言論の自由と国家の干渉


     一 はしがき

 森戸帝大助教授の筆禍事件に関聯して、昨今言論自由と国家干渉権との関係といふ事が問題となつてをる。或
                               〔▲憲〕
人は言論の自由乃至学問の独立を理由として、同氏に対する休職の処分は勿論の事、朝権素乱の名の下にこれを
起訴した事さへ不都合であるといふ。ところが又他の一方には、言論の自由は絶対無制限のものではない、学問
ょりも国家の方が重い、国家あつての学問の独立だといふやうな人もある。成彗一口論の自由は文化の発展上大い
に之を尊重すべきものであるに相違ないが、さりとて人を殺してもい\人の物を盗んでも勝手だといふやうな、
共同生活の基礎的条件を破るやうな思想を横行せしむるわけには行くまい。そこで所謂言論の自由に対しては、
或場合に於て国家が之に干渉するといふ、相当の理由があると思ふ。けれども、さうかと言つて、一から十まで
国家の煩はしい干渉乃至取締を受くるのでは、所謂文化の進歩は停滞せざるを得ない。すべて文化の進歩発達は
自由なる精神活動のみより生ずるものであるから、度を超えた干渉拘束はいかなる場合に於ても進歩発展の敵で
          ここにわいて
なければならない。於是問題となるのは、国家がいかなる場合に於て正当に言論自由に干渉し得るか、言論の
自由はいかなる範囲に於て国家の干渉に甘んぜねばならぬか、といふ点である。換言すれば、言論の自由と国家
の干渉との間に、いかにして合理的の境界線を設くべきか、といふ事である。
 この事を説く前に、国家といふ観念及び自由といふ観念について、世間通有の誤解を正しておく必要がある。
獅・屠

なぜなれば、これらの理由なき誤解から、不当に国家の干渉権を主張するやうな謬論もちょいちよい見えるから。
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国家と社会とを混同するの非
我々人類は共同生活に於て初めて夫々の生活を可能ならしめてをる事は、今更言ふを倹たない。共同生活は我
々個人々々の生活にとつても大事なものであるが、共同生活それ自身に絶対の価値を主張するとしても相当の理
由はある0従つて共同生活の基礎条件を破るやうな説を立つる者があれば、それは明白に危険な説に相違ない。
この点に埠てかの全然破壊を事とする虚無主義の如きは一種の危険物と見倣して、之を取り締るに相当の理由が
ある0しかし乍ら学問上に於て無政府主義なる所謂国家否認の学説は、直ちに之を共同生活その物の否認と混同
してはいけない0共同生活その物の否認を危険なりとする理由を打ち棄て、直ちに国家否認の説を危険視するの
は、国家と共同生活即ち社会との概念上の区別を無視するの議論である。
尤も吾々の普通の用語に於ては、国家といふ文字と社会といふ文字とをあまり厳格に区別しない。例へば大和
民族の共同生活に伴つて発達した固有な又は歴史的の特殊文化といふ意味で、日本国家の文化の発揚などゝいふ
事がある0これなどは実は大和民族の組織してをる社会の文化といふが正しいので、国家といふのは普通社会と
区別なしに使ふところの俗用によつたものに外ならない○されば通俗の言葉としては、国家といふも社会といふ
も畢真岡一であるから、国家を否認するは即ち社会その物を否認する事になるといふ理屈で、これを答めても一
向差支へない。
.けれども学問上の用例としては、民族が歴史的に作るところの共同生活体は、之を社会といふべく直ちに国家
と呼んではいけない0然らば国家とは何であるか、即ち学問1社会と区別せらるゝ国家とは何かといふに、吾々
言論の自由と国家の干渉
の共同生活が国権と称するカの組織即ち強制組織によつて統括せられてゐる方面を言ふにすぎない。謂はゞ国家
は吾々の共同生活の」方面を指して言ふにすぎないのである。故に若し国家を否認するの説ありとすれば、そは
カの組織即ち強制組織を吾々の団体生活の唯一の統括原理として尊重し過ぎる事に反対するのであつて、社会生
活その物を無視するのではない。人往々国家の否認の説は吾々の共同生活の秩序破壊を目的とするものなるかの
如くに考へるけれども、かの破壊的虚無主義に非る限り、彼等の期する所は寧ろ社会生活の秩序をか鮎簡芙な根
砥に置かんとする動機に出る事が多い、実際所期の目的を達し得るか否かは別問題として。
 要するに学問上に於て、吾々は、国家といふ文字を特別の狭き意義に限定して之を使つてをる。従つて吾々政
治や社会の問題を論ずる時の国家といふ文字は、皆この特別な意義に解せられなければならない。本論文の中の
標題にある国家も亦この意味である事は言ふまでもない。此狭き意味に限定し稚国家を否認するのがい、か悪い
かは、又自ら別問題であるけれども、国家といふ文字に通俗の意味を附してその解釈の下に吾々の国家に関する
言説を論じやうとするのは大いなる誤りである。故に例へば帝国大学令に、国家に枢要なる学術を研究し云々と
あるのを引つ張つて、森戸君が国家否認の学説を立てたのは大学の目的に背反するものである、といふやうな事
を言つたのは笑ふべき謬見と言はざるを得ない。
   \\
     三 強制組織を過重するの蒙

