評論家としての自分並佐々政一先生のこと



 私は元来公の紙面で自分一個の私事を述ぶるを欲しない者である。併し公人として多少世上の問題に上つたこともあるとすれば、其中の重大なる誤解に対しては時として何等かの機会に弁明したいと思ふ事もある。けれども従来隠忍して自から弁明するの挙には出でなかつた。併し事他人の上にも係はり又は著しく世を誤るものある以上、多少弁明を敢てしても差支あるまいと信じつゝ、次に二三の弁明を試みることにする。
 近頃二三の新聞や雑誌に出た私に対する批評の中に、私が雑誌などに余り筆を取り過ぎるので、大学の学長から警告をうけ、之に対して私は学長に或る種のいや味を述べて忠告を郤けたと云ふやうな風説が伝へられてをる。之は全然事実無根である。先輩たる学長に対しては気の毒であつたが、余り馬鹿々々しいから弁明はしなかつた。却て学長から「君が迷惑に思ふなら私から正誤しようか」と云ふ親切な注意があつたが、自分には其の必要がないと断つたのであつた。
 学長から警告をうけたと云ふことは事実無根だけれども、余り書き過ぎると云ふ所から密かに私の学問上の本分に対して危惧不安の念を抱いてくれる先輩友人の少くないことは亦事実である。且つ斯くの如き危惧不安の相当に理由ある事も私の認むる所である。乍併世上の批評が指摘して居るが如く、筆を取ることが微力なる私の生活の一手段たることも自白せざるを得ない。但し私は未だ曾て一回も生活の資を得んがために自から進んで筆を取つた事はない。多くは皆永い間の約束を履行せんがために已むを得ずして筆を取つたものである。尤も私自身から云へば頼まれるのを好機会に書くと云ふ事が必要でもある。何となれば私の専門とする現代政治の研究は、其資料を毎日々々の新聞雑誌の報道に取る、而して是等複雑なる報道を彙類し整頓し、歴史の背景によりて之に一定の判断を下し、時々之れを一つの論文の形にまとめる事が必要だからである。故に一ケ月に一度位請はるるまゝに是等の材料を整頓して一小論文の形に書かして貰ふのは、私の研究に取つて必要なのである。之に依つて私の本務を怠るのではない。且又之に由つて費す所の時間も人の想像する程多いものではない。
 たゞ世間から非常に多く書き過ぎると云はるるに就ては、中には随分剽窃偽造も少くないと云ふことを弁明して置かなければならぬ。私の講演若くは演説を筆記して無断で出されたり、又一度他で発表したものを剽窃変造さるることは今日までに屡々見た。中には全く私の考へた事すらないものを偽造して載せたものもあつたには一驚を喫した。現に東京の新聞雑誌に於て今日まで私の眼に触れたものでも十数篇の多きに上るが、聞く所によれば地方の新聞等には随分頻繁に現はれるとのことである。今更ながら操觚界の不徳を歎ぜざるを得ない。

