軍事機密費に関する醜聞 『中央公論』一九二六年四月
該問題に対する世論の一斑 憲政会代議士中野正剛君に依て叫ばれた軍事機密費不当使消の問題に関し、側面から世論の大様を観測するに、(一)訐(あば)かれた事実に対しても訐いた事柄に対しても世間はひとしく之を苦々しく思ふに一致して居るやうであり、(二)関係者の弁解如何に拘らず斯かる事の全然訛伝(かでん)なるを信ずるものは殆んど一人もなく、(三)殊に糺弾の鋒先の軍閥に向へるをば頗る痛快に感ずるものゝ如く且つ之を機会にその根本的革正を希望するの念に堪へざる様であるが、(四)併し今の議会には到底之を期待し得ぬと諦めて居るものらしい。
一生懸命に騒ぎ立てた所が落ち付く結果は大抵分つて居る。けれども脛に庇持つ連中に取ては少しでも事柄の曖昧裡に葬られるのを喜ぶのであらう。そこで別にもつたい振つた理窟をつけては事件の此上の進行を極力妨げんとするものが現れる。斯う云ふ事件は漫りに訐くべきものでないと云ふ議論の起る所以である。併しその論に
も二つの種類がある。
一は議院内に唱へらるゝもので、斯かる血で血を洗ふ様なことは流行らしたくないと云ふのである。議論としては私も之に賛成だ。併し一旦訐かれた以上之を曖昧に葬り臭い物に差するの態度に出づるのは、色々の意味に
於て宜しくないと思ふ。世間も幸に同様に考へてゐるやうだ。 二は軍閥側から宣伝さる、もので、さう騒がれては士気に関するといふのである。その為めか宇垣陸相は議会
に於て極めて明白に事実無根と云ひ切つた。不幸にして前陸相山梨大将の新聞記者に対して為せる声明がまんまと之を裏切つて居るので、世上の疑団は依然として解けない。そこへ畑軍務局長が士気の頻廃をふせぐ為と称して此上の詮索を手控へる様政友本党の幹部を頼み廻つたなどの風説もあつたので、事実の真相はどうでもいゝ、疑惑の儘に之を葬つてさへ了へば軍部の士気は維持されると考へて居るのではないかとの疑も起る。併し臭い物
に蓋をして事実無根と威張るのでは、破産し掛けた商人が俄に贅沢を装うて虚勢を張るやうなものではないか。
封建時代の学者は、人民は始めから馬鹿なもの、そして徹頭徹尾政府に頼り切つてゐるものと決めてゐたから、「人の心のおくれざらんやうに仮令日本は弱くとも強しといはんこそ本意なるべけれ」(黒沢翁満著『刻異人恐怖伝
論』に依る)などと教ふる必要があつたらうが、今日の人民は政府が弱からうが軍隊が腐敗して居やうが失望はしない。失望しないどころか却て改革の実行に当らんとしてさへ居るでないか。少くともいゝ加減の弁解を正直に受取つて引込むやうな馬鹿者ではなくなつた。事実の開明に依て脅かさるゝのは、実に軍部の士気ではなく、軍
部に対する国民の信頼だ。悪い事をして居る自分達に対する国民的不信を、士気の頚廃と一緒にされては困る。
本当に士気の振興に忠ならんとせば、潔よく事実を明にして将来に於ける公明正大を確約すべきである。若し夫
れ今度のやうな事件を軍隊と国民とを離間せんとする露西亜かぶれの陰謀に出づるなどと言ふものあるに至ては、人を愚にするにも程があるとたゞ/\其の厚顔に呆るるのみである。
疑惑一掃の責任者は誰か この提出された問題の真相に就て国民は皆迷つてゐる。之を此儘放任するのこそ実
に社会風教上の大問題だ。是非とも之は明白な始末をつけて疑団を一掃せねばならぬ。然らばその疑惑一掃の責
任を誰に求むべきかといふに、此点に対しては世論いまだ明白に其帰趨を示してゐないのは、私のいさゝか不満
に思ふ所である。 議会の問題としては右の問題は無論礼弾者にある。議会には査問会といふがある。併し之に多くを期待し得ぬことは明だ。故に査問会の決定だけで世間は決して満足するものではない。従て世間に対する責任としては、依然糺弾者に其の発言の無稽ならざりしを証明する社会的義務が残る。けれども之とても満足なる根本的解決を提示し得るものでないことは、事柄の性質上已むことを得ない。さうすると結局被糺弾者が進んで自己の潔白を挙証するに非(あらざ)るよりは、事件は永久に迷宮に彷徨(さまよ)ふものと謂はねばならぬ。そこから政治道徳上の問題として疑団
一掃の処置に出づるの責任が被告の側にあるといふことになる。今度の問題にした所が、現陸相を始め前任者の
