憲政常道論と山本内閣の使命  『中央公論』一九二三年一〇月


    一

 政変毎(ごと)に世人はよく憲政の常道を云々する。憲政の常道が毎に妨げられずに行はれん事は予輩のもとより冀ふところであるが、世間の所謂憲政常道論には随分誤解もあるやうだ。此度の政変、―特に山本内閣の出現を予輩の憲政常道論からはどう観るかを少しく考へて見たい。

    二

 加藤内閣崩壊前に、来るべき新内閣如何の推測に関し既に二つの説があつた。一は現内閣員中の一員を首相の位に昇任せしめてそのまゝ内閣を継続すべしといふ説で、他は総辞職説であつた。而して前説が遂に行はれずして総辞職を見るに至つたについては、此所に一つ見逃すべからざる我憲政運用上の一大鉄則の潜勢力を認めずには居られない。そは内閣はもと首相一人に対する 陛下の御信任に基き存立するものにして、首相の推薦にかゝる閣員は首相に対する御信任の反射として僅かにその任に居るものであるから、首相の死は即ち 陛下の御信任の直接の対象物の消滅であつて、内閣は当然辞職せねばならぬ道理だといふのである。憲法の法理論としては兎も角、政治運用の実際原則としてかくの如き専制時代の旧思想の横行を見るのは驚くべき事実といはなければならない。単純平明な理論からいへば、一旦国政を托せられたる内閣てふ合議体は、その一員―仮令如何に主要なる地位にあるものとしても―の死亡に因つて遽(にわか)にその責任の解除せらるゝものと見るべきではない。無論臨機応変の例外はあり得る。けれども原則としては、一人を昇任せしめてそのまゝ内閣を継続するといふのが、粉(まご)ふかたなき憲政の常道といはなければならない。然るに斯くの如き議論は、加藤内閣の内部と加藤内閣の存続を利とする政友会内の一部とから、恐る/\説かれたのみで、殆んど真面目の問題とならなかつたのはどうしたものか。総辞職説の中には一旦辞職した後別に同じ臭味のものに大命の下るやう運動して、そして其儘従来の内閣を実質上継続せしめやうと試みた横着者もあつたさうだ、が主としてはその後釜に据はらんと躍起となつた憲政会側から唱へられたに至つては沙汰の限りである。憲政会はこの点に於て全然憲政の常道を失して居るの譏りを免れない。
 併し乍ら概して之をいふに、世間の人気も総辞職説を迎へて怪まず、昇任継続説に殆ど一顧も与へなかつたについては、こゝに又我々は我政界の一変態たる所以を顧みねばならぬ。民間の輿論が斯くの如くなる所以は、総辞職を正しいと信じて居るからではなく、寧ろ首相を失つた内閣の勢力に信頼し得ないが為めであらう。我国の内閣は常に主として首相の個人的勢力をその根柢とする。国民の実質的後援の上に不動の基礎を置かない内閣は何時もこの同じ運命に陥る。こゝに我国政界の変態たる所以がある。この変態を何とか始末せぬ限りは、憲政の常道論も実は常に空文に終るのである。


