所謂呂運亨事件について



 上海に於ける朝鮮人独立政府の代表者呂運亨氏を、或る政府当局者が東京に招いだと云ふ事が、端なくも世上
の物議を醸して新開を販はし、外交問責同盟会とやらは国法を破壊し、朝憲を素乱するの行為として政府を礼弾
するの決議をなして居る。之がどれ丈けの反響を生じて、どれ丈け政界を撹乱するやは知らない竹れども、此事
                               おそれ
が偶々此種の間還に関する国民の正当なる理解を誤らしむるの虞あるを思ふが故に、予輩は滋に之に関する予輩
の見解を述べて置かうと思ふ。
 第一に呂運亨氏を招いだと云ふ政府の態度其物は断じて何等礼弾に催しない。成程朝鮮独立の計画は日本の国
法に対する坂逆の行為たるに相違ない。此行為の主謀者の一人を帝都に招致して款待優遇すると云ふ事は国法の
行為を無視した事に相違ない。国法の無視は原則として之を許すべからざるも、併し之は絶対の約束ではない0
何となれば国法の権威よりも、国家其物は遥かに重い。国家が大事だからこそ国法も尊敬すれ、若し国家の為め
に一時変則として国法の権威を着眼の外に置くことが必要であるなら、さうサることが真に国家の為めを計る所
以である。而して朝鮮問題が斯くの如く紛糾し、日鮮両国の将来の平和と幸福との為めに上下心を悩ますこと今
            とき
日の如く甚しきの秋に当り、紛糾の原因たる問題の有力な一人を、礼を以て招致し、之と将来の平和幸福を相談
するのが何で悪いか。さうする事が国家の利益でないと云ふ点で争ふのならまだしも、国法破壊、朝憲素乱の形
式論で行くのは余りに政治家としての聡明と臨機応変とを無視するものではあるまいか0予輩はやつた事の成績
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は別問題として、兎に角今度の事件についての政府当局者の賢明と機略とを多とするものである。
第二に同じく叛逆不蓮とはいひながら、対手が朝鮮人であると云ふ事は特に之を服中に置く必要がある。大和
民族の一人が仮りに同じ事を企てたといふなら、之は到底妄も仮借することは出来ない。併しながら彼は朝鮮
人である0形式を離れ、朝鮮は如何にして日本に合併されしかの実質を考へて見よ。更に今日我々国民の耳目に
最も明白になつた過去十年間の朝鮮統治1の重大なる失策を反省して見よ○許すべからざる事ではあるけれども、
朝鮮人の独立を企つるにそこに恕すべき何物をも見出すことが出来ないだらうか。仮りに地を代へて日本人があ
                 ゆる
の境遇に居つたとしたならばどうだらトつ0武士道を以て誇る大和民族にはかう云ふ点にもつと寛大な同情を有ち
得る雅量がある筈だ0赤坂離宮拝観の恩典を与へ賜ふたのが或は彼等の此の衷情を酌み給ふた結果であらうと拝
         〔途〕
察する0此点についても一因に形式論を振り廻はすのが、日本人らしくない態度であるのみならず、又問題の真
実を掴むの妨げとなる。
 第三に我々は更に呂運亨氏一派の主張する所を十分に聴いてやるの余裕を有たなければならない。過去の統治
に於て日本も重大なる過失を犯した事は我々自ら承認する所ではないか。然らば一概に我々に反対するからとい
うて1単にそれ丈けで彼等を不連呼はりするのは余りに軽卒である0同じく日本を罵る朝鮮人の声の中にも最近
東京で発行せらる、『新朝鮮』の如きもある0随分醜稼の言辞を弄して罵晋教護を挙っして居る点に於て、我々
は此中に余り多くの誠実を認め得ないが、呂氏の説く所の中には確かに一個侵し難き正義の閃きが見える。斯く
云ふ所以は予も亦彼と会談するの機会を得たからである0彼は一個の年若き紳士にして、別に経歴の誇るべきも
のなきも、其品格に於て、其見識に於て、予は稀に観る尊敬すべき人格を彼に於て発見した。支那、朝鮮、台湾
等の多くの人と会談したが、一個の教養ある尊敬すべき人格として呂運亨氏の如きは其最も勝れたる→人である
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 ヽ一
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ことを断言する。如何に彼が帝国に対して許すべからざる計画をして居つたにせよ、彼を道徳的に不遥の徒と覆
しむことはどうしても予輩の良心が許さない。偏狭なる国家至上主義の道徳観を取るものは格別、最高善を国家
に実現せしめんとするのが我々の理想であるとす〔る〕以↓、予輩は彼の把持する一片の正義を包容し得るにあら
ずんば、日本の将来の道徳的生命は決して伸びるものでないと云ふ感を深うせざるを得なかつた0彼は確かに少
くとも世界的正義の確立の為めに行動するの意識に動いて居る○従つて徒らに故なく我に反抗するものと見ては
                            ひら
いけない。此点に於て我々は寧ろ此種の連中と胸襟を披くことによつて、初めて日鮮問題は本当の解決を見得べ
きであると考へる。何れにしても我々は只一片の形式論を取つて彼等を不遥と呼んではいけない○況んや威圧に
ょって屈服し得べしと考へてはいけない。彼等が一片の道義をとつて独立を叫ぶ以上、我はそれ以上の高き道義
的理想を掲ぐる事の外に彼等を服せしむる途はない0是に於て初めて我々は朝鮮の・統治を如何にすべきやの根本
問題を正当に理解するの端緒が開かれる。此点に一切盲目で、漫然国法の破壊、朝憲の素乱を叫ぶのでは、世界
は到底我々の立場を諒解せざるのみならず、日本人たる我々も真に日本を思ふの赤誠から此種の形式論に反対せ
ざるを得ない。
第四に我々は此種のデリケートな問題が政争の具に供せらるゝの弊を努めて避けなければならない0政友会を
攻撃するの道具として貴族院各派其他頑迷なる一部の国民を動かすには極めて格好打開題かも知れない0予輩は
大体に於て、政友会の為す所に常に多大の不満を感ずる一人である0けれども今度の問題について丈けは政友会
内閣の為す所を賞讃するのみならず、又此問題を正しく視ない事の結果、我々にとつて最も大事な朝鮮間道の正
しき理解を国民に得しめない怖れあるの点に於て、特に政友会の今度の行動を弁護するの必要を感じた0無論政
府のやつた全体を是認するのではない。不用意に招び、彼等と対抗すべき何等道徳的見識なくして応接した所か
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ら、結局不得要領に畢つたのは我々の甚だ遺憾とする所である0若し政府を責むべくんば、即ち此点であつて、
                   わわ
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呂運亨氏を呼んだ事夫れ自身は決して何等の礼弾に値せざるものである。
〔『中央公論』一九二〇年一月〕