田中山梨両大将に於て万人の納得する様な説明を進んで為すに非る限り、之等の人に対する国民的疑惑は永久に取り去られないと思ふ。我々国民も亦、査問会の決定がどうであらうと又糺弾者の証拠が如何に不十分であらうと、被糺弾者の側から公明な説明に接するまでは、彼等に対する嫌疑を道徳的に解除してやらねばならぬ義務は
ないのである。
今までの所、字垣陸相の態度は、有るものを無いと云ひ切る底の蛮勇を示したに過ぎない。田中山梨両大将に
至ては、或は相手方を漫罵し又は無頓着を装ふに止まり、何等積極的態度に出でないのは、私の密に両大将の為めに惜む所である。斯くては両大将に斯種事件の道徳的意義を解してゐるかを怪しみ問ふものがあつても弁解の辞がなからう。物事に動じないのは軍人らしい矜持かも知れないが、道徳品性に関する問題に付てだけは、何れ
丈け神経過敏であつても構はない。軍人らしい魂の据え所は物事に依て必しも一様でない事を忘れられては困る。併しこの目前の紛争も鎮まつたら、事件の真相が一点の疑を容るゝ余地なきまでに両大将から徐ろに明かにされ
るのだらう。是を私は両大将の名誉にかけて信ぜんと欲する。
本問題に対する諸政党の態度 どうせ議会の詮議で本問題の真相の明にならうとは思はぬが、政党の取扱方の
余りに見当外れなるには亦一驚を喫せざるを得ない。一番利口さうで一番馬鹿げてゐるのは政友会の態度だ。表面上から観れば政友会の策戦は実に巧妙を極めて居る。第一に彼は陸相に向つて中野君の発言をどう観るかと問
ふた。マサカさうかなアとも云へまい。仕方なしに事実無根と云ひ切ると、今度は首相に詰め寄つた。国務大臣としての陸相の声明に己も責任を負ふと答へると、そんなら首相は更に憲政会総裁として中野君の発言に如何の
責任を負ふかと来る。政府としては形式上中野君の発言を荒唐無稽と否認したからである。流石の若槻首相も之
には困つたらしい。この筋書はもう前日から分つてゐた。首相にゆつくり対策を考ふる暇もあつたらうに、責任
を負はぬなどと苦しい答弁を絞り出したのに観ても、首相の困却さ加減がわかる。私なら憲政会総裁としては中野君の発言に責任を負ふと立派に云ひ切りたかつた、之と首相としての責任との間に矛盾あるをば正直に承認し、
その矛盾の解決は査問会に譲るといふべきではなかつたか。蓋しさう云つた方が事理極めて明白になる。何とな
れば斯かる矛盾の起因は政府に在らず中野君の発言を議会が採用したことに在るからである。何は兎もあれ、此
処まで首相をこまらしたのは政友会の大成功であつた。併し翻て考ふるに、この成功に依て政友会は亦果して
如何の印象を我々国民に与へたであらうか。悪智慧に長けたものは、証書の不備を楯に取て借金を踏み倒したりする。没義道(もぎどう)に証書を突けた奴を借主が法律を楯にやりこめるのは痛快だけれど、固より之に依て借主の債務が
消滅するのではない。加之此方の追窮がもし極端に走ると、却て借金を踏み倒す積りでなかつたかとさへ疑ひたくなる。斯う云ふ見地からすれば、政友会のあの策戦は決して賢明な兵法ではなかつた。我々国民の知らんと
する所は全然除けて、徒らに空砲の音に世人の耳を聾せんとするかに見えたからである。若し夫れあべこべに中
野正剛君自決案などを提出するに至ては、血迷へば斯うも常規を逸するものかとたゞ人をして憫笑せしむるに止
るものではなかつたらうか。
憲政会や政友本党は、この点に於ては原告だけに無難な地位に居る。それでも私は彼等が本問題に依て何をつゝき出すべきやを明白に意識して居なかつたらしいのを心中大に遺憾としてゐる。軍事機密費が多過ぎるの、其の使ひ方がをかしいの、又は私腹を肥やしてゐるではないかの、政党攪乱の為めに使はれては居ないかのと騒
ぐだけでは何にもならぬ。幾ら騒いだとてどうせ斯んな事は結局想像の範囲を出でず真相の突き留められるものでない。前にも云つた様に、之は政治道徳上の問題として被告の自発的釈明に委すべき事柄だ。他人から追窮し得るものではない。而して彼等は此方ばかりを突つ付いて居るではないか。無用の事に力を注ぐは愚だ。之を八
釜しく云ふことに依て此際私共のはツきりして置かねばならぬことは実に外にあると思ふ。此点を原告側では頓(とん)
と明白に意識して居ない。政界廓清の為に私の甚だ残念に思ふ所である。
問題の要点 然らば要点はどこに在るか。先づ問題の輪廓から云つて見る。軍部にはふだんでも機密費が多い。