 国家を社会といふ意味に解して、吾々学術研究上の国家否認説を非議するの誤りなるは前段述ぶる通りである
が、さて国家を狭い意味に解した上で、・これを否認するのが正しいかどうかは前にも述べた通り別の問題である。獅一磨
これについては国家と社会との関係に関する見解の如何によつて、二つの異つた考へ方が成り立ち得ると思ふ0

/\
前にも述べた通り、吾々の個人的生活は共同生活に於て始めて可能であり、従つて共同生活と個人的生活とは
ぴつたり融合してをるのであるが、さてその個人が共同団体の中にあつて安らかにその生活を全うし得る所以の
ものは、その間に何等かの秩序が立つてをるからである0然らばその秩序は一体何者によりて与へられてをるか、
何によつて共同生活は秩序づけられてをるか、他の言葉を以て言へば、吾々の共同生活を統括しそ励秩序を維持
する所以の原理は何であるか、といふ問題が起る0この間題については、所謂統括原理は唯;しか甘といふ
一元説と、否一つばかりではない、沢山あるといふ多元説とある。
一元説を採る者の殆んど例外なく一致する点は、強制組織を以て推二の統括原理とする点である。吾々の共同
生活の秩序は、カによつて初めて、否カのみによつて統括される0従つて社会は常に当然国家とならなければな
らない0国家といふ考へを離れて社会といふ物を概念的に想像するのは銘々の勝手だけれども、事実上国家の外
に社会は実際に存在し得ない0故に社会といふも国家といふも畢克は同じ事になる。かういふ考へが正しいとす
れば、国家否認は即ち共同生活その物の否認に非ずといふのは言葉の上だけの事で、実は国家を否認する事によ
つて社会の秩序を寮乱する結果とならざるを得ない0お前の首は取るがお前の命を取る積りはない、と言ふと同
じく、国家は否認するけれども社会はこれをどこまでも立て、行きたい、と言ふのは事実上成り立ち得ざる議論
                     たと
である0故にかういふ立場から言へば、縦ひ国家と社会とを概念的に区別しても、換言すれば国家をいかに限定
せられたる意味に解釈しても、国家否認の説は直ちに之を危険なる説として排斥せざるを得ないわけになる。け
れどもかくの如き国家観乃至社会観が今日社会学者の多数の容る、所に非るは明白一点の疑ひを入れない。只一
都の頑冥なる政法学者の丁角に、今日なほかかる妄信を抱く者あるは怪訝に堪へざる次第である。
 一−
 共同生活の秩序を維持する統括原理に関しての今日の通説は多元説である。即ち独り権力の組織のみならず、
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言論の自由と国家の干渉
習慣、道徳その他色々の物を数へ立てる。而かも命令、服従といふやうな形式上の権力関係はそれ程高い億打を
占むべきものでないとさへ言うてをる。尤も何れの原理が重きをなすやは、時代によつて異ると言はなければな
                                                                         ヽ ヽ
らない。昔は権力が最も重きをなしたのであらうが、少くとも今日に於ては権力よりも習慣、道徳の方がより強
  ヽ ヽ
いより確固たる統括原理とせらるゝやうになつた。他の言葉を以て言へば、人格的な道徳的な方面に統括原理を
認め、権力、服従の関係は止むを得ずしてこれを適用するもの、できるなら各個人の自発的創意に任して、健全
なる理想的社会を築き上げて行きたい。かういふ立場から言へば、国家の特徴たる強制組織の如きは固よりこれ
を否認はしない。否却つてその或る場合に於ける必要を説くけれども、之を以て第一義的のも暫くは思はないか
ら、之に固執する偏見者流の蒙を啓くために、強制組織のみを唯一の統括原理と認むる考へに反対するといふ意
味で、国家否認の説を立つる者もあり得る。文字が適当か否か姑らく別問題とレて、かういふ思想はそれ自身決
して危険な物でなく、寧ろ最近の社会学研究の結果と適合するものと言はなければならない0
 この事は又他の見方からも言へる。即ち前の間違つた国家観を採れば、共同生活の基礎は権力を強くしさへす
れば固い。権力を無限に張り、強制組織を出来るだけ強くせばそれだけ吾々の共同生活は安全に発達するといふ
事になる。即ち富国強兵といふやうな物質的方面に於て国家を強くする事が即ち政治の理想といふ事になる0従
って学問の独立だの、言論の自由などいふ事は第二義的の問題であつて、富国強兵の目的の前には多大の犠牲を
需められても致し方がない。強制組織を少しでも弱くするといふ事が第一の罪過であるから、これを動揺せしむ
る恐れある言論の自由の如きは、例外として差支へない限り認めるべきもので、干渉と取締とが原則と見なけれ
ばならない事になる。けれども共同生活の統括原理は権力ばかりではない0命令、服従といふやうな低級の、水
臭い関係を飛び越えて、今日はもつと自由な道徳的な且つ人格的な所に基礎を置きつつあり又置かねばならぬと
御屠

  『
いふ事になつてをる以上、強制組織を強むるといふ事は必要ではあるが、第二義的な所に落ち来らざるを得ない。
第一に必要なのは即ち各個人の自由を尊重するといふ事である0各個人の自発的創意に基いて、社会的秩序を道
徳的に組み立てしむるといふのが原則であるべく、国家の干渉はこの原則の徹底を期する範囲に於て初めて許さ
るべさものである0然るに世間には強制組織の効用を過度に考へて、強制のために強制するといふやうなのが多
い0之に反対して強制を竺の原理と認むべからずといふ説には相当の真理がある○この意味に斡て国家の特徴
を否認し、従つて国家を無視するの議論をするのは、その実共同生活をなほ一層安全な、なほ一層強きものにせ
んとする動槻に出づるもので決して危険なものではない0政治、法律の学問をする者には、社会学上極めて明白
なこれだけの理屈を、往々にして誤る者が多い。