      二

 序を以て今一つ茲に告白せねばならぬ事は、私の発表せる研究の材料は多く新聞雑誌の断片的報道の編纂であつて、之れに裏付けるものは私自身の世事に関する見識と貧弱なる基礎的研究の知識とである。私は曩に戦乱勃発後間もなく、バルカン方面並に西欧諸国の形勢を説いて戦乱の来歴を論じた。而して世上では直に私を以て此方面の専門家と見倣したのであつた。私が此方面の研究を初めたのは、当時僅かに三四年の星霜を経たに過ぎなかつた。而も猶ほ専門家を以て目されたので、私は冷汗背を湿ほすの感があつた。今日亦世人は私を目して支那の事情に通ずる者としてゐる。今より十年前三年間支那に滞在したことはあるけれども、当時私は心を西欧の留学に寄せ、英語独逸語の研究には夫れとなく骨折つて居つたが支那の事は余り研究しなかつた。従つて今日私が支那を論ずる智識の大部分は、此三年間の滞在にて得たものではない。殊に支那革命の研究は大正五年の春第三革命勃発してよりの事であつて、今日まで僅かに満二年を経たるに過ぎない。自から顧みて到底根柢のある研究の出来よう筈のない事を自覚して居るが、斯くても一廉の支那研究者を以て目さるる丈け私は自から一種迷惑の感を抱かざるを得ない。従て私は常に不安の念を抱き乍ら所論を発表しつゝある。且絶へず研鑽を怠らず世の期待に背かざらんことを努めては居る。けれども猶ほ一方に於て二年や三年の研究に依て覚束なき議論を吐くものを専門家と観る所の我国学界の貧弱さを憐まざるを得ない。西欧の事は暫く置き、支那の事なぞは我国に於て既に立派な研究が出来てゐなければならぬ。支那に就ては各方面の立派な専門家はある。乍併支那革命に就て昨今私が説いて居る位の事は、あれは何も専門的智識と云ふ程のものではない。隣邦の民として日本人の常識はあの位の事は疾に知つて居るべき筈であると思ふ。支那の事に就ても西欧の事に就ても、吾々同胞が浅薄なる研究に満足して、二三年の研究者に専門家の名を与ふるが如きは決して吾々の名誉ではない。或意味に於て日本程学者の名を成し易い所はない。夫れ丈け又学問を以て任ずるものに非常な誘惑と危険とがある。私は自から顧みて是等の誘惑に対し、一種戦慄の感を催ふすと共に、我国学界の貧弱を憐んで、今後大に熱心に研究する人の各方面に輩出せん事を希望せざるを得ない。


