国際協働的精神に徹せざる我操觚界


 毎日の新聞を読んで一番不快に感ずるものは、醜穢なる三面記事と党派根性で曲筆せられた政治記事とである。政党幹部の政談などゝ来ては、歯の浮く様な手前味噌に顰蹙させられるが、機関新聞の偏僻なる政論に至つては往々にして正直な市民をあやまることあるを恐れざるを得ぬ。
 市井日常の報道は兎も角、内外の国家的併に社会的大問題の評論に至ては、極めて的確公平なることを要する。社会全体の為めから云つても斯事の緊契(きんせつ)たるは言ふまでもないが、吾人の様に正確公平なる見識を養ひたい希望を有する者の主観的要求から云つても、不偏不党の有力なる新聞の発達は頗る願はしい事だ。幸にして日本には、如何いふものか、政党の機関新聞といふものはサツパリ発達しない。少しはある。が、何れも有るも無きも同じ様なものばかりで、公人の机上に欠く可らざる底のものは、言葉の正しき意味に於て、一つもない。信用のある新聞といへば悉く政府にも政党にも関係のない中立の新聞である。之を政界の不具的発達より来れる一つの結果と観ずれば悲しき現象たるを失はないが、又一面に於て為に幾分偏僻の政論の横行に累せられざるを得るといふ点に於て幸だとも謂へる。
 併し乍ら、不偏不党の中立的新聞の発達に依つて比較的正確な報道と比較的公平な評論とに接するは、孰れかといへば内政の方面であつて、事一度渉外の問題になると必しもさうとは云へぬ。何故に然るかといへば、惟ふに是れ我が国民未だ全く鎖国時代の陋習より脱し切らず真の国際協働的精神に徹底し居らざるが為めであるまいか。内政問題に就ては既に政党者流の我田引水の僻説に超然たり得るに至つた国民も、国際問題になると彼我の立場を超越して姑く事物当然の理の何処に在るやを冷静に正視するの雅量を失はんとする。即ち我執の偏見に囚へられ自家の利害を以て直に事理の正否を分つの標準と為さんとするのである。斯くして我国の諸新聞は、少くとも国際問題については、今なほ一党一派の機関新聞と殆んど択む所なきの陋態を示すのは、新聞のために惜み又社会の為に甚だ之を惜まざるを得ないのである。
 試みに最近最も公平を以て鳴る某大新聞の大連会議に関する報道の一句を引かんか。チタ側を論じては「是れチタ側の猾策にして、斯く部分的に会議を開き、鉱山権に就ては日本は何を欲するや、森林権は如何……夫々日本の具体案を知り、是等の条件が悉く自家に有利なるに於ては更に談判をすゝめ、不利なるに於ては直に之を破毀し、日本の要求過大を宣伝して協商不調の責を日本に嫁し……対外的に日本を西伯利より駆逐せんとする悪辣手段にして云々」といひ、日本側については「其要求は極めて機会均等の主意に叶ひ、何等チタ側の如き利益主義のものにあらず云々」とある。之は或は本当の事かも知れないが、併し我々は何んだか其間に不安を感ぜずには居られない。モット公平な正しい報道に接しないと容易に此の問題についての見解を定め難い様な気がするのである。
 白いものを黒いと言つて貰つて只自家の都合さへ善ければ喜ぶといふのは、政党の陣笠の事だ。政党員でも少し利口なものは、少くとも腹では斯んな陋態を潔とせぬ。自分に都合がよからうが、悪るからうが、事実を有りの儘に視、其理否の岐るゝ所を公平に識るといふは、現代識者の最先の要求である。公正不偏の報道批判は国内の問題に於てよりも殊に昨今は対外の問題に於て必要とされる様になつた。而して我国の新聞が此点に就て未だ十分の満足を与へないのは、我々の太(はなは)だ遺憾とする所である。
 新聞のこの未発達の状態は、蓋し国民其者の此方面に於ける未発達の反映であらう。とは云へ国民のこの未発達は矢張り新聞等によりて之を開拓するの外はないではないか。国民多数の対外的見識は、兎にも角にも新聞の供給する材料に依つて作らるゝからである。昨今の様に国際問題の格別日常の話題に上るの際、而して世界全体を通じて、国際的精神の格別躍動してゐるの際、わが新聞が此方面に於ても亦社会の木鐸たるの任務を十分に尽さんことは、吾人の切なる願である。
 然るに我が新聞界の現状は如何。
 吾人は徒らに新聞界を咒ふものではない。只其の更により良き発達を冀ひつゝ其の必要の迫れるを警告したるのである。而して此点に於て我が中央公論が、多年内外各方面の実際問題につき、常に公正穏健の評論を発表し、聊にても這般の欠陥を充たし来つたことは、また読者諸君の諒とせらるゝ所だらうと思ふ。

                       〔『中央公論』一九二一年一一月〕