     四 自由とは何ぞや
 強制組織を強くする事のみを図る結果は、却つて共同生活その物を結局に於て弱むるばかりでなく、更に文化
の開発を妨ぐると同じく、強制組織の強固といふ事のみに執着せざる考へは却つて共同生活その物を強くする外、
なほ大いに文化の開展を助くるの結果を生ずる事になる○自由といふ事それ自身は或ひは人生の究克目的でない
かも知れない0けれども文化開展の発動を促す必須条件として、大いに意義あるものたるは言ふまでもない。こ
れ文化は精神的活動の自由より生ると称せらる宗以である○政治が人生の目的の達成に助力する使命を有つて
                                                    ま
をる以上、所謂自由を以てあらゆる政治的活動の中心的目標とすべきは言ふを族たない。
 さう言ふと反対論者は次の如く詰問して来る0人間にさう計由を許すと何をするか分らない。自由は忘に於
て放縦である0放縦から値打ある文化の開発すべき道理はない○寧ろこれを抑へる事が人類の進歩を促す所以で
    \
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言論の自由と国家の干渉
はないかと。戌程之も一理ある。人間の本性がこれを拘束せざれば勝手放題な我俵なるものとなつてをれば、政
治の理想は専制的統括でなければならない。人の本性は相競ひ相屠る殺伐なものと見る人生観から生る、ものは、
常に必ず専制主義である。十九世紀の後年、一時世界を風靡した自然科学的人生観は、全部がさうではないが、
大部分は人間の動物的方面を本質とする見解を採つたから、従つて専制的統括を政治の理想と見るやうに傾いて
をつた。がしかし、今日吾々はああいつた人生観を捨てた以上、政治の理想も亦自ら変らざるを得ない0
 そこで吾々は少くとも概念上、自由を放縦から区別する。吾々の自由といふのは、人間の人間としての自由、
謂はゞ人間らしい自由であつて、物慾の促すま、に勝手に振舞ふ方面は、これを自由とは見ないで、寧ろ精神的
奴隷状態に在るものと見る。放縦は即ち物慾の奴隷である。人間も一個の動物であるから、動物としての衛動に
司配さる、事は無論多い。昔は之に従ふを自由と見た。今は放縦として之潅斥け宮然らば自由とは、人間の一
                            √小
人格者としての精神的活動の拘束せられざる状態を言ふに外ならぬ0放縦を抑へてこの本当の自由即ち人格的自
由を活躍せしむる事が政治の理想でなければならないといふのである0人間に物慾が無ければ政府の必要は無い○
クロポトキンの無政府主義はここから生れる。けれども人間も亦物慾に司配さるゝ以上、これを抑へて本当の自
由を伸びしめるために色々の制度が必要となる。殊に強制組織即ち国家が必要になるのである○そこで国家の干
渉は文化開発の上に有力なる働きをなすものであるけれども、その結局の目約は常に人格的自由の確保に在らね
