自由主義提唱の弁  『中央公論』  1926.8

 私が先達上田貞次郎博士の「新自由主義」の提唱に賛意を表したとき、或る友人から下らぬことに感心するとの罵倒の音信に壊した。一々彼の説を引ツ張つて反駁するも面倒だから、茲には只我国の現状に於て所謂新自由主義の如何に重要なる意義を有するかを一言するにとどめたい。
 予(あらかじ)め念を押して置くが、私の議論は我国の現状に即しての立言である。所謂近代国家を抽象し、殊にその産業発達に動されたる方面を概念化し、其の進化発展の跡を公式的にきめての空論でがない。

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 分り易い為に私の専門の政治論の方面から説を起して見る。政治の方面から観て、我国今日の大通弊の一つは、政権を掌握することに依て政党は始めて党勢を張り得るといふことである。立憲の常道からいへば、党勢が張つた結果として政権を獲得することが出来るといふのでなくてはならぬ。それが逆になつて居るのがいけないといふのだ。政権を握つてからも無論党勢の張ることはあらう。併しそは廟堂に立て善政を布き真に民間の信望を博した結果でなければならない。単に政府を乗取つただけで直に勢力を増し得るといふのではいかぬ。つまり台閣に立つて勢力を加へるのも、又総選挙で見事な勝利を占むるのも、共に基く所は一に民間信望の帰着せる結果だといふのでなければならぬ。民間の信望が或は政権を握らしめ或は之に離れしむるもとだといふのでなければ、立憲政治の有り難味はない。何故なれば、斯くしてこそ始めて各政党は真に民間の要求に聴き、平素亦その信望うを博せんと善を為すに努力奮闘すべきを以てである。
 之に反し、若し政権を握ることに依つて始めて勢力を張るといふことであると、その勢力を張る所以の最捷径は、善を為すに努めて民間の信望を博することではなくして、如何なる方法を以てしても先づ政権を獲得するといふことになつて来る。於是(ここにおいて)政党者流は、政権を獲得する為には凡ゆる手段を取て憚らない。陰謀もやる、讒誣もする、中傷誘拐亦固より辞する所にあらず。是れ既に吾人の見聞する通りではないか。且つ又政権を獲て後勢力の振張があるといふの事実は、一面に於て民間の良心が政党者流を十分に監督し得ないといふ証拠であつて、謂はば選挙民猶未だ事理にくらく、常に代議士等に籠絡さるることを語るものである。而して政党者流が選挙民の良心を左右する為に慣用する所の便宜は、実に政権を獲得することに依て益々豊富となるべきを以て、一旦政権を撞つた政党が、将来に之を持続せんが為め凡ゆる不正手段を執つて悔ゐざるべきも、亦想像に余りある。政権を振ることに依て勢力を張るといふ斯の政情は、実に我国政界最大痛弊の現はれで、之が革らぬ限り、政界の腐敗は到底我々の耳目から消えるものではない。
 尚其上に、斯うした事態が討議機関の空気を極度に疎漫乱雑にすることも看過してはならぬ。多数少数の別は始めからきまつてゐる。が、多数が多数を恃んで暴威を振へば此次の選挙に失敗するかも知れず、又少数者はどうせ負けるときまつて居ても、自暴自棄せず正々堂々の陣を張れば陰に民間の信頼を博して次期の選挙に主客顛倒の成功を収めぬと限らぬ。そこで彼等は始めからきまつた勝負と諦めながらも、事を鄭重に審議して無責任な妄動を慎むのである。蓋し彼等のねらう所は民間の信望である。さればこそ彼等の争は堂々たる君子の争にもなるのだ。之れが本当の立憲政治に於ける討議機関の当然の姿なのである。然るに事之に反し、所謂民望なるものは当にならず、否勝手に此方から左右が出来る、只勝ちさへすればいゝといふのでは、勝て横暴に流れ、負けて自暴自棄に陥るのは、当然でないか。我国の討議機関が、上は国会より下は市町村会にいたるまで、常に多数横暴と反対の為の反対とに悩まされるのは、畢克之が為ではないか。
 要するに、我国の立憲政治は常道を辿つてゐない。正に冠履顛倒である。こゝから来る弊害は、ひとり政界其自身を毒してゐるばかりではない。一般社会におのづから及ぼす所の悪影響も決して鮮少ではない。この事はまた何人にも異議のない所だらうと信ずる。
 そこで政界廓清の根本策は右の現象を正しきに復(か)へすことの外にないことも明であらう。どうして之を革正するか。それにはその原因を突きとめて之が剿滅を謀らなければならぬ。この点に就ては更に詳細に亘つて細叙せ十分その意をつくすことは出来ぬが、結論だけを簡単に述ぶると、我々の特に注意を要する点が二つある。(一)は政府の直接間接の干渉で、(二)は都市実業家の政府迎合である。
 政府が選挙の度毎にその官権的地位を巧に利用して事実上の干渉を試みることは周知の事実である。之に依てどれだけ選挙権者の良心が誘惑さるるか分らない。勿論これなくとも今日の選挙民は、概して十分その良心の自由を保持し得る程、選挙道徳にめざめては居ない。それでも政府が徹頭徹尾公平に彼等の良心を保護する方針で進むなら、曲りなりにも民衆の自由なる判断を選挙の結果に現はし得たであらうと思ふ。所が、政府が先に立つて陰陽両面の巧妙な干渉をやるのだから堪らない。併しこの点は今問題外だから余り立ち入つては論じまい。只こゝには、之は政府の方針を立て直しさへすればどうにでもなる事柄だ、又民衆に対する継続的啓蒙運動に由ても相当の効果を挙げ得るものだといふことを三日しておくにとゞめる。
 只困るのは都市実業家の政府迎合である。無論多少の例外はある。又人に依ては政府の積極的勧誘があるからだともいふ。併し之にも拘らず、都市の実業家は、何の内閣の下に在ても、きまつて政府側の味方だとは、我国政界に於ける久しい間の信念である。嘗て或る老政治家から斯う云ふ話を開いた。何んな内閣でも、政府お味方の中立議員六七十名を作ることは困難でないと。而してその大部分は大都市に於ける実業家だといふ。向ふから勧められもせぬのに、我から必ず進んで政府に忠勤を擢(ぬき)んずるといふは、政界の為に決して喜ぶべき現象ではない。而して斯の如きは一体どういふ所から起るのか。茲に私は所謂新自由主義提唱の徒爾ならざるを認むるものである。


