山本内閣の倒壊から清浦内閣の出現まで


    *

 山本内閣の倒壊から清浦内閣の出現に至るまで約十日ばかりの間に、僕はいろ/\面白い現象を見た。中には政治思想の発達といふ見地から等閑に附し得ないものもある。茲にその最も主要なるもの二三点を論評して置かう。

    *

 第一に注意すべきは、後継内閣が実際何人に依て作らるゝかの点である。政党者流は所謂憲政常道論を振り翳して下院に於ける多数党(最大多数党又は其の失脚せる場合には次位の多数党)に当然組閣の大命の降るべきを説くも、之は理論上にも実際上にも未だ確乎たる原則となつて居ない。僕一己の意見としては、理論上所謂憲政常道論に賛するも、我国の政党が其の当然の発達を為して居ない所から、今日遽かにこの理想論を文字通りに行はねばならぬとするの説を執らざるは、既に屡々述べた。孰れにしても、今日我国の組閣責務は政党者流に認められず、所謂大権内閣の専制的理論を背景として仍然として元老閥族の壁断する所となつて居る。従つて今度の清浦内閣にした所が、結局に之を産んだものは、上は松方西園寺より下は平田牧野の数輩ではないか。
 只此間に僕は内閣組織に対する所謂元老の役目に漸次多少の変更あるを看逃すことは出来ない。数年前ならば輦毅の下に元老会議を開くところだが、今日は彼等の多くは凋落し、僅に残るもの亦高年の故を以て帝都に留るに堪へず、而して東京に在る程の後進政客はいまだ先輩と相ならんで元老の名を僭し得るの威望を有たず、詰り元老なるものゝ影は政界に於て著しく薄くなつた。成る程最後の決定に就ては今なほ矢張り西松二公の制を仰ぐが如きも、二公は最早内閣構成に付ての積極的首動者ではない。事実上の発言者たる役目は内大臣としての平田や宮相としての牧野辺に移つたと許はねばならぬ。清浦は結局組閣の大命を蒙るべき運命となつたから直接之に与らざるも、若しさうでなかつたら彼をも加へた平田牧野辺が元老に代つて内閣構成と云ふ仕事の事実上の担任者となるといふのが昨今の大勢と観てよからう。尤も之等の人々が西松二公と何等の連絡なくして尚ほ這の大任を引受くるか又之を世間が許すかは問題だが、所謂元老とても之等の人々の活動と相待つでなければ昔通りの勢力を振へ得ない様になつたことは疑を容れない。
 斯く考へて更に西松二公百年の後は一体どうなるだらうかを思ひめぐらして見ると聊(いささか)心細くもなる。西松二公の干入に対してすら世間には既に多少の文句がある。更により威望に乏しき平田牧野辺の人々に組閣の運命が全然左右されるとなると、政界は果して之に安んずるだらうか。但し、之を可とすると否とに拘らず、内大臣宮内大臣等の今後も此等問題に与かるべきは疑あるまい。そこで彼等は従来西松二公に倚て附けた箔を何処か他に求めて世論に対抗するといふ態度に出づるのではあるまいか。僕の推測では、之が為に誘はるゝ者は枢相の外差当つては上院議長であらう。上院議長を加へても収りが六(むず)かしいとなると下院議長が招かるゝのは自然の順序だが、之はしかし余程問題だと思ふ。元来ならば上下両院議長の如きは、内大臣や宮相以上に(之等少数の人々が専ら組閣の談合をするといふ慣例が差支ないと仮定して)相談を受くべき権利がある筈と思ふけれども、辞職して往く前首相にさへ後任奏薦の権利を断じて阻む程の政界今日の情実では、恐らく下院議長にまで組閣談合に於ける発言権は容易に認められぬだらう。併しこの点も勢の推進する所何時までも旧態を続けることは許されまい。段々世論に圧倒されて下院議長をも加へるといふことに遠からずなると信ずるが、其の時は実は組閣に関する実際の責任が既に下院に移つた時でなければならぬ。僕は今日の状勢に対しては固より全然不満であるけれども、之を永い発展の一階段として観るとき、必しも悲観すべき状態とも思はないのはこの為めである。さればと云つて、正しい将来を出現さすべく常に大なる努力を必要とするは云ふまでもない。

