愛蘭開港の世界的重要意義



 ワシントン                アイルランド                                                         イギリス
 華盛頓会議の論議に隠れて愛南開題は一寸我国論壇の視聴に遠ざかつた形になつて居る。愛蘭問題は英書利
にとつて重大な閏是であるばかりでなく、其最近に於ける発展の模様は実に世界の将来に向つて非常に重大な関
係を及ぼすもの、やうに思はれる。其成行如何によつては、華盛頓会議にも劣らない程の大きな意味を有つこと
                          ゆえん
になるかも知れない。経世家の注目を怠るべからざる所以である。
       だ
 単に之を英国丈けの問題としても自特大統領デ・ヴアレラとロイド・ジヨーヂとの最近の交渉は国技館の横綱
でもう
角カにも比すべき壮観である。由来愛蘭問題は英国政界の暗礁と称せられた程の難問題であつた。戦前に於ける
アスキス内閣も之が為めには大いに困迷して居つた。而かもそれはシン・フェーン党の撞頭以前の事である。戦
争開始後間も無く愛蘭国民党は跡形もなく消え失せ、愛蘭人はつまり自治の要求を以つて満足せず、絶対的独立
を主張するシン・フェーン党に傾投すること、なつた。自治を与ふべきや否やについてさへ困り切つて居つた英
国が卜今や絶対的独立の要求に会つて困り切つて居ることは想像に余りある。シン・フェーン党の執拗なる、英
                                                さすが
国今日の内外両面に捗る苦境と相交錯して英国政界の陰影をさらでも一層濃厚ならしめて居る。併し流石にロイ
                                                              さば
ド・ジヨーヂは偉大なる手腕の所有者である。此難境に処する彼の手捌きはなか〈鮮かなものだ。之に対して
                                               たの
自称大統領ヂ・ヴアレラの不屈の態度も亦嘆賞に値する。たとへ南亜の人傑スマッツ将軍の仲介を悼んだとは云
                  しようよ・ヘノ
 ヘ、此の堂々たる二大英雄が従容迫らず、一歩一歩閏是を解決の彼岸に進めて行く有様は、朝鮮に於いて同じ様









山間


な閏亀を有つて居る我々に向つて大いなる教訓を与ふるものである。               バ穎凋潔題り・1∃雪彗ミ表題
                                                       いわ
 併し僕が此問題を事々しく此処に持出すのは、我々日本人に学ぶべきものありとするが為ばかりではない。況
んや英国多年の懸案であつたが為めではない。此問題の蔭に将来の世界の運命に重大な関係を及ぼす問題が潜ん
で居るからである。他の言葉を以つて云へば、現に現代を動かしつ、あり、近き将来に於て強く世界的解決を追
つて来るに相違ない、或る重大問題の先駆をなすものと思ふからである。
 前にも述べた如く、愛蘭問題に於ける今日の争点は最早や自治ではない、絶対的独立である。英国政府の相手
方は最早や国民党にあらずしてシン・フェーン党なることを記憶しなければならぬ。然らば彼等の要求は如何。
くわ           いとま
委しい事は今先に述ぶるの暇を有たないが、最近スマッツ将軍の調停によつて細目の点に多くの一致点を見出し、
余程解決の曙光を認めたと云はれたけれども、肝腎な点に於て遂に双方の間に根本的の不一致を発見した。其事
はロイド・ジヨーヂの八月廿六日の書面に対するデ・ヴアレラの回答に明白である。其中に彼は一歩も譲ること
の出来ない根本的主張として二点を挙げて居る。一は「愛蘭人民は断じて英国との任意的結合を認めず、自己の
運命を自ら自由に決定するの根本的権利を主張する。絶対的大多数を以つて独立を宣言し、共和国を設定したる
                         あた
所以である」。二は「英国政府が愛蘭を遇するに恰かも単独に分離するを許さざる結合の盟約あるかの如き能心度
を取ることを極力排斥する」。従つて英国政府が愛蘭に自由なる独立国家として英国聯邦中に加はらんことを勧
誘し来るのならいゝ。ロイド・ジヨーヂは此点に於いてデ・ヴアレラの立場を完全に承認しないから細目の討議
                                          すで
に入るも無効だと主張するのである。而して双方此点を固く執つて動かないのは、已に読者の知る所であらう。
 妥協的政治家は細目の点に於いて一致するなら、こんな形式的な面目問題はどうでもいいではないかと云ふだ
つ「ノ
1
2

