重要なるものと云ふのではなくして、国策を分つて政策と軍事方策との二種とすると云ふ考である。政策は内閣之を管掌し、軍事方策は全然之を内閣の管掌以外に置き、而して天皇の大権が此両者を統ぶると云ふのが彼等の法理的説明である。斯う云ふ思想が純然たる理論的研究の結果としてあらはれたと云ふよりも、寧ろ最近に於ける内閣の民衆化的傾向に対する軍閥の嫉妬偏見に出づるものなりと説くものあるが、何れにしても、此理論の遂行が帝国をして二重政府の厄に陥らしむることは疑を容れない。予輩は陸海軍の要路に居る幾多の友人より此種の説に対する批評を求められ、大いに其妄を弁じたることあるが、兎に角、かゝる妄説の軍閥者流の間に意外に根柢の深い事を認めざるを得なかつた。而して此文字が最近段々操觚界にも流行し出したのを見て、其由来を知つて之を使用するや否やは姑く措き、兎に角其流行に対しては大いに警戒の眼を瞠るの必要を感ずる。然らざれば我憲政の進歩をして著しく邪道に踏み迷はしむるの虞れあるからである。
〔『中央公論』一九二〇年七月〕