講和会議に対する国民の態度
今仏蘭西で開かれて居る講和会議 ― 講和予備会議といつた方が正当かも知れないが
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は単に大乱の後始末をするばかりではない。更に世界の根本的改造を企てんとするものであることは云ふを俟たない。単純なる講和会議でも世界の人の悉く之に注目するは怪むを須(もち)ゐないけれども、殊に今度のは世界改造といふ大問題を控へて居る所から、世界の人の注目の程度は又実に意想外に大なるものがある。そこで我国でも官民を問はず各方面からいろ/\の人が競うて彼の地に出掛けるといふ有様であるが、勿論中には之を機会に単純な見物をする積りで行くものもあらうが、併し大体に於ては今行つて彼の地の形勢を視察して、以て戦後の経営に資せんとするのが主要なる目的と云はなければならない。併し乍ら翻つて斯くして派遣さるる人々、又自ら出掛ける人々の顔触れを観ると、予輩は今更らながら其貧弱なるに驚かざるを得ない。蓋し此等の連中の筆頭に来るものは講和特使を初めとして錚々たる政治家の一団であり、次には操觚界の名士といふやうな所謂准政治家の一団であり、之に次ぐものは実業方面の歴々である。何れも我国選り抜きの人材であるけれども、併し悉く政治経済の方面の専門家であつて、教育家思想家即ち概して言はゞ思想家といふ方面からは殆ど一人も派遣されて居ない。此方面から観て私は顔触れの余りに貧弱なるを遺憾とするものである。
今度の会議の一番顕著な主要問題は、何と云つても世界改造の事業である。之に関しては世界の人類の何人も、亦世界の国家の何国も等しく大に利害を感ずる所であるから、我々は其成行について全然受働的の立場に居ることは出来ない。換言すれば我々は人類の一人としても、又一個の国民としても此重大問題の決定に対して積極的に参与する所なければならない。今や我々は吾人の意の儘に世界を改造するの、否世界の大勢を我から進んで創造するの権利を認められて居る。而して莫大な金を使つて態々仏蘭西三界(さんがい)まで行く程のものは、政府の役人であれ、又一私人であれ、よしんば新世界創造の事業に積極的に参与しないまでも、少くとも此新風潮を十分に理解する底の覚悟と能力とを有するものでなければならない。之が出来なくては何を以て戦後経営の大策を極めることが出来ようか。而して斯くの如き覚悟と能力とを彼の所謂歴々の政治家実業家に求むる事が出来ようか。あの連中の中には長く外国に滞在して其事情に精通して居るものはあらう。けれども今日に於て特に必要とせらるものは、彼地の社会の底の底を流るる思潮其物に対する理解である。否、今日現に世界の全体に横溢して居る所の偉大なる道徳的創造力に対する共鳴である。
斯くして吾々日本国民は今日此際、此重要な問題の討議者若くは研究者として、僅かに政治家と実業家のみを送つて満足した訳になる。之れ日本国民の世界改造の事業に対する積極的分担を正当に代表せしめ得る所以であらうか。予輩は窃に恐る。斯くの如き現象の現はれたのも、畢竟我国今日の社会が今次の戦争並に戦後の世界に関する精神的意義の不理解に基くものでないかと。換言すれば今度の戦争の跡始末の主として関係する方面は依然として政治経済であり、又戦後の経営として我々の関心すべき問題も専ら政治と経済との方面であると考へて居るのではあるまいか。政治と経済の上つ面の問題を処理した丈けで戦後経営の大事業は終ると考ふるならば之れ程お芽出度い事はない。
今度の戦争が削らく皮相なる観察者の往々にして説くが如く、専ら政治経済の方面から起つたにしても、講和会議に於て論ぜらる問題が政治論経済論のみに限らない事は明白ではないか。況んや世界改造の大問題に於ておや。然らば細目の問題は何であれ、今度の会議に於て主として論ぜらる、所は常に深奥なる思想上の問題に触れざるを得ない。此方面から見て如何なる人材の果して我国を代表し得るものあるかも一個の問題たるを失はないが、我々国民が一海老名弾正師、一新渡戸博士を送つた丈けで満足し、或は送つても之に殆んど何等の重きを置かざるが如き風あるは寔に慨嘆に堪へない。
〔『中央公論』一九一九年三月〕