平和思想徹底の機正に熟せり
飯を食べたばかりで腹が一杯になつて居る人に対しては、いくら熱心に説いても食事のことを真剣に考へさせ
る事は困難だ。此場合には正面から理窟を説よりも、運動でも勧めて自然と腹の減るやうに仕向ける方がいゝ。
腹が減つて食事のことを考へねばならぬやうになつた時、何を食ふべきか、又食べれば何うなるかと云つたやう
は い こ
な事を説くと、それがしつかりと腹に這入る。単に机の上で理論を捏ねるのなら別だが、天下の大勢を実際に動
かさうと云ふなら、何よりも先きに社会の現実の状況を視察する事が必要だ。平和思想についても同じ事が云へ
▲王こと
る。平和思想の塞に緒構なものである事は疑を容れぬが、之れが普及と徹底との実際問題を考へる時、吾々は先
づ社会其物が之に適する状況に在るか否かを考へなければならぬ。
斯ういふ立場から観察して見ると、少くとも戦争以前までの世界の形勢は、平和思想の徹底は勿論の事、其普
及に対してすら甚だ不適当の状能伽に在つた。即ち殺伐なる侵略的競争の時代で、詔はゞ弱肉強食といふ有様であ
つた。斯ういふ時代に平和論を説くのは、乞食に向つて慈善の必要を勧むると一般、殆ど何の効果も無いと云つ
て叶い。無論斯ういふ状態を憂ふべしとなして、之を打破するに努めると云ふ者もあつた。斯う云ふ人の真剣な
努力が、又一つの凰因となつて、今日のやうな新時勢を造つたとも云へるが、それにしても戦争以前に於ては、
むくい む き やつ
彼等の努力は容易に酬らるべくもなかつた。人々が真気になつて競争に憂身を葦し、少しでも隙があらば自分の
温
/。
2
2
り
せ
熱
に
一止
槻
の
底
徹
想
思
口
一女「
市丁
利益を図る為めに他を陥れる事を厭はないといふ時勢に於て、よく〈のお人好しでない限り、平和論などに真
くだくだ
面目に耳傾くる事が出来なかつたのである。是等の点は管々しく事例を挙げて説明するの必要もあるまい。
唯一つ予輩の専攻する政治外交の方面から一つの例を引いて戦前に於ける国際社会の如何なるものであつたか
フエー・.タツコムイノ川ノ
を説明しよう。戦前に於いて既成の事実といふ原則があつた。之れは強弱其勢を異にする隣凄二国間に適用さる
しばしば
る原則だ。例へば甲強国が境を超えて乙弱国内に何等か自国の支配権を延長したとする。乙は之に蜃抗議した
かえりみ よ あらた
けれども、弱国の悲しさに顧られない。泣寝入つて数年を経た。甲は侵略に由つて占め来つた地位を更めて法律
もと うべな
的に承認せん事を乙に迫る。乙は固より之を諾はない。けれども諸外国は之を一つの既成事実と見て、甲の言ひ
分を後援するのである。斯くして弱い者は結局其の正当なる主張を国際間に貫く事が出来ない。次に之と相並ん
し
で権力平均といふ原則がある。勢力相若く隣接の二国間には既成の事実といふ原則ば適用する訳に行かない。同
じ様な問題が起れば戦争になる。其処で斯ういふ両国間は常に武装的平和の状態に在るのである。であるから少
しでも相手国が優勢の度を増すと、黙つて居れぬから、勢力平均といふ原則を持出すのである。例へば甲国が勢
力の劣れる乙固より若干の領土針割取したとする。さうすると甲に対立する丙が新に均衡関係の紛更せられたる
を名とし、甲の新勢力と相等しきに至るを範囲として、別に無名の侵略を他の弱国に試みるか、甚だしきに至つ
ては甲に向つて若干の分け前を要求する事すらある。此後者の例は一九一二年の頃、ルーマニアがブルガリアに
や
向つて行つた事がある。少くとも前者の例は勢力平均の原則によつて己むを得ざる事と従来の諸国は認め来つた
