神社宗教論  『中央公論』一九二六年一〇月「小題雑感」

 宗教法案の審議に伴つて、神社は宗教なりや否やの論が八釜しい。理論上に之が断案を下すは本来何の造作(ぞうさ)もない話だ。只今日実際の変な取扱を如何に理論上説明すべきかを苦慮する時に問題は起る。
 政府が民間の愚論に迎合し、図に乗て飛んでもない馬鹿をやつた例は近年殊に多い。神社参拝の如きも実に其の一例に過ぎないのだ。私共は固より神社の国家的意義を否認するものではない。之に相当な学術的調査を施し、祖先の精神的遺蹟を紀念する意味に於て、国家の保護を加ふるはよろしい。けれども政府が所謂思想混乱の叫びに狼狽し、神社崇拝を以て民心の統一を期し得べしとの愚論に迎合し、信教自由の原則を忘れて軽々に今日の様な神社制度を作つてしまつたのには感服が出来ぬ。軽便にやつたこの過失が、実に今日面倒な神社宗教論となつて、大に当局を手古摺(てこず)らして居るのである。
 憲法には信教自由の原則が掲げてある。神社即ち宗教也と云ふのなら、之を信ずると信ぜざるとは各人の自由とせねばならぬ。小学校では一定の条件の下に神社参拝を生徒に強制する。之を憲法の原則に矛盾せずと弁ずる為には、否でも応でも神社は宗教に非ずと頑張らなければならない。すると今度は、宗教でないと云ふなら宗教らしいことは一切廃して貰ひたいとの要求が起る。之を廃す位なら、何も始めから神社の厄介を見てやる必要もなかつたのだ。斯くして政府は右にも左にも行けぬ窮地に陥つた形になる。
 神社は宗教であつてもなくてもいゝ。孰れに議論をきめても、神社取扱の事態を現状の儘にして置いては、到底何処かに拭ひ去り難い破綻が現ぜずには済まぬ。故に問題解決の根本は、政府が正直に兜を脱いで従来の間違つた取扱をいさぎよく廃(や)めることに帰着する。それさへ断行すれば、この問題は何のわけもなく収まりはつくのである。一旦の過失を過失に非ずと強弁する限り、この問題はいつまで経つても政府煩累の種として残らう。