軽佻なる批議


 二月下旬僕は大阪朝日新聞社主催の神戸講演会で一場の演説を試みた。題は「我国憲政発達の歴史的背景」といふので、其の大要は其後朝日社で出版した『時局問題批判』に載つて居る。其の中に維新当時の五ケ条の御誓文を悲鳴だといつたといふことが一部の人の間に問題となつて、果ては不敬呼ばゝりする者さへあつた。誠に物騒な世の中である。
 話の筋道は斯うだ。維新当初流石に徳川三百年の治世の情勢で、一般士人は将軍や藩公を差しおいて直接天朝に忠義を尽すべきだといふ観念は甚だボンヤリして居つた。此際徳川に背いて天朝に仕へるのは武士道の本筋でないといふのが寧ろ士人間の輿論で、一旦誘はれて京都政府に仕官した者でも、やがて所謂勤王御免の願を差出すといふのが決して少くはなかつた。否、腹の底を割つて見れば京都政府は薩長の野心家が天朝を挟んで天下を奪うものだといふ考の方が強かつたかも知れない。若し夫れ京都と江戸との争覇戦に於て果して何れが最後の勝利者たりやに至ては、殆んど民心の帰嚮する所がない。啻にそればかりではない。折角大政の返上を受けても、京都政府の兵力的並に財政的基礎は御話にならぬ程貧弱を極めたものであつた。そこで斯ういふ難局に立つて、乗りかけた船を首尾よく彼岸に達せしめやうといふには、当時の政治家の苦心といふものは並大抵のものでない。彼等は実に之が為に心を悩したのであるい今日の盛世に生を楽むものはこの先輩の惨憺たる苦心を決して忘れては成らぬ。
 先輩政治家は此の難局に処して実に色々苦肉の策を廻らしたものだ。其の一つにかの五ケ条の御誓文がある。成る程五ケ条の御誓文は明治天皇の御詔勅に相違ない。併し之が起草に当つた者が由利公正福岡孝弟二子であることは公知の事実ではないか。然らば由利福岡二子が何の動機で之を作つたか、又は何に促されて之を作るに至つたか。この内面的事蹟は亦一歴史的事実として今日之を開明するに一向差支はない。否寧ろ大に必要ではないか。之を冷静に研究してこそ始めて維新当時の先輩政治家の苦心が明になり、今日我々が彼等に感謝し又ことに明治天皇の御威徳を讃へまつる所以もはつきりする。斯ういふ立場から五ケ条御誓文公布の内面的来歴を観ると、之は正に当時の政治家の窮余の悲鳴であるといふことになる。僕は斯く説明することの上に些しも良心の煩悶を感じない。
○今日我国憲政の発達を説く者、動もすれば何の苦もなく憲法政治はスラ/\と出来上つた様に教へる。憲政創設の大方針は早く既に五ケ条の御誓文に胚胎し、それが斯く/\の順序をへて十四年の憲法発布予告の大詔に華を開き、二十三年の国会開設に実を結んだといふ。表向きは成る程全くその通りだ。併し其の茲処に到るには実に幾多の紆余曲折を重ね、時々また波瀾重畳の難境もあつたのだ。而して之等の事情をよく知らなくては、今日の憲政の実状は本当に解らないのである。就中憲政有終の美を満すべき方策に至ては、這般の内情に徹底的の明識を持たなくて如何して之を樹てることが出来るか。此点に於て僕は今日の月並な憲政史家に向つて常に大なる不満を有つものである。
 金持の息子はどんなに利口でも金の有りがた味がよく分らないものだといふ。やゝもすれば金は独りで湧いて来るものゝ様に考へる。苦労をしない若い御嬢さん達の中で、所謂独立独行に目覚めたといふ方々から、能く食つて行く位のことはどうにでも出来ますなどゝいふのを聞く。その度毎に僕はつく/"\その安価な処世観を寧ろ気の毒に思ふ。体験のない人に之を責むるのは無理ではあるが、そんな人程父祖の辛苦難難をよく聞かして置く必要がある。此の意味に於て僕は、今日の青年に維新当時の先輩の苦心を出来る丈け深酷に教へ込んで置くことを大切だと思ふのである。僕が五ケ条御誓文発布の動因を説明するに悲鳴なる字を使つたのは、畢竟明治天皇を始め奉り其の左右に侍せる廟堂の大官が新国家組織を築き上げるに如何に苦心されたかを明にせんが為めである。訳もなくスラ/\出来上つたものと思はれては大変だと憂へたが為に外ならない。。斯く長々と神戸の講演のことを述べ立てるのは、必しも僕に対する世間の誤解を弁明せんが為ではない。僕は従来誤解されるに慣れても居るし、又故らに悪声を放つ人の多いことも承知して居るから、今更自己弁解に急ぐ程野暮ではない積りだ。夫にも拘らず斯くも長々と弁ずるのは、之を機として今日社会の一部に存する軽佻なる人事批議の弊風を警戒せんと欲するからである。
○僕の講演にしても其演述の内容を系統的に味つて見れば、不敬どころか不穏当とさへ解せられる道理は毛頭ないと思ふ。只冷静なる省察を欠き悪意を以て片言隻語を切れ/"\に迎へると不敬だの不穏当だのといふ問題は起る。言葉尻を捉へるのならどんな忠臣義士の言説の中からでも不当の言語を見出すに難くはない。併し夫れでは啻に事理を明にして世論を整へることが出来ぬばかりでなく却て社会の思想感情を無用に惑乱するのことはないか。斯んな悪風こそ社会の公安の為に断然斥排すべきものと信ずる。
○この軽桃なる悪風はこれまで随分多くの公人を苦めた。尾崎行雄氏の有名な共和演説もこの種のものであつたらう。田川大吉郎氏の筆禍事件も全然別種のものではなかつたらしい。ことに最近に起つた此種不幸な出来事の最大なるものを挙ぐるなら、多少趣は違ふがかの朝鮮人殺害事件がある。即ち一片の流言蜚語に狼狽して前後の事情を冷静に省察するの余裕なく、徒らに感情の興奮するに任せてあゝした大失態を演じたのは、畢竟平素の訓練を欠く結果ではないか。朝鮮人を虐殺したのも僕を不敬呼ばゝりするのも、つまり皆事物の批判に軽佻にして冷静に成行を省察するの雅量は乏しいからである。僕は我が同胞を必しも本来公平でないとも思はねば、又頑迷だとも考へてゐない。只慎重省察の余裕がなく、感情の興奮する儘に軽信盲動する所に、根本的情弊の存するを思ふのである。此欠点は御互深く警める必要がある。ことに此種の軽卒が近来頻繁に繰り返さるゝ事実に鑑み、格別声を大にして之を読者諸君に訴ふる必要を感ずるものである。
                         〔『文化生活の基礎』一九二四年四月〕