のである。それでも時としてそれが巧く行かないとすると、新に同盟を結んで対抗の方策を静ずるといふやうな
一匂
訳で兎も角相手が十の勢力を有てば、我も亦之れに劣らぬ勢力を有たねばならぬといふのが各強国の意気込みで
ある。而して此目的の為めにする各強国の行動は、多少弱国の権利を冒す事あるも、己むを得ぬ事として承認さ
7
2
2
れて居つた。斯くして既成の事実といふ事にしても、勢力平均といふ事にしても、之を表向き国際法上の原則と
云ふ訳には行かないが、少くとも国際政治を実際に支配する慣例であつたといふ事は間違ひない。弱い国丈けが
つら
好い面の皮だ。だから弱い国は又弱い丈けにそれぐ方策を講じ、同時に又非常な排外思想をも養成するに至る
のである。斯ういふ時代に於いて、どうして平和思想がすら〈と普及し徹底する事が出来ようか。
それでも少数の真面目な人は何とかして局面を転換し、平和な天地を造り出さうとして苦心して来た。之を外
か な山り
にして又平和思想を説く者は可也あつたが、それは実は多く強国の圧迫に対抗する弱国の悲鳴に外ならなかつた。
かわ そ む
而して平和思想が弱国の殆ど唯一の武器として利用されて居る間は、強国が之に殊更らに面を背向けるのは已む
ゆえん
を得ない。之れ戦前に於いて強国の費任ある有識階級が兎角平和問題に対して熱情を有し得なかつた所以である。
斯く考へて観れば、戦争以前の世界の形勢は、何う考へて見ても平和思想の普及と徹底とに適当なる地盤では
なかつた。
8
2
2
然るに今度の戦争を機として此形勢は全く一変した。今度の戦争が非常な苦痛を経験せしめた事、其結果とし
かつ
て欧米の民心は未だ曾て見ざる程の深刻さを以つて将来の天地を平和的に造り換へやうと熱心するに室つた事、
これが主たる原因となつて平和的世界の建設に関する積極的研究の極めて旺盛を極めて居る事、是等の点は本誌
の之まで屡説いた所であるから、今また此処に之を繰返す事を略する。謂はゞ戦争と云ふ一大事変によつて現実
の社会状能サが一変したと云つてュい。即ち戦争は腹の一杯になつて居る者に、大いに運動するの機会を提供した
やうなもので、五年も経つた今日彼等はもう腹が減つて堪らない。平和思想が善いのか悪いのかそんな理論的判
断は何うでもい、。兎に角あんな苦しみは二度と繰返したくないから、否やでも応でも平和の生活を築き上げた
り
せ
熟
に
正
機
の
底
徹
想
思
nH
手
平
いと云ふのが今日の民心の痛切なる要求だ。之れが社会に於ける一つの不可抗的大潮流をなし、従つて又大いに
当局者などをも動かして居る。斯う云ふ風に実際の境遇が変つて来ると、之れに伴つて又前とは違つたいろ〈
な新しい思想も起つて来る。之れ取りも直さず、今や社会の実状は少くとも平和思想の並影に最も適当するに至
った結果でなからうか。故に少くとも欧米に於ては平和思想の普及の為と云ふ事は殆ど問題にはならない。只如
何にして之を徹底すべきかを研究すればいゝと云ふ状態にまで進んで居る。
さすが
我日本も有繋に此世界の大勢に押されて、昨今平和思想は大いに普及して居る。此事について沌証明を要せず、
なが
読者も既に認められて居る事であらう。が、唯欧米程十分に機運が熟して居ないと云ふ事丈けは残念乍ら認めざ
るを得ぬ。一つには戦争の惨禍を経験する事が足りなかつた、言ひ換へれば運動が未だ不十分で十分腹がかエいて
居ないと云ふ点もあらうが、も一つには我国には特別に平和思想の這入り難い理由があるからではあるまいか。