いわゆる所謂軍事機密費に至ては殊に多かつた。而して其のすべてが正当に使はれたとはどうしても思はれぬ。その中の
幾分は軍事以外の目的に使ふべく取つて置かれたらしくも見え、又他の一部を以て私腹をこやしたものあるの疑
もあるが、少くとも其間政治上の目的に巨額の金が濫費せられた形跡は掩ひ難いやうに思はるゝといふのである。これ以上は流石に公人の名誉に関することとて露骨には云つてない。併し乍ら斯く云ひ立てることに依りて何事を訐かんと欲するかは言外に極めて明白だと思ふ。試みに之を列挙せん乎、大約次の如きものであらう。
(一) 田中山梨二派の人々はあの尤大な機密費の少からぬ一部を自己の為に割き取つたのではないか。
(二) 最近或は政党の総裁になつたり又は政党の攪乱を試みたりするのを観ると、可なり巨額の金を擁して居るらしいが、それは機密費から割取した資金ではあるまいか。
斯くして両大将の前途を葬り合せて今後にも起ることあるべき政界撹乱の陰謀を未然に喰ひ止めんとする積り
かも知れぬが、その事の結局徒労に属すべきは前にも云つた通りであらう。査問会で両大将の財産が案外多いと調べ上つたとしても、そが機密費の掠取に成るの証拠は挙げ難く、本当に私腹をこやす程の者は容易に他から見破らる、様なヘマはせぬ。従て彼等が山梨大将の財産を調べよなどといひ出したのは、実は折角捕へた鳥を故な
く逃したと同じ結果になり了つたものであつた。
せめて問題を次の三点に限つたならまだしも騒いだ甲斐があつたらうと思ふ。即ち(一)過去に於ける機密費の
使消が放漫に失せなかつたか、(二)最近に於ける政治的行動に伴ふ大金の出所は一体何処に在るか、(三)軍人の身分を以て政治に干与せしの事実を如何弁解するか、是れである。尤も私一個の考としては、(三)の点に付て私は
在来の通説とは全く別個の意見を有つて居る。軍人だとて公民の一人だ。公民として政治に与るのは当然の権利
で、軍人たるの故を以て特に之を奪はるゝ理窟はない。但しその本務と相容れぬ場合は、其の限りに於て自由の拘束を受くるは已むを得ない。併しこはとくに軍人に限るのではなく、他の文官に在ても同様である。国家の官
吏としての一般的取締を受くる以上に特別の拘束を軍人に加ふるのは、教育家は政治に与る可らずと云ふのと同じく、政治を「已むを得ざる悪事」と観た旧時代の遺物に過ぎぬものである。併し之は私の一家言だ。今日一般
に通用する見地からすれば、この(三)の立場からも大に両将軍を糺弾するの余地は存する。次に(一)の点は、機密
費の性質上如何様に使消するとも法律上の責任問題とならぬのだが、併し国家の信認に背き其の利益を図るに忠実でなかつたといふ政治道徳上の責任は残る。此点の糺弾も良心の鋭い政治家に取つてはなか/\苦痛とする筈だが、我国の政治家に之がそれ程響くかどうかは怪しい。之を糺弾する者の道徳的水準が、糺弾さるゝ者同様に
低いとあつては猶更だ。それでも之等の事実を正直な国民の耳目の前にさらけ出すことは必しも徒爾ではない。
終りに(二)の点は、左程有力な抑え所とは云へない。知らぬと蹴られゝば夫れまでの事だ。併し之は機密費着服の問題と共に、被告の自発的釈明を見るまでは、永く民間に不信の印象を残すであらう。執れにしても以上の点に専ら追窮の鋒先を向けるのであつたなら、少くとも将来を鑑戒する意味で若干の効はあつたと思ふのに、彼等が主力を之に向けなかつたのは我々の甚だ歯痒く思ふ所である。
機密費制度改革の私案 併し本問題に関して我々国民の最も痛切に関心する所は、過去に於ける正不正の問題
ではなく、実は如何にすれば将来に於て機密費の使消を公正有用なものになし得るかに在る。之には制度の改革を要する。今の儘にしておいては今後も必ずや同様の過失が行はれるに相違ない。この事を明にするために過去の糺弾は必要だが、併し主たる目標はどこまでも将来に置かれなければならぬと考へる。斯ういふ点から機密費
の廃止又はその事前事後の監督を説くものもあるが、併し之は角を矯めんとして却て牛を殺すの愚にひとしい。
機密費の全く廃し得ざるは今更云ふまでもなく、其の支出に付ては軍事参議官の議に附せ(特に軍事機密費に関
