過激社会運動取締法案を難ず
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過激社会運動取締法案なるものが貴族院に提出されたと聞いた時、僕はその余りに馬鹿々々しきに唖然として言ふ所を知らなかつた。其後福田博士、牧野博士、末弘博士等の先輩友人が、口に筆に其の不当を難じて政府案をして完膚なからしめたので、僕は此上蛇足を加ふるの必要もなからうと思つて暫く沈黙して居た。然るに最近の報道によると、貴族院の委員会は実質上無意味な多少の修正を加へて之を通過したといふ(三月十四日)。而してこゝに到るには、裏面に政府側の非常な運動乃至圧迫もあつたと云ふ噂さへある。考へて見ると、所謂國體の尊厳を維持し民風の振興を図るに博徒に頼んだと見られ、又浪花節をさヘ力としてゐる政府の事だ、時代錯誤の譏に付ては疾うの昔に免疫して居るのであらうから、この取締法案の如きも、本気になつて通す積りなのだらう。尤も此稿の世上に出づる頃は何とか鳧の付いて居る事ではあらうが、政府の態度が斯うである以上、僕等とても此儘黙つて仕舞ふ訳には往かない。
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尤も此種の問題を取扱ふには、議論は何処までも公平でなければならない。民間二三の運動に神経を過敏ならしむる政府の嗤ふ可きが如く、政府の態度に過度の昂奮を感じて常規を逸するも亦慎むべきだ。必しも所謂穏健なるを期するの要はないが、公平の態度は飽くまで之を失つてはならない。
そこで、僕は先づ第一に、此度の法案は単純な抽象論として全然無用の規定だとする議論には無条件に与みしないことを三日しておく。無条件といふ意味は、全然必要だとは無論考へて居ないからであり、抽象論として必しも無用の規定でないと云ふのは、今度の法案の所罰せんとする事項は、従来の刑罰法規に夫々規定があつて洩す所がない、新法案は謂はゞ屋上屋を架するものだと云ふ説に服することが出来ないからである。新法案の所罰の目的とせる事項は、先きの原案も修正案も、世評に喧しき通り実に曖昧を極むるものである。而して曖昧を極むるなりに、其中の重なるもの ― 社会の実益と密接の交渉ある類のものは、既に刑法其他の刑罰法規に罰せられて居る。新法は更に其所罰の範囲を拡張し、且つ概して特に之を重く罰せんとする所に特色を示して居る。斯かる刑事政策上の必要が儼存するか否かは、大きな問題だが、只新法案が相重複せる無用の規定ではない、理論上刑罰法規の系統内に於て一個独立の地位を占め得るものたることだけは、争ふことは出来まいと思ふ。
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然らば新法案の所罰せんとする事項とは何か。修正案に依れば次の三項になる。
(一) 朝憲ヲ紊乱スル事項
(イ) 〔其〕ノ宣伝又ハ勧誘並二其応諾。
(ロ) 〔其〕ヲ実行宣伝又ハ勧誘スル月的ヲ以テスル結社集会又ハ多数運動。
(二) 暴動、暴行、脅迫其他類似ノ不法手段ニ依ル社会ノ根本組織ノ変革ノ宣伝又ハ勧誘。
(三) (一)ノ(イ)及(二)ノ未遂、其予備其援助並二其悪意ノ受諾。
以上のうち常識上情状の重しと認めらるる種類のものは、既に刑法、出版法、新聞紙法又は治安警察法等で所罰せられて居るから、新に本新法案に依て罰せらるゝことになるのは、前述の事項を内容とする研究の発表並に其鼓吹の類であると観なければならない。之等の事柄は、従来は概して刑罰法規の問題とするの必要なしと認められて居つたのに、今回新に之も所罰事項の中に包含さるゝことになつた訳である。加之従来所罰して居た事項でも、今回は特に之を重く罰することが出来る様にしたのである。然らば斯くせねばならぬ新なる理由は一体何処にあるのだといふ疑問が起る。
