木下尚江君に答ふ
木下尚江君に答ふ
本誌第一号社説「日本魂の新意義を想ふ」に対し辛徳秋水君の加へられたる評論(平民新開第六十一号所載)は我
党の主張を誤解せるものありしを以て、吾人は更に前号に於て「国家魂とは何ぞや」を論じ〔本巻所収前掲論文〕、
」よすます
一には幸徳君等の誤解を解き一には益吾人の主張を明にするの料となせり。然るに社友木下尚江君は『直言』
第二号に於て「新人の国家宗教」〔本巻巻末「参考篇」〕と遺し大に吾党に反対し且つ詰問せらる、所あり。然れども
木下君の我党を解せざるや決して幸徳君に譲らざるものあり。斯かる誤解を生ずかに至らしめたるもの罪我に在
】そも一そ
るか、抑も亦君に在るか。且つ木下君は平素吾人の尊敬する教友に非ずや。教友にして而も吾人の心事を解せざ
け げん しかのみならず
るの斯くも甚しき寧ろ怪訝に堪えざる所也。加之木下君の論文は吾人の主張にあらざるものを吾人の主張なり
と曲解して反駁せるの点に於て既に誤る所あるのみならず、君の思想論理そのものに於いて亦陳套なる多少の誤
謬を含めるを見て吾人は深く君の為めに遺憾とするもの也。
やや いわゆる
(第一)国家の観念に就て木下君の所見稀明了を欠く。吾人の所謂「国家」とは一国民族の団体の諷なること
従来の言議の上に明白に現れたりと信ず。吾人の観る所に依れば国家といふも社会といふも全然別個の観念にあ
らず。吾人の社会的生活には宗教の方面あり経済の方面あり統治の方面あるが故に滋に宗教社会あり経済社会あ
ゆえん
り政治社会あり。社会の政治的方面は即ら国家の存する所以なりとす。統治なくしては社会は成り立たざるが故
に政治的方面を欠如せる社会は少くとも現時に於ては存在するを得ず。故に社会と国家とは別物に非るのみなら
81
ず、吾人は国家(即ち社会)を離れて一日も生存すること能はざるものなり。是れ殆んど「平々凡々自明の真理」
今更明敏なる木下君の前に之を説くの要なきに似たり。然りと錐も同君は其論文の二三の場所に於て「国家」な
る文字に吾人と同一の意義を附せる外、別に
ここ
近時の日本に於て基督教は非国家主義の故を以て強大なる政権の下に庄伏せられたり。愛に於てか各派の基
た ▲よ
督教皆な頭を低れ膝を柾げて「国家」の歓心を買ふことに汲々す云々、
と云はる、に依りてまた「国家」と「政権の所在」とを混同するの俗解を捨て給はざるに似たり。此見解を君の
ゆ ゆ しき
定義と見るべきや。又は「国家と君主とを混同するものあらば由々敷事件なり」といふを以て君の真意と見るべ
きや。同一文字の観念を二疋するは議論を進むるに先づ必要とする前提条件也。
(第二) 国家精神と共通意思との関係につきての吾人の所見(前号五頁参照)を木下君は適当に解し給ひしや否や
つまぴらか ふ えん
多少の疑なき能はず。思ふに二者の関係の説明は之を詳に布漬せば優に独立の一論文たるを得べき多量の内容
ひそ
を有す。然れども吾人の筆は余りに簡約を極めたりさ。簡約に過ぎたりと錐も論理の明晰は私かに吾人の勉めた
たの
りし所なるが故に明敏なる読者は必しも吾人の所見を誤らざるべきを悼みたりき。今不幸にして木下君の理解を
得ざりしとせば吾人は退いてわが不文を恥づると共に、更に再び吾人の所思を宣明するの必要を感ず。予輩国家
魂を定義して日く
個人の物質上杵に精神上の生活は決して社会国家を離れて存在するものに非ず、即ち各個人は皆社会国家な
る団体の一員として常に其団体の意思に統制指導せらるゝものなり。この各個人の内外一切の生活の最高の
規範たる団体の意思を国家精神といふ。
然れども此国家精神を作る者は何人なりや。各個人は凡べて皆受働的に国家精神の統制を受くるは疑なしと錐も
82
木下尚江君に答ふ
自働的に国家精神の内容を作る者は事実上必しも凡ての各個人にあらず。此国家精‥神の主働的要素は人民文化の
・刀
開発と共に少数より多数に及べること政治歴史上の一大事実也。夫の古代蒙昧の世に在りては多数人民の自覚全
く起らずして
団体の維持は比較的賢明雄武なる君主一人のカに依り、各個人生活の最上の規範は君主一人の意思の外に在
ろノんい
