委任統治に関する日本の主張に就て




 一月初めの西電に拠れば、日本は巴里聯合国総会議に対し、次の項目の下に委任統治権の同等を主張せんとして居るといふ事である、(一)国際聯盟と各加入国間の被統治地に於ける移民権に関し差別を許す可からざる事、(二)統治権を委任せられたる如何なる国家も聯盟に加入せる他の国家の利益を侵害するが如き法規を制定す可からざる事、(三)統治権は単に聯盟に拠り寄托せられたるものなるを以て講和会議に於て統治国の法規は直ちに被統治地に適用せらるべきを規定せる精神は決して無制限なる可からざる事。之は如何にも正当なる主張である。殊に委任統治は其根本に於て国際聯盟の寄托に繋(か)かるものであり、而して土民の精神的並びに物質的開発を計るの目的を有するものであるから、此目的を達するが為めに必要なる規則は何でも之を作り得る訳であるけれども、国際聯盟全体の利益を之が為めに侵害する事は許されない筈である。唯実際問題としては聯盟加入国全体の権利利益を侵害してはいけないといふ事(例へば移民権に関し差別を認めてはいけないといふが如き)と、専ら己の見る所に従つて土民の利益幸福を計るといふ事と時々矛盾する事は有り得る。例へば日本にしてもが加入国の平等の権利を侵害する訳には行かないが、排日的感情に昂奮して居る支那人の大挙移住を南洋占領地に認むる事が得策であるか何うかといふ問題が起り得る。移民権の自由平等の主張は単純の利害の打算からすれば、或る方面には日本の利益であり、或る方面には日本の不利益になる、此間の関係を当局は何うしようと云ふのであるか。若し日本の利益になる方面のみを眼中に置いて、表面正々堂々の陣を張りながら、不利益の方面に遭遇して之を引込ますなどは醜態の極である。斯ういふ場合に吾々は先づ第一に吾々の立場を理論的に定めて掛り度い。移民権の自由平等が理に於て正しいなら正々堂々と主張する、其上に種々不便不利益が起るなら、更めて之を始末する方法を考へ度い。予の考ふる所に拠れば、移民権の自由平等を主張する以上は、此事自身已に自由なる国際交通といふ根拠に立つて居るのだから、其自由交通の国際間に互に相批判し相要求する自由を認むる事にせねばなるまいと思ふ。即ち例へば支那の移民も自由に入れる、其代り排日思想といふ事に就ては移住し来る所の移民は固より、支那其物にも文句を云ふ。濠洲にも自由に移入する、其代り日本人の生活に関する濠洲側の種々の文句を相当に聞いてやる義務がある。広く云へば一種の干渉を認むるといふ所まで来なければならない。飽くまで偏狭な国家的独立を唱ふるのなら、移民権の自由平等は之と両立しない。移民権の自由平等を認める、国際生活の秩序的発達の為めに、国際間に或る種の干渉をも認むる、斯くて茲に一個の世界的精神を造り上げるといふのが、国際聯盟の精神であらうと思ふ。此根拠まで来るのでなければ、移民権平等の主張の道義的理由が薄弱であると思ふ。

                        〔『中央公論』一九二〇年二月〕