      *

 第二に注意すべきは推薦の基礎となる標準如何の点である。換言すれば推薦さるべき人に対して求めらるゝ資格要件である。之を逆に云へば何の点で清浦子爵が時局多難の今日内閣を組織すべき最適任者と認められたかの点である。新聞の報道等を綜合して考へて見ると、之には二つある。一つは来るべき総選挙を公平に行ふを期待し得ることで、他は今期議会を無事切り抜ける見込のあることである。下院に於て政友会は絶対多数を擁するも之に政権を托するわけには往かない、さればとて憲政会に天下を渡してはまた来るべき選挙に紛雑な且つ不正な党争を避け難い。斯くて政党以外に組閣の材能を求めたのであるが、所謂綱紀粛正の叫びの強い今日右の顧慮は至当の要求だと思ふ。併し乍ら呉々も忘れてならぬことは、此点を貫かうとする以上、議会を無事切り抜けるといふ要件は実は到底充さるゝものでないことである。不正の党弊を矯めるとは一体何の謂(いい)か。具体的に云へば政友会の横恣を抑へることではないか。政友会に対して断乎たる挑戦を決行せずして今日如何にして政界の綱紀をたゞすことが出来ると思ふか。而して議会を無事に切り抜けよと求むる。無事に切り抜けるとは政友会と妥協せよといふことではないか。予(あらかじ)め政友会の要求を聴容するの前提を以てして綱紀粛正の実を挙げんとするは、正に木に縁て魚を求むるの類ではあるまいか。
 孰れにしても清浦内閣は右の如き相容れざる二つの要求に促されて出来た。こゝに此の内閣の難関がある。事なきを好む側の要求を充せば、忌むべき政弊は依然として絶へず心ある者の顰蹙を避け難かるべく、又政界刷新の方向に一歩でも進めん乎、政友会との戦闘は到底免るべからざるを以てである。併し僕は清浦内閣に前者をすてゝ後者の態度に出でんことを望んでやまない。斯くして勇敢に政弊と闘ふことに依て清浦内閣はせめてもの存在理由を主張し得べきを思ふからである。

      *

 第三に注目すべきは清浦内閣の事実上の構成は全然研究会の手に成つたといふ点である。従来の例に依れば、清浦子爵が主動者となつて組閣の仕事を為し遂ぐべきであつた。研究会の如きは多くの場合に於て大命拝受者より顧慮せられ又その顧慮せらるゝ程度も年と共に加はり来るは疑ないが、未だ曾て彼が自ら組閣の首動者となつたことはない。而して清浦子爵は其地位から云つても其経歴から云つても単独に組閣の仕事を為し遂げ得るの力がある筈だのに、わざ/\研究会に全権を托して自ら木偶(でく)漢に甘んじたのは一体どう云ふわけか。
 伝うる所に依れば、清浦内閣ははじめ有松英義氏を抜いて内相たらしめんとしたとか。若し第一歩をこゝから踏み出したものなら、清浦内閣は確かに名実ともに清浦子爵の内閣であつたらう。さすれば清浦内閣は或る意味に於て山本内閣の延長であり、而して不本意ながら山本内閣を許した世論は同じ立場で清浦内閣をも許したであらうと思ふ。然るに清浦子爵は山本伯だけの勇気がなかつた為めか又は山本内閣が上下両院の大政団の反抗に苦んだ経験に懲りた為めか、初めからこの種大政団と努めて争はざらんとするの用意に没頭し過ぎた。其結果はどうかと云ふに、上院だけは無事に制し得やうが、下院の操縦すらが夫れ程楽に往けるかどうか怪しい。若し夫れ研究会に組閣を一任せるの結果世論の反感を無用に挑発せるの愚に至つては私(ひそ)かに子爵の聡明をさへ疑はずには居れぬ。
 研究会に組閣の仕事を一任せるの結果、更にも一つ注目せねばならぬことは陸海軍大臣の選定である。清浦にしても山本にしても、彼れ程の経歴と威望とを以てしたなら、自分を主動的地位において某の大将某の中将を招くに格別の差支がなかつたらう(二三巨頭の了解を得るの例は已むを得ぬとしても)。研究会の青木水野辺の粒の小さい所ではさうは往かないものと見へ、乃ち陸軍なり海軍なりに推挙を頼むといふことになつた。現に今度は陸軍は陸軍、海軍は海軍で非公式的な巨頭会議を開き、其の相談の結果で夫れ/\の大臣がきまつたではないか。斯うして出て来た大臣に我々は如何にして内閣大臣としての連帯責任を要求し得やうか。選任の方法に於て陸海軍大臣は全然他の大臣と別世界の人である。而かも閣議に於て彼等はやはり全然同一の発言権を有つのである。憲政運用の機関として実に奇々妙々の話と云はねばならぬではないか。
 この外にも論ずべきことは沢山あるが、そは今後政界の進運に連れてまたつぎ/\に論じやう。とにかく以上述べた点は清浦内閣そのものを理解するに必要であると共に、之から先きの政界の運命を考ふるにも相当の関係ありと信ずるものである。

            『中央公論』一九二四年二月