〔『国際労働会議と日本』〕序文に代へて
あつ
今度浅利関口の両君が国際労働会議を主逼とした研究を輯めて一書を公にすると開き、両君を識る僕として自
ら三ロなきを得ないのであるが、国際労働会議といふ問題に付ては多少の考もあるので、此の機会を利用して僕
の考の一端を述べ、併せて両君の書をひろく江湖に推薦したいと思ふ。
第一に僕はかね′ぐ−労働問題の解決は本質上国際的協定にまたねばならぬものと信じて居る。世の中には単独
で解決の出来る問題と協同的にやらねば出来ぬ種類のものとあ■る。例へば禁酒禁煙といふが如きは、之を一つの
社会運動としても固より相当の意義あるものに相違ないが、併しやめようと思へば自分ひとりでも止めることは
出来る事柄だ○隣りのおやぢがやめない中は自分もやめにくいといふが如きは人情として尤もの点もあるが、本
質上廿とりノしをやめさすことは出来ぬといふ問題ではない。之に反して例へば小売商人の物価協定などになる
とさうは行かぬ。豆腐一丁を五銭で売ることにきめる。仲間の人にひそかに此の協定を裏切つて四銭五厘に売る
者があるとする。さうすると一日一約束した以上之を破る様な不徳義はせぬなどと馬鹿正直を立て通す者は得意を
皆他に奪はれて自分は散々の失敗を見ることになる。斯んな類はどうしても全員一致でなければ出来ぬ事柄で、
ひとりでも裏切るものがあると全体が破れて了ふ。従てまたひとりでも異議ある者があれば実は初めから協定が
成り立ち得ない。而して斯く云つた様な問題は国の内外に亙る公けの事柄に付ても随分沢山ある。国際的関係の
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問題にして斯種の事項に属する最も代表的なものは軍備制限であらう。或る一国が如何に軍備大縮減の必要を痛
感しても、隣りの国が依然脅威的大設備を擁して居る以上は、削減どころか場合に依ては不本意なる拡張をさへ
さか
余儀なくさるこ」とがある。如何に平和の風潮が輿論的に旺んになつても、実際問題としては世界の強国悪く一
しばしば ゆえん
致の誠意を示さなくては、軍備制限の実現する見込はない。是れ軍備制限の国際的協議の蜃々試みられる所以で
ぁる。而して其の実際的協定の容易に成立せざる所以も亦以上の微妙なる事情に基因するや疑を容れぬ。兎に角
軍備制限といふものは斯う云ふ性質のものだから、誠意ある世界的協定の完全に成立するまでの間は、一旦之に
にわか
賛成したからとて俄に必要なる補充乃至拡張を遠慮することも要らず、又之を発企した国が若干の拡張をやつた
ついで
からとて直に其の平和的誠意を疑ふの必要もない。序ながら三日しておく。
労働問題に付ても、僕はかねぐ斯うした国際的性質の存在を認めて居るのである〇一体労働条件をどう決め
るかといふ様な問題は政体をどうきめるかといふ類と同じく、固より第一次には国内的問題而して政党の決定如
何が自ら間接の影響を隣国に及ぼすが如く、労働条件の決定も全然他国と没交渉ではあり得ない。併し労働条件
の方は実はもつと直接な形能だ於て隣接他諸国と深い交渉があるのである。是れ今日の世界に於て経済関係の国
際的なをより来る当然の結果であらう。是に於て僕は労働問題をば第二次には国際的問題だと考ふるのである。
詳しく云へば、甲国に於ける労働関係の特殊の解決は、全然隣接乙国に何等の影響なしにとゞまり難く、又丙国
に於ける労働問題の特殊の解決は、隣接諸国の労働関係が之を助長するやう少くとも之を郁げざる様に出来て居
ここにおい一て
ないと結局うまく成功するものではない。於是甲国が労働問題の解決に熱心になればなる程、乙丙諸国の労働
関係に無関心であり得ないことになる。此処から労働問題に関し各国家間に一種の道徳的干渉権が発生する。道
徳的干渉権は直に法律的権利義務の形には変へ得ない。けれども出来る事なら斯く変へることが必要だといふ所
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から、新に労働問題の国際的協議と云ふものが起らねばならぬことになる。最近新に経つた国際労働会議が他の