ばならぬ。而して国家は放縦を抑へるといふ任務を与へられ、而かも往々図に乗つて放縦と共に本当の自由まで
をも抑へんとするが故に、兎角面倒な問題を若き起す。この間に明白な区別を立てるのが近代開明政治の一つの
重要な仕事である。
放縦は抑へなければならぬ。自由は大いに之を伸べしめよといふのは、理論としては間違ひないが、さて実際
抑留

に何が放縦であり、何が自由であるかを決める事は極めて困難である。その軋走を或る特殊の階級に托すれば、
放縦なるが故に之を抑へょといふ論理は=乾して、形式1放縦の名の下に同曲の刑に触る、ものは悪く抑へら
る、といふ現象を呈せざるを得ない0偶々賢明なる者がその局に当つて、正しい判断を下す事はあつても、いつ
でも正しい判断が与へらる、と限らない0専制主義が政治的自由を永久に確保する所以に非ると同じく、思想的
専制主義も亦制度としては弊害が多い0故にこれら思想上の問題についても、結局正しい者を勝たしむるために
は、デモクラチックになつてゐなければならない0と言つて吾々は思想界の貴族を無視しやうとするのではない。
思想界も亦政治界に於けると同じく、少数の賢明者が先達とならなければならないのであるが、只或る三の意
見を整別して、他を悪く排するといふはそれ自身に於て既に自由の破壊である。さうすると、残る所は所謂言論
の自由あるのみである0各種の意見を思ふ優に吐かしめ、その間自然優良の思想を勝たしむるといふ事が、放縦
と自由とを識別する唯一の方法である○故に言ふ、何が自由であり何が放縦であるかは、国家が濫りに干渉すべ
き間遁でない0之は言論の自由を許す事によつて、社会をして自ら決定する所あらしむべきである。従つて、放
縦は国家之を抑へるといふ理屈は立つが、国家が或る者を放縦なりと決めて直ちに之を抑庄するといふのは間違
ひである。
 之と同じ理屈で、国家が一定の型に欣まつた思想を国民に強制するといふ事は、偶々それ自身に間違ひがなか
つたにしても、精神的自由に干渉したといふ事に於て、人格的自由の尊厳を少くとも内面的に傷けたものである。
若し夫れ国家が文学、芸術の奨励を名として、二疋の型に欣まつたものを保護するが如きは、寧ろ文学、芸術の
奨励に非ずして、偽善と迎合とを生むに過ぎない0国家は直接に文化を作り得るものでないから、思想統一など
いふ事は以ての外の企てであつて、文展や帝展なども、/あ、いふ形ではエロも存在を許すべきものではないと思
う00
ゝ繁多複遜
言論の自由と国家の干渉
ふ。
 要之、吾々の尊重せんとする自由は人格的自由で放縦は之を物慾の奴隷として斥ける○ただ何が放縦であり、
何が自由であるかの判定も亦自由人格の自由競争の1に定めしめたいと思ふ0而してかく考へる所以の根拠は、
人格としての人間の発達を信ずるといふ、楽天的人生観に在るは言ふを侯たない○吾々は人類の進歩と発達とを
信ずるが故に、彼等に自由を与へても何の不安を感じないのである〇