そも/\新刑罰法規の発布又は所罰事項の拡張は、特に慎重なる用意を必要とする。よく/\の理由なき限り、軽々に之を発布すべきものではない。而して一旦之を発布する以上は、不当なる適用に依て無益の苦痛を人民に与へざらんが為め、其規定は極めて厳格に、出来るなら列挙的又は制限的なるを要する。法は徒に罪人を作るを目的とするものではない。尽して漏さゞるよりも、無辜を罪する勿らんことに深き意を用ゐねばならぬのである。此点に於て新法案は、立法技術上無類の悪法であることは、既にそれ/"\専門諸学者の指摘した所である。 右の点は姑く恕するとしても、一体今日斯んな法律を作る実際の必要があるかといふに、僕も亦多くの識者と共に断乎として其無用を唱へ且つ寧ろ其有害なるべきを叫ばんと欲する者である。
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本法案発布の理由として山内司法次官の各新聞紙に発表せしめた一文は、既に多くの人の批判に上つた。無用の様だが之を繰り返して見るとかうである。「近来外国ノ社会主義者ト連絡ヲ執リ、我國體ノ基礎ヲ破壊センコトヲ宣伝スルノ徒漸ク増加シ、而カモ其ノ運動方法巧妙ニシテ、現行ノ法律ノ欠陥二乗ジ、頻リニ運動ヲ為スガ為、厳ニ之ヲ取締ルノ方法ニ於テ欠如スルハ勿論、外国ヨリ注入スル資金豊富ナルガ為、運動漸ク組織的トナリ、此儘放置スルノ危険ナルハ言ヲ俟タナイ」と。議論で行き詰ると之は一個人の意見だ政府を代表するものではないと逃げるのが政府者の常だが、山内君が堂々と官名を冠して発表せしめたものだから、姑く之を政府の提出理由と見做しておく。
所謂危険思想家の巧妙なる運動が現行法律の欠陥に乗ずとの前提にも多少の異議があるが、しばらく之を許すとして、何故之を今日に至り、俄に取締るの必要を認むるに至つたかと云ふに、山内司法次官は明白に、外国の社会主義者と連絡を取り其の豊富なる資金を利用して運動漸次組織的となるからだと声言して居る。運動の漸次組織的となるの危険は、もと外国との連絡に関係なくしても起り得るけれども、当局者が特に此点に重きを置き、之を主たる理由として此種の例外法を制定せんと欲するのなら、法文中特に外国との関係を有する者のみを所罰するの趣旨を明白に掲ぐべきではないか。牛肉屋から買つた牛肉が怪しいとおどかして、食膳の食べ物一切を取り上げると云ふのは余り非道いと思ふ。尤も当局者に於て、外国関係の有無如何に拘らず取締りの必要があると云ふのなら、其旨を正面からまた明白に宣明する所がなければならぬ。貴族院に於ける質問応答は無論之に触れぬではないが、例に依ていゝ加減の菎蒻問答で、僕等の腑に落ちる底のものではない。
更に一歩を進めて考へると、外国との関係に依て過激運動が組織的になり進みつ、あるといふは、一体本当の事実かといふに、僕は大に之を疑ふのである。之に就ては当局者の判断の基礎に根本的の誤謬がありはしないかと思ふ。(一)彼等は西洋の所謂世界革命の陰謀(?)を馬鹿に恐ろしく誇大に視て居る。所謂プロレタリアートの社会改造運動が、其の世界的に行はるゝを成功の主たる要件とするは疑を容れぬが、之を今日に実現せんとする狂熱者流は、何処の国にもさう沢山あるものではない。猶太人がどうの、ボルセヴイキイがどうのと、無暗に怖るゝのは自ら聡明と自信との欠如を告白するものである。加之、彼等はまた之と連絡する我国一部の過激派の勢力を、余りに大きく見過ぎて居る。政府より危険視さるゝ連中のうちには、雑多の種類あり又幾多の階段あり、其間必しも一致せず、中には可なり烈しく反目してゐるもある。之等の事実を彼等は曾て精密に省慮研究したことがあるだらうか。中岡艮一が原首相を暗殺したからとて直に全国無数の鉄道従業員を警戒すると云ふが如く、偶然の外的目標を斉しうするものを皆敵視して、独り退いておそれおのゝくのは余り見つともいゝ図ではない。少くとも僕の聞知する限りに於て、自己の運動に外国の資金を利用した者は、我国に於て其数極めて少く其額も亦大したものではない。加之之等の一派は、例へば労働運動に従事して居る者の如きに在て中心勢力たり得る者では断じてなく、寧ろ種々の理由よりして、多くの人々より事を共にするを避けられて居る連中である様に思ふ。分り易くいへば、労働運動者仲間中の少数な特殊部落が、やつと外国側の誘惑に陥つたといふ程度のもので、之が基となつて近き将来の日本に一個憂ふべき過激運動が勃発すべしなど観測するのは、滑稽の至であると謂はねばならぬ。