平和を目的とする諸会合と並んで今日の世界に重きを為すも偶然でない。
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以上の立場から僕は労働間違の国際的性質といふことを能く〈国民に了解して貰ひたいと思ふ。世間には外
こうでい
国では何と決めやうが我国は之に拘泥する必要はないなどと云ふ人もある。我国の特殊の事情を無視して西洋で
きめた型に盲従せょと云ふのではない。只我国が我が所謂特殊の事情一点張りで勝手に決めたのでは、結局他国
やが
にも迷惑をかけ、躾てまた我れ自らを傷くる結果になるを知らねばならぬと思ふのである。政府すらが国際労働
いささ
会議そのもの並に共の協定に対して己に聯か冷淡の色あるは僕の甚だ遺憾とする所であるが、何を差しおいても
大事なのは此点に関する民心の開拓といふことである。而して本書はこの方面に大に貢献すべきは僕の信じて疑
はざる所である。
あらかじ
次に僕は労働問題の国際的解決に就ては予め大体の方針を指示して置くことの必要を痛感する。と云ふ意味は、
現今この点に関しては二つの異つた方針が流れて居り、之が我国に於ても相当に強く争はれて居るからである。
早い話が一方国際労働会議に代表者を出さうと云ふ者があれば、他方には出すまいと主張する者があるではない
か。昨今我国労働団体の多数の態度は著しく変つて来たと云はる、が、去年位までは、国際労働会議を認めるな
どは労働運動の堕落だと説いて居つたのである。国内の普選間違などに付ても、之が利用を不可とする論の方が
景気がよかつた様に思ふ。之が昨今著しく変つて来たのであるが、兎に角斯んな風に二つの違つた思想の流れが
い川す
あることは明である。そこで我々はこの孰れに加担すべきかを定むる必要があると思ふ。この方針を予めきめて
置かなくては漫映小国際労働会議を云々しても何にもならない。
かつ
労働問題解決に関する思想上の根拠を何れに取るべきやに就ては、僕嘗て御粗末ながら一重日を公にして世に間
ぅたことがある。『社会改造運動に於ける新人の使命』といふのがそれだ。僕の立場を三自にして云へば、ボル
シエヴイズムを排して人道主義をとり、第三インターナショナルよりも第二インターナショナルに傾投し、殊に
唯物的解決を極力斥けて理想主義的解決を推奨したのであつた。去ればと云つて世の所謂協調主義など云ふ微温
はん
的な妥協を可とするものでないことは言を待たぬ。之等の点はこゝに一々詳説するの煩を避くるが、兎に角細目
き し
の点はどうでもいゝとして、右の論点だけは予め旗峨鮮明ならしめて置く必要があると思ふ。而⊥てこの肝要な
る点に於ても浅利関口両君の立場は全然僕と同感であることは僕の最も喜ぶ所である。是れ両君の該博犀利なる
論究を十二分の確信と尊敬とを以て江湖に紹介する所以である。
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此機会に於て序に三日世の識者に告げたいことがある。そは世間の所謂赤化脅威といふことである。日く露国
では世界中を赤化しやうと陰謀をたくらんで居ると。斯くて赤化といふ二字に非常に怖しいものを想像して居る
のであるが、之はいろ〈の意味に於て大変な誤解だ。尤もまた反対に露国の赤化的努力といふものは丸で嘘だ
と否認するのも正当でない。僕の蜃々述べた如く労働関係の解決は国際的のところまで行かなければ安定を得な
いものだ。故に露国のボルシエヴイズムも露国だけの改革に留めては失敗の運命を免れまい。そこでどうしても
他国にも之を流行せしめねばな〔ら〕ぬと思つてゐるだらう。と云つて急に他国を思ふ様に左右することも出来な
ま かんが
いから、露国では今や己むなく一旦きめた施設を若干柾げてもゐるさうだ。が、之を我々は改革の失敗に鑑みて
また逆戻りしてゐるのだなどゝ安価に評定してはいけない。思ふに彼等は之を当座の辛砲と我慢して更に鋭意他
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いわ