     五 国家の為すべき事
 右の如く論ずれば、言論自由の問題に対して国家の進んで為すべき事は殆んど無くなる0然らば国家は袖手傍
観してゐるのかと言ふにさうではない。国家は自ら文化を創造せんとしたり、或びは一定の型を強ひんとしたり
する積極的活動は固より慎まねばならぬが、消極的に、精神生活の自由を妨ぐるやうな者あらば厳重に之を取り
締らなければならない。かくして国家のこの方面に関して為すべき所は、その好まざる思想言論の自由なる発展
を妨ぐる有形無形一切の障碍を取り除く事である。暴行、強迫の形を採るのは勿論、悪意の煽動、誘惑に至るま
で、他の精神的自由を不当に曲げんとする者あらば、国家は之に厳重なる制裁を加へねばならない0かく自由の
                    八八d
前に刑辣を切り開く事の外に、国家は何等のすべき積極的活動を有つべきものでない0他の言葉を以て言へば、
思想言論の戦ひが、言葉の完全なる意味に於て、自由に行はるゝやうに保証すればいい0それ以上立ち入る事は
無用である、否罪悪である。
 さうすると人或ひは言ふであらう。言論の自由を絶対に許せば、随分間違つた又危険な思想も行はる、だらう
と。かくて危険思想に対する国家の取締といふ事が問題になるが、思想は単純な思想としては絶対に危険なもの
叫屠


ではない0実行の手段として思想を利用する者あらば、それは既に思想の域を臥した者である。之を行政上の理
                                             ただ
由から取り締るのは至当の事であらうが、純粋なる思想は思想を以てのみ、即ち内面的にのみ匡し得るものであ
つて、外部の脅威によつて或る種の思想の撲滅を期し得べしと思ふのは大いなる誤りである。悪思想の真の撲滅
は、思想言論の自由を許す事によつてのみ逢せられるのであつて、行政権、司法権のこの間に介入するは偽善と
迎合と阿附とをかち得るの外、果して何の役に立つだらうか。
然るに実際政治の局にあたる者に、往々にしてこの点を誤まる者あるは、吾々の常に遺憾とする所である。外
部的強制の値打を過重するは一般政治家の通弊であるが、更にも一つ彼等を誤まるものは、現存するものを余り
に神聖祝するといふ事である0少くとも思想問題については、外面的強制は全然無力である。無謀なる破壊は固
より慎むべしとするも、人生の進歩は現存するものに対する深刻なる批評から来ることを知らなければならない。
かういふ立場から余輩は、言論の自由に対しては、そが単純な思想の発表である限り、国家は全然干渉すべきも
のではないと思ふ0純粋の思想の発表と見るべからざるものに対しては、又自ら別個の見解あるべきは言ふを瑛
たない。