して最近この提説があつた)の又は後から厳重な会計検査に附せのといふは、事実に於ける其の廃止に均しい。原則としては大体現行の制度を其儘存置するの外はあるまいと私は考へる。只之より生ずることあるべき二大弊害を防ぐ為めには多少の改正を加ふる必要があらう。二大弊害とは何ぞや。一に曰く不正有害に使はれた証跡の歴然たるものまでをも看過せねばならぬこと。二に曰く一主管者の単独の考で国家の高等政策に関する事項に巨額の金が撒(ま)かるゝこと。而してこの二点を取締ることは、一つには国帑の濫費を防ぎ風教の頽廃を匡(すく)うことになり、二つには無謀僭恣の妄動により国家の不測の禍に陥るを予防することになる。最近の歴史が軍部の機密費を此等の点より大に取締るの必要を示せることは、識者のひとしく認むる所であらう。国民が真に革正を見んことを期待するは実にこの点に在る。議会は果して之に関し国民の寄託に添うだらうか。斯ういふ真面目な問題にはさらでも誠意の足らないのに、昨今の様に議場があゝまで乱暴狼籍を極むるのではとても目鼻のつく見込はない。憤慨に堪へぬ次第である。
議会の論議に上る見込はないが、如何改むべきかの私案を読者の参考にまで掲げて見る。
まづ機密費を(甲)主管者単独の責任で支出し得ると(乙)閣議の協議を経た上で支出し得るものとの二種に分つ。而して双方とも会計検査の埒外におくことは従前の通りとする。すると
(甲)に就ては殆んど在来のものと異る所はない。併し国家の高等政策に関するものは悉く(乙)に組み入れられる
から、此方はさう多額を要しないと思ふ。而してこの項目に限り、不正な使用のあつた証跡の歴然たるものある場合之を刑事訴追の目的たらしめ得ることゝしてもよからう。
(乙)は国家の高等政策に関して支出せらるゝものを一切包含する。之はなか/\大きい。大戦参加より引続き
西伯利出征に関連して二千数百万円を使つたといふのも、主としてこの高等政策に関するものである。当時の機
密費に就いても此種のものが大部分を占むることと想像される。現に今度の事件に就て山梨大将が新聞記者の問
に答へて「金は使ふには使つたが何に使つたかは軍乃至国の機密に属するから口外出来ぬ」と云て居られるのも
之れだ。斯う云ふ種類のものは成程うつかり公言は出来まい。が、之等はもと国の高等政策に関するものだから、
本来は閣議で決めらるべきものではあるまいか。之を当該大臣単独の裁量に任すのは理に於いて当らないと思ふ。のみならずそれがまさしく従来種々の弊害の源だと疑はれて居るのである。現に例へば夫の西比利出征の事に関し人に依つては軍の機密費が却て日本帝国の利益と名誉とを傷けたといふ者もあるではないか。仮りに之が誣言部
であるとしても、国家全体の名誉と利益に関する事項をば、他の閣員に無断で一大臣が勝手に取りまかなうといふ法はあるまい。今度の様な不祥な問題の起るのも畢竟かう云ふ制度の結果であるから、将来に再び此のあやま
ちなからしむる為には、どうしても此制度を改めなくてはなるまいと思ふ。さればと云つて機密費を全く無くす
る訳には行かぬ。さすれば之を閣員協議の連帯責任に帰するの外道はないではないか。而して斯種の支出が閣員全体の諒解の上に為さるべきは実は理の当然でもある。閣員全体の協議に委さるゝ以上、後より其使途を八釜し
く詮議するの必要なかるべきは、また云ふまでもない。
猶この提案に対しては、どうせ閣議できめるのなら総理大臣の機密費として一括して内閣で掌つた方がよくはないかとの説もあり得る。が、斯くては書記官長と閣員との関係の紛更さるゝ恐あるのみならず、それ/"\の主管大臣を経由せざるの結果、折角の機密費も有効に活(はた)らかぬ懸念もなしとせぬ。矢張り実際の取扱は各省にまか
した方がよくはなからうか。併し私は今こんな細かい点を争ふ積りはない。根本の主義に大方の賛同を得さへすればいゝ。之を実際の制度の上に如何に現はすかは別に其道の専門家にまかさうと思ふのである。
最後に更に一言附け加へておきたいのは、機密費は此際一般に大に減額するの必要はないかといふ事である。
政治が公明になれば斯うしたものは段々減る筈である。現に私の知つて居る範囲でも、下らぬ仕事が下らぬ人に依てたゞこの機密費のお蔭だけの為に企てられて居るの事実が少くない。無ければ無くて済み、有れば有る程不足を感ずると云ふ点に於て、機密費は蓋し遊蕩費と好一対のものである。之はもつと/\減じ得る筈のものと思
ふ。