さう云ふやうな所から、我国に於てはまだも少し平和思想の普及と云ふ事について劃策努力する所あるを必要と
する点がある。
其処で平和思想の普及の為めに何を為るがい、かと云へぼ、予輩の観る所では差当り二つある。一つは世界昨
今の形勢を如実に見、且つ之を説く事である。世間には戦争以前の考を以つて今日の世界を観測する人が少くな
い。吾々はもつと戦争を転機とする世界的形勢の一変に透徹した眼光を放たねばならない。第二には吾々の先輩
に特有な反平和思想は如何にして造られたかを反省せしむる事が必要だ。幕末の頃排外思想が如何に強かつたか、
又当時外国に留学したものは何を学んで来たか、斯くして造くられたる彼等の思想が如何なるものであるべきか
かえ
を考ふる時、吾々の先輩が反平和思想を懐くのを吾々は寧ろ却つて当然とする。併し乍ら彼等の教育された時代
一9
2
2
∩
と今日とは違ふ。子供の着物は大人に用は無い。是等の点も予輩は蜃他の機会に於て述べた所であるから此処に
繰返さないが、要するに是等の点を明かにすれば、吾々は先輩の国際観から解放されねばならぬ所以、新時代に
ひら
適当な新見識を啓かねばならぬ所以が明かにならう。斯くして初めて十分に平和思想の普及を図る事が出来ると
考へる。大体に於いて地盤は相当に耕されて居る。平和思想の種子をして十分に成長繁茂せしめんが為めには、
けいきよく
取残されたる多少の別棟を取除ければい、。
。
ュノ
2
終りに平和思想の徹底については、他の諸国に於る同志と共に尚ほ深く研究を重ねたい。時勢が変つて平和思
想の普及に適当な時代になつたと云ふ丈けで安心しては本統の平和は来ない。運動の結果自然腹が減つて来たと
まか
云ふ事に委して置いては、遂に暴飲暴食の弊を見ないとも限らぬ。否やでも応でも平和と云ふ事を考へねばなら
〔骨?〕
ぬやうになつたのだから、之から先きはそれに理論上の背景をつけてやる事が必要だ。平和に対する本能的要
求に、更に理論的確信を附与してやる事が必要だ。此点に成功して初めて平和思想が現代に徹底し得るのである。
是等の点に対しては既に論究を要する点が甚だ多いが、辛にして最近何故に吾々は平和を要求せざるべからざ
るかについていろ〈の方面からの研究が盛んに発表せられる。之れからもます〈盛んになるだらう。是等の
研究に譲つて此処には述べぬが、只一つ多くの人の説かざる而かも最も重大な一事について三口するに止める。
そは何かと云ふに、平和思想の徹底と否との問題は、結局する所人生に対する吾々の気分如何と云ふ事に帰する
と云ふ事である。人をどう観るか、人間は動物の進化したもので、其本性に於ては野蛮な争闘性を有するもので
り こう
ある。倒巧な丈けに段々之を押へて社会に調和を求むるの工夫を建てゝは居るが、結局の本性が此処だと云ふ立
場を取れば、平和思想は結局に於て徹底する事は出来ない。平和思想の徹底は人間の本性を理想主義的方面に立
、[召瀾周周周畑勺巾=璃JIJIJブd■う入tぞ
り
せ
熱
に
正
機
の
底
徹
想
思
nH
手
平
1
ュノ
2
たす
っる人生観とのみ相伴ふものである。人の本性は無限に発達するもの、相信じ相扶け得るものと観るに非ざる限
り、本統の平和を前途に期待する事は出来ない。故に平和思想の徹底の為めに吾々の結局に於て努むべき所は、
人生問題に対する哲学的研究であり、更に進んでは宗教的情操の滴養でなければならぬ。之に基かざる一切の平
ひつきよう
和的論究は畢真砂上の楼閣に過ぎない。
〔『中央公論』一九二二年一月〕
2
ュノ
2