     六 言論の自由と学問の独立
 思想の発表としての言論の自由は、絶対的であるべしと考ふるものであるけれども、所謂言論といふ文字の中
には色々複雑な内容を含めるところから、実際問題としては一概に国家の干渉を斥けるといふわけには行かない。
現にわが国の法律は、この点に関して色々煩壌な規定を設けてをる0これらの規定のいいか悪いかについては又
大いに議論の余地があるが、今は先づこれを脱るゝ事のできない法規として、これと学問の独立との関係を三≡口
う02
言論の自由と国家の干渉
しておきたい。
 現今の法律は、殊に出版法、新聞紙法等は、所謂不穏なる言論に対して、相当の制裁を加へてをる。かかる立
法が正しいか正しくないかは別問題として兎に角かういふ法律がある以上、その法条に触るゝものが規定の制裁
を蒙る事は致し方がない。只この場合に、云々の問題を明るみに出して責め立てるのが、政策上いいか悪いか、
又これに一定の制裁を附するについて、法規の運用が誤り無きを得るかどうかが問題となるにすぎない‥
 けれども、学問を職分とする者が、同じ理由で法規に触れた場合は如何。普通行政官庁の慣例によると、官吏
は刑事上の被告人となつた場合には、起訴と同時に又は少くとも判決の確定と同時に、その職を退かねばならぬ
事になつてをる。かういふ例を、学問の研究を本職とする教授にも応用ができるかどうか、といふのが我輩の疑
問である。学枚の教師はすべて研究と教授とをその職務とするものであるが、就中高等の諸学校の教授は、職務
の内容について全然監督官庁の指揮、命令を仰がない。何を教へ、何を研究するかについては絶対の自由を有つ
てをる。かくてこそ初めて本当の学問の進歩が期し得らるべく、かういふ地位にあるものが偶々行政官若くは司
法官の職権によつて罪せられた時、やはり一般官吏の例に習つてその職を退かねばならぬだらうか。
 教授も官吏の一人として、国家に忠誠なるの義務はある。この義務に反く事はできないが、しかしながら学問
の研究に於ては全然真理に忠なるべくして、その研究の結論が社会に誤り伝へられてどういふ影響を生ずるかを
              1卜d\
顧慮するの必要はない。自分の発明した薬が、恐るべき殺人剤として用ゐらる、かも知れない、といふ懸念から、
折角の発明を中止せねばならぬとすれば、どこに学問の進歩を見る事ができるか。思想研究に於ても亦同様であ
る。本当に学術の進歩を図らうといふなら、どんな結果を来さうが顧慮する所なく、安心して真理の開明に一身
を捧げ得るやうな地位を保証しなければならない。若し新思想の発見が、時として社会に実害を及ぼすといふな
獅沓

らば、学者は即ち謂はゞ火薬製造人のやうな危険物取扱を職務とする人間である。それが偶々外部に運ばれて、
好ましからぬ結果を生じたからとて、その地位を動かさる、やうでは、いかにして彼等はこの職に安んずる事が
できるか0その斥けらるゝを苦として研究に精を欠かば、即ち学問の発達はない。学問は独立すべきである。行
政司法権に対して学問の独立を維持する事が、文化の発達のために緊急欠くべからずとすれば、少くとも高等な
る諸学校の教授については、出版法や新聞紙法の違反の廉を以て起訴されたぐらゐは無論の事、その結果よしん
ば監獄に逼入らうとも罰金を取られやうとも、原則としてその職を去らしめない、といふ新例を開く事が必要で
あらう0ただ夫れこれは原則である0その情状によつて多少の参酌あるは固より必要であらう。ただ一も二もな
くこの場合、教授を普通官吏と同等に取扱ふのは学問独立の実を全うする所以ではない。九−二−五
                                        〔『我等』一九二〇年三月〕
う04
濠滋漁礁∬[彗