桂川甫周のこと
本誌前号及び前々号に漂民御覧之記のことを書いたら、自分は其の著者桂川甫周の遠縁の者だと云ふ紳士の来
訪に渡し、いろ〈見せて貰つたり聴かされたりして得る所鮮が多かつた0此の紳士の事は追て薔く0こ、には
甫周先生一家の事を書きつけて置くに止めやう。
甫周先生は桂川家の四代目である。明治の初年に居つた甫周は七代目であつて、寛政時代の甫周とは同名異人
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だ。桂川家の初代は甫筑で名は邦教と云つた。邦亦一に報に作るとも云ふ。本姓は森島といふのだが、師嵐山甫
安より師名の一字甫を与へらるゝに及び、嵐山に対照する意味で桂川と改称したのだと云ふ。二代が同じく甫筑
ちなみ
(名は国華)で、三代日が甫三(国訓)、斯く父子相伝へて四代目甫周にいたるのである。因に云ふ。桂川家では幼
時甫安と呼び、やがて甫周と唱ひ、高年に至つて甫筑と改むるの家例ださうだ。されば甫筑と移するは一面長命
したことを語るものだとの事である。
甫周先生の弟新鋭が寧ろ森島中良として知られて居るのは、言ふまでもなく桂川家の昔の本姓を杯したむので
ある。此人頗る奇行に曾凋む。其の著紅毛雑話・万国新語などは今から観れば下らぬものだが、当時に於ては非常
に珍らしい新知識であつたのだ。
と
こ
の
周
博
掛
甫周先生が魯国帰還の漂民事太夫・磯書を通して熱心に西洋の事物を研究された事は前にも述べたが、今度遇
った紳士に依り先生の遺物を拝見するに及んで、其の研究の熱心なるに一驚を喫した。事大夫等の所持品を先生
自ら極彩色で写された一巻の如キ真に精緻を極めたものである。先生は中々画にも堪能であつたさうだ。其外
漂民とは直接の関係は無い様だが、西洋の動物書からでも写し取つたものであらう、日本で見慣れぬ諸動物の写
生なども中々立派なものである。
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普通の史書には伝へられぬ様だが、先生は曾つて幕府の忌諦に触れみくら島に流されたことがあるさうだ。滞
留中島民に殖産上の指導を与へて多大の恩恵を施した所から、江戸に還つた後も島民永く其遺徳を慕ひ、後桂川
神社なるむのを建てたとやら。そして島民は毎年一回代表者を江戸に派遣し、桂州家に報謝の礼を尽して維新当
かわ
時まで漁る所が無かつたと云ふ。桂川神社は今もあるさうだが、誰かに能く調べて貰ひたいと思つて居る。
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甫周先生には子がない。妹の多紀道訓に嫁せるより一子を貰ひ、養つて家を嗣がしめたのが甫謙(国宝)である。
此人後甫筑を名乗つた。其の子甫賢(国寧)は比較的に名は開へないけれども、非常に博学多才の人であつたらし
オランダ
い。号を翠藍といふが、セイロンをもじつたのだともいふ。沢山の著書もあるが出版して居ない。和蘭人との間
に往復したものが遺物の中に数多くある。明治の初年に甫周を称した桂川家七代目の学者は此人の長子だ。名を
国輿と云ひ和蘭字彙の著を以て有名である。幕末から明治にかけての洋学者は、殆んどすべて此人の周囲に活躍
したのである。
七代目甫周に男児なし、乃ち弟国幹を養つて嗣がしめたのが八代目甫策で、之も矢張り大学南枚時代に自然科
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学方面の教授として令名のあつた人だ0辻新次先生などは此人の門人ださうだ。此人の後嗣は甫安氏で今満洲方
面に職を執られて居るといふ。之が桂川家の正系である。
七代目甫周先生には二人の女児があつた0長は夫折し、次は今泉家に嫁して今日なほ健在である。此人に就て
明治初年桂川家に出入した若い洋学者達の面白い沢山の逸話が開かれると云ふ。
甫策(国幹)先生のまた弟に国謙といふ人がある○早く藤沢姓を称し、当主も実業家として開へて居ると云ふ。
私は近く今泉家の老未亡人について面白い音譜を伺つて見やうと考へて居る。
〔『文化生活』一九二二年八月〕
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