基督教徒の宗教法案反対運動  『中央公論』一九二七年二月

 文部省の立案し調査委員会の諮詢を経て成案を見たる宗教法案の将に今期議会に提出せられんとする矢先き、思ひ掛けなくも基督教徒の間から突如猛然たる反対運動が起つた。官庁の威信役人の面目を国家生民の利福以上に重視する当世の習ひとて、政府は無理にも議会の上程を急いでその通過をはかるだらう。故に事実の問題として該法案の運命は既に略(ほ)ぼ定つて居るとみていゝ。併し理論の問題としては、右の反対運動の主張にも大に傾聴すべきものあるを認めざるを得ぬ。一体文部省はもと何に血迷て斯んなベラ棒な法律を作る気になつたのだらう。今度の宗教法案を国家の宗教政策上如何に観るべきかに就ては、私は去年九月の本誌に於て「メキシコの宗教紛争の教訓」、を論ずるついでに少しく之に説き及んだのであつた。私は「国家の宗教政策を樹つるにつき最も戒心すべきは宗教の私的性質を徹底する」に在る旨を力説し、この点から是非とも避けねばならぬものは、公認保護政策と指導政策とであると述べた。而して今度の宗教法案に現はれた政府の方針が、「一から十まで教へ導き、干渉し又監督し、凡ゆる宗教団体が政府の欲するが儘に出来上る様に仕組まれてあるから」、私の所謂指導政策なることは一点の疑を容れない「宗教までに御用をつとめさせようとするのは余りに盲目的な国家主義の中毒」であらうと説いたのであつた(拙著『問題と解決』三一二頁参照)。之等の引用に依ても明なるが如く、私は(一)本来宗教に関する斯(この)種法規の無用有害なるを信ずるものであり、(二)殊に本法の指導政策を基調とする点には根本的の不満を感ずるものである。従て私は当局者に向ては本法の撤回を希望し、議会に向つてはその無条件否決を要求する者である。斯く私は始めから本法の不成立を希望して居たので、その細目の条項等については深く之を追及するの必要を見なかつたのである。


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 基督教徒側では更に該法案の条項を細密に点検し、頗る基督教界の実状に適合せざるものあるを発見したと云ふ。加之その文字通りの強行はまた他日著大なる不便と不利とを教会にもち来すべきを力説してやまない。併し之等の点は該法案の基礎を根本的に論ずる者に取ては実は大した問題ではない。故に私も前掲の論文に於て全然この点には触れなかつた。始めからその無用有害なるを主張して居るのだから、細目の個条などはどうでもよかつたのである。併し実際問題として政府が無理にも之を実施しようとするとなると、せめて教会の現実に蒙る不便と不利とは是非とも除いて貰はねばなるまい。この点に於て基督教側の列挙する所は当局として大に与り聞くの必要があらう。当局も該法案を起草するに当りては迂闊にも基督教各派の内情は頓と等閑に附してゐたものらしい。


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 どんなに基督教側の説明を容れて十分の改正を加へたとしても、之が為に宗教法案は断じて結構な法律と変る性質のものではない。そは国法を以て信仰の内容に立ち入るといふ根本的過誤を犯して居るからである。信仰の実質に立ち入つて甲乙の区別をつけるは構はないとして、その間の生存競争は本来自然に放任した方がいゝ。政府には固より之を識別するの能力あるに非ず、仮令あつたとしても一々法律を以て之を指示するのは、丁度子供の教育に独案内(ひとりあんない)を持たすやうなものだからである。苦んで苦んで苦み抜いて悪いものから段々と善いものに遷らしむる所に、始めて内面的の健実なる発達がある。文部省の役人には斯んなことの分るものは一人もないのであらうか。
 と云つて私は宗教に対する官憲の取締りを全然不用とするものではない。そは吾人の宗教生活に在ては、宗教の本質に属せざる部分に付ては大に官憲の保護と監督とを要するからである。例へば基督教に在ては会堂並に儀式用什器、仏教に在ては寺院並に境内地域及び所属財産の管理、之等のものにつきては国家の保護と監督とに待つべきものが多々ある。世人が宗教に関して何等かの法規を必要とするのも実は之等の点にその必要を観たからだ。故に私はこの際宗教法を作るなら、その内容をば全然右の点にとゞめて貰ひたいと思ふ。この埒外に出づるものは、何等の理由をかゝぐるとも、宗教法案としては断じて僭越不当の法規たるを免れないと確信する。