平民社の国家観

一度直言に現はれたる木下尚江君の所論を難じたる吾人は、心ひそかに更に明快なる同君の論議に接するを得
                                          あずか
んことを予期して、その後絶えず『直言』に注目するを怠らざりき。而して木下君の高論は遂に与り開くことを
得ずして、目に触る、ものは二三子の片々たる小蔭言のみ。頗る遺憾の情に絶えずと錐も、亦其たど〈しき小
         しよげん
論文のうちに平民社諸彦の国家観の如何なるものなるかを窺ふを得て多大の興味を感ぜざるにあらず。
                  ポリチカルインスツツユーション        モダーンステート
 要するに平民社諸彦の根本の大誤謬は「国家」と「国家的制度」とを混同するに在り、近代国家を取扱
                                                                  こ
ふに当りてこの二者を区別すべきを要するの主意は、吾人の既に為せる論議の上に明かなるべきに、這の理今猶
 ∽リ hじ
ほ偲耳に入らずして、再びかの謬妄を繰り返すものあらんとは吾人の寧ろ意外とする所なり。
 平民社諸彦の主張と其運動とに対しては吾人平素多大の同情と尊敬とを捧げ居るのみならず、或点までは吾人
も諸彦と事を共にし得るものなることを信じて疑はず○強て吾人と諸彦との見解の異る所を求めば、諸彦が社会
   クライム ミゼリー
の一切の罪悪と悲惨との源因を全然現今の社会組織の責に帰し、以て先づ社会組織を改変するに非ずんば各個人
を教化するも其効なしと主張せらる、に反し、吾人は罪悪と悲惨とを除くが為めには社会組織の改変よりも個人
的教化が急務なりと主張するの点にあらんO「人を愛する」に於て吾人固より諸彦と同感なり。「人道の戦士を以
て自任する」に於て吾人亦決して諸彦の人後に落ちず。併し所謂「人道」をば諸彦は「人」の団体(即ち国家)を
 お
措いて果して何の処に之を実現せんとするや。「人を愛することが直ちに国家を愛すること」になるが故に、平
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平民社の国家観
民社諸彦は当然に国家を愛せざるを得ざる筈なり。諸彦は即ち吾人と共に熱烈なる愛国者たらざるべからぎる筈
なり。然るに諸彦が断乎として吾は愛国者なりと主張するの勇なきは国を愛すること、国家的制度を愛するこ
                                            おも
とゝを混同するの謬見を脱せざればなりと思ふ、如何。能く世の人は我党を目して国に阿ねると云ふが、併し斯
かることを云ふて愛国者ぶらぬ人こそ却つて或る謬想に阿ねる軟骨漠なれ。今は真正の国家観を説いて大に愛国
心を鼓吹すべき時に非ずや。
 吾人は平素平民社諸彦の熱誠に敬服して措かず、敬服して措かざるだけ其国家観の幼稚なるを惜むものなり0
「人は目的にして国家は手段なり」とか云ふが如き極めて旧式の議論を今更繰り返すも必尭は「周家」と「国家
的制度」とを区別せざればなり。吾人は社会主義的運動の益々盛大となりて、社会上下の円満なる幸福を庶幾す
    いよいよ
るの希望愈々確実となるを欲するものにして固より諸彦と全然正反対の地位に立つむのに非ず0只其主張せらる
る所の主義が頗る進歩せるものなるに拘らず、其之を支持する所の理論が余りに陳腐なるを惜むのみ0日のみは
千年の遠きを望んで已まずとも頭が百年も後れ居りては折角の運動もチト物足らぬ心地せらる○貧富階級の懸隔
に思を焦す程の輩は宜しく自家の目と頭との懸隔にも着眼して、先づ以て自家脳中に一大社会問題を起さゞるべ
からず。諸彦の赤誠は永く吾人の仰いで師事せんと欲する所たりと錐も、諸彦の学は恐らくは未だ吾人以上に遠
く出でじ。乞ふ更に奮発一番せよ。(翔天生)

                                         〔『新人』一九〇五年四月〕