更にも一つ僕の伝聞する所を飾る所なく告白するを許すなら、之等の一派が外国より得たる資金の幾何が、果して実際の宣伝用に使はるゝかといふに、大半は各自の生活費乃至飲食費となりて消え、残額の半が被服新調費となり(以上二者を合して運動費といふ)、最後の二三割が宣伝ビラに化けるのだといふことである。元来の額が少いのに、其の極めて僅少なる部分のみ本来の目的に使用され、夫れも宣伝ビラの撒布位では、考へて見れば大したものではないではないか。余り当局の狼狽さ加減が大げさなので、からかひ半分にやつて見るものもあると観て居る人もある。
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尤も外国資金の利用に関係なく、近時人心の傾向険悪に赴き一種の過激思想が漸次組織的運動とならんとすと説くのなら、僕と雖も一考の価なしとはせぬ。単純に斯うした心配はないかと尋ねらるれば、何人もあると答ふるの外はなからう。
しかし、仮令どんな心配があるからとて、憂ふべき形勢を将来に誘致する原因を為すものを、前以て一切所罰すべきかといふに、さういふ訳にはゆくまい。若し之がいゝものなら、下々の風紀を悪くするの種となるからとて、紳士紳商の花柳の遊をも罪せねばならぬ。労働者の直接行動論を刺激する最大の原因として、何を措いても不仕鱈な議員連を一々重罰に処するの必要もあらう。刑罰法令は斯んな遠い道義上の責任までを追究すべきものではない。併しとにかく、一つの思想が基となりて段々実際運動に具体化して行くのだから、何の辺から刑法の制裁を以て臨むべきかのくぎりを附けることは必要だ。之等の論究は専門の法律学者に譲るが、只疑のない点は、刑法の問題となるべき形態にまで進んで来た程のものは、現行の刑罰法規では十分に之を取締つて洩す所がないといふことである。
然らば、今度の法案は、斯かる事態を生ずることあるべき予想の下に、之が主たる原因を為すと認むる事項を、予め処罰せんとするのが主意だと謂はねばならぬ。例へば親の教育がわるい、其結果子供が後来殺人をやるかも知れぬ、故に今の中から親を罰して置けといつた様なものである。尤も政府は、危険思想の宣伝勧誘等を以て危険なる組織的運動の唯一の又は少くとも最も主要なる原因と観て居るのかも知れぬ。放火に付ては予備をも罰する如く、唯一の原因なら之を予め何とかするといふも一の政策たるを失はぬが、併し本問題に関しては、思想を唯一の原因と観るの正しきや否やが大に疑しきのみならず、又之を威圧することに依て全く実際の弊害を防ぎ得べしと思ふのは、大なる誤りである。何方へころがつても、政府の立場には秋毫の理窟もない。
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此種の問題の取扱に威圧手段の極めて反目的的なるは、古来随分と言ひふるされた事である。之れ程分り切つた事を止められぬとは、大臣や議員が淫楽に耽つたり賄賂を取つたりするのと同じく、人情の弱点といへば夫れまでだが、さりとは余りに聡明を欠く仕打ではないか。威圧の結果が却つて無用の激昂を来すものだといふ例は、現に最近政府自ら経験してひそかに恥ぢて居るべき筈だ。例へば最近在野党の諸氏は、普選問題に大に民衆的威力を示さんとしたのだが、其結果徒らに警察官を過度に昂奮せしめ彼等をして、殆んど普通の理性を喪失するまでに至らしめたことは公知の事実である。僕も現に幹部の地位にある警官が全然理非の判断を喪つたと認むべき二三の暴状を目撃して居る。併し之を以て政府を責めるのは公平でない。況んや警官自身をや。是れ皆、人は誰れでも威圧に遇うと反抗するものだといふ活きた証拠を示すものに外ならぬ。その反対に温良な民衆とても同じ事、官憲の威圧に接すれば、掌を反すが如く兇暴状態に昂奮する。政府当局にしても少し真面目に国家の将来を憂慮し、も少し我執の小慾から離れ得るなら、も少し筋の通つた方策に出づる筈だと思ふ。過激社会運動取締法案などいふ時代錯誤は、疾うの昔に陰を潜めた筈だと思ふ。