      三

 所謂憲政常道論の一番喧しく論ぜられたのは、加藤首相薨去の当時であつた。此時の常道論はいふ迄もなく政党者流の主張であつて次の内閣は政党をして組織せしむるが常道だといふのであつた。尤もその間には憲政会が立つのが常道に合するとか政友会が立つのが当然だとか、我田引水の論が互に交換されたやうだが、それは何方でもいゝ。予輩の見地からすれば政党が立つべきだといふ議論が土台成立たないと信ずるからである。斯くいへば人或は予輩を目して超然内閣の謳歌者に逆転したと誤解する者があるかも知れないが、決してさうではない。多年主張し来れるが如く、理想としては今尚政党内閣論者であるが、現今の政党にはこの常道に由る権力の附托を受くるの資格がないと信ずるからである。
 抑も現代に於て超然内閣を当然の事理と認む可らざるは最早論ずるまでもない。併し乍ら其反対に政党内閣たらざる可らずとする本来の根拠は何所にあるか。其根拠を究めずして只漫然政党内閣々々々々と騒ぐは、例へば田夫野人の流行に附和雷同して淫祠邪神に走ると択ぶ所がない。改つて講釈するまでもなく、政党内閣を執る根拠は民意の忠実なる代表たる所にある。多数の民衆は結局に於てあざむくべからず、民意に根拠するの主義を徹底せしむる限り、政治の運用は始めて道徳的要求に合致する。要は政権の運用の道徳的に行はれることが根本の大事なのだ。この根本要求が略々満足に疏通せられ、政党も兎も角この道徳的要求と伴つて行くといふ条件の上に、始めて政党内閣論は成立ち得るのである。如何に有効な営養物でも病人には時として害になる。普通の健康といふことを先決の条件として始めて云々(しかじか)の営養物を持つていゝか悪いかゞ決まる。我国の政界はこの意味に於て果して健康状態に在りといひ得るかどうか。
 一部の人はまだ普通選挙にもなつてゐないから民意は完全に代表されないといふ。選挙権者の数に限りありといふことは、政界腐敗の一重要原因ではある。併し仮令普通選挙が行はれてゐないとしても、その限内に於ける選挙が公正に行はるゝなら、政党内閣で行に妨げない。予輩の最も今日の政界に遺憾とする所は、選挙権者の数に限りあるよりも、寧ろ選挙が常に公正に行はれず、政党の勢力が断じて民意の表現にあらず、却つて不正の手段により民意を蹂躙することによつて強てもぎとつた勢力たる点にある。故に曰ふ、我国に於て今日直に政党内閣論の文字通りの実行は好ましくない。憲政常道論の根本基礎が政治と道徳の階調にありといふを許すなら、我国に於て今の所政党内閣を否認するのが常道だ。若し政党内閣を常道だとする月並の説を暫らく執るなら、この意味の常道は現に我国の変態政界に暫らく適用を許さないと云ふことも出来る。何れにしても憲政の常道だから政党に内閣を作らせなくてはならぬといふ説は浅薄皮相の妄断だ。

      四

 現下我国の政界に最も必要なものは何か。政党を内閣に立てて苦が/\しき経験を再び繰返すことではない。政界を廓清して所謂常道の滞りなく行はれるやうな健康状態の回復が何よりの急務だ。政界の廓清を政党者流に求めるは、木に拠つて魚を求めるよりも難い。かういふ変態的症状を前提とする時、予輩は此所に中間的超然内閣存在の余地を遺憾ながら認めない訳には行かない。といつて予輩は毫末も山本新内閣を弁護する積りはない。只之を非立憲と斥けて盲目的に政党内閣を主張する常道論者にその根拠なきを反省して貰ひたいと冀ふのみである。

      五

 斯く論じて来るとその当然の帰結として予輩は此所に山本内閣の使命を一言しない訳には行かない。繰返していふた様に、超然内閣は本来当節の舞台に上場すべき代物ではない。而もしばらくその出場を促された所以は、特別の使命を国民から期待されたからだ。そは何かといへば、いふまでもなく常道復旧の完成に外ならぬ。つまり政界が常態に復するまでを限度として大掃除に雇はれたやうなものである。只山本内閣が果してこの任務を完全になし了うするや否やは問題だ。この点に於て国民の期待に裏切らんか、彼は寺内内閣と何の択ぶ所がない。場合によつたら加藤前内閣より悪いものかも知れない。併しこれ等の判断は、一に今後の効績に徴すべきであつて、今直ちに之を排斥するの理由はない。
 山本内閣に対する細目の注文はいろ/\ある、が之等は他の機会に論ずることとして、此所に一つ前段の論議に関聯して希望する所は、

一、来年の総選挙には絶対的公平の態度を執り、極度の厳正辛辣を以て臨み、二重の不正と雖も仮借する所なく、畢竟選挙の結果をして完全に民意の忠実なる表現たらしむること、而してその結果につき、多数を得たるもの若しくはその聯合に内閣を開け渡すこと。
二、若し総選挙を以て自家存立の終期と諦めず、引続き経綸を天下に行はんとするの冀望あらば、自ら新たに政党を作り他党と争ふこと。選挙の結果につき改めて進退去就を定むべきは勿論である。