    三

 一月号の『大学評論』に大山君と併せて私に対する評論が載つて居た。其大部分に対しては、過褒敢て当らずと云ふの外はない。而して「政治学者として」大山君と併立せしめられたのは私の甚だ恐縮する所である。何故なれば私は時々政治学上の問題を論ずる事はあるけれども、元政治学者を以て立つて居るものではない。而して政治学上の造詣に至つては、素より大山君に及ばざる事遥かに遠きを自覚して居るからである。唯だ私が時々政治学上の問題を論ずるのは、無論多少の政治学的研究の素養にもよるけれども、主として基督教的教養の結果たる、一家の見識から発源するものである。特に基督教を振りまわすために「基督教の為めに」政治論をすると云ふのではない。唯だ基督教によりて養はれた人生観、社会観が現在の政界並に政論に満足するを得ずして、自ら発する不平が政治上の議論となつて現はれるのである。従つて広き社会学上の根底もなければ、また深き哲学上の基礎もない。私の政治論の根底に哲学的基礎の有無を論ぜらるる度毎に、常に心中忸怩たらざるを得ないのであつて、同時に又此点が私の学問上の重大なる弱点の一として今日猶ほ修養を努めてやまざる方面である。故に私は北ヤ吉君が、私の議論を基督教的人道主義から出発したと見られたる炯眼に全然敬服するものである。其他の人の批評は半ば以上出鱈目として実は余り重きをおかぬ。少くとも私に対する批評の部分に於て北君は全く能く云ひ当ててをる。従てまた北君は私の議論を茲処まで叮寧に読んで呉れたに違ひないと心中密かに感謝の念を持つて居るのである。
 私の書いたものを真面目に読まず、世間の噂を種にして尤もらしく評論せられるのは、甚だ迷惑千万である。併し之れ等を一々弁明して居つては際限がない。之れに対する最良の手段はつ「黙殺」これである。けれども余り馬鹿々々しいので一つ弁明してをきたいのは、私の支那論に対する二宮氏の評論である。第一に氏は私の支那論は二三年袁世凱の家庭教師をして居つた時の貧弱なる経験以外には何等の根底もないと断定ぜられてをる。私は之に対して敢て云ふ、私の三年間の滞支経験は成程今日の私の支那論に何の根底をも与へてゐない。私の支那論の材料は、今日支那全部に亘つて活動して居る人々からの直接の報道、若くは之れを直接に見聞した人の直接の報告に基くもので、この点に於ては私以上に確実にして広汎なる材料を得てをるものは、今のところ日本に余り多くないと確信して居る。若し私の最近の支那論を注意して読まれ、而して私の断定と支那の時々刻々に変動する形勢の推移とが、如何によく適合してをるかを注意せらるるならば、決して二宮氏の如き妄断はされない筈である。私の斯く云ふのは、私の自負心が傷けられたことを憤慨して弁ずるのではない。私が熱心に支那のために弁じて我国民を警醒せんとするの誠意が、幾分でも軽んぜらるるなら、是れ日本に取りても又東洋全体のためにも甚だ憂ふべき事であると信ずるからである。
 次に二宮氏は私が寺内内閣の北方援助を非難したるに対して内田良平氏が大に怒つて私に決闘状をさしつけたと云ふ噂を書き立てて居る。之れが事実無根なるは云ふを俟たない。私は内田氏を個人的に知らざるも決闘状を人にさしつけるやうな狭量の人でない事は予て聞き及んでをる。勿論同氏の支那論には私は全然服することは出来ない。之れ丈は明白に断言しておく。又二宮氏は私の支那論は内藤湖南氏及矢野文雄氏からヒントを得たと云ふ風説を書き立てて居る。他人からヒントを得て臆面もなく時務を論議するなどとは、学者に対する重大なる侮辱である。内藤博士には一面の識がある。其支那に関する議論に於ては同氏と私との間に可なりの溝渠ある事は、私の論文を読んでくれさへすれば分る筈である。若し夫れ矢野氏に至つては全く面識がない。故に二宮氏が更に進んで、私が北輝次郎君の意見を反駁せんとした際、矢野氏の一喝にあつてやめたと云ふ説も、全然無根たるは弁明するまでもない。唯だ北輝次郎君の事に就ては茲に序を以て一言しておく。北君は二宮氏の書いてをる如く、第三革命の始つて間もなく長文の意見書を発表したが、其一本の寄送に与つた私は、反対どころか同君の見識の高邁なるに敬服して態々同君を青山の隠宅に往訪して謹んで敬意を表したのである。尤も北君の意見書の後半には全然承服し難い点はある。けれども其前半の支那革命党の意気を論ずるの数章に至つては、恐らく此種類の物の中北君の書を以て白眉とすべきであらう。終りに二宮氏の余りに私の書いたものを読んでゐないと云ふ証拠は、私自身の相当に得意とする支那論を無価値とし、私自身の密かに自から最も不得意とする政治学上の議論を比較的に揚げてをる事である。氏は私が曾て『中央公論』に掲げた憲政論を私自身で最も得意として居ると伝へてをり、又之れが私の代表作と見てもよいと云つてをるが、あんな欠点に富んだ論文を代表作と観て居るのは、全然同氏の誤解である。私自身実は該論文の欠点多きを驚て、本年有改めて別の憲政論を『中央公論』に公けにした。併し之とても私自身の得意とする壇上ではない。
 唯一つ二宮氏に敬服する点は、同氏が私を以て「思索の人にあらずして表現の人である」と観られた点である。私は自ら全然思索の人にあらずとは思はないが、其思想を発表する方法に於て偶々多少の特色があり、之が世人をして私を実価以上に認めしめて居るのではないかと、実は自分自身でも懸念しをるのである。斯くして私は常に世間の週褒に対して時として一種の誘惑を感じ、又時として一種の苦痛を感じ、戦々兢々として唯だ所謂表現の人たるに止らざらんことを務めてをる。乍併又一方に於て私は所謂表現は単純なる表現に止まるものにあらずして、同時に之れには思想整理の心的作用を伴ひ、斯くして精密に思索するの一助ともなるものと考へて居る。表現に成功するの第一歩の条件は思索を精密にせねばならぬ事である。思索と表現とを区別して考ふるのは正当でない。と云つたからとて、多少表現にまさる所あるが故に思索もうまいのだと誇らんとする積りはない。
 思想発表の方法といふ問題に関連して、私は図らず恩師故佐々政一先生の懇切なる薫陶をおもひ出す。筆のついでに此人の事を少し語らして貰はう。