らざりき。此時に当りてや君主の一切の云為は独り法律上のみならず倫理上亦最高の価値を有し
君主の意思は直ちに国家精神として一般人民の一切の行動を支配せしなり。
人智少しく進むに及んでも団体生活の絶対的規範を作るものは猶少数の貴族に限られ
従て貴族の意思則ち国家精神なりし也。近世以前の国家は即ちみな斯れなりき。之を概括して吾人は少数中心主
義の国家といふ。然れども近代文運の開発は各個人の自主自由の精神を勃興し、従つて自己の行動は自己独立の
も はや
判断に依りて決行せんとするの風潮を生ぜしめ、最早君主貴族の意思なるが故に奉命するといふ時代は去り、
主貴族の命令と錐も正義に合せざれば各個人の是非の判断を免れざるの勢をなすに至れり。是に於てか、
ただ
各個人は膏に受働的に国家精神の統御に服するのみならず又能く自働的に国家精神を作るもの
君
たらんとす。之を古代国家と対比して予は多数中心主義の国家と称す。近代の国家は少数中心主義なるよりは寧
ろ多数中心主義也、換言すれば共通意思を基礎とする国家なり。然らば近代の国家を論ずるに当りて「君主貴族
の声が最早吾人の一切の行為の最上規範たる国家魂に非ず」と断ずるに於て何の不思議かある。然るに君日く
然れども新人記者が直ちに筆を転じて(新人記者日く予輩は直ちに筆を転ぜず。国家魂の定義の説明より此
し
論断に達する迄には約半段の推論をなせるに拘らず直ちに筆を転じたりと誕ふるは何ぞや) 「故に現今の論
壇に於て国家魂を目して君主若くは貴族の声なりと為す者あらば是れ甚しき誕妄の言たり」と論断したるは
8う
何ぞや云々。
すこぶ
と云はれたる質問の主旨に至りては全く了解に苦しむ所也。木下君の此文は惜むらくは頗る明晰を欠く。君の予
かく
輩に教へんとする所は汝の言ふ所は正しけれども、斯の如きは「日本国民の一般感情が正に之を以て国体の精華
を毀損する民主的僻論」となす所なるが故に矯激の言を慎めといふに在るか。恐くば然らざるべし。然らば「現
実社会に於て進歩せる国家の哲理的理解を有するものは比較的少数」にして「共通意思の国家基礎論が能く明了
に唱導」せられざるが故に現今の国家基礎は共通意思に存せずといふに在るか。然らば君の観る所の国家魂とは
共通意思にあらずして今尚は君主又は貴族の声なりと断ずる者也。然れども
君主貴族の声が直ちに吾人最上の規範たりし時代は既に遠き昔の夢となりぬ。今に於て此事を繰り返すが如
きは時勢を観るの明なきものに非ずんば即ち不当に個人の発達を侮蔑する者なりと云はざるべからず。
要す〔る〕に国家の基礎は時代に依りて変遷せり。予輩の共通意思論は近代国家の超勢に就て云ふのみ。国家は其
国家たる本来の性質上すべて民主々義に基くべき筈のものと云ふ空理空論は予輩の主張するを欲せざる所なれど
も、只近代人文の開発と個人霊性の醒覚との事実に基き、国家の基礎は主民主義たるべきを主張するの点に於て、
たまたま
偶々木下君の同感を博し得たるは予輩の大に光栄とする所也。
(第三)国家精神と政権の所在との関係(又は国家威力と主権との関係)に就て木下君は果して明了なる見解を
●tも一そも
有せらる、や否や。抑国家精神は各個人を支配する一大意力なるが故に又之を国家威力といふ。国家威力は即
ち多数人民の意思の合成カたらずんば非ず。之れ事実也又真理也。然れども更に一転して国家威力は多数人民の
ペか
意思に基くが故に、一国の政権も亦必ず多数人民に在らざる可らずと云ふ者あらば、是れ近代進歩せる国家学の
原理に通ぜざるの言と云ふべし、木下君日く、
84
木下尚江君に答ふ
看よ、日本帝」国に於ける主権の基礎を何処に置くべきや、現に愛国的法学者の苦心焦慮する最大開題に非ず
や。新人の秀才は平然として言はん「各個人共通の意思」と。然れども彼等愛国的法学者は正に記者の言に
戦慄すべき也。而して之を祖先教の旧信仰に求めて始めて僅に意を安じたり。是れ我が学問界に一種の権威
かつ
を有する穂積兄弟博士等の態度に非ずや(新人記者日く少くとも兄穂積博士は曾て祖先教によりて主権者の
地位を弁護せしことなし)。共通意思論の如きは決して我国民の輿論に非る也。