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 大都市実業家の政府に迎合するは、単純なる阿諛からではない。彼等の重大なる利益が死活問題として実は之を促がすのではあるまいか。何に依て斯くいふかといふに、即ち上田博士の説くが如く、我国の産業が徹頭徹尾政府の保護に依て立つて居るからである。我国の産業が政府の保護に依て立つことになつたその沿革に就ては今は説くまい。因習の久しき、実業家は遂に国家の保護を受くるを当然とし、政府も亦自家監視の外に産業の興立するを不便として、我から強て直接間接の保護を与へんとする。固より保護の形式にはいろ/\ある。中には巧に保護の形をくらまして〔ゐ〕るのもあらう。要するに今日我国の産業中、僅に紡績業を除いては、真に何等の保護を国家に求むることなくして独立経営して行けるものが絶無だといふではないか。之れが果して産業そのものの為にもいゝかどうかは大なる問題であらう。
 具体的に個々の事業に就て云へば、無論政府の保護に浴するあり、浴せざるあり、又は先きに甲党と余りに深き関係ありし結果乙党全盛の今日暫く逼塞(ひつそく)して居るといふもあらう。併し概していふに、我国の一般産業は、ともかく、政府より厚き保護をうけて始めて成立し且繁昌して居るのである。この結果、我国の実業界が、自ら政治問題について、自主独立の風気を失ひ、所謂事大主義に堕して偏(ひとえ)に無事を冀(こいねが)ふのは、怪むに足らぬのである。西洋の本を読んで資本主義が政界を左右するなどいふは、我国には全く当らない。我国の産業は完全に政権の奴隷たることを見誤つてはいけない。
 以上は主として大都会の実業家について謂つたが、特にその弊の著しきを大都市と為し、田舎だとて全然この弊より免れてゐるのではない。要するに、産業に対する直接間接の伝統的保護政策が如何に政界の事大主義を培養して居るかといふことに読者の注意を促したいと思ふのである。


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 政界に於ける事大主義の原因は、無論一つには政府の巧妙なる干渉もある、又官尊民卑の陋習の脱け切らないといふ点もあらう。併し乍ら何よりも大きな原因を為すものは、産業保護の政策に外ならない。保護政策の利害得失については、主として経済上より論ぜらるべき事柄だけれども、政界の方面から観ても、それの影響としての弊害は頗(すこぶ)る大きいのである。この意味に於て、新自由主義の提唱は、実に一部有産階級の政界に於ける良心の自由を解放せしむるものなのである。真に自由なる判断に立脚せしめ厭ふべき常習的政府党たる陋態より彼等を救ふ点に於て、是亦我国当面の一緊要事項たるを失はぬと信ずるのである。