らう。英国政府が愛蘭の言ひ分を立て難きは云ふまでもないが、デ・ヴアレラの意気込は又此点に於いて断じて
譲歩せざらんとするの態度を固執して居る。又之を譲つてはシン・フェーン党のシン・フェーン党たる面目も立
          あに  いわゆる
たない。而して之れ豊彼の所謂民族自決主義の極端なる固執ではないか。滋に我々は此局部的問題の世界的重要
意義を▲看取するものである。
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1
つエ
 今度の戦争が米国の参戦、露国の革命の二大機運に醸成されて非併合主義、無賠償主義、民族自決主義の国際
            しばしば
的三大原則を産んだことは蜃々説いた。戦争に伴ふ至大の惨禍が欧米の民心に及ぼせる影響は実に怖るべきもの
で、彼等は自ら此等の道徳的原則によつて世界的紛争を永遠に絶滅せんと熱求するに至つた。此要求が或る意味
    ドイツ                     やが
に於いて独逸の崩壊を促し、戦争の終結を速かならしめ、躾て又講和会議を支配する根本動因となつた。講和会
議の開催に至るまで、国際関係の主動的原則としての前記三大主義の勢力は実に偉大なるものがあつた。不幸に
して講和会議に集まつた各国の代表者は、多く旧時代に活躍した政治家であり、政治家は又常に余りに現実に執
着するところから、一般民衆の如く単純に時代の要求に応じ得ない傾がある。之に加ふるに戦争の終結に安心し
て新に起り初めた各国の国民主義的精神卜又戦後社会改造の要求切なるに対して起つた一部の保守的精神等が互
                             パ リ
に結び合つて、理想的原則の其俵の実現を少からず妨げた。故に巴里講和会議の成果は戦争終結の前後、さしも
優勢であつた道義的要求を大いに裏切るものであつた。それでも今度の講和条約は従来のあらゆる戦争に伴ふ講
和条約と異る要点は、兎も角も不完全ながら彼の三大原則の要求を根砥とする点にある。此事は条約の各条につ
いて論証することが出来るけれども、今一々之を列挙するの煩を避けて置く。
 講和条約は欧米の民衆の道義的要求を裏切つた。此事実は隠すことは出来ない。軽卒なる論者は之によつて今
Z一句謂−j









一間
‥蘭

尚国際関係を実際に支配する原動力は各国の利己的希望だと云ふ。けれども公平穏健なる見解としては道義的要
求が、あれ丈け各国の利己的希望を抑へた点を買つてやらねばなるまい、専一度国際間の問題になると、法律も
条約もないといふのが、十九世紀百年間の状態であつた。先に非常な苦悶が起り、遂に欧洲戦争の一大破綻を来
して世界の民衆が深刻なる経験を積み、其結果局面を転回していよ〈新生活に入らんとするその最初の事業と
             や
してあの程度の講和条約は已むを得まいと考へる。個人の生活に於いても過去の惰性は容易に抜き難い。況んや
                                   ばつこ                            うつばつ
国際社会に於いておや。我々は旧い勢力の今尚多少践属するを憂ふるよりも、新しい生命の已に鬱勃として起り
来りつゝあるを悦ばねばならない。否、進んで其新しい生命の健全なる培養に努むるところなければならない。
              な王ぬる
此点に於いて昨今の民衆が寧ろ微温い講和条約に不満を表して、更に三大原則の徹底に動きつゝあるの現象を悦
ぶものである。
 講和条約締結の当時と、昨今の状勢とを比較すると、実に思ひ半ばに過ぐる者がある。条約締結の当時は可な
り旧時代の伝統に遠慮したものであつた。之を民族自決主義の適用を例として見ても、委任統治の原則を採用し
た点は兎も角も新しい考の要求を容れたものである。独逸から取つた植民地を国際聯盟がそれ′ぐ−各国の委任統
治に附したけれども、結局は其民族の開発を促し、他日独立の出来るまで之せ誘導するの責任を負うたからであ
る。それでも此主義の適用は今度の戦争に閑聯して問題となつた植民地に限ると云へ、此限られたる範囲内に於
                                             いたず
いても、大いに関係諸国の利己的要求を顧慮するところがあつた。余りに各国の要求を無視しては、徒らに事態
を紛糾ならしむる恐れがあつたからである。然るに今日は如何。己に愛蘭問題に於いても顕はれて居るが如く、
講和条約締結当時に遠慮した線を飛び超えて民族自決主義は露骨に主張されて居るではないか○之を単純な愛蘭
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人丈けの要求と思ふならば、極めて怖るべき短見だと云はなければならない。
 政治家の造つた講和条約には、締結の当時から己に其不徹底を非とする民衆の声は高かつた。時の進むと共に
民衆の良心に芽生えた道義的要求はどん〈生長発達して己まない。独り民族自決主義ばかりではない。領土の
                                       かかわ
分配についても賠償金の問題についても、欧米の民衆は講和条約の決定如何に拘らず、どんどん新しい問題を掟
          い つ
供して行く。我々は何日まで之を不問に附することが出来るか。東洋には欧米ほど沢山問題が複雑して居ない。
                 む
けれども我々にはまた我々相応に六つかしい問題が無いではない。どう之を解決するかは固より彼我同一なるを
得ないけれども、疑のない一事は、何時までも惰眠を郎b事が出来ないといふ点である〇一葉落ちて天下の秋を
                                                    ほうはく
知るといふ意味に於いて愛蘭問題が我々に取つて大いなる教訓であると共に、問題の解決は其度毎に世界に傍碍
する思想と要求とを培ふものである事を忘れてはならない。
                                         〔『中央公論』一九二一年一〇月〕