諸国の赤化といふ根本事業に熱中するのではあるまいか。況んや彼等には自国の改革は世界に於ける全労働階級
の福音たり、この福音は広く天下に頒たざる可らずとの伝道者的熱情に燃ゆるものありと云ふに於てをや。要す
るに我々は露国にT少くとも露国人の間にT所謂世界赤化の企劉あることを認めないわけには行かない。何
となればこの企劃なしにはボルシエヴイズムのあれ丈けの大改革は畢克無意義に了らなければならぬからである。
故に僕は例へば英露の間に赤化宣伝をやらぬとの条件で承認問題が解決されたといふ様な説を文字通りには受取
らぬ。又赤化宣伝をやらぬといふ条件の下に於てのみ露国と交渉に入るべきだなどいふ主張の愚をも笑らはずに
居れない。赤化宣伝はボルシエヴイズムに取つて大事な生命だ。之を封じ込むことの可能を信ずるは、童貞厳守
の条件の下に娼妓稼業を許さうといふに等しい。
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赤化宣伝の事実を否認しないと云ふと、直ぐそれだから露国とは国交が開けぬと力むものがあるが、之も亦飛
んでもない間違だ。露国のボルシエヴイズムに就ては非常に怖しい伝奇的怪渾が余りに深く人心に湊み込んだの
せ
で、今日之を取り消すのは容易でないが、切めて識者階級だけはも少し正しい見識を有つてもよかりさうに思ふ。
之等の点にまで立入つて弁論に骨折るのは僕のこの小篇の目的とする所ではない。要するに所謂赤化宣伝の内容
を不当に誇大祝し、為に露国と国交を開始するの断じて避くべきを説くが如きは、余りに見つともないから止さ
うではないか。但し他の論点から承認問題の可否を論ずるのは自ら別問題である。
赤化宣伝は恐る、に足らずとして、其の思想の根底に誤りありとすれば、吾人はまた全然之を不問に附サるわ
けにも行かぬ。然らばどう之を処置するか。対策は決して其の禁圧ではない。又禁圧したとて効のあるものでも
か
ない。陳套な言葉だが矢張り思想は思想を以て闘ふの外はないと思ふ。然らば如何なる思想を以て夫の赤化宣伝
お
に対抗せしむべきかといふに、言ふまでもなく、第二インターナショナルの立場を措いて他にないのである。是
に於てこの立場よりする労働問題の研究は、我国の今日に於て実に焦眉の急務と云はねばならぬ。労働間超それ
自身の解決の為めには勿論だが、赤化対抗の意味に於ても極めて緊要な事業なのである。この点からも本書が今
日我国の急要に応ずるものたるは多言を要せずして明であらう。
斯く考へて僕は今日我国の官民がボルシエヴイズムの威力を不当に怖がつてゐる態度を遺憾とする。而して之
ヽ ヽ
に対抗する最も有力にして且つ最も合理的なる武器は、健全なる思想と其の具体的の運動とであるべきに、あつ
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ やや
ものに懲りてなますを吹くの響に洩れず、労働問題に関する一切の思想と運動とに動もすれば正当なる処置をあ
やまるのは亦僕の甚だ残念に思ふ所である。
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いづれにしても浅利関口両君のこの述作は極めて時務に適切なる書として進んで世上に推薦する。浅利君は人
も知る如く国際労働事務局に職を取り、斯種問題の研究に一生を捧げんとしてゐる方である。関口君は朝日記者
として僕の同僚たるのみならず、労働問題の熱心なる研究家として以前からの知友であつた。両君の斯方面に於
ただ
ける造詣は多言をまたずして明だが、僕の本書を推挙するは、膏に一知人としての情誼から来るばかりではない。
両君を識ると否とに拘らず、本書の如きは正に今日の時勢に欠くべからざるものと信ずるが故に以上長々と僕の
所見の大要を披渡して、敢て推薦の理由を明にした所以である。
大正十三年三月十六日
東京朝日新聞社楼上に於て 青 野 作 造
〔朝日新聞社編『国際労働会議と日本』一九二四年四月刊〕
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