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更にも一つ当局者に考へて貰ひたい事は、今日の所謂危険思想は、本質上威圧の出来るものかどうかと云ふ点である。威圧は政策上よろしくない。本質上威圧の出来ぬものを威圧する時に更に一層よろしくない。八時間以上寝ては不可ないと云ふが如きは、強制するよりも強制せずに行はれしむる方法を可とするが、本質上強制し得ぬことでない。が若し全く寝てはいかぬといふことになるとそは不能を人に責むるものと謂はねばならぬ。酒を飲むなといふは、六かしいが全然無理を強ゐるものとは云へぬが、女色を絶てといふは或は人性の自然に惇る無理注文とも話へやうか。之と同じく、昨今の所謂社会運動が、詐欺や賭博と同じく人性の弱点に発する疾患なら、威圧していけぬ事もないが、僕等の観る所而して多くの識者の一致する所は、そは人類本性の醍覚に発現する自然の要求だと信ぜられて居る。本性に発源するから皆其儘で道徳的価値ありとは云へぬかも知れぬが、兎に角、当局者の之等の方面に関する見識の極めて浅薄低劣なるは、最早蔽ひ難い事実である。而して之等の連中が、意気昂然として起つて社会の情弊を救ふと云ふ。薮医に病人を托するよりも危険な話ではないか。
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最後に僕の最も憂ふる所は、本法案其ものゝ不当なことよりも之が不当の適用に依て益々民心を激昂せんこと是である。朝憲紊乱といひ、社会主義といひ、言葉の意味は極めて不明である。山内司法次官は、無政府主義、共産主義に甚だ学理的ではないが、兎に角、一種の定義を附して居る。併し乍ら、無政府主義、共産主義の名に依て唱へらるゝものは、あれに限つたのではない。或る用例に従へば、僕や敢て無政府主義者であり、共産主義者であり、社会主義者であり得る。甲の内容を有する者を、只無政府といひ共産といふ名字に拘泥して之を乙の内容を有すと誣ひ、以て徒に人を罪せるの例は、我邦に於て断じてなしと誰か云ひ切ることが出来るか。加之、今日の如き変転の時代に於ては、甲の是とする所乙之を否とし、理非の判断は丸で転倒してゐる。詐欺や泥棒の悪事たるは、天下何人も之を疑はない。思想問題に至つては、善悪の判断人に依て相表裏するが故に、之を裁判の問題としては、須らく専門家の鑑定に待つべき性質のものではないかとさへ考へて居る。然るを実際は裁判官独自の浅薄なる頭でどん/\裁断されるのだから堪らない。世人が本法案の発布に対して特に激昂するは、寧ろ此点についてゞあらうと思はるゝ。
行政執行法とやらに、自殺の恐ある者は警察に検束して之を保護するといふ規定があるさうだ。普選運動の八釜しくなつた頃、兼々目をつけられて居た或る人は、保護を名として検束された。警察では君に自殺の恐れがあるといふ。本人之を否定すれば、自分には分らぬものだと抑へつける。又検束は翌日の日没に至るを得ずといふ規定がある。翌日の夕方になると、巡査が附いて裏門から表門に廻され、又もや検束される。一旦放つた奴を、新にまた検束したといふ理窟に合はすのである。人民保護の規定が、現に斯の如く適用されて居る今日、誰れか過激社会運動取締法案の遂に一切の自由思索に対する箝口令たらざるなきを保護し得やうぞ。
聞く所に依ると、該案は司法省の発案に係るとか。軍人が軍政を専擅して二重政府の弊あり、司法官亦司法行政を壁断して、今やモンテスキユーに依て道破せられたる三権混同の政弊は、我国に起らんとしつゝある。僕は敢て茲に国民に警告する。我国は軍閥を抑ふると同時に又司法閥の謹慎を要求せねばならぬと。司法官が法律を立案し之が通過を迫るの情弊は、近代立憲国に於ては既に久しい昔語となつたのに、図らざりき、第二十世紀の今日、事新しく之を今日の我国に復活せるを見んとは。
要するに、本法案は其自身に於て無類の悪法である。而して其の適当に運用せられざるべきを懸念するの理由あるに依て、国民の之を呪詛するは当然だと考へる。既に一部の過激なる連中は、之を以て権力階級の挑戦と為し、有らゆる手段を以て之に対抗すべきの決意を固めたとか。之等の連中の勢力固より言ふに足らずといはゞ夫れまでなれど、徒らに民間の不平を刺激せしの結果、之等の輩に図らずも跳梁の機会を与へた事は、到底償ふことは出来ない。
之れでも政府は横車を押し通して国家を不測の深淵に陥れるを辞せないか。
〔『中央公論』一九二二年四月〕