     四

 前段に於てはからずも恩師故佐々政一先生のことに触れたが、私が先生の薫陶を受けたのは高等学校に入校した当時、僅々一年余りの事である。国語作文の先生で、極めて熱心親切な人であつた。此点に於て得る所素より少からずあつたが、就中私の感謝して措かざる点は、作文を二度も三度も書き直させられた事である。たしか一年生の時であつたと思ふ。教科書の外に第一学期に於て鴨長明の『方丈記』を自修せしめられ、それから「方丈記を読む」と云ふ課題で文章を作らしめられたのである。当時私はまだ信者ではなかつたけれども、基督教の楽天的な積極的な人生観にかぶれて居つたから、『方丈記』の全文にも劣らぬ程の長い論文を草して、自分丈けの考では痛快に長明の所説を反駁した積りであつた。佐々先生も或点に於ては楽天的、又積極的の人であつたから、私の態度に素より反対ではなかつた。けれども先生は長明の論拠と私の駁論の根拠とを極めて精密に対照して詳細の批評を朱書せられ、議論としてはまだまだ重大なる欠陥があると指摘せられた。而して最後に先生は、こんな不精密な不徹底な論拠で長明と戦はうとするのはをこの至りである。本当に君が其主張に忠実ならんとするなら、今一度よく考へて書きなほせと云ふ批評で、且又口づから今一度書きなほせと命ぜられた。そこで初めて成る程議論をするには余程精密に思想を練らねばならないナと大いに啓発されて、更に一生懸命勉強して前とは全然面目を改めたつもりの新論文を先生に呈出した。所が先生は之れをも極めて親切丁寧に対照批評せられ、特に此の二度日の論文では私の文章の論理上の欠陥を極めて痛烈に指摘せられた。而して又之れでも成つてゐないから、今一度書き直せとの注意を与へられた。そこで私は又再び多大の啓発を得て今一層奮励して第三の論文を書いた。之れも亦先生は極めて精密に通読されて極めて細い朱書の批評をせられた。けれども大体に於て前よりも余程満足のやうであつたが、最後の批評にこんな文字があつた。

 「之れで君の論拠はよくわかつた。しかし長明は一方の極端に立つて自分の人生観を歌ひ、君は又他の極端に立つて君の人生観を歌つて居るのだ。まだ議論にはなつてゐない。本当に論ずるのならば君はもつと深く突込んで長明の思想を研究し給へ。さうして又もツと精密に君自身の思想を整へ給へ。双方銘々自分の立場を歌つて居るのでは、傍観者は下手な君の方よりも遥かに文章の巧い長明の方に団扇を上げるであらう。」

 話は唯之だけの事であるが、一体中学や高等学校辺の作文の先生は、今日はどうか知らぬが、吾々の書生時代には、一ケ月に一度、甚しきは一学期に一度位、当世とは何の係りもないやうな題を与へて作文を求めらるるが、碌々添削もせずに返すのが常で、甚しきはまるで返さないものもあつた。稍親切な先生でも字の誤りや仮名遣ひを訂す位に過ぎぬ。其の最も親切な人と雖も、添削の方針は文字句章の修飾に止り、一個の議論として成立つか、一個の議論として力あるものとなつてをるか、と云ふ様な点を顧慮してくれる人は殆んどない。わが佐々先生に至ては我々の作文をあれ丈け丁寧に読んで批評せられた。其親切と労苦とを多とすべきは云ふ迄もないが、之を一個の議論として成り立たしめようと云ふ見地から我々を指導されたのは、今より顧みて非常な卓見と感服せざるを得ない。而も同じ文を三度も書き直させたと云ふ見識に至つては実に感歎の外はない。のみならず、私自身は之れによつてどれだけ啓発せられたか分らない。三度迄丁寧に批評せられたと云ふ事から受ける利益(之れとても非常に大なるものであるが)ばかりでない、更に先生の態度見識を心読玩味する事によつて、私はどれだけ利益を得たか分らない。私は自ら顧みて此時を機として私の作文する時の態度や心持が一変したことを自覚する。私は小学校時代から文を作る事が好きであつた。中学時代にも作文の先生からは可愛がられたと思ふ。けれども若し私が今日自分の思想を文に表はす上に於て多少得る所ありとすれば、其功の大部分は之を佐々先生薫陶の功に帰せざるを得ない。生前之れを先生に告げ且つ謝するの機会を得なかつた事は、今日私の深く遺憾とする所である。

〔『新人』一九一八年一−三月、「自己のために弁ず」〕