国家精神と個人とは如何なる関係ありや又国家精神は如何にして権力となるかは吾人既に之を詳述せり(前号六頁
上段参照)。蓋し国家威力は国家独り之を有す。而して何人が果して此国家の威力を行ふかは是れ各其国の歴史と
国民の信仰とに依りて走る所、或は君主たることあるべく、或は議会たることあるべし。是れ主権者を国権の本
体と云はずして国家最高の機関といひし所以也。故に政権の所在は主権者也、国楓の所在は国家也。君主と国家
とを分つを知りて何んぞ国権と政権とを分つを知らざる。国権政権の区別の存せざりしは古代国家の事のみ。近
代に至りて主権者の地位大に変易せしことを知らざるべからず。今や国家其者を威力の所在となし君主を以て其
機関となすの見解は本邦多数学者の通説也。民主々義と君主国との矛盾を観ぜしは国家の論究に於て本質論と主
権論とを混同せる陳套時代の事のみ。君主国の否定は民主的国家本質論の当然の論結に非るや燈々として火を見
しばしば
るよりも明白たり。「日本帝国に於ける主権の基礎を何処に置くべきや」は浅学なる法律書生の蜃疑ふ所なりと
開く。図らざりき今博識明敏なる教友木下君より之を開かんとは。
(第四)現時の国家が共通意思の基礎に立つや否やは全く事実の観察によりて定まる。此点に於て亦吾人は不
幸にして木下君と其観る所を同じうせず。木下君日く
文明の結果は同胞の間を割きて貧富両民族に分類せんとするの傾向日に益甚し。何の処にか「共通意思」を
8う
基礎とせる国家の理想は実現せらるゝや。
君は貧富両族に分るゝが故に国家は今尚予輩の所謂少数中心主義に立〔つ〕と云ふ乎。凡ての個人が全然同一の意
思を有するに至らざれば共通意思に基く国家と云ふ能はずとする乎。抑も現時の国家に於て共通意思の実現が完
あた
仝に非るや固より論を待たず。個々特定の問題に就て各人共見る所を異にすること恰かも木下君と吾人との論争
するが如きことあればとてそは、直に其間の共通意識の存在を否定するの確証となるか。貧者と富者と一方に相
争ふと同時に他方には日本人としての独特なる共通意識なしと云ふ乎。一方に木下君を起して「国家的宗教」に
痛撃を加へざるを得ざらしめし所の魂と他方には吾人を駆りて之を弁明せざるを得ざらしむる所の魂とは全然相
関せざること風馬牛の如しと云ふ乎。貧富の分階あるが故に現今の国家を共通意思に基かず(即ち少数中心主義
ねんこ
なり)といふを穏健とするか。又は既に多数中心主義に基けりといふ吾人の見解を穏当とすべきか。君懇ろに吾
人に教へて日く
新人の秀才よ、乞ふ書斎の窓を開いて実社会を看よ……記者は国家の理想を説きたるのみ、惜むべし未だ重
度だも時勢に触れず
と。君と吾人との見解の異る或は半ば吾人の実社会を知らざるに坐せん。君亦願くば暫く書斎の窓を閉ぢて深く
思を政法の哲理に致されんことを。
(第五)国家は最終の目的なりや否やの点に於て吾人は亦木下君と大に見解を異にす。思ふに国家は最終の目
的には非らざらん、然りと錐も最終の目的に非るが故に全然国家を顧みざるも可なりといふの論結は何の憑拠あ
るか。木下君日く
海老名君は日本を以て世界未曾有なる仏陀神子の国家的権化となさんことを理想せらる。然れども是れ国家
86
■−ト
木下尚江君に答ふ
自身の本来として到底成す能はざる所也。個人は神子たるを得、爾かも国家は能はず。其故何ぞや。社会的
大意思は元と各個人の心裡に包蔵せらる。或は現れて「家庭」となり、膨脹して 「国家」となり、▲更に発展
して「世界」となり「四海同胞」となる。故に理性感情の開発極めて高朗熱烈なるものは以て「神子」 の品
性を実現すべし。然れども国家なるものは社会的意思の発展史に於ける中途の段階にして、袖子仏陀の大品
性を実現し得べからざるは元より其所也。
斯の如きは最も非論理を極めたるもの也。平素木下君の学殖に敬服する吾人は一時の租漏に出でたるを信ずと錐
も、躁急なる読者は此論断を読んで軽卒にも君の思想推理の極めて幼稚なるを笑ひ、且つ君が好んで論理的背理
的等の文字を用ふるも果して論理哲理の素養あるや否やを疑はんとすべし。「基督教の理想が最初より人類同胞
てふ共通意思の至極に在」ることは吾人の幸にして君と説を同うする所也。然れビ針社会的大意思が一民族を同
