貴族院政党化の可否

 貴族院政党化は免れず 貴族院がいつまでも枢密院のやうでありたい又あらせたいと云ふのは無理だ。何百人かの人が集つて国事を議するとなれば其が自ら政党化するのは已むを得ない。但し貴族院の政党化といふことには二つの意味がある。一つは従来政党政派に非ずと誇り来れる院内諸団体の行動が其の実質に於て何等政党と異ることなきに至れることで、他の一つは貴院議員が一団として又は個人として下院の諸政党と直接に連繋するに至れることである。貴院最近の状勢はこの両方面を共に著しくして居るが、私共の観る所では之は当然の勢で少しも怪むべき所がなく且今更之を昔に引戻すことの出来ぬものであると思ふ。
 貴族院政党化を忌む伝統的迷信 貴族院の政党化といふと、世人は何となく貴院面目の汚涜を連想し又貴院本来の使命の好ましからぬ転換を考へたりする。尤も貴院諸団体の行動が下院政党の云為に似るといふことの中には、研究会がよくやると非難さるゝやうに、腐敗手段で多数を羅致するに浮身をやつすといふ類のことが問題になり、又下院の政党と直接の連絡が開けるといふ現象の中には、今度の多額納税議員選挙に現に沢山の実例を見たやうに、選挙応援と交換条件に入党したといふ類の醜態もある。即ち貴院の政党化を促した目前の事実が何等かの腐敗行為を伴ふ所から、識者はどうしても好感を以て之を迎ふるを難んずるといふわけである。此点に於ては我輩も固より世上多数の識者と其感を同じうする。
 けれども之は貴族院政党化の実際の順序に醜怪なものがあつたといふだけの話で、之に依て直に政党化其事を是否するのは早計であらう。貴族院の政党化といふことは動(やや)もすると隠れたる腐敗を伴ふものだから大に警戒せよといふのはいゝ。併し腐敗手段に由らなくとも政党化といふことは起り得る。故に政党化そのものゝ可否はまた別の見地から攻究せられなければならぬのである。斯う云ふ立場から私は、今日の政党化を導き来つた過程には大なる不満を有するに拘(かかわ)らず、一片の理論としては政党化を以て当然の帰結となし寧ろ之を歓迎するに躊躇せざるものである。
 然るに我国には単純な理論としても貴院政党化を否認せんとする議論がある。而も多くの人に信奉せられて居るだけそは中々有力な議論となつて居る。其説に曰く、貴族院は下院の牽制機関として憲法上特殊の使命を有するものである。民間の輿論は時として軽佻に陥り易い。之を反映する下院亦従て時に過誤に陥らぬと限らぬ。之を一方に控制して国家の針路を誤らしめざらんが為に二院制度があるのだ。故に貴族院は其の本来の職掌上、下院政党の分野に入つてはならないのだと。成程此議論は其の前提を正しいと許せば筋は通つて居る。が、一体その前提は正しいものかどうか。貴族院を牽制機関だといふやうな説は今日でも臆面もなく唱ふる者が多いが、それは実は五十年も前の陳腐の説だ。民間輿論の軽佻など云ふことは、現に時代に遅れた守旧家から唱へられることあり、又特権階級の人々より為にする所ありて叫ばれることもある。之等は固より取るに足らぬ。民智の低く制度も不備であつた昔の時代には一時さうした事実のあつたこともあるが、今日の社会は最早全然昔日の観を改めて居る。而して今日の定説では、最高の政治的文化価値は之を貴族にたづぬ可らず又富豪にたづぬ可らず、主(もっぱ)ら多数民衆の信頼する所に求むべしとなつて居り、価値の創造に与るものは少数の識者に違ないが、併し呈示された価値のどれが最高最上のものかは断じて多数の意向にきめよといふのが近代デモクラシーの公理である。
 従て民間の輿論に最後の信頼を置く能はずとして特権階級の監視牽制を必要とするなどの論に今頃傾聴するものはない筈だ。固より事実の発展は理論の如くうまくは行かぬ。実際の事実に即しての議論なら別に幾らも云ふことはあるが、単純な理論としては今日最早民間の輿論は第三者の牽制を必要としない。今日は却て民意の暢達といふことが必要と叫ばれる時代である。民意の暢達といふを実際政治に適用すると、一つは民意が如実に下院に現はるゝを防ぐる諸原因を取除くことであり、又一つは下院の意思が其儘法律となるに対する有らゆる障擬を排除することである。貴族院改革運動などもつまりは此の要求から起つたのではないか。斯ういふ時代に貴族院は牽制機関だからなどいふ議論の存在を許すのは自家撞着の甚しきものである。
 貴院政党化は差支なし 貴族院議員は顧問官ではない。その政治家たる点に於て下院議員と何等異る所はない。政治家である以上孤立しては仕事は出来ぬ。政党を作るのは当然である。然るに我国の貴族院の人々が長い間政党の名を忌んだのはどういふわけか。是れ憲政創設の当初我が先輩政治家が政党を以て国家の敵なるかに云ひ触らしたからではないか。今日はもはやこの誣言(ふげん)に遠慮する必要はあるまい。我々は寧ろ進んで彼等が政党を作り大胆に政治家としての十分の活動を遂げて貰ひたいとさへ考へてゐる。若し夫れ上院の政党が下院の政党に対して如何の関係にあるべきやに至ては、今は詳しく説かないが、両者互に密接の連絡を取るのが当然で又望ましい事なる旨を一言しておくに止める。
 貴族院議員の特殊の使命 さうすると貴族院議員は何等下院議員と異る所なく、折角の二院制度も無意味になるといふ人があらう。二院制度の可否についての根本論にも私に一説あるが、之は姑(しばら)く別論として、今日の二院制度を基礎として考ふるに、そが上院議員に対して特別の期待を置くといふことは我輩と雖も之を認めるものである。そは何かといふに、任期が長く解散がないといふ点にある。貴族院が貴族院として下院を牽制するといふのは間違つてゐるけれども、同じ政党員でも籍を上院におくものは、右の理由により、下院のそれよりも自ら別
個の観点から事物を評価する地位に在りといふのが即ち特殊の期待を置かるゝ点である。彼等も亦こゝから貴族院議員としての特殊の使命を政界につくし得るのである。故に貴族院が政党化しても二院制度は決して無意義とはならない。二院制度を無意義ならしめざらんが為に政党化を非とするは、聊(いささか)見当違ひの論たるを免れぬ。

 

(『中央公論』1925.10)