化することなくして直ちに四海同胞に発現することを得るか。君日ふ 「国家は社会的意思の発展史に於ける中途
の段階」なりと。然らば社会的意思の終局の発展を見るが為には先づ以て国家的発展を通過すべきこと、猶ほ民
族的発展を見るが為には家庭的発展を必要とするが如けん。個人にして神子たるを得ば、個人の団体たる国家は
何故に神子たる能はざる乎。若し国家にして神子たるを得べからずば如何にして四海同胞は独り神子たるを得る
乎。吾人の信ずる所は次の如し。日く社会的大意思は先づ個人に於て完成せらる。個人化せられたる社会的意思
たくまし
は其精神的威力を遣うして近親を化しやがて家庭を同化す。家庭は必然に民族を同化し民族は更に四海を同化せ
ずんば止まず。是れ必然の勢力なり。此故に基督教は超国家主義と云ふべくも決して非国家主義といふべからず。
故に吾人が自ら道を修むるは家庭を化し国家を化する所以、国家を教化するは即ち四海同胞の極致に到達する所
▲もと
以也。家庭を重んずるは国家を軽んずる所以に非るが如く真に国家を重んずるは決して四海同胞の大義と惇るも
87
のに非る也、是れ豊に四海同胞の大義を理想とする吾人基督教徒が国家民族に対して亦大なる使命を感ずる所以
に非ずや。然るに木下君日く
如何せん人類の共通意思は国家に依りて完全成就したるに非るなり、==・・是れ宗教と国家とが到底併行提携
すること能はざる所以
と。共通意思の完成せられざるは膏に国家のみに非ず、多くの個人に於て然り、家庭に於て然り、世界に於て固
ょり然り。完成せられざるが故に宗教と併行提携する能はざらば、天下何物か能く宗教と提携し得べき。
(第六)木下君の所謂「国家的宗教」の意義如何。吾人は自ら吾人の所信を呼んで国家的宗教と自称せしこと
なし。吾人の宗教が果して国家的宗教なりや否やは国家的宗教の意義如何に依りて定まる。国家的宗教の意義た
ユダヤ わも
る、夫の猶太的民族宗教の謂なるか、現在の国体政体に阿ねるの謂なるか、政府の保護を求むるの詔なるか、国
民の其時々の意思を最上とするの謂なりとするか。然らば吾人は決して国家的宗教を主張する者に非ず。吾人の
国家に対するや、只個人の意思と国家魂との交互影響の著しきを認め、殊に近代の国民的国家に於ては国家魂の
個人に対する権威の大なるを思ひ、例へば新和朴如国民を解せずしてはルーズヴエルトを解する能はず、日本国
の現代を研究せずしては木下尚江君を解すること能はざるが如く、最早英雄時勢を作るの時代は遠く経過し去り
て時勢却つて英雄を作るの新時代となれるを悟り(本誌第一号一及二頁参照)、滋に我等は個人的救済と共に国家精
神の指導もまた最も高尚なる事業なるを信じ、而して従来我国の国家魂は恐らくは広大なる宇宙魂に其根底を有
するが如く感ぜられしを以て益々此国家魂の開発指導に任ぜんと欲するのみ。而して若し我が国家魂にして霊化
せんか、上は一天万乗の天皇陛下より下万民に至る迄漸々霊化せらる、に至るべきのみならず、又此意力を以て
東洋を笠化せしむることを得べき也。是れ吾人の「国家の尊重」と「東洋の伝道」とを説く所以也。而して木下
88
木下尚江君に答ふ
89
ー君は
ここ
不幸にして海老名君は日本を説くに「人」を単位とせずして「国家」を単位とせり。愛に於てか「国家」を
して「世界」に発展せしめんと欲せば是非共戦争征伐の途に依らざるべからざるの結論に到達す。然り。是
れ海老名君の熱心なる戦争論ある所以也
といふ。措辞の形式論理的にして何んぞ其思想の非論理的なるや。吾人もし国家の発展を主張したりとせばそは
霊化したる国家精袖の発展なるのみ。高貴なる帝国の精神を世界に発展せしむるに戦争征伐何の要ぞ。海老名主
筆が木下君と共に非戦論を主張せざるは恐くは別個の論拠あらん。滋に戦争論を引さ出すは寧ろ滑稽に近からず
や。
海老名主筆に対する質問三ケ条は予輩之に答弁するの責任なしと錐も、前述せし粛は自ら木下君の疑を解さ得
たりと信ず。主筆別に答弁せざるべし。木下君亦予輩の論議に熟読の栄を垂れ賜はゞ再び質問を繰り返し給はざ
るを得んか。如何。
〔